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エル・グレコはプラド美術館から:アトーチャ駅から、また、迷って、ようやく、プラド美術館へ

2014年5月27日火曜日@マドリッド、セゴヴィア/12回目

プラド美術館の最寄駅アトーチャAtochaに到着。地上に上がると、そこはエンペラドール・カルロス5世広場Plaza Emperador Carlos Vの前の大きなロータリーです。正面にはスペイン国鉄のアトーチャ駅の姿が見えます。


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ここから、またまたsaraiが道を間違え、ソフィア王妃センターの横のアトーチャ通りRonda de Atochaに迷い込んでしまいました。しばらく歩いて間違いに気が付き、再びアトーチャ駅の前に戻ってきました。


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これは農林水産省Ministerio de Agriculturaの建物です。この建物を左の方に進むのがプラド美術館への正しいルートです。


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プラド通りPaseo del Pradoを歩いて、プラド美術館を目指します。通りの右手には王立植物園La Tienda del Real Jardín Botánico de Madridが広がり、緑のあふれる通りです。


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小鳥もさえずっています。


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プラド美術館Museo Nacional Del Pradoの建物に到達しました。


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建物中央のベラスケス門の前で、ベラスケス像に対面。ベラスケスはプラド美術館の顔と言ってもいい存在です。


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チケットを購入するためには、さらに建物の北側に進む必要があります。北側にはゴヤ像があります。彼もプラド美術館の顔ですね。


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建物の北側を周り込むと、やっとチケット売り場を発見。


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アトーチャ駅からプラド美術館までの徒歩ルートを地図で確認しておきましょう。迷ったせいで、結局、2倍以上も無駄足を使いました。ちゃんと地図で確認せずに適当に勘に頼ったせいで迷いました。配偶者にゴメンナサイです。


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さて、もう4時過ぎでチケット窓口は空いています。 行列なしです。美術館のセット券のパセオ・デル・アルテPaseo Del Arte(プラド美術館+ソフィア王妃芸術センター+ティッセン・ボルミネッサ美術館)を買います。1人25.6ユーロです。プラド美術館以外にソフィア王妃芸術センターとティッセン・ボルミネッサ美術館にも行く予定ですからね。


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美術館の中で手荷物をコインロッカーに預けようとしますが場所が分からず、またまた迷子。館内を3周して、ようやくロッカーの場所が分かりました。結局、美術館で鑑賞し始める前に無駄な1時間ほどを費やしました。
館内案内のパンフレットも入手しましたが、誤ってポルトガル語版をゲットしてしまいました。


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それでも、館内のマップとしては問題ありません。
これがベース階(日本式では1階)です。


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これが1階(日本式では2階)です。ここの中央部分の8B~10Bにエル・グレコがあるようです。まずはそこを目指します。


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いよいよ美術鑑賞を開始。これから3時間くらいかけて、プラド美術館をくまなく見尽くしました。膨大な絵画コレクションです。それについては次回で。










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エル・グレコはプラド美術館から:エル・グレコの傑作に感動!!

2014年5月27日火曜日@マドリッド、セゴヴィア/13回目

今回のスペイン訪問は何と言っても、没後400年の記念の年にエル・グレコの作品を一挙に見ることです。saraiはエル・グレコの大ファンですからね。

エル・グレコは1541年にクレタ島のカンディア(現イラクリオン)に生まれたギリシャ人です。本名はドメニコス・テオトコプーロスと言いましたが、スペインに渡ってからは、発音しづらい本名では呼ばれずに、ドメニコ・グリエゴ(ギリシャ人ドメニコ)とかエル・グリエゴ(ギリシャ人)と呼ばれていたようです。死後、エル・グレコと呼ばれるようになりました。《エル》Elはスペイン語の定冠詞、《グレコ》Grecoはギリシャ人を意味するイタリア語です。イタリア語が使われるのは、スペインに来る前にイタリアで絵の修業をしたからでしょうか。本人は自作にサインする場合は必ず、ギリシャ語で本名を書いていたそうです。

