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プラハで音楽・美術三昧:プラハ国立美術館のフランス美術・・・アンリ・ルソーからドラン

2013年6月15日土曜日@プラハ/6回目

見落としていたフランス美術を見るために3階に戻ります。
フランス系の作品では、ピカソの作品のコレクションが素晴らしく、まるで、ピカソ展を見ているような感じです。実際、これまで日本で見たピカソ展も、この美術館の収蔵品のレベルに達していないものも多いと思うほどです。特に《立つ女》の迫力には圧倒され、大変な感銘を受けます。
セザンヌ、ゴッホも素晴らしく、セザンヌ好きでないsaraiも静物の小さな絵には、とても惹かれてしまいます。
また、配偶者が評価してやまないアンリ・ルソーの《私自身、肖像=風景》はアンリ・ルソーの代表作といってもいい素晴らしい作品です。

まずはそのアンリ・ルソーの《私自身、肖像=風景》です。1890年頃、アンリ・ルソー46歳頃の作品です。アンリ・ルソーが画壇にデビューしたのは1885年、この作品が描かれた5年前に遡ります。彼はパリ市の税関職員のかたわら、あくまでも日曜画家として活動していましたが、プロの画家になりたいという強い思いが募ってきたのはこの頃です。この作品は自ら芸術家宣言をした記念碑的なもので、実際、3年後には税関職員を辞して、画業に専念することになります。この作品の背景に描かれているのは、フランス革命100周年を記念して開かれた1889年のパリ万国博覧会で、パリ市民には評判の悪かったエッフェル塔も描き込まれています。アンリ・ルソー自身は万国博覧会に通い詰めているくらい、万国博覧会がお気に入りで、エッフェル塔も無邪気に好んでいたそうです。そのエッフェル塔をバックに大きく自分の姿を画家として描くことで、己の意気込みを示しています。アンリ・ルソーは素朴派の画家の一人として、一見稚拙に思える絵画表現が逆に独特の個性を感じさせる味わい深さで今日、人気を呼んでいます。この作品も実にアンバランスな構図ですが、強調すべき対象、この場合は画家自身を大きく描き、天真爛漫な画風は不思議な魅力に満ちています。彼を高く評価したのはピカソでしたが、あまりに絵の上手すぎるピカソには、真似したくてもできないアンリ・ルソーの絵に強く惹きつけられたのでしょう。少し、絵の細部に立ち入ると、空には気球が浮かびます。アンリ・ルソーはよく気球や飛行船を好んで取り上げましたが、新しい技術・文明には、子供のようにとびつきました。手に持つパレットには、二人の女性の名前が描かれています。一人はこの作品を描く2年前に亡くした妻クレマンス、もう一人はこの頃片思いしていた女性マリー。後にマリーに失恋し、再婚した妻ジョゼフィーヌの名を代わりに描きいれます。胸にバッジを付けていますが、作品完成の14年後に地区の芸術協会の正教師になった印に贈られたもので、それを誇らしげに描き加えました。ある意味、自意識の塊のようにも見える絵ですが、画家のあまりに天真爛漫さに微笑ましく思えてしまいます。それどころか、実際に間近に見た、この作品は、色彩の見事さ、デフォルメと強調のバランスの微妙さ、等々、その素晴らしい魅力にとらわれてしまう傑作中の傑作でした。


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ピエール・ボナールの《プロヴァンスの会話(庭にて)》です。1913年から1914年頃、ボナール46~47歳頃の作品です。ボナールはナビ派の画家に分類されますが、むしろ、彼独特の作風の作品が多いように思えます。ボナールは妻マルトが病弱だったこともあり、1909年からは夏を南仏の高級リゾート地サントロペで過ごすようになりました。この作品は南仏の明るい陽光を暖色系の色彩で描いたもので、画家自身と妻マルトの語らいが描かれているようです。saraiはボナールのぼけぼけの色彩感覚は結構、苦手なのですが、画家の個性としては認めざるを得ないところもありますね。


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ボナールの《白い帽子の若い女性》です。1919年頃、ボナール52歳頃の作品です。この作品のモデルは妻マルトでしょうか。マルトは入浴姿で描かれることがほとんどで、こういうきっちりした肖像は珍しいので、別人かもしれません。それにマルトにしては若すぎるかな。ボナールにしてはクリアーな描き方の作品で好感を持てます。


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ラウル・デュフィの《港にて》です。1930年頃、デュフィ53歳頃の作品です。デュフィは「色彩の魔術師」と評されるほど、鮮やかな色彩に満ちた作品が魅力的ですが、この作品は落ち着いたシックな色調で描かれています。それでもデュフィお得意の青をベースにした色彩配置は見事です。


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デュフィの《背景に海がある静物》です。1925年頃、デュフィ48歳頃の作品です。この作品は上の作品よりもさらに渋い色調で描かれています。茶色で全体をまとめ、お洒落と言えば、お洒落に見えないこともありませんが、ちょっと、デュフィらしさに欠けるかなという印象です。


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キース・ヴァン・ドンゲンの《裸婦》です。1904年から1905年頃、ヴァン・ドンゲン27~28歳頃の作品です。ヴァン・ドンゲンはオランダ生まれで、エコール・ド・パリを代表する画家の一人。この作品を描いた頃はフォーヴィスム(野獣派)に属していましたが、ボリューム感のある女性の体がこちらに迫ってくるような迫力に満ちた作品です。女性の体が画面からはみださんばかりの力強さでエネルギーに満ちた、魅力的な作品です。


