プラハ国立美術館Národní galerie v Prazeの素晴らしい展示を見終えて、満足してベース階に下りてきます。帰ろうとすると、何やら、ここでも展示を行っています。今日は特別展を開催中のようです。何と、ミュシャの渾身の名作、大作にして連作の《スラヴ叙事詩》全20枚が1フロアすべてを使って、一挙公開中です。展示室に入ると、あまりに大きな絵なので、一瞬、絵画ではなく、スクリーンに映写しているのかと勘違いするほどです。ちゃんと実物が公開されていて、びっくりです。
まず、この《スラヴ叙事詩》の成り立ちについて、振り返ってみましょう。ミュシャはチェコの片田舎、モラヴィア地方南部の寒村で裁判所の官吏の息子として生れました。当時、チェコはハプスブルグ帝国に属し、ミュシャが7歳のとき、オーストリア・ハンガリー二重帝国が誕生。チェコは自由と独立を求める長い闘争の中にありました。その後、ミュシャはパリで美しいポスター画を描き、新世代のアール・ヌーヴォーの旗手として、一世を風靡することになります。人気画家に仲間入りしたミュシャでしたが、このまま、一介のポスター画家で終わっていいのかという迷いが生まれてきていたようです。そして、その後の人生を大きく変えることになるのが1900年のパリ万国博覧会への参加でした。ミュシャは祖国と同じスラヴ民族で構成されるボスニア・ヘルツェゴビナのパヴィリオンの装飾の仕事を引き受けます。スラヴ民族の歴史の壁画を作成していく過程で自らのスラヴ民族の血に目覚めていきます。4年後、新たな創造活動の地として選んだアメリカに渡りますが、大西洋を渡る船上でチェコの作家アロイス・イセーラクの歴史小説「すべてに抗って」を読み、アメリカでチェコの作曲家スメタナの交響詩「わが祖国」を聴き、ミュシャはその後の画家人生をスラヴ民族のために捧げることを決意します。作家イセーラク、作曲家スメタナと同様に、ミュシャは美術の分野でスラヴ民族の魂を描き、民族の団結とヨーロッパ平和を訴えていきたいというのがミュシャの思いでした。そのミュシャを親スラヴのアメリカ人大富豪のチャールズ・クレインが援助してくれることになり、ミュシャは1910年に祖国チェコに戻り、創作にとりかかることになります。それが《スラヴ叙事詩》です。
《スラヴ叙事詩》はスラヴ民族の創生に始まる壮大な歴史を描いたものです。内容はチェコの歴史10枚、そのほかのスラヴ民族の歴史10枚ですが、あえて、流血の場面は避け、虐げられたスラヴの民が平和に尽くす場面を幻想的に描き出しました。縦横4mを超す連作を描くためにミュシャは西ボヘミアの古城ズビロフ城にこもり、16年もの歳月をかけて、1926年に遂に全20枚の《スラヴ叙事詩》を完成します。その間、第1次世界大戦が勃発し、その結果、オーストリア・ハンガリー二重帝国が崩壊し、チェコスロバキア共和国が誕生します。ミュシャが完成した《スラヴ叙事詩》をプラハ市に寄贈しますが、そのときには既に画家が絵画に込めたチェコの愛国心は不必要なものになっていました。その結果、この作品は不遇な運命をたどることになります。1928年に記念博覧会で展示されますが、その後は公開されることはありませんでした。ミュシャが1939年に亡くなった後もその状況は続きます。
チェコスロバキア共和国は第2次世界大戦後、東側の勢力下にとりこまれます。そして、あの歴史的な事件、1989年の「ビロード革命」が起き、新たなチェコが誕生します。それを契機に永らく未公開だった《スラヴ叙事詩》がミュシャの生地、南モラヴィア地方のモラスキー・クルムロフ城で毎年、春から秋のシーズンに公開されるようになり、ようやく、日の目を見られるようになりました。《スラヴ叙事詩》は第2次世界大戦中にいくつかの場所に隠され、転々とした後、1963年からモラスキー・クルムロフ城に仮に管理されていました。
ところがこれからドタバタ劇が起きます。《スラヴ叙事詩》はそもそもプラハ市に寄贈されたもので、ミュシャの遺言でプラハの専用の場所で公開されることを求められていたんです。プラハが世界の人気の観光地となった今、観光客にも人気のミュシャの大作を観光に不便な地方の城に置いていては、いかにももったいないと思ったのかどうかは定かではありませんが、《スラヴ叙事詩》はプラハに移されることになります。しかし、唯一の観光資源として《スラヴ叙事詩》を手放したくないモラスキー・クルムロフ城は裁判に訴えて、《スラヴ叙事詩》を手元に置こうとします。結局、現時点では最終的な解決には至っていませんが、2012年5月から暫定的にヴィレトゥルジェニー宮殿Veletržní palácで公開されるようになりました。ヴィレトゥルジェニー宮殿での公開時期は2013年9月末までということでしたが、徐々に延長されて、今は2015年12月末までの限定展示ということになっています。
ということは、saraiが訪れた2013年6月はちょうど、ここで公開され始めて1年が経過したときでした。ちなみにヴィレトゥルジェニー宮殿はチェコスロバキア共和国がオーストリア・ハンガリー二重帝国から1918年に独立を果たしてから丁度10周年を迎えた1928年に博覧会場として新築され、そこで記念に《スラヴ叙事詩》が初めて披露されました。今回の《スラヴ叙事詩》の展示は初披露のときと同じ配置を踏襲しているそうです。ここでの展示は暫定展示ということですが、saraiの感覚では、パーフェクトな展示に思えます。ずっと、このままの展示が続けられてもよいのではと感じます。
ところで、一度にこれだけの連作絵画を鑑賞するのは、限界を超えています。あくまでも表面をなぞっただけの鑑賞になってしまいます。すべての作品が幻想的に描かれ、一枚一枚、趣きを変え、また、一枚の作品の中にもいろいろな要素が詰まっています。前置きが長くなりましたが、順に作品を見ていきましょう。
1.原故郷のスラヴ民族 1912年、610×810cm
Slovaně v pravlasti
スラヴ民族はその歴史の開始点では、黒海とバルト海の間、すなわち、現在紛争中のウクライナ付近で狩猟と農耕を平和に営んでいました。しかし、民族大移動によって脅威にさらされてしまいます。この作品の背後に野蛮人が凶暴に略奪するシーンが描かれています。右上に描かれている白い衣装の人物はスヴァントヴィト像です。スラヴの神です。手前でおびえている2人の男女はスラヴの起源を示す、いわゆる、スラヴのアダムとイブです。チェコの起源であるスラヴの民が平和の民であることをこの作品では主題としています。