エル・グレコは画家を志して、1567年頃にヴェネツィアに行き、ティツィアーノの工房で修業。1570年にイタリアの芸術の中心地ローマに移動。20代後半からの約10年をイタリアで過ごしました。この後、1576年頃に画家としての成功を夢見て、フェリペ2世のもとでエル・エスコリアル造営が始まり、多くの美術家が集まっているスペインに向かいます。宮廷画家になる望みはフェリペ2世に気に入られなかったので実現しませんでしたが、スペインの宗教・学問の中心地であったトレドで画家として成功し、その生涯をトレドで過ごし、そこで1614年に没することになります。

こういう経緯からも、エル・グレコの作品の多くは今でもトレドに集中しています。また、今年はちょうど没後400年の大展覧会で世界中から、エル・グレコの作品がトレドに集まっています。そういうわけで、明日エル・エスコリアル修道院でエル・グレコの作品を見て、明後日にはトレドでエル・グレコ三昧する予定です。トレドでエル・グレコを見るのが今回の旅の一番の目的です。今日はそれに先駆けて、プラド美術館のエル・グレコ作品を鑑賞します。

エル・グレコの作品が展示されている2階の中央部分の8B~10Bに直行します。
ありました。エル・グレコの作品がずらっと並んでいます。壮観です。

順に鑑賞します。ただし、ここで紹介するのは主なものだけです。

これは《聖三位一体》です。1577~80年頃、エル・グレコ36~39歳頃の作品です。この作品はトレドでの最初の作品のひとつです。サント・ドミンゴ・エル・アンティグオ聖堂から依頼された主祭壇画です。この時期にこれだけの作品を描き上げていたのは驚異的です。晩年の特徴の曲がりくねった身体表現こそありませんが、実に画の中心にあるキリストの身体の劇的な表現はどうでしょう。


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これは《医師ロドリーゴ・デ・ラ・フエンテ、またはある法学者の肖像》です。1588年頃、エル・グレコ47歳頃の作品です。エル・グレコは肖像画家としても一流でした。この作品も人物の高貴な内面を感じさせられる芸術的な表現が見て取れます。


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これは《聖アンデレと聖フランチェスコ》です。1590~95年頃、エル・グレコ49~54歳頃の作品です。左の人物が十二使徒のひとり、聖アンデレ、右の人物がアッシジの聖フランチェスコ。つまり、この二人の人物は1000年以上の時間で隔てられています。その二人がこの画面上で対話しています。画の上での奇蹟が描かれているわけです。聖フランチェスコの右手の形に注目です。画全体を覆う静謐さがエル・グレコの素晴らしいところでしょう。


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これは《受胎告知》です。1597~1600年頃、エル・グレコ56~59歳頃の作品です。これは素晴らしいですね。これはプラド美術館所蔵の作品中、最高の作品です。このあたりから、エル・グレコの芸術が完成に向かいます。まずは受胎を告げられるマリアの美しさ。そして、画面全体の劇的な空気感の素晴らしさ。エル・グレコにしか描けない世界です。この絵の前で立ちすくんでしまい、いったん立ち去った後も何度も戻って見入ってしまいました。あえて、この作品をプラド美術館の至宝と勝手に決めてしまったsaraiです。


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これは《精霊降臨》です。1600年頃、エル・グレコ59歳頃の作品です。キリストが昇天した後に、精霊が降臨してくる奇跡が描かれています。精霊を見上げるマリアと十二使徒たちの厳かな雰囲気が伝わってくる傑作です。画を見ている我々も思わず、天を仰いでしまいそうになります。


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これは《フリアン・ロメロと守護聖人》です。1600年頃、エル・グレコ59歳頃の作品です。白い衣装がロメロで、その上の黒い騎士が守護聖人です。エル・グレコらしい大胆な構図が目を引きます。特に守護聖人の傾けた首の角度が秀逸に感じます。


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これは《ある若い騎士の肖像》です。1600年頃、エル・グレコ59歳頃の作品です。こちらを見る人物の目が活き活きと描かれています。まあまあの作品でしょう。


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以下の3作品は貸し出し中で見られませんでした。しかし、貸し出し先がトレドなので、明後日には見ることができるでしょう。