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フェルナン・レジェの《風景の中の恋人たち》です。1952年頃、レジェ71歳頃の作品です。これは笑ってしまうくらいレジェそのものといった作品ですね。レジェの作品は特徴が明快過ぎて、贋作も多いようです。贋作が多いということは魅力があることの裏返しとも言えます。モノトーンで描いた人の体の線、そして、そのモティーフと無関係に塗られた赤と緑と青の配合と調和が見事な傑作です。何と言っても、絵に安定感があるのがいいですね。


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マリー・ローランサンの《風景の中の少女たち》です。1930年代、ローランサン45~54歳頃の作品です。ローランサンはいくつになっても、こういう乙女チックな絵でとてもいいです。芸術性なんかはほうりだして、彼女の世界に浸りましょう。


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マルク・シャガールの《サーカス》です。1927年頃、シャガール40歳頃の作品です。ベラルーシ出身のシャガールは子供のときから、サーカスに親しんでいました。ただ、彼はサーカスに楽しさだけでなく、哀感も感じていたそうです。この作品が描かれた1927年にシャガールは画商ヴォラールから、一連のサーカスを題材とした版画集の制作を依頼されます。そのため、サーカス公演の指定席が与えられ、連日、サーカス見物に通いました。その過程で、この作品は連作の1枚として描かれました。この作品では、鮮やかな衣装の女性と頭飾りをつけた動物が浮遊感を持って、重なっています。そして、どこかペーソスが感じられる作品になっています。この後、サーカスはシャガールの主要な題材のひとつになります。


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モーリス・ヴラマンクの《赤い卵のある静物》です。1920年から1930年頃、ヴラマンク44~54歳頃の作品です。ヴラマンクは友人の画家ドランによって、マティスに紹介され、フォーヴィスム(野獣派)とも目されますが、本来、根っからの自由主義者で、自分の才能だけを信じ、独自の作風を貫きました。例外として、ゴッホにだけは影響を受け、チューブから絞り出した原色の絵の具を塗りたくる表現主義的な作風の時期もありました。その後、第1次世界大戦後は、フォーヴィスム(野獣派)を離れて、セザンヌに近い作風に転換します。この作品からもその一端が見えてきます。ただ、この作品もセザンヌ風のところもあるとは言え、あくまでもヴラマンク独自の個性を貫いています。孤高の画家の一人ですね。展示会でヴラマンクの作品を見ると、いつも独自の存在感を感じます


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シュザンヌ・ヴァラドンの《窓の前の花》です。1930年頃、ヴァラドン65歳頃の作品です。画家モーリス・ユトリロの母として知られるヴァラドンはもともと画家のモデル出身だったこともあり、軽く見られがちですが、その作品にはいつも感心させられます。息子ユトリロとはまったく個性が異なりますが、saraiはユトリロよりもヴァラドンの才能のほうを高く評価しています。ヴァラドンの描いた作品の多くは人物を描いたもので、この作品のような花の絵は珍しいようです。それでも彼女の特徴である簡潔な線と高いデッサン力はこの作品にも表れています。背景の額など、ジョポニズムの影響が感じらます。繊細な芸術性があふれる傑作です。


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アンドレ・ドランの《木々のある風景》です。1925年頃、ドラン45歳頃の作品です。ドランはフォーヴィスム(野獣派)の画家で、マティスと共にフォーヴィスム(野獣派)の指導的な存在でした。ただ、多彩な作風を駆使した作品を残しています。ここ時期はイタリア旅行の後、古典回帰し、落ち着いた画風の作品となっています。


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ドランの《座る女》です。1920年頃、ドラン40歳頃の作品です。この作品は翌年のイタリア旅行で古典回帰する前のものですが、比較的、落ち着いた作品になっています。


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ドランの《水差しのある静物》です。1913年頃、ドラン33歳頃の作品です。この作品はどう見ても、セザンヌの影響なしでは成立しない作品に思えます。多視点で描かれています。


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ドランの《籠のある静物》です。1914年頃、ドラン34歳頃の作品です。上の作品同様、セザンヌの影響を受け、それを自分の中に取り入れたものです。


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ドランの《水浴する人たち》です。1908年頃、ドラン28歳頃の作品です。この作品はフォーヴィスム(野獣派)そのものいう感じですね。傑作です。


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ドランの《モントルイユ・シュル・メール(Montreuil-sur-Mer)》です。1910年頃、ドラン30歳頃の作品です。モントルイユ・シュル・メールはフランスの大西洋に面した港町。この作品もセザンヌの面で構成する風景画の影響が感じられます。見事な完成度の傑作です。色彩の調和が何とも魅力的です。


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ドランの《カダケスの風景(Cadaques)》です。1910年頃、ドラン30歳頃の作品です。カダケスはフランスに近いスペインの港町。上の作品と同一のシリーズですね。このパターンはすっかり完成形となったようで、いずれも見事な傑作です。抑制した色使いの見事なことには脱帽です。


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フランス美術の膨大なコレクションはまだまだ続きます。


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プラハで音楽・美術三昧:プラハ国立美術館のフランス美術・・・ルノアール、ピサロ、モネ、ドガ

2013年6月15日土曜日@プラハ/7回目

プラハ国立美術館Národní galerie v Prazeの膨大で質の高いフランス美術作品を鑑賞しています。
今回はフランス印象派の作品を見ていきます。

オーギュスト・ルノアールの《恋人たち》です。1875年頃、ルノアール34歳頃の作品です。構図はルノアールらしくない感じですが、女性の明るい表情はルノアールそのものです。あえて、男性の顔は描かないのがルノアールですね。佳作といったところでしょうか。


