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プラハで音楽・美術三昧:プラハ国立美術館の特別展、ミュシャの畢生の大作《スラヴ叙事詩》その1

2013年6月15日土曜日@プラハ/13回目

プラハ国立美術館Národní galerie v Prazeの素晴らしい展示を見終えて、満足してベース階に下りてきます。帰ろうとすると、何やら、ここでも展示を行っています。今日は特別展を開催中のようです。何と、ミュシャの渾身の名作、大作にして連作の《スラヴ叙事詩》全20枚が1フロアすべてを使って、一挙公開中です。展示室に入ると、あまりに大きな絵なので、一瞬、絵画ではなく、スクリーンに映写しているのかと勘違いするほどです。ちゃんと実物が公開されていて、びっくりです。

まず、この《スラヴ叙事詩》の成り立ちについて、振り返ってみましょう。ミュシャはチェコの片田舎、モラヴィア地方南部の寒村で裁判所の官吏の息子として生れました。当時、チェコはハプスブルグ帝国に属し、ミュシャが7歳のとき、オーストリア・ハンガリー二重帝国が誕生。チェコは自由と独立を求める長い闘争の中にありました。その後、ミュシャはパリで美しいポスター画を描き、新世代のアール・ヌーヴォーの旗手として、一世を風靡することになります。人気画家に仲間入りしたミュシャでしたが、このまま、一介のポスター画家で終わっていいのかという迷いが生まれてきていたようです。そして、その後の人生を大きく変えることになるのが1900年のパリ万国博覧会への参加でした。ミュシャは祖国と同じスラヴ民族で構成されるボスニア・ヘルツェゴビナのパヴィリオンの装飾の仕事を引き受けます。スラヴ民族の歴史の壁画を作成していく過程で自らのスラヴ民族の血に目覚めていきます。4年後、新たな創造活動の地として選んだアメリカに渡りますが、大西洋を渡る船上でチェコの作家アロイス・イセーラクの歴史小説「すべてに抗って」を読み、アメリカでチェコの作曲家スメタナの交響詩「わが祖国」を聴き、ミュシャはその後の画家人生をスラヴ民族のために捧げることを決意します。作家イセーラク、作曲家スメタナと同様に、ミュシャは美術の分野でスラヴ民族の魂を描き、民族の団結とヨーロッパ平和を訴えていきたいというのがミュシャの思いでした。そのミュシャを親スラヴのアメリカ人大富豪のチャールズ・クレインが援助してくれることになり、ミュシャは1910年に祖国チェコに戻り、創作にとりかかることになります。それが《スラヴ叙事詩》です。
《スラヴ叙事詩》はスラヴ民族の創生に始まる壮大な歴史を描いたものです。内容はチェコの歴史10枚、そのほかのスラヴ民族の歴史10枚ですが、あえて、流血の場面は避け、虐げられたスラヴの民が平和に尽くす場面を幻想的に描き出しました。縦横4mを超す連作を描くためにミュシャは西ボヘミアの古城ズビロフ城にこもり、16年もの歳月をかけて、1926年に遂に全20枚の《スラヴ叙事詩》を完成します。その間、第1次世界大戦が勃発し、その結果、オーストリア・ハンガリー二重帝国が崩壊し、チェコスロバキア共和国が誕生します。ミュシャが完成した《スラヴ叙事詩》をプラハ市に寄贈しますが、そのときには既に画家が絵画に込めたチェコの愛国心は不必要なものになっていました。その結果、この作品は不遇な運命をたどることになります。1928年に記念博覧会で展示されますが、その後は公開されることはありませんでした。ミュシャが1939年に亡くなった後もその状況は続きます。

チェコスロバキア共和国は第2次世界大戦後、東側の勢力下にとりこまれます。そして、あの歴史的な事件、1989年の「ビロード革命」が起き、新たなチェコが誕生します。それを契機に永らく未公開だった《スラヴ叙事詩》がミュシャの生地、南モラヴィア地方のモラスキー・クルムロフ城で毎年、春から秋のシーズンに公開されるようになり、ようやく、日の目を見られるようになりました。《スラヴ叙事詩》は第2次世界大戦中にいくつかの場所に隠され、転々とした後、1963年からモラスキー・クルムロフ城に仮に管理されていました。
ところがこれからドタバタ劇が起きます。《スラヴ叙事詩》はそもそもプラハ市に寄贈されたもので、ミュシャの遺言でプラハの専用の場所で公開されることを求められていたんです。プラハが世界の人気の観光地となった今、観光客にも人気のミュシャの大作を観光に不便な地方の城に置いていては、いかにももったいないと思ったのかどうかは定かではありませんが、《スラヴ叙事詩》はプラハに移されることになります。しかし、唯一の観光資源として《スラヴ叙事詩》を手放したくないモラスキー・クルムロフ城は裁判に訴えて、《スラヴ叙事詩》を手元に置こうとします。結局、現時点では最終的な解決には至っていませんが、2012年5月から暫定的にヴィレトゥルジェニー宮殿Veletržní palácで公開されるようになりました。ヴィレトゥルジェニー宮殿での公開時期は2013年9月末までということでしたが、徐々に延長されて、今は2015年12月末までの限定展示ということになっています。