これは《胸に手を置く騎士の肖像》です。1577~79年頃、エル・グレコ36~38歳頃の作品です。


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これは《キリストの磔刑》です。1600年頃、エル・グレコ59歳頃の作品です。


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これは《羊飼いの礼拝》です。1612~13年頃、エル・グレコ71~72歳頃の作品です。


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ここでエル・グレコの傑作群を見て、やはり、スペインに来て、よかったとしみじみと感じました。

後は落ち着いて、プラド美術館のほかの作品を鑑賞しましょう。










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エル・グレコはプラド美術館から:ベラスケスの画業を辿って

2014年5月27日火曜日@マドリッド、セゴヴィア/14回目

プラド美術館はエル・グレコを見るために訪れましたが、プラド美術館では主役は何と言ってもベラスケスです。ベラスケスの最高にして、最大のコレクションがプラド美術館にあります。

ベラスケスは弱冠24歳の若さでスペインの宮廷画家に抜擢されました。若きフェリペ4世が「今後いっさい、ベラスケス以外の画家に私の姿は描かせないことにする。」と宣言し、1623年10月6日、ピントール・デル・レイPintor del Rey(国王付きの画家)に任命します。この後、ベラスケスは37年間、宮廷画家として、さらには宮廷役人の最高職の王室配室長として、61歳の生涯を全うします。
ベラスケスは1599年、セビーリャでポルトガルの下級貴族を父に持ち、生まれました。彼はこの地で画家としての修業を始め、いつか、宮廷画家を目指すようになっていました。同郷の宰相オリバーレス公伯爵の招へいで国王フェリペ4世の肖像画を描くチャンスを得て、見事、国王の信頼を勝ち得ることができました。29歳のとき、特使としてやってきたフランドルの大画家ルーベンスとの出会いで芸術について語り合い、彼からイタリア行を強く勧められます。国王の許しでベラスケスはヴェネツィア、ローマ、フィレンツェを訪れ、そこでイタリア芸術、すなわち、人体表現、空気遠近法、色彩表現などを学び、これを糧として、帰国後、ベラスケスは大きく飛躍します。傑作を次々と描きながら、ベラスケスの心には、再度のイタリア訪問の機会を求める気持ちが高まっていきます。1648年、フェリペ4世がハプスブルグ家のオーストリア皇女マリアーナと再婚することになり、その記念のための新しい装飾画を購入するために、ベラスケスは翌年、イタリアへ旅立ちます。イタリアで2年の夢のような日々を過ごしたベラスケスはフェリペ4世からの再三の帰国命令で後ろ髪を引かれるような気持ちでスペインに戻ります。帰国後は宮廷役人として重職をこなすためにあまり絵を描くこともできなくなります。そういう時期に57歳で描いた最後の大作が名画《ラス・メニーナス》です。1660年、王女の婚礼準備でフランスを訪れますが、帰国後、過労で体調を崩し、その年の8月6日に61歳の生涯を閉じました。

ベラスケスは生涯で120枚の油彩画を描きましたが、《ラス・メニーナス》を始め、宮廷画家として描いた傑作の数々がプラド美術館に収蔵されています。今回はプラド美術館の作品を通じて、彼の画業をたどってみましょう。

これは《東方3博士の礼拝》です。1619年頃、ベラスケス20歳頃の作品です。まだ、宮廷画家になる前、セビーリャ時代の作品です。この頃は宗教画を描いていたんですね。とても珍しいです。この作品を描く前年の1618年に師匠のパチェーコの娘フアナと結婚し、翌年、長女フランシスカが誕生。この作品は妻と娘をモデルに聖母マリアと幼な子イエスを描いたものとされています。とても美しい絵です。


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これは《黒衣のフェリペ4世》です。1623~28年頃、ベラスケス24~29歳頃の作品です。ベラスケスが宮廷画家になって、間もなく描いたフェリペ4世のほぼ等身大の肖像画です。とても引き締まった表現です。それにしてもフェリペ4世はいかにもハプスブルク家特有の顔立ちですね。出っ張った顎に厚い唇、垂れ目に大きな鼻。笑ってしまいます。