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カミーユ・ピサロの《ポントワーズ》です。1867年頃、ピサロ37歳頃の作品です。ポントワーズはパリから1時間ほどの街ですが、かって、印象派の画家たちが滞在したことで知られています。特にピサロはたびたび滞在し、彼の名前を冠した美術館があるほど、ピサロとポントワーズの街は強いつながりを持っています。当時のポントワーズは緑豊かな街で、この作品では、その長閑な光景が描かれています。画風はまだ印象派の特徴を表しておらず、コローのような自然主義を感じさせます。


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ピサロの《Val Hermeilの庭》です。1880年頃、ピサロ50歳頃の作品です。上の作品から10年以上を経て、この作品では、ほかの印象派の画家たちの影響を受けて、絵の具を混ぜない技法に変わり、画面も光鮮やかになりました。これこそ、我々が知るピサロの光り輝く絵です。印象派としてのピサロを代表する作品のひとつです。


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ピサロの《キッチンガーデンにて》です。1881年頃、ピサロ51歳頃の作品です。この作品では、珍しく、風景の中に人物が大きく描かれています。今一つ、風景と人物の調和がうまくいっていない印象で残念です。風景主体に描いてほしかったところです。


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クロード・モネの《花咲く果樹園》です。1879年頃、モネ39歳頃の作品です。とても美しい作品です。モネ本来の光の表現はもうひとつでしょうか。


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クロード・モネの《花の中の2人の女性》です。1875年頃、モネ35歳頃の作品です。これは華やかな印象派の作品ですね。こういう絵はモネとルノアールにしか描けませんね。光鮮やかな花々と女性の明るい顔、幸福感が画面から満ち溢れてきます。見ているこちらの気持ちも明るくなるような絵です。


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エドガー・ドガの《パガン(葉巻を持つ男)》です。1882年頃、ドガ48歳頃の作品です。この作品のモデルは当時人気のあったスペイン人の歌手ロレンソ・パガンのようです。10年以上前にも肖像ではなく、ギターを持って演奏する場面を描いています。余程、懇意だったんでしょう。この作品は印象派の作品とは言えませんね。美術アカデミーの師ドミニク・アングルゆずりの類まれなるデッサン力で描き上げたルネサンス以来の伝統的なスタイルの肖像画です。これほど見事な肖像画が描ければ、十分に肖像画家としてもやっていけたでしょうが、それでは今日ほどの評価は得られなかったかもしれません。後世に名を残すためには、やはり、画家独自のスタイルが必要ですね。特に近代絵画においてはそれは必須要件です。


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フランス美術はまだまだ続きます。


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プラハで音楽・美術三昧:プラハ国立美術館のフランス美術・・・ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌ

2013年6月15日土曜日@プラハ/8回目

プラハ国立美術館Národní galerie v Prazeの膨大で質の高いフランス美術作品を鑑賞しています。
今回はいわゆるポスト印象派(昔は後期印象派とも呼ばれていましたが、原語のPost-Impressionismの訳語が変わっただけです)の巨匠ゴーギャン、ゴッホ、セザンヌの作品を見ていきます。

フィンセント・ファン・ゴッホの《緑の麦畑》です。1889年、ゴッホ36歳の作品です。ゴッホとゴーギャンはアルルで共同生活をしますが、2人は決定的な対立をした挙句、ゴッホが自らの耳を切り落とすというショッキングな事件を起こし、幕を閉じます。その翌年の1889年5月にゴッホは自分の意思でアルル郊外のサンレミの精神病院に入院します。入院生活はほぼ1年間におよび、その後、パリから北西へ30キロ余り離れたオーヴェル=シュル=オワーズに移り、3カ月後に非業の死を遂げます。サンレミでの1年間は、病院の1室をアトリエとして使うことを許され、《アイリス》、《星月夜》、《二本の糸杉》などの傑作を次々と創作します。この作品は病室の窓から見える麦畑を描いたものです。緑の麦畑とともに天にうねるように立ち上がる糸杉の燃えるような生命力に感銘を受けます。ゴッホの渾身の傑作のひとつですね。ゴッホ好きのsaraiにはたまらない1枚です。


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ポール・ゴーギャンの《こんにちは、ゴーギャンさん》です。1889年、ゴーギャン41歳の作品です。ゴーギャンはゴッホとの共同生活に終止符を打った後、再び、1886年から創作活動の拠点としていた、ブルターニュ地方のポン=タヴァンに戻ります。ポン=タヴァンでは、ベルナール、ドニ、ラヴァルらの画家とグループを作っていましたが、このグループはポン=タヴァン派と呼ばれ、ゴーギャンがその中心人物でした。この作品は画家グループで借りていた共同アトリエの入り口の前に立つゴーギャン自身を描いた全身自画像です。この作品制作のもとになったのは、クールベの《出会い(こんにちは、クールベさん)》です。ゴッホと共同生活中の1988年12月に連れ立って、南仏モンペリエのファーブル美術館に出かけて、そこでクールベの作品を見たそうです。ゴーギャンのポン=タヴァン時代を代表する名作です。


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ポール・ゴーギャンの《パリスの審判》です。1902年頃、ゴーギャン54歳頃の作品です。この作品が描かれた前年にゴーギャンは文明化されたタヒチにも絶望し、そこから1500km離れたフランス領ポリネシアのマルキーズ諸島のヒバ・オア島に移り、2年後に帰らぬ人となります。この作品はギリシア神話の《パリスの審判》をテーマに、それをタヒチ、あるいはポリネシアを舞台に描いた晩年の作品です。この作品には最初にタヒチを訪れたときのような強烈な野生味はもう感じられません。むしろ、画家の平静とも思える心情が漂っているかのようです。