ということは、saraiが訪れた2013年6月はちょうど、ここで公開され始めて1年が経過したときでした。ちなみにヴィレトゥルジェニー宮殿はチェコスロバキア共和国がオーストリア・ハンガリー二重帝国から1918年に独立を果たしてから丁度10周年を迎えた1928年に博覧会場として新築され、そこで記念に《スラヴ叙事詩》が初めて披露されました。今回の《スラヴ叙事詩》の展示は初披露のときと同じ配置を踏襲しているそうです。ここでの展示は暫定展示ということですが、saraiの感覚では、パーフェクトな展示に思えます。ずっと、このままの展示が続けられてもよいのではと感じます。

ところで、一度にこれだけの連作絵画を鑑賞するのは、限界を超えています。あくまでも表面をなぞっただけの鑑賞になってしまいます。すべての作品が幻想的に描かれ、一枚一枚、趣きを変え、また、一枚の作品の中にもいろいろな要素が詰まっています。前置きが長くなりましたが、順に作品を見ていきましょう。

1.原故郷のスラヴ民族 1912年、610×810cm
   Slovaně v pravlasti

スラヴ民族はその歴史の開始点では、黒海とバルト海の間、すなわち、現在紛争中のウクライナ付近で狩猟と農耕を平和に営んでいました。しかし、民族大移動によって脅威にさらされてしまいます。この作品の背後に野蛮人が凶暴に略奪するシーンが描かれています。右上に描かれている白い衣装の人物はスヴァントヴィト像です。スラヴの神です。手前でおびえている2人の男女はスラヴの起源を示す、いわゆる、スラヴのアダムとイブです。チェコの起源であるスラヴの民が平和の民であることをこの作品では主題としています。


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スラヴのアダムとイブをピックアップしてみました。彼らは実に印象的に描かれています。手に持つのは武器ではなく、農耕用の鎌です。あくまでも平和を愛する無垢の人間として描かれています。


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2.ルヤナ島のスヴァントヴィト祭 1912年、610×810cm
   Slavnost Svantovitova na Rujaně

バルト海にあるルヤナ島(現在はドイツ領のリューゲン島)のアルコナで西スラヴの神スヴァントヴィトを祝う祭りが行われている様子が描かれています。スラヴ民族が暮らしていたバルト海沿岸は後にヴァルデマー1世のデンマーク軍に征服されます。画面の左上には、その事実を予感させるために、ノルマン人の神オーディーンと狼が描かれています。この作品も平和の民スラヴが他の民族に抑圧されることを主題としています。


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3. 大モラヴィア国のスラヴ語礼拝式導入 1912年、610×810cm
   Zavedení slovanské liturgie na Velkou Moravu

大モラヴィア国は9世紀前半、中欧の広大な領地に建設されたスラヴ人最初の国家でした。当時はキリスト教の典礼はラテン語で行われていたため、大モラヴィアのロスチスラフ公がスラヴ語で神の言葉を教える僧の派遣をビザンティン帝国に要請します。聖ツィリルと聖メトジェイが派遣されて、スラヴ語で説教をして、キリスト教を広めます。また、聖書のスラヴ語化のためにグラゴール文字を考案します。この作品はスラヴでのキリスト教の導入を主題としていますが、画面左上にドイツ人カトリック僧が描かれ、その後のドイツからの抑圧も暗示しています。


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4.ブルガリアのシメオン皇帝 1923年、405×480cm
   Car bulharský Symenon

10世紀、シメオン皇帝が支配したブルガリア帝国はもっとも栄光に満ちた時代を迎えました。ドイツ人司祭が権力を握った大モラヴィア国から聖メトジェイの教えを伝える人たちを迎え入れ、スラヴ語の文化が花咲くことになりました。そのスラヴ文化はギリシア正教会の聖地アトス山に伝えられることになります。この作品はスラヴ文化の繁栄を主題としています。


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5.プジェミスル朝のオタカル2世 1924年、405×480cm
   Král Přemysl OtakarⅡ.