スラヴのアダムとイブをピックアップしてみました。彼らは実に印象的に描かれています。手に持つのは武器ではなく、農耕用の鎌です。あくまでも平和を愛する無垢の人間として描かれています。

2.ルヤナ島のスヴァントヴィト祭 1912年、610×810cm
Slavnost Svantovitova na Rujaně
バルト海にあるルヤナ島(現在はドイツ領のリューゲン島)のアルコナで西スラヴの神スヴァントヴィトを祝う祭りが行われている様子が描かれています。スラヴ民族が暮らしていたバルト海沿岸は後にヴァルデマー1世のデンマーク軍に征服されます。画面の左上には、その事実を予感させるために、ノルマン人の神オーディーンと狼が描かれています。この作品も平和の民スラヴが他の民族に抑圧されることを主題としています。

3. 大モラヴィア国のスラヴ語礼拝式導入 1912年、610×810cm
Zavedení slovanské liturgie na Velkou Moravu
大モラヴィア国は9世紀前半、中欧の広大な領地に建設されたスラヴ人最初の国家でした。当時はキリスト教の典礼はラテン語で行われていたため、大モラヴィアのロスチスラフ公がスラヴ語で神の言葉を教える僧の派遣をビザンティン帝国に要請します。聖ツィリルと聖メトジェイが派遣されて、スラヴ語で説教をして、キリスト教を広めます。また、聖書のスラヴ語化のためにグラゴール文字を考案します。この作品はスラヴでのキリスト教の導入を主題としていますが、画面左上にドイツ人カトリック僧が描かれ、その後のドイツからの抑圧も暗示しています。

4.ブルガリアのシメオン皇帝 1923年、405×480cm
Car bulharský Symenon
10世紀、シメオン皇帝が支配したブルガリア帝国はもっとも栄光に満ちた時代を迎えました。ドイツ人司祭が権力を握った大モラヴィア国から聖メトジェイの教えを伝える人たちを迎え入れ、スラヴ語の文化が花咲くことになりました。そのスラヴ文化はギリシア正教会の聖地アトス山に伝えられることになります。この作品はスラヴ文化の繁栄を主題としています。

5.プジェミスル朝のオタカル2世 1924年、405×480cm
Král Přemysl OtakarⅡ.
大モラヴィア国が滅びた後、チェコ(ボヘミア)に強大な王国が生まれます。プジェミスル家の統治する国家です。オタカル2世のもと、その力は頂点に達します。この作品はオタカル2世の姪の豪華な結婚式に集うスラヴの王たちを描いています。しかし、ミュシャの描いた結婚式の様子は史実に反しており、ハンガリー王しか出席しなかったそうです。オタカル2世のあまりの強大さに諸国が警戒し、彼は孤立し、神聖ローマ帝国の皇帝に選出されずに、代わりに当時は地方貴族でしかなかったハプスブルグ家のルドルフが皇帝に選出されます。最終的にハプスブルグ家のルドルフの戦略に次々としてやられたオタカル2世はマルヒフェルトの戦いで敗れ、戦死します。プジェミスル家の領地の大半はハプスブルグ家のものとなります。この作品はオタカル2世の黄金時代を夢見るミュシャの想像の産物といえそうです。

6.セルビア皇帝ステファン・ドゥシャンの戴冠式 1923年、405×480cm
Korunivace cara srbského Štěpána Dušana na cara východořímského
ステファン・ドゥシャンはセルビア王国を強大にして、ギリシャを統合して、東ローマ帝国皇帝に即位します。その時代、神聖ローマ帝国皇帝もカレル4世で、文字通り、スラヴ人が東西ローマに君臨する時代になります。ステファン・ドゥシャンの戴冠式は春、イースターに執り行われます。この作品はその《スラヴの春》を描いたもので、スラヴ民族にとって、栄光の時代として永遠に記憶に残るもので、ミュシャに連作《スラヴ叙事詩》を描く強い気持ちを与えるものでもあったと思われます。

《スラヴ叙事詩》はまだまだ続きます。
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