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ポール・ゴーギャンの《飛行(タヒチの偶像)》です。1902年頃、ゴーギャン54歳頃の作品です。上の作品と同時期に描かれたものです。これもタヒチを描いたものか、マルキーズを描いたものか、判然としませんが、題名からはタヒチを思い出して、描いたのかもしれません。野性味のあるタヒチの女性の残照が感じられる1枚です。


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ポール・ゴーギャンの《孔雀とともの女》です。1903年頃、ゴーギャン55歳頃の作品です。最晩年の珍しい木彫(菩提樹)のレリーフです。極度に単純化されたモティーフの捉え方が印象的です。


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ポール・セザンヌの《果物》です。1875年頃、セザンヌ36歳頃の作品です。セザンヌは1860年代という早い時期から静物画を描いていました。初期の静物画は横1列に食器や果物を並べたシャルダンからの流れをくむもので、後の多視点で捉える立体的な静物画に向けて、少しずつ前進していきます。この作品はその途上のものですが、果物の質感の素晴らしさは既にこの頃には完成していたようです。皿の上の果物は盛り上がるような立体感で描かれています。


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ポール・セザンヌの《エクサン・プロヴァンスの家》です。1885年から1887年頃、セザンヌ46~48歳頃の作品です。この時期、セザンヌは17年間同棲していたオルタンス・フィケと正式に結婚し、その数カ月後には裕福な銀行家だった父親が亡くなり、莫大な遺産を継ぎ、経済的な不安なしで創作活動に励むことができるようになります。郷里のエクサン・プロヴァンスでの制作活動も増え、この作品もその過程で描かれたものです。この作品は印象派の移ろう光の表現を脱し、モティーフを面の集合体として捉えるセザンヌらしい技法が見えます。後に色のブロックでモザイク画のように風景を描くセザンヌの世界がこの頃から始まりました。こういう風景の捉え方は後に続く、青騎士にも多大な影響がみられます。時代の先駆者としてのセザンヌの名作の1枚です。


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ポール・セザンヌの《ジョアシャン・ギャスケの肖像》です。1896年から1897年頃、セザンヌ57~58歳頃の作品です。絵のモデルのジョアシャン・ギャスケはセザンヌの旧友でパン屋のギャスケの息子。1896年の春に知り合います。ジョアシャンは長じて、詩人となり、《セザンヌ伝》を著します。この頃、23歳のジョアシャンは熱狂的にセザンヌを崇拝し、心からの賞賛をセザンヌに贈りました。その言葉に制作意欲をかきたてられたセザンヌはこの肖像画を描き、ジョアシャンの気持ちに応えます。セザンヌの円熟した技量で見事に描かれた作品です。セザンヌの肖像画は妻のオルスタンスを始め、知人を描くことがほとんどでしたが、いずれも対象の個性を捉えた名作ばかりです。


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フランス美術はまだまだ続きます。


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プラハで音楽・美術三昧:プラハ国立美術館のフランス美術・・・マティス、スーラ、シニャック、ロートレック

2013年6月15日土曜日@プラハ/9回目

プラハ国立美術館Národní galerie v Prazeの膨大で質の高いフランス美術作品を鑑賞しています。
今回は印象派、ポスト印象派、キュビズム以外の巨匠マティス、ルオー、スーラ、シニャック、ロートレック、シャヴァンヌ、マネの作品を見ていきます。

アンリ・マティスの《ホアキナ(Joaquina)》です。1910年頃、マティス41歳頃の作品です。人物を描かせてもマティスはやはり卓越した色彩感覚で作品を創り上げます。背景と衣装を鮮やかな暖色系の色彩でまとめ、独特の雰囲気を醸し出しています。


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ジョルジュ・ルオーの《3人のヌードの女性》です。1914年頃、ルオー43歳頃の作品です。黒く隈取りされた人体の力強さ、その背景に赤と緑の色彩を配置、いかにもルオーらしい作品に仕上がっています。


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ジョルジュ・ルオーの《居酒屋にて》です。1914年頃、ルオー43歳頃の作品です。居酒屋のテーブルを囲む男達のごつごつした雰囲気が作品にインパクトを与えています。


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ジョルジュ・スーラの《オンフルール港の船》です。1886年頃、スーラ27歳頃の作品です。スーラは厳密な色彩理論に基づく点描法を編み出した新印象派の画家です。オンフルールは画家ブータンの生まれた港町で、印象派の画家たちもしばしば立ち寄って創作に励みましたが、スーラはこのオンフルールを違った視点で描き出しました。実に緻密に描かれた風景は明快な画像を実現しています。


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ポール・シニャックの《セーヌ川の蒸気船イロンデル》です。1901年頃、シニャック38歳頃の作品です。スーラとともに新印象派を代表する画家シニャック。彼が描き出したセーヌ川の風景は幻想的な雰囲気をたたえています。シニャック渾身の一枚です。


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アンリ・ド・トゥールーズ・ロートレックの《ムーラン・ルージュ》です。1892年頃、ロートレック28歳頃の作品です。パリの華やかな夜の雰囲気を描き出した傑作です。