大モラヴィア国が滅びた後、チェコ(ボヘミア)に強大な王国が生まれます。プジェミスル家の統治する国家です。オタカル2世のもと、その力は頂点に達します。この作品はオタカル2世の姪の豪華な結婚式に集うスラヴの王たちを描いています。しかし、ミュシャの描いた結婚式の様子は史実に反しており、ハンガリー王しか出席しなかったそうです。オタカル2世のあまりの強大さに諸国が警戒し、彼は孤立し、神聖ローマ帝国の皇帝に選出されずに、代わりに当時は地方貴族でしかなかったハプスブルグ家のルドルフが皇帝に選出されます。最終的にハプスブルグ家のルドルフの戦略に次々としてやられたオタカル2世はマルヒフェルトの戦いで敗れ、戦死します。プジェミスル家の領地の大半はハプスブルグ家のものとなります。この作品はオタカル2世の黄金時代を夢見るミュシャの想像の産物といえそうです。


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6.セルビア皇帝ステファン・ドゥシャンの戴冠式 1923年、405×480cm
   Korunivace cara srbského Štěpána Dušana na cara východořímského

ステファン・ドゥシャンはセルビア王国を強大にして、ギリシャを統合して、東ローマ帝国皇帝に即位します。その時代、神聖ローマ帝国皇帝もカレル4世で、文字通り、スラヴ人が東西ローマに君臨する時代になります。ステファン・ドゥシャンの戴冠式は春、イースターに執り行われます。この作品はその《スラヴの春》を描いたもので、スラヴ民族にとって、栄光の時代として永遠に記憶に残るもので、ミュシャに連作《スラヴ叙事詩》を描く強い気持ちを与えるものでもあったと思われます。


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《スラヴ叙事詩》はまだまだ続きます。


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プラハで音楽・美術三昧:プラハ国立美術館の特別展、ミュシャの畢生の大作《スラヴ叙事詩》その2

2013年6月15日土曜日@プラハ/14回目

《スラヴ叙事詩》特別展示の続きです。

7. クロムニェジーシュのヤン・ミリチ 1916年、620×405cm
Milíč z Kroměříže

モラヴィアのクロムニェジージュ出身のヤン・ミリチはカレル4世のもとで要職を務めていましたが、教会の腐敗に反発して、教会改革の活動に献身するようになりました。後のヤン・フスの宗教改革に先立つ活動でした。特に娼婦の改宗に力を入れて、売春宿を修道院につくりかえたそうです。娼婦の避難所《新エルサレム》を建設し、娼婦たちの新しい生活の場を作りました。この作品は足場の上で粗末な衣装を着たヤン・ミリチが説教をしている場面を描いています。下では娼婦たちが説教を聴いています。


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なお、この作品は《言葉の力》という三連祭壇画の1枚でもあります。実際、今回の展示では、三連祭壇画の一番左に展示されていました。


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8. グルンヴァルトの戦いが終わって 1924年、405×610cm
Po bitvě u Grunwaldu

グルンヴァルトの戦いはドイツではタンネンベルクの戦いと呼ばれています。1410年7月15日、スラヴ勢力のポーランド王国・リトアニア大公国連合軍がポーランドの平原で無敵のドイツ騎士団と戦った戦闘です。ボヘミア人(チェコ人)も援軍に加えたスラヴ連合はドイツ騎士団を打ち破ります。この作品では、スラヴが戦いに勝利する場面ではなく、戦いに勝利したポーランド王兼リトアニア大公であるヴワディスワフ2世が画面の中央に悄然と立ち、戦死者が倒れている平原で哀悼を捧げている場面が描かれています。ミュシャが描いた作品の主題は平和を希求するスラヴ人ということなのでしょう。なお、1914年の第1次世界大戦でも同名のタンネンベルクの戦いがドイツ帝国とロシア帝国の間で戦われました。今度はドイツの勝利に終わりました。


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9. プラハ・ベツレヘム礼拝堂でのヤン・フスの説教 1916年、610×810cm
Kázání Husovo v kapli Betlémské

当時のカトリック教会の腐敗を糾弾し、宗教改革を説いたチェコの偉人ヤン・フスはチェコの精神的な柱であり続けました。この作品は1412年にヤン・フスがプラハ・ベツレヘム礼拝堂で説教する場面を描いています。その3年後の1415年にヤン・フスはカトリック教会から異端の罪で火刑に処せられます。しかし、ヤン・フスの思想はマルティン・ルターの宗教改革につながり、ヨーロッパの精神的支柱として生き続けることになります。2000年にカトリック教会はヤン・フスへの異端審問が誤りであったことを認めることになります。


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なお、この作品は《言葉の力》の三連祭壇画の中央の1枚です。ミュシャもヤン・フスを最重要視したからです。


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10. クジージュキの会合 1916年、620×405cm
Schůzka na Křížkách

1415年にヤン・フスが火刑に処せられた後、ヤン・フスを信奉する急進派は清貧を旨として、教会の外の野外で説教するようになります。そのリーダーがヴァーツラフ・コランダでした。この作品は1419年9月30日にベネショフ近郊のクジージュキで開かれた集会が描かれています。高いところから説教しているのがコランダです。この集会を契機として、ボヘミアからヨーロッパに宗教戦争の火が次第に燃え上がっていくことになります。フス派戦争は明暗の2面を持ちます。暗のほうは、それ以降、チェコが外国支配を受け続けることになることですが、明のほうは、未来に向けての重要な思想がチェコ人によって培われることになることです。


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なお、この作品は《言葉の力》の三連祭壇画の右側の1枚です。三連祭壇画をしめくくる重要な1枚となりました。