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これは《バッカスの勝利(酔っ払いたち)》です。1628~29年頃、ベラスケス29~30歳頃の作品です。ルーベンスに出合った頃か、イタリア訪問中に描かれたものでしょうか。バッカスを見ると、どうしてもカラヴァッジョの影響を感じてしまいます。明暗の表現が豊かになりました。


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これは《巫女(画家の妻フアナ?)》です。1632年頃、ベラスケス33歳頃の作品です。こういう横顔の女性像は珍しいです。画家の妻がモデルとも言われています。古典的な表現が目立ちます。


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これは《ブレダの開城(長槍)》です。1634~35年頃、ベラスケス35~36歳頃の作品です。この作品はオランダ南部の要衝ブレダの攻防戦で1625年にオランダがスペインに敗れたときの情景を描いています。中央右がスペイン軍の名将アンブロジオ・スピノラ、左がブレダ総督のユスティヌス・ファン・ナッサウです。敗れたナッサウが城門の鍵を渡しているのに対して、スピノラが肩に手を置き、ねぎらっています。潔い情景です。画面の右端の人物が画家の自画像だと言われています。


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これは《狩猟服姿のフェリペ4世》です。1634~35年頃、ベラスケス35~36歳頃の作品です。フェリペ4世は狩猟と女遊びが趣味という遊び人だったそうです。国民は重税にあえぎましたが、国王の遊び好きの副次効果として、芸術と文化が大いにスペインに栄えたそうです。物事の裏と表ですね。


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これは《狩猟服姿のフェルナンド親王》です。1635年頃、ベラスケス36歳頃の作品です。マドリッド郊外の狩猟休憩塔の壁面を飾るために描かれた作品のひとつ。フェルナンド親王はフェリペ4世の弟。みんな、遊び好きだったようです。これでは、大王国スペインも傾きますね。


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これは《馬上のバルタサール・カルロス皇太子》です。1635~36年頃、ベラスケス36~37歳頃の作品です。皇太子5、6歳のときの騎馬像ですが、いかにもリアル感がありません。名画家ベラスケスといえども、国王に仕える肖像画家として、こういうものも描かざるを得なかったんですね。我々、庶民も信念に反して、生活のために志を曲げることもあります。天才画家もやはり、人間ですからね。バルタサール・カルロス皇太子はフェリペ4世とイサデル・デ・ブルボン王妃の間に生まれた長男です。この作品はブエン・レティロ宮殿(今は焼失)の《諸王国の間》に、両親の騎馬像とともに飾られていました。


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これは《イサデル・デ・ブルボン王妃騎馬像》です。1635~36年頃、ベラスケス36~37歳頃の作品です。この作品もブエン・レティロ宮殿の《諸王国の間》に、王と息子の騎馬像とともに飾られていました。


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これは《道化フアン・カラバーサス》です。1636~38年頃、ベラスケス37~39歳頃の作品です。道化や矮人も宮廷に雇われていました。ベラスケスは彼らの肖像も手を抜くことなく、リアルに描き上げました。


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これは《オリバーレス公伯爵騎馬像》です。1638年頃、ベラスケス39歳頃の作品です。ベラスケスのパトロンであった宰相オリバーレス公伯爵の騎馬像です。この色彩の美しさはイタリア訪問で学んだ表現のひとつです。


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これは《セバスティアン・デ・モーラ》です。1644年頃、ベラスケス45歳頃の作品です。これも道化・矮人シリーズの1枚。


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これは《ローマのヴィラ・メディチの庭園、アリアドネのパビリオン》です。1649~50年頃、ベラスケス50~51歳頃の作品です。2度目のイタリア訪問時に描いた作品。まるで未完成のように見えるほど、粗いタッチで描いた風景画です。フランス印象派の作品を先取りしたような作品と言えます。