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ピエール・ピュヴィ・ド・シャヴァンヌの《秋、習作》です。1864年以前、シャヴァンヌ40歳以前の作品です。シャヴァンヌはモローやルドンと並ぶ象徴主義の芸術家ですが、彼の真骨頂は壁画作成にありました。先日のシャヴァンヌ展@BUNKAMURAでも、壁画の下絵、習作が多く展示されていました。古代の1場面を切り取ったような壁画がシャヴァンヌの世界です。この作品もその系列上の1枚です。典雅な雰囲気がとても美しいです。


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エドゥアール・マネの《男の肖像(アントニン・プルースト?)》です。1855年から1856年頃、マネ23~24歳頃の作品です。黒の背景の上にくっきりと凛とした男の表情が見事に描き出されています。マネの絵画は好みではありませんが、黒をベースにした作品の見事さだけには舌を巻きます。


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フランス美術はあと少し続きます。ブラックとピカソです。


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プラハで音楽・美術三昧:プラハ国立美術館のフランス美術・・・ピカソ、ブラック1回目

2013年6月15日土曜日@プラハ/10回目

プラハ国立美術館Národní galerie v Prazeの膨大で質の高いフランス美術作品を鑑賞しています。

今回からはフランス美術の最後を飾り、キュビズムの始祖ピカソ、ブラックの作品を見ていきます。キュビズムはこの2人の共同作業で生み出されたものでもあるので、2人の作品を一緒にして、年代順に見ていきましょう。このプラハ国立美術館のピカソにかける情熱はなかなかのもので、ピカソの作品だけは茶色い壁に展示し、まるで、ピカソ展示室のようにしています。ピカソの傑作が20枚もあるので、それももっともです。壁が色分けされた展示室の様子をご覧ください。


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それでは、膨大なピカソとブラックの作品群を見ていきます。

パブロ・ピカソの《座るヌード》です。1906年頃、ピカソ25歳頃の作品です。ピカソは青の時代を過ぎ、薔薇色の時代にはいっていました。1906年の夏、ピカソは恋人のフェルナンド・オリビエとともにスペインに旅立ちます。ピカソはピレネー山脈の南のゴソル村で新しいスタイルの絵画を描き始めます。スペインに旅立つ前、ピカソは当時発見されたイベリア彫刻の展覧会を見て、非常に強い感銘を受けました。自分のこれまでの絵画にはまったくなかった要素、粗野で荒削りな造形にこれからの自分の創造活動への強いインスピレーションを受けたんです。ピカソの天才たるところは、実は他者の創った美への類まれなる審美眼ではないかとsaraiは思っています。このときはピカソの人生で最大とも言える転機になりました。この作品もそれまでのピカソには考えられなかった力強さがあります。どっしりとした女性の安定感・重量感、仮面のような表情、これらはすべて、イベリア彫刻をピカソが消化して、新たな芸術として変換したものです。そして、これが革命的なキュビズムへの第1歩となります。


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パブロ・ピカソの《女》です。1907年頃、ピカソ26歳頃の作品です。1907年はピカソにとっても、20世紀美術にとっても、エポックメーキングな年になりました。美術の新たな地平を開くことになる《アヴィニョンの娘たち》が描かれます。この作品も《アヴィニョンの娘たち》で描かれている娘たちの仮面のような顔が描かれています。前年のイベリア彫刻からの発展がここに見られます。キュビズムはもうすぐそこまで来ています。


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パブロ・ピカソの《女性のバスト》です。1908年頃、ピカソ27歳頃の作品です。《アヴィニョンの娘たち》の翌年の作品です。無表情な女性の顔、そして、木彫のような顔は既にキュビズム的になり、立体的な描き方です。ピカソが少しずつ前進しています。


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パブロ・ピカソの《ハルレキン》です。1908年から1909年頃、ピカソ27~28歳頃の作品です。ハルレキンはイタリアのコメディー劇によく登場する人物です。そのハルレキンをモデルにして、人物を立体的な要素に分解して描くキュビズム技法が進展しています。


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パブロ・ピカソの《女性の頭部(フェルナンド)》です。1909年頃、ピカソ28歳頃の作品です。少し首を傾けたメランコリックな表情の女性の頭部の彫像ですが、これはとても珍しいキュビズム彫刻です。少なくともsaraiはピカソのキュビズム彫刻は初めて見ました。この女性は当時の恋人、フェルナンド・オリビエです。ピカソはこうして、キュビズムの創生に立ち向かっていたのですね。


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パブロ・ピカソの《橋のある風景》です。1909年頃、ピカソ28歳頃の作品です。ピカソは人物に続いて、風景までもブロックを積み上げたようなキュビズム技法で描くようになります。既にブラックも独立して、同様な描き方で《レスタックの家》を描き上げていました。ブラックは詩人アポリネールに連れられて、ピカソのアトリエを訪れて、ピカソの《アヴィニョンの娘たち》を見て、その作品に触発されたこととセザンヌの影響を受けて、1908年に《レスタックの家》などのキュビズムの風景作品を描きました。キュビズムという名称は、このブラックの作品を見たジャーナリストの「ブラックは大まじめで風景や人物、家を立方体(キューブ)にしている」という皮肉った評論によるものです。ピカソもブラックの絵を見て、自分が描いた風景画と似ていると驚いたそうです。ピカソのこの作品もあるいはブラックの《レスタックの家》の影響を受けているものかも知れません。というのも、これ以降、2人は共同のアトリエでキュビズム作品の作成に熱中していくことになるからです。この年からは2人の作品は急速に似通っていきます。よくよく見ても、どちらがどちらの作品か、見分けがつかないほどです。キュビズムはこの2人の共同作業で完成されていくことになります。