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11.ヴィトコフの戦いの後 1923年、405×480cm
Po bitvě na Vítkově

1420年、フス戦争の初めにプラハを占拠したジギスムントに対して、ヤン・ジシュカが率いる農民中心のフス教徒防衛軍がヴィトコフの丘の上で防備を固めて戦います。戦局の決定的な瞬間にプラハの人々が支援にきて、ヤン・ジシュカが勝利を収めます。この作品では、その戦いの後、画面の中央に聖体顕示台を持ったターボル派の僧が立ち、右にはヤン・ジシカが立っています。この作品でも、戦闘そのものは描かれず、平和を希求するスラヴの人々の姿が描かれています。それがミュシャの強い思いだったのでしょう。


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12. ペトル・ヘルチツキー 1918年、405×610cm
Petr Chelčický

ペトル・ヘルチツキーはヤン・フスの後継者の一人でした。フス戦争のさなか、キリスト教に従って平和主義を貫きました。暴力に対して、暴力で反抗しないという一貫した思想で、後世に多大な影響を与えることになります。ビロード革命もその思想の流れの先にありました。この作品は戦争から逃げてきた被害者を慰めているペトル・ヘルチツキーが描かれています。そして、ペトル・ヘルチツキーは慰めるだけではなく、「悪を悪で報うな」という平和思想を説いているのです。近代の非暴力主義の先駆けです。現代の我々にも、鋭く突きつけられる考え方ですね。どうやって平和を守っていくか、深く考えていく必要が一人一人に課されています。


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13.ポジェブラッドのイジー王 1923年、405×610cm
Husitský král Jiří z Poděbrad

ポジェブラッドのイジー王は15世紀に生きた最後のチェコ人の王です。彼はカトリック教徒とフス教徒の宥和を実現します。しかし、ローマ法皇ピウス2世はそのフス派信仰を認めるプラハ条約の撤廃を迫ります。しかし、ボヘミア国内の平和を願うイジー王はその要請を拒否し、ローマ・カトリックから破門されます。この作品は画面中央に立つローマ法皇の特使ファンタン・ド・ヴェールがプラハ条約の破棄を迫るのに対し、画面右側のイジー王が決然として、椅子を倒して立ち上がり、ボヘミア王の王位と自身の命をかけて、フス派信徒の信仰を護ることを宣言している場面が劇的に描かれています。なお、画面手前の少年は表紙にROMAと書かれた本を閉じていますが、これはローマとの決別を象徴しています。


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《スラヴ叙事詩》はまだ続きます。残りは7枚です。


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プラハで音楽・美術三昧:プラハ国立美術館の特別展、ミュシャの畢生の大作《スラヴ叙事詩》その3

2013年6月15日土曜日@プラハ/15回目

《スラヴ叙事詩》特別展示の続きです。残りの7枚を見ていきましょう。

14.ズリンスキー総督によるトルコに対するシゲット防衛 1914年、610×810cm
Hájení Sigetu Mikulášem Zrinským

1566年にオスマン・トルコのスレイマン大帝はドナウ川沿いにスラブ各国を侵略し、ウィーンに攻め上ろうとします。その途中に位置する町シゲット(現在はハンガリー領のセゲト)は勇将ズリンスキー総督が守っていました。トルコの大軍がこの小さな町に襲い掛かります。シゲットの防衛隊がいかに勇敢に戦っても、所詮、多勢に無勢です。10万人のトルコ軍に対してズリンスキー総督の防衛隊はわずか2500人。40倍の軍勢に対して、ズリンスキー総督は戦いの始まった8月20日から9月7日まで、19日間も町を守り抜きますが、最終的に玉砕してしまいます。しかし、この勇敢なズリンスキー総督の防衛隊の奮戦は無駄になりませんでした。町が陥落する前日に体調を悪化させたスレイマン大帝が没します。そのため、スレイマン大帝のウィーン征服の野望は露と消え去りました。この作品は町の陥落を前にして、防衛隊を鼓舞するズリンスキー総督とシゲットの町の悲壮な最期を描いています。防衛隊は最後の玉砕攻撃の準備をし、ズリンスキー総督の妻エヴァをはじめとする女性たちが敵を巻き込んで火薬庫で自爆しようとしています。この作品の主題はクロアチア人の勇敢なズリンスキー総督が身を投げ打って、ヨーロッパ世界を守り抜いたということでしょう。


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15.イヴァンチィツェにおけるモラヴィア兄弟団学校 1914年、610×810cm
Bratrská škola v Ivančicích: kolébka Bible kralické