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これは《ラス・メニーナス(女官たち)》です。1656年頃、ベラスケス57歳頃の作品です。ベラスケスの代表作であり、プラド美術館最高の至宝です。こればかりは本物を見ないとその本質は分かりません。とても大きな作品で、画面の隅々まで見所が満載です。これまで写真や画像で見ていたのとあまりに印象が異なるのに驚かされました。正直言って、素晴らしい作品かどうかは分かりませんが、実に面白い作品です。しばらく、じっと見入っていました。画面の中心はマルガリータ王女。彼女はこのとき5歳。ベラスケスの自画像も印象的です。女官たちも実も印象的。特に王女の右にいる女官に惹きつけられました。手前の犬も大変、存在感があります。


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これは《ラス・メニーナス(ベラスケスによる)》です。1957年、ピカソの作品です。ピカソは《ラス・メニーナス》にインスピレーションを得て、44枚の連作を描きましたが、これはその1枚。バルセロナのピカソ美術館に所蔵されています。あのピカソもこの《ラス・メニーナス》をたいそう気に入ったようですね。何故か、ベラスケスの姿は省略されています。


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これは《アラクネの寓話(織女たち)》の部分です。1657年頃、ベラスケス58歳頃の作品です。《ラス・メニーナス》と並ぶ晩年の代表作と言われています。この作品は当初、織物工場を描いたものとされていて、《織女たち》と呼ばれていました。しかし、実は神話画だったんです。とても内容が難しい絵です。織物が得意なアラクネが学芸の女神ミネルヴァに挑み、怒りを買って、糸を紡ぐ蜘蛛(アラクネ)に変えられるという話を描いたものです。画面構成が深い内容を持っているようですが、絵として、saraiの好みではないので、これ以上、深入りはやめましょう。


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これは《マルガリータ王女》です。1660年頃、ベラスケス61歳頃の作品です。この作品がベラスケスの絶筆になりました。この作品はウィーン美術史美術館にある《青いドレスのマルガリータ王女の肖像》の描かれた翌年に描かれましたが、弟子にして娘婿(長女のフランシスカと結婚)のデル・マーソが最後に筆を加えて完成させたそうです。昨年、ブダペスト国立美術館でそのフアン・バウティスタ・マルティネス・デル・マーソが描いた《緑のドレスのマルガリータ王女の肖像》を見ました。そのときの記事はここです。デル・マーソの描くマルガリータは師匠のベラスケスそっくりです。あっ、このプラド美術館で見るつもりだったデル・マーソの描いた《黒い喪服姿のマルガリータ王女》をちゃんと鑑賞するのを忘れてたっ!!


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プラド美術館で膨大なベラスケスのコレクションを見て、彼の画業を網羅することができました。プラド美術館の鑑賞も半ばは終えたようなものですが、あと一人、ゴヤは外せませんね。それは次回で。









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エル・グレコはプラド美術館から:もう一人の宮廷画家ゴヤ

2014年5月27日火曜日@マドリッド、セゴヴィア/15回目

プラド美術館では、ベラスケスと並んでゴヤも最重要の画家です。

ゴヤもベラスケスと同様に宮廷画家に上り詰めますが、24歳の若さで宮廷画家になったベラスケスに対して、43歳でようやく宮廷画家の地位を手に入れたゴヤ。人間性でも、出世欲、金銭欲、自己顕示欲の強かったゴヤはあまりに人間的な面が見える画家です。