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ジョルジュ・ブラックの《静物(ヴァイオリンとグラス)》です。1910年頃、ブラック28歳頃の作品です。ブラックとピカソはアトリエの静物を、あまり色を使わずに、形態を切り詰めていって、どこまで表現できるか、実験していきます。この作品でも、ヴァイオリンとグラスをバラバラに分解し、その断片の集積を構成することで、リズミカルな表現を実現しています。具象に基づく抽象の美がここにあります。


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パブロ・ピカソの《アームチェアーの女性》です。1910年頃、ピカソ29歳頃の作品です。上のブラックの作品が描かれた同じ年のピカソの作品です。まったくもって、素晴らしい作品です。こういう絵を見ると、もう、具象とか抽象とかは関係なく、芸術の基本、《美》を感ずるのみです。これがアームチェアーに座る女性に見えようとも見えなくとも、ただただ、その美しい絵画表現にため息をつくだけです。


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パブロ・ピカソの《カダケスの港》です。1910年頃、ピカソ29歳頃の作品です。カダケスはフランスに近いスペインの港町。この美術館には、ドランが描いたカダケスの港の風景もありましたね。もちろん、そちらは具象画でした。これがピカソの描くキュビズムの風景画です。同じキュビズムといっても、色々な表現を模索していたことが分かります。


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ブラックとピカソが始めたキュビズムの作品をもっと鑑賞していきましょう。次も、ブラックとピカソが続きます。


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プラハで音楽・美術三昧:プラハ国立美術館のフランス美術・・・ピカソ、ブラック2回目

2013年6月15日土曜日@プラハ/11回目

プラハ国立美術館Národní galerie v Prazeの素晴らしいピカソとブラックのコレクションを前回に引き続いて見ていきます。キュビズムの精華がここにあります。

パブロ・ピカソの《ボクサー》です。1911年頃、ピカソ30歳頃の作品です。ピカソとブラックが共同して熱中した作業はキュビズムを極限まで進めていくことになります。ブラックは「ピカソと僕は、ロープでつながれた登山家のようだった」と語ったそうです。キュビズムという未踏峰を2人で一緒に登っていったのでした。モティーフは極限まで分解されて、もはや、元の形を留めないところに達していきます。分析的キュビズム(Analytical Cubism)の完成です。この作品ももはや、モティーフであるボクサーの姿は認められません。モティーフの断片によって構成された画面の抽象的な模様と色彩に新たな美を見い出すのみです。


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パブロ・ピカソの《マンドリンとペルノーのグラス》です。1911年頃、ピカソ30歳頃の作品です。ペルノーはピカソが愛飲していたアブサンです。ピカソはきっとアブサンを飲みながら、より抽象性の高い絵画を目指していたのかもしれません。それにしても、こういう先鋭的な絵画は当時の人々に簡単に受け入れられた筈はありません。若き画商カーワイラーは彼ら2人が共同アトリエで次々と産み出していくキュビズム絵画を一般大衆には秘密にして、公開しなかったようです。後になって、公開したのは、ある程度、キュビズム絵画が理解されて、人気を呼び始めてからです。画商カーワイラーの戦略は結果的にキュビズムの進展に大いに寄与することになりました。この作品は極限までモティーフを分解した分析的キュビズムの1枚です。


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パブロ・ピカソの《クラリネット》です。1911年頃、ピカソ30歳頃の作品です。何故か、キュビズム絵画のモティーフは楽器が多いですね。複雑な形状で、丸みを帯びた楽器の形態がキュビズムによくあったということなのでしょうか。この作品はクラリネットを題材にしていますが、一部の断片が認められるだけです。この作品は断片を切り取ったシャープな線が際立っていて、saraiのとても好きな作品です。分析的キュビズムの傑作と言えます。それにしても、ピカソの美的センスには驚嘆します。


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パブロ・ピカソの《ギターを弾く女(ギターを弾く闘牛士)》です。1911年頃、ピカソ30歳頃の作品です。この作品も分析的キュビズムの傑作です。モティーフが楽器であろうが、人物であろうが、関係ありません。題名にあるように、その人物が女性であろうが、闘牛士であろうが関係ありません。ここにあるのは美そのものですからね。何と美しい作品なのでしょう。


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ジョルジュ・ブラックの《ヴァイオリンとクラリネット》です。1912年頃、ブラック30歳頃の作品です。このブラックの作品はそれまでの分析的キュビズムをさらに進展させたものです。極限までモティーフを分解した断片の集積の上に、具象的とも言える文字や印刷物や布きれを貼り付ける新たな手法です。パピエ・コレ(貼り紙)と呼ばれる手法は、あるがままのものをコラージュすることで、抽象性と具象性の合体とも言える効果を生み出します。これにより、真に20世紀美術の幕開けとなります。芸術家がどこにでもあるものを自分の感性で組み合わせるだけで、それが芸術になる・・・この行き着く先にマルセル・デュシャンのいわゆる「レディ・メイド」があります。しかし、それは本題ではないので、ここでは深入りはやめておきましょう。このブラックの作品は総合的キュビズム(Synthetic Cubism)の誕生を告げるものです。BACHの文字が見えますが、作曲家のバッハを示すものでしょう。分解されて、形を成さない楽器と具体的な音楽家の名前の組み合わせ。何て自由な発想なんでしょう。