ペトル・ヘルチツキーの教えを実践するチェコ兄弟団は1467年に誕生し、質実な信仰生活を送りながら、その輪を広げていきました。チェコ兄弟団は高い教育水準を誇っていましたが、なかでも、モラヴィア南部のイヴァンチッツェにあったモラヴィア兄弟団学校は最高の教育水準を持っていました。ちなみにこのイヴァンチッツェはミュシャの生地であり、ミュシャもこのモラヴィア兄弟団学校には思い入れも一入だったでしょう。このモラヴィア兄弟団学校のヤン・ブラホスラフは聖書のチェコ語訳を果たします。イヴァンチッツェ近くのクラリッツェでこの聖書が印刷されたため、クラリッツェ聖書と呼ばれました。このクラリッツェ聖書はチェコ語の文章の基本となり、チェコ文学の出発点となるものです。
この作品は領主ジェロティーンのカレルがイヴァンチッツェのモラヴィア兄弟団学校での聖書出版の過程を見に来ているところを描いています。作品の主題はチェコ文化の発展ですが、一面には、ミュシャが自分の郷里を誇りにしていることも分かり、微笑ましいですね。


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16. 民族の教師 ヤン・アモス・コメンスキー 1918年、405×620cm
Jan Amos Komenský

ヤン・アモス・コメンスキーは学校教育の考え方と仕組み、すなわち、子供たちが同年齢で学校に入って、教育を受け、知識を共有するようになるということを世界で初めて体系化した人物です。また、出産前の母親教育から高齢者の死を迎えるための準備までの文字通り、生涯教育の体系を論じました。世界で最初の子供のための絵入り百科事典「世界図絵」や「大教授法」なども著した知の巨人でした。彼の基本思想は教育による知識の共有こそがヨーロッパをひとつにするという、究極の平和を希求するものでした。しかし、彼自身は非カトリック教徒追放令によって、亡命生活を余儀なくされて、流浪の果ての最期を迎えます。この作品はコメンスキーが亡命先のナールデン、オランダの海岸で終わりの時を迎えようとする場面が描かれています。画面左側では友人や信奉者がコメンスキーの最期を嘆き悲しんでいます。主題はもちろん、チェコ人の世界文化と平和への貢献ですね。


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17. 聖アトス山 1926年、405×480cm
Mont Athos (Svatá hora, Vatikán pravoslavných)

アトス山はギリシャのハルキディキ半島にある2033mの険しい山です。このアトス山はギリシャ正教の聖地であり、ギリシャ正教のヴァチカンとも呼ばれています。この作品では、アトス山の聖母マリア教会の内部が幻想的に描かれています。後方には聖母マリアのモザイクが描かれています。その聖母マリアの下に浮かんでいるのは天使たちです。画面下には巡礼者たちと彼らを意を祝福する神父や修道僧たちが描かれています。この作品の主題はチェコ人の宗教的な源、精神のよりどころです。


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18. スラブ菩提樹の下で宣誓する青年たち 1926年、390×590cm
Přísaha omaladiny u slovanské lípy

菩提樹はスラヴの木と言われています。その菩提樹のもと、スラヴの女神スラヴィアに宣誓する青年たちは、現代(と言っても当時の19世紀後半から20世紀初頭ですが)に生きた現実の人物たちが描かれています。オーストリア・ハンガリー二重帝国の抑圧に対して、急進的なチェコ青年党が組織されますが、1894年に多くのチェコ青年党員が逮捕されます。チェコの青年たちは抑圧に立ち向かうために、古代伝説にならって、スラブ菩提樹の下で宣誓したのです。この作品は現実の情景を描いたものですが、それだけに美しい仕上がりになっています。前景には小さい塀に座っているハープを弾く少女とそれに耳を傾ける上半身裸の少年が描かれています。ハープを弾く少女は古代の吟遊詩人ルミールを模していますが、少女のモデルはミュシャの娘ヤロスラヴァです。少年のモデルは息子のイジーです。ハープを弾く少女、すなわち、吟遊詩人ルミールの部分はミュシャの描いたスラヴ叙事詩展ポスターの主題ともなりました。また、このスラブ菩提樹の下で宣誓する青年たちという主題はプラハ市民会館の壁画にもなっています。
この作品は《スラヴ叙事詩》中、もっとも重要で、なおかつ、saraiが一番好きな作品でもあります。とても美しく、ミュシャらしさがあらわれた1枚です。


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19. ロシアの農奴制廃止 1914年、610×810cm
Zrušení nevolnictví na Rusi

ロシアは1856年のクリミア戦争における敗北によって、ヨーロッパからの立ち遅れを思い知らされることになります。1861年、ロシア近代化の必要性を痛感した皇帝アレクサンドル二世は産業発展に向けて、農奴制を廃止しました。この作品は農奴解放の詔勅直後のヴァシリー教会前、クレムリンの赤の広場での群集の様子が描かれています。本来、この作品の主題は農奴制廃止に伴う産業発展への希望でしたが、現実にロシアを訪れたミュシャの目に映ったのは民衆のみすぼらしい姿でした。そのため、作品の色調を雰囲気を暗く、重苦しいものに変更したそうです。


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20. スラブ賛歌 1926年、480×405cm
Apoteoza Slovanstvo pro lidstvo!