フランシスコ・デ・ゴヤは1746年、スペインのアラゴンの荒野の小さな寒村で生まれました。彼はそういう片田舎出身でしたが、27歳で一流画家になる野望を胸にマドリッドに向かいます。彼の傍らには新妻のホセファ、彼女は宮廷画家フランシスコ・バイユーの妹でした。この縁故関係を活かして、マドリッドの王立タペストリー工場の下絵(カルトン)を描く仕事を得ます。やがて、国王カルロス3世に認められる日がやってきます。ゴヤ、33歳のときです。翌年、彼はサン・フェルナンド王立アカデミー会員の肩書を得、画壇での評価を高めていきます。そして、新しい国王カルロス4世の即位とともに、ゴヤは43歳にして、宮廷画家の地位をつかみます。ようやく、社会的地位と経済的な余裕が持てたゴヤでしたが、思わぬ試練に襲われます。47歳のゴヤは突然、原因不明の高熱に襲われ、命の危機に陥ります。何とか一命を取り止めたゴヤでしたが、この高熱でまったく聴覚を失ってしまいます。以後、ゴヤは音のない世界を生きることになります。しかし、こういうときにこそ、その人間本来の真価が試されることになります。ゴヤは己の魂と向かい合うようになり、真の芸術家として、高みに上っていきます。彼の芸術はよりリアルな表現を追求していくことになり、天才芸術家の仲間入りを果たすことになります。53歳で首席宮廷画家に抜擢され、不朽の名作《カルロス4世とその家族》を描き上げます。芸術家の真実の目で、冷徹に宮廷の主役たちの心の奥底を抉り出すような名作中の名作です。宮仕えの身でありながら、心に臆するものもなく、これまで宮廷画で誰も描かなかった、国王夫妻の下劣とも思える品性を絵で表現してしまいました。このとき、近代リアリズム絵画が誕生しました。
この頃、ゴヤはスペイン1の美貌とも言われたアルバ公爵夫人とのアバンチュールも経験し、当時としては衝撃的であった《裸のマハ》を描き上げますが、それは厳格なカトリック社会であったスペインで許される筈もなく、密かに注文主の屋敷に所蔵されていました。この作品は実に150年ぶりにスペインで描かれた裸婦像でした。この作品もまた、ヨーロッパ近代絵画の幕開けを告げるものでした。こうして、ゴヤは新しい絵画の世界の先駆者となっていきます。ナポレオン戦争、スペイン王家の継承争いなど激動の時代のなか、ゴヤは宮廷画家の地位を守り、したたかに生きていきます。やがて、高齢となったゴヤは公の場を退き、マドリッド郊外のキンタ・デル・ソルド(聾者の家)と名付けた家に隠棲します。その家の壁中に描いたのが、晩年の傑作《黒い絵》シリーズ全14作です。74歳でゴヤは混乱のスペインからフランスのボルドーに居を移します。そして、1828年、82歳でそのボルドーの地で没しました。波乱の時代を生きた一人の天才画家の人生は愛と野望に満ちたドラマを思わせるものです。そういう彼の生み出した芸術作品は今日なお、プラド美術館で光り輝いています。その多面的な彼の芸術世界を見ていきましょう。

これは《日傘》です。1777年頃、ゴヤ31歳頃の作品です。ゴヤがタペストリーの下絵(カルトン)を描いた作品。フランスのロココ美術の影響が感じられます。この頃、スペイン王家はハプスブルク家からフランスのブルボン王家に変わっており、フランスの華やかな文化に包まれていました。ゴヤは1775年から1792年まで、63枚のタペストリー下絵を制作しました。下絵には、当時のスペインの民衆風俗が描かれており、マホ(伊達男)、マハ(伊達女)が登場しています。風俗を描いたのは当時としては斬新なものでしたが、ひたすら、明るく描かれた絵には、民衆のリアルな生き様は表されていません。天才画家ゴヤの登場はまだまだ後のことです。


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これは《木登り》です。1791~92年頃、ゴヤ45~46歳頃の作品です。ゴヤはたびたび、子供の姿を描いています。子供の世界に入り込んだような表現が見事な作品と言えます。


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これは《ゴヤの妻、ホセファ・バイユウ》です。1798年頃、ゴヤ52歳頃の作品です。ゴヤと40年連れ添うことになる妻のつつましい姿が描かれています。宮廷画家バイユウの妹だった、この妻との結婚がゴヤの一流画家への飛躍の足掛かりになりました。ゴヤはアルバ公爵夫人とのスキャンダラスな恋など、浮名を流しましたが、妻はじっと寄り添っていたようです。


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これは《着衣のマハ》です。1798~1805年頃、ゴヤ52~59歳頃の作品です。これは誰でも知っている作品ですね。saraiも学生時代、京都の展覧会で両方のマハを見て、下宿の壁に大きなポスター(着衣のマハ)を張っていたことを懐かしく思い出しました。