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パブロ・ピカソの《アブサンとトランプカード》です。1912年頃、ピカソ31歳頃の作品です。一方のピカソも負けずに、総合的キュビズムの作品を描き上げます。アブサンとトランプカードというモティーフは分解されて、形をなくしていますが、その上に、トランプのJACKの文字やハートのマークを貼り付けます。抽象化したものに具体的な名票を与えるというアイディアです。パピエ・コレとしてはまだ、中途半端かもしれませんが、何せ発展途上ですからね。


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パブロ・ピカソの《ポークカツレツ》です。1912年頃、ピカソ31歳頃の作品です。これも同時期の作品です。CAFEの文字が付け加えられただけですが、形をなくしたポークカツレツに具体的な意味を添えています。


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パブロ・ピカソの《ヴァイオリン、グラス、パイプと錨(ル・アーブルのお土産)》です。1912年頃、ピカソ31歳頃の作品です。この作品では、ピカソも一挙に総合的キュビズムの世界を完成させています。素晴らしいパピエ・コレです。そして、ここでは、具象的な文字さえも、断片化されつつあります。Le Havre(ル・アーブル)の文字列も部分的に切り取られています。手法そのものはさておき、この作品の美しさは実に見事です。新しい手法をベースにして、美的センスを思い切り発揮するのが、ピカソの真骨頂と言えますね。ピカソは生涯で何度もスタイルを変えて、カメレオンとも呼ばれますが、どんなスタイルでも一貫して、真の美を追求した画家です。


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ピカソとブラックがキュビズムに熱中した成果の数々を見てきました。このあたりがある意味、2人のキュビズム芸術の頂点でしょう。共同制作に区切りをつけ、2人は新たな道を求めていきます。次はそれらを見て、ピカソとブラックの芸術をしめくくります。


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プラハで音楽・美術三昧:プラハ国立美術館のフランス美術・・・ピカソ、ブラック3回目(完)

2013年6月15日土曜日@プラハ/12回目

プラハ国立美術館Národní galerie v Prazeの素晴らしいピカソとブラックのコレクションを引き続いて見ていきます。キュビズムの先に何があるのでしょう。

パブロ・ピカソの《ギターとガスバーナー》です。1913年頃、ピカソ32歳頃の作品です。この作品では、これまでのキュビズム作品の厳しく色彩の抑制と徹底したモティーフの分解が少し緩やかになり、変化の兆しが見られます。


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ジョルジュ・ブラックの《ギターのある静物Ⅰ》です。1920年から1921年頃、ブラック38~39歳頃の作品です。ブラックは1914年に勃発した第1次世界大戦に出兵し、負傷を負います。アトリエに戻ったブラックはふたたび、絵を描き始めます。キュビズム絵画の名残りは残していますが、色彩の戻った静物画や裸婦を描きます。ピカソとともにキュビズムに熱中した時代は既に過去のこととなりました。この作品ではモティーフのギターは分解されていません。パピエ・コレ(貼り紙)が使われてはいますが、落ち着いた絵画です。


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パブロ・ピカソの《立つ女》です。1921年頃、ピカソ40歳頃の作品です。ピカソはこの時期、キュビズムから古典的な絵画に転じていきます。この時期に先立つ1917年、ピカソはセルゲイ・ディアギレフ率いるロシア・バレエ団の舞台装飾の役割を担って、バレエ団に同行して、数か月にわたって、イタリアを旅します。そこでピカソはポンペイの遺跡などの古代の美術に触れます。これが古典的な絵画への引き金になりました。ちなみにピカソはそのときからバレエの舞台装飾をてがけ、『パラード』、『三角帽子』などの装置、衣装をデザインします。また、このバレエ装飾の仕事を通じて、バレリーナで貴族出身のオルガ・コクローヴァと知り合い、1918年に結婚しました。ピカソはイタリア旅行を契機にこのオルガやほかのモデルを題材にして、古代女神像を思わせる作品を描くようになります。この作品もそういう流れで産み出されました。それにしても、ピカソの描く女性の安定した重量感はさすがです。


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ジョルジュ・ブラックの《ギターのある静物Ⅱ》です。1921年から1922年頃、ブラック39~40歳頃の作品です。ブラックはアトリエでの静物画を次々に描きます。この作品もコラージュの技法だけはキュビズム時代の遺産として使いますが、実に落ち着いた作品です。画家自身も、自分のことをもう革命的でも熱狂的でもないと語っていたそうです。ブラックは青春時代は戻ってこない年齢にさしかかっていました。


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ジョルジュ・ブラックの《ぶどうのある静物》です。1922年頃、ブラック40歳頃の作品です。この作品はもはや、普通の静物画ですね。この後、ブラックはアトリエで静かに創作活動を続けていきますが、明るい色彩の落ち着きのある絵画を描くだけでした。


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パブロ・ピカソの《ガーターのある静物》です。1922年頃、ピカソ41歳頃の作品です。こちらは同時期のピカソの描いた静物画です。ブラックに呼応するかのように、モティーフのデフォルメはあっても要素分解はありません。脱キュビズムですね。しかし、技法はどうであれ、ピカソの描く絵画は常に美的センスに満ちています。俗な表現で言えば、《お洒落》な作品です。構図と言い、色彩と言い、パーフェクトではありませんか。


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パブロ・ピカソの《灰色の頭(ドラ・マール)》です。1941年頃、ピカソ60歳頃の作品です。上の作品から20年後に描かれた作品です。ピカソはオルガとの結婚後も恋多き人生を送ります。1936年から1945年までは、カメラマンで画家のドラ・マールと愛人関係を持ちました。それをバネに創作を続けるピカソも立派と言えば立派です。この作品はそのドラ・マールをモデルにピカソ流に仕上げたものです。ちなみにこの時期に描いた作品のひとつが人類の遺産とも言える《ゲルニカ》です。