いよいよ、最後の20枚目の作品です。「4つの色で示されるスラヴ民族の4つの時代 」という副題が付けられています。《スラヴ叙事詩》全シリーズを要約した作品です。右下の青色で描かれたスラブ人の神話初期の時代に始まり、左上の赤色で描かれたフス戦争の時代を経て、画面中央のスラブ人の1918年の解放が描かれています。中央に大きく描かれたスラヴ人は伸ばした手に自由と調和の花輪を持っています。そのスラヴ人の背後からはキリストが祝福を与えています。


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いやはや、プラハ国立美術館Národní galerie v Prazeで思いがけない大作を見ることになってしまいました。限られた時間での鑑賞となりましたが、写真ではお伝えすることが困難な超大作です。この連作は民族を超えて平和を希求する作品であればよかったのでしょうが、その時代背景から、少し偏った方向になってしまったのは残念です。それでも、18番目の《スラブ菩提樹の下で宣誓する青年たち》は作品そのものの美しさがとても素晴らしく、これ1枚だけでも、《スラヴ叙事詩》を鑑賞した感動に浸ることができました。パリ時代のポスター画以外にも、見る価値のある作品のひとつでしょう。それがこうして、プラハの街で展示されるようになったのは嬉しいことです。

結局、係りの人に閉館ですよと言われるまで《スラヴ叙事詩》に見いってしまいました。
これでプラハ国立美術館での美術鑑賞は本当に完了です。実りの多い体験になりました。


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この記事へのコメント

1, saraiさん 2014/08/27 09:29
大事なことを書き忘れていました。どうやら、この《スラヴ叙事詩》は2017年に全20点が日本にやってくるようです。詳細は分かりませんが、期待しましょう。

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プラハで音楽・美術三昧:美術鑑賞の後はディナー、王宮庭園のレストランへ

2013年6月15日土曜日@プラハ/16回目

プラハ国立美術館Národní galerie v Prazeでの美術鑑賞を終えて、ヴィレトゥルジェニー宮殿Veletržní palácのベース階のエレベーターホールに出てきます。何やら見慣れた彫像があります。オーギュスト・ロダンの名作バルザック記念像(1897年制作)ですね。国内でも箱根の彫刻の森美術館で見られるものです。このバルザックにさよならをしながら、ヴィレトゥルジェニー宮殿を出ます。


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宮殿前に出ると、もう6時過ぎです。


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名画をじっくりと見ているうちにお腹が空いてきます。とりあえず、レストランに予約を入れましょう。明日からはオペラ・バレエ公演が続くので、ゆっくりと夕食を食べることができるのは今日だけなんです。ちょっと贅沢をして、王宮庭園を眺めながら食事のできるチェコ伝統料理の高級レストランに携帯で予約を入れます。ここからはトラムと地下鉄を何度も乗り換えながら、レストランに向かうことになります。地図をご覧ください。(ヴィレトゥルジェニー宮殿Veletržní palác→共和国広場Náměstí Republiky→ムーステク駅Můstek→マロストランスカー駅Malostranská→プラハ城Pražský hrad)


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ヴィレトゥルジェニー宮殿Veletržní palácから24番のトラムで共和国広場Náměstí Republikyまで行き、そこで地下鉄B線に乗り換えてムーステク駅Můstekへ一駅移動。ここで地下鉄A線に乗り換えます。


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このムーステク駅は、何故か黄金色に輝いています。こんな豪華な地下鉄駅って、世界中でここだけではないでしょうか。


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ムーステク駅から2駅移動し、ヴルタヴァ川Vltavaを越えて、マロストランスカー駅Malostranskáに到着。ここで地上に出て、またトラムに乗り換えます。


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さて、ここで困りました。地下から地上に出てきたので、まったく方向感覚が働きません。トラムで王宮の裏の方に行くのですが、方向が分かりません。


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ここからは22番のトラムに乗るのですが、果たしてどっち方向に乗るのか、あたりをキョロキョロしますがどうにも手がかりがつかめません。


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停留所の案内板を見ますがよく分かりません。(実はここにちゃんと方向が書いてあったんです! このまま乗ったら逆方向です!)


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そんなときは一駅乗ってみれば方向が分かる、というのがsarai流。で、来たトラムに乗ってみましょう。(あー、乗っちゃった!)


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心配しながら、周りの景色を眺めます。


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果たして乗ったトラムは逆でした。一駅先であわてて降ります。


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ここで逆方向のトラムを待ちます。


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周りは立派な建物が立ち並んでいます。建物を鑑賞しながら、トラムを待ちます。


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やがて逆方向のトラムがやってきて、正しい方向に向かい始めます。王宮裏のとても広い通りマリアーンスケー・フラドビMariánské hradbyをしばらく走り、目的の停留所のプラハ城(プラジュスキー・フラト)Pražský hradに到着。目指すレストランは、トラムを降りた目の前です。レストランの名前ルヴィー・ドゥヴールLví Dvůrが、建物の壁に大きく描かれています。