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これは《裸のマハ》です。1798~1805年頃、ゴヤ52~59歳頃の作品です。《着衣のマハ》とセットで、時の宰相ゴドイが屋敷で鑑賞していたという話が残っています。普段はこの《裸のマハ》は《着衣のマハ》の裏に隠されていたとのことです。今の我々の目で見れば、この程度の裸婦像はエロティックでもなんでもありませんけどね。宗教裁判の厳しかったカトリックの国スペインでは、見つかれば、大変な事件だったようです。実際、saraiは両方のマハでは、《着衣のマハ》のほうが色っぽくて、好きなんです。


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これは《チンチョン伯爵夫人》です。1800年頃、ゴヤ54歳頃の作品です。この女性はカルロス3世の弟、ドン・ルイス親王の長女です。彼女は国王カルロス4世の従妹ですが、カルロス4世の王妃マリア・ルイサの愛人だったゴドイと結婚。不幸な結婚生活を送った彼女へのゴヤの憐れみが感じられる肖像画です。このあたりから、天才画家ゴヤの対象の内面を抉り出す眼差しの鋭さが発揮されるようになってきました。


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これは《カルロス4世とその家族》です。1800~01年頃、ゴヤ54~55歳頃の作品です。これは凄い傑作です。人間の内面の奥底を絵で表現する究極のリアリズムの作品と言えます。ある批評家が「まるで宝くじにあたったパン屋夫婦のようだ」と評したそうですが、王家の家族の姿を遠慮会釈なしにリアルに描き上げた作品です。そこには尊敬の念もなく、理想化した表現もありません。ベラスケスの作品も生ぬるく思えるほどです。国王カルロス4世の遊び好きなだけの愚鈍そうな表情、王妃マリア・ルイサの高慢かつ狡猾そうな好色女の風情・・・この王家の没落を見据えているような情景です。画家自身は画面左端から冷やかに視線を送っています。まあ、よく、こんな絵を怒りもせずに国王夫妻が受け取ったものですね。よほどの太っ腹か、あるいはお人好しだったんでしょう。


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これは《巨人》です。1808~12年頃、ゴヤ62~66歳頃の作品です。謎めいた不思議な絵です。とてつもない巨人が山の向こうを歩き回り、手前では群衆が逃げ惑っています。ナポレオン戦争中に描かれたので、この巨人が何を象徴しているのか、色々な解釈があるようですが、下手な解釈などせずに、この絵の破壊力をそのまま、受け入れるのが一番ではないかとsaraiは思います。


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これは《1808年5月2日、エジプト人親衛隊との戦闘》です。1814年頃、ゴヤ68歳頃の作品です。これはナポレオン軍へのスペイン民衆の蜂起を描いたものです。ナポレオンが没落した後、フェルナンド7世が王として、凱旋しますが、その際にゴヤが「ヨーロッパの暴君に対する、我々の輝かしき反乱と崇高な英雄的行為を、絵筆によって永遠に残すために」と申し出て、描いた作品です。この絵は確かに雄々しく戦う姿をダイナミックに描いていますが、次の作品とセットで見ると、意味合いが変わってきます。


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これは《1808年5月3日、プリンシペ・ピオの丘での銃殺》です。1814年頃、ゴヤ68歳頃の作品です。上の作品とセットになったもので、民衆の蜂起が鎮められ、反逆者として処刑されます。ゴヤはリアリズム画家としての透徹した視線で戦いの悲惨さを浮き彫りにしています。


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これは《フェルナンド7世》です。1814年頃、ゴヤ68歳頃の作品です。スペインに凱旋した国王を宮廷画家たるゴヤが描いたものです。一見、若くて、凛々しい国王の姿にも見えますが、誇りと自信に満ちた表情は民衆を見下す暴君の姿とも重なって見えます。父カルロス4世の裏返しのような姿です。


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これは《自画像》です。1815年頃、ゴヤ69歳頃の作品です。人間の世界の真実を見極めて、その表情は疲れ切って、絶望的にも思えます。孤独感も漂っています。芸術を極めた人間はとても幸福ではいられないようです。


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これは《砂に埋もれた犬》です。1820~24年頃、ゴヤ74~78歳頃の作品です。「聾者の家」に描かれていた《黒い絵》シリーズの一枚。《黒い絵》は1870年代に「聾者の家」の壁から漆喰