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パブロ・ピカソの《サビニの娘たちの掠奪》です。1962年頃、ピカソ81歳頃の作品です。ピカソは1973年に亡くなりますが、この時期、80歳を超えても創作力は旺盛でした。この作品についてはその制作の背景を説明する必要があります。ピカソは人類の平和、反戦を訴えて、1937年にドイツ空軍遠征隊「コンドル軍団」のゲルニカ爆撃を非難した大作《ゲルニカ》を描きましたが、彼の心の中に平和を希求する灯は燃え続けていました。そして、この1962年、当時の世界を2分していた超大国のアメリカ合衆国とソ連の冷戦が一触即発の事態にエスカレートしたキューバ危機が起こります。ケネディの危険な賭けにフルシチョフが妥協した形で一応、危機は回避されましたが、このことにピカソは大きなショックを受けます。そして、また、25年前の《ゲルニカ》に続き、平和を願う作品を描き上げます。それがこの《サビニの娘たちの掠奪》です。この年と翌年にかけて、同じテーマで5枚の作品が描かれますが、この作品もその1枚です。最も有名な作品はボストン美術館に所蔵されていて、多分、今年、日本でも公開されるようです。ピカソのファンは《ゲルニカ》と《サビニの娘たちの掠奪》は必見です。《サビニの娘たちの掠奪》は題材を古代ローマの建国のときの歴史からとっています。古代ローマを建国した王ロームルスは自国に適齢の女性が少ないことから、隣国のサビニ族の娘たちに目をつけ、次世代の子供たちを産ませるために、サビニ族の娘たちを掠奪して、無理やりに結婚させて、子供を産ませます。もちろん、サビニ族も黙って見逃すわけではありません。そして、両国の存亡をかけた戦争に突入します。その戦いが最終局面に達したとき、掠奪婚させられて、子供まで産まされたサビニ族の女性たちが戦場に割って入り、両者を和解させようとしました。女性たちにとっては、それまでのいきさつはともかく、現実には、自分の親・兄弟たちと自分の夫・義父たちが命を奪いあっているという悲劇に直面していたわけです。結局、その仲介が実り、両国は和解の上、サビニ人とローマ人は共同統治の一つの国家を形成することに合意します。この結果、古代ローマの基盤が固まることになったわけです。ピカソはこの平和が実現した物語を題材に筆をとりました。ピカソは過去にこの主題を描いたニコラ・プッサンの2枚の絵画(メトロポリタン美術館とルーブル美術館に所蔵)とジャック=ルイ・ダヴィッドが戦争中の両軍に女たちが割って入った場面を描いた絵画(ルーブル美術館に所蔵)を下敷きにして、再構成しました。このプラハ国立美術館所蔵の作品に描かれている、手前の戦場で女性が子供を前に置いて両軍の間に割って入っているところはダヴィッドの作品とまったく同じ構図になっています。多分、この作品をもとにして、ボストン美術館にある傑作が描かれたと思われます。巨匠ピカソが晩年に描いた作品を見ながら、saraiもその平和にかける志を受け継ぎたいと心から思うものです。


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プラハ国立美術館には、ピカソの膨大なコレクションがありますが、青の時代の作品は1枚もなく、キュビズム作品に集中していたのが潔いと感じます。ピカソとブラックの青年時代はキュビズムへの熱狂に捧げられて、20世紀美術を大きく前進させることになりました。それが体感できる素晴らしいコレクションをフランス美術の展示の最後に見ることができました。

これでプラハ国立美術館の全展示を見終わったと思っていましたが、実は思ってもいなかった特別展示が待っていてくれたんです。


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首都圏の様々なジャンルのクラシックコンサート、オペラの感動をレポートします。在京オケ・海外オケ、室内楽、ピアノ、古楽、声楽、オペラ。バロックから現代まで、幅広く、深く、クラシック音楽の真髄を堪能します。
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08/04 21:31 G線上のアリア

じじいさん、コメントありがとうございます。saraiです。
思えば、もう10年前のコンサートです。
これがsaraiの聴いたハイティンク最高のコンサートでした。
その後、ザル

07/08 18:59 sarai

CDでしか聴いてはいません。
公演では小沢、ショルティだけ

ベーム、ケルテス、ショルティ、クーベリック、
クルト。ザンデルリング、ヴァント、ハイティンク
、チェリブ

07/08 15:53 じじい@

saraiです。
久々のコメント、ありがとうございます。
哀愁のヨーロッパ、懐かしく思い出してもらえたようで、記事の書き甲斐がありました。マイセンはやはりカップは高く

06/18 12:46 sarai

私も18年前にドレスデンでバームクーヘン食べました。マイセンではB級品でもコーヒー茶碗1客日本円で5万円程して庶民には高くて買えなかったですよ。奥様はもしかして◯良女

06/18 08:33 五十棲郁子

 ≪…明恵上人…≫の、仏眼仏母(ぶつげんぶつも)から、百人一首の本歌取りで数の言葉ヒフミヨ(1234)に、華厳の精神を・・・

もろともにあはれとおもへ山ざくら 花よりほか

通りすがりさん

コメント、ありがとうございます。正直、もう2年ほど前のコンサートなので、詳細は覚えておらず、自分の文章を信じるしかないのですが、生演奏とテレビで

05/13 23:47 sarai
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