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お店の前の通りは王宮の方に続いています。


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ここがレストランの入り口のようですね。入ってみましょう。


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入り口を入ると、若いチェコ美人がぶらぶらしています。お客さんでしょうか。saraiがお店の様子をうかがっていると、その美女が話しかけてきます。どうやらお店のスタッフだったようですね。二階のテラス席を予約してあることを話すと、案内してくれます。この美女は、客の案内だけを仕事としているようです。マスコットガールのようなものでしょうか。こんな凄い美女が出迎えてくれるのは結構なことです。2階に上がると、明るい窓から光の入ってくるテーブル席が並んでいます。


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この部屋をどんどん通り抜けていきます。


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部屋を出たところが2階のテラス席です。お客さんが結構テーブルについています。これは予約しておいたのが正解でした。


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王宮の庭園の眺めはどうでしょうか。


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プラハで音楽・美術三昧:絶品のディナー・・・プラハは美女の宝庫?

2013年6月15日土曜日@プラハ/17回目

チェコ伝統料理の高級レストランのルヴィー・ドゥヴールLví Dvůrの2階テラスのテーブルに案内されました。ここで案内してくれた美女とはお別れ。2階テラスには、まだ暑い日差しを避けられるように日覆いのキャンバスが張ってあります。これは助かります。


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テーブル席からは王宮の北側にあるクラーロヴスカー庭園Královská zahrada(カレル庭園)が見下ろせます。ただ、木々の緑にさえぎられ、広い筈の庭園全体は見通せず残念です。


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王宮の方を眺めると、聖ヴィート大聖堂Katedrála svatého Vítaが見えています。前回の訪問でこの大聖堂の美しい内部空間は拝見したので、今回はここからの眺めを楽しむだけにします。


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では、テラスからの王宮の庭の眺めを愛でながら、食事を楽しみましょう。このレストランは街中の雑踏から逃れ、静かな落ち着いた雰囲気です。久しぶりにディナーが楽しめるということで、saraiがはりこんで、3コースメニューを配偶者にご馳走しましょう。上品なチェコ料理とボヘミアのスパークリングワインを楽しむことにします。スパークリングワインはすぐに運ばれてきます。配偶者と上機嫌で乾杯です。


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テーブルセッティングも完了。木製のテーブルの上にランチョンマットが置かれます。このランチョンマットにはアフリカの4匹の猛獣が描かれています。このレストランの名前ルヴィー・ドゥヴールがライオンの庭という意味だからでしょう。


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パンとペーストが運ばれてきます。料理が来る前にパンを肴にスパークリングワインを楽しみます。


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これが2種類のペーストです。なかなか美味しい。


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料理がスタートです。まずは、お店からのプレゼント。ホタテとセロリの甘酢あえです。


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次の前菜が、なんとフォアグラです。これが絶品! ブダペストで食したのに続いて、本場でのフォアグラ体験で完全にフォアグラの虜になってしまいます。燻されているフォアグラの香ばしさに感動します。ブダペストBudapestの最高級レストランのグンデルGundelで食べたフォアグラよりも美味しいくらいです。


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メインは、鱈のグリル。鱈をバカにしてはいけません。ヨーロッパの鱈は本当に美味しいです。


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デザートは、チョコレートの2種盛り合わせ。またまた贅沢してしまいました。


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最後は紅茶をお願いします。ゆっくりと美味しかったディナーの余韻を楽しみましょう。


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ミルクをお願いして、ミルクティーでいただきます。


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隣にいたお客さんが帰ってしまっていたので、席を立って、テラスの端からの眺めを楽しみます。真正面に聖ヴィート大聖堂。


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これは隣のお店のテラスですが、その向こうに見えるのは旧乗馬学校の建物でしょうか。


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2階の室内のテーブルにはもう誰もいません。


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これは1階の室内のテーブル席です。壁にかかっている絵はライオン・・・じゃなくて、豚が人間の格好をして食事をしているユーモラスなものです。


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お店の入り口に行くと、例の美女が待っていてくれます。思わず、そっと肩を抱き寄せて、ツーショットの写真を配偶者に撮ってもらいます。でれっとした顔のsaraiをお見せできないのが残念です。ところで、この後もプラハ滞在中に多くの美女を見かけます。プラハにはチェコ国内の若い美女が集結しているのではないでしょうか。それともチェコは美女が多いのかな。


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これから、カレル橋Karlův mostと王宮の夜景を見に行きます。


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プラハで音楽・美術三昧:迷った挙句、ようやく、カレル橋と王宮の美しい夜景

2013年6月15日土曜日@プラハ/18回目

チェコ料理のディナーを終えて、レストランのすぐ前にあるトラム乗り場のプラハ城(プラジュスキー・フラト)Pražský hradにやってきます。ここからは目の前の左手にレストランのルヴィー・ドゥヴールLví Dvůr、ずっと先の方に聖ヴィート大聖堂Katedrála svatého Vítaの尖塔が見えています。ここは王宮の北になります。


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今日の仕上げは、カレル橋Karlův mostと王宮の夜景を見ること。このトラム停留所は、王宮北のとても広い通りマリアーンスケー・フラドビMariánské hradbyにあります。カレル橋の方向に向かう22番のトラムを待っていると、走っているはずのない番号の思いがけないトラムがやって来ます。方向的にはこれでも良いはずと乗り込みますが、これが大変なことになります。saraiの思いとは全く違う方向に進んでいきます。どんどん郊外に出ていきます。いい加減なところで見切りをつけて降り、駅の表示とにらめっこしますが分かりません。仕方がないので、逆向きのトラムに乗って戻りましょう。


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逆向きのトラムに乗っていると、大規模な工事をやっているところがあります。さては、これが混乱の原因かもしれません。


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とりあえず、工事現場の次の停留所フラチャンスカーHradčanskáでいったん下りてみます。ここで調べると、やはり工事のためにトラムの経路が変更になっているようです。


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これでは、手持ちの路線図で考えていてもダメですね。幸いなことに、この停留所の近くには地下鉄A線のフラチャンスカー駅Hradčanskáがあります。トラムはあきらめて、地下鉄での移動に変更です。ところで、プラハの地下鉄はとんでもなく深いところを通っているらしく、エスカレーターが異常に長い・・・。


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上を見上げても長い・・・こんな長いエスカレーターに乗ったのは初めてです。


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ヴルタヴァ川を渡ったところのスタロメスツカー駅Staroměstskáで地下鉄を下りて、また18番のトラムに乗り換えます。
大変苦労しましたが、ようやくカレル橋近くの停留所カルロヴィ・ラズネKarlovy lázněに到着です。ここからの素晴らしい光景に息を呑みます。ヴルタヴァ川、街灯の灯ったカレル橋、照明で明るく輝く王宮・・・何も不足はありませんね!


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カレル橋と王宮をアップで撮影します。


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カレル橋を見るだけでなく、橋に上がってみましょう。少し歩いてカレル橋の前に来ます。カレル橋の入り口に立つ旧市街塔が堂々と輝いています。


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もう9時半過ぎだというのに、カレル橋は人でいっぱいです。


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カレル橋を行き交う大勢の観光客と共にカレル橋からの夜景を楽しみます。


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ヴルタヴァ川の暗い川面が美しいです。


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カレル橋の上から見た王宮も美しいですね。


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人混みをかき分けながら、カレル橋から戻ります。


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旧市街塔Staroměstská mostecká věžを抜けて、橋の前のクジジョフニツケー広場Křižovnické náměstíに出ます。左端に見えるのはカレル4世像、正面には聖フランティスク教会Kostel sv. František(アッシジの聖フランシスコ教会Kostel svatého Františka z Assisi)です。そして、ここも人でいっぱい。


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トラム乗り場カルロヴィ・ラズネKarlovy lázněに向かいながら、もう一度、カレル橋と王宮を鑑賞。綺麗ですね。


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またまたトラムを乗り継いで、ホテルに帰りつくと、もう夜更けになっていました。


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明日はプラハ国立歌劇場でお昼からバレエを鑑賞します。早く寝ないといけません。おやすみなさい・・・


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首都圏の様々なジャンルのクラシックコンサート、オペラの感動をレポートします。在京オケ・海外オケ、室内楽、ピアノ、古楽、声楽、オペラ。バロックから現代まで、幅広く、深く、クラシック音楽の真髄を堪能します。
たまには、旅ブログも書きます。

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金婚式、おめでとうございます!!!
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京都には年に2回もお越しでも、青春を過ごし

10/07 08:57 堀内えり

 ≪…長調のいきいきとした溌剌さ、短調の抒情性、バッハの音楽の奥深さ…≫を、長調と短調の振り子時計の割り振り」による十進法と音楽の1オクターブの12等分の割り付けに

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じじいさん、コメントありがとうございます。saraiです。
思えば、もう10年前のコンサートです。
これがsaraiの聴いたハイティンク最高のコンサートでした。
その後、ザル

07/08 18:59 sarai

CDでしか聴いてはいません。
公演では小沢、ショルティだけ

ベーム、ケルテス、ショルティ、クーベリック、
クルト。ザンデルリング、ヴァント、ハイティンク
、チェリブ

07/08 15:53 じじい@

saraiです。
久々のコメント、ありがとうございます。
哀愁のヨーロッパ、懐かしく思い出してもらえたようで、記事の書き甲斐がありました。マイセンはやはりカップは高く

06/18 12:46 sarai

私も18年前にドレスデンでバームクーヘン食べました。マイセンではB級品でもコーヒー茶碗1客日本円で5万円程して庶民には高くて買えなかったですよ。奥様はもしかして◯良女

06/18 08:33 五十棲郁子

 ≪…明恵上人…≫の、仏眼仏母(ぶつげんぶつも)から、百人一首の本歌取りで数の言葉ヒフミヨ(1234)に、華厳の精神を・・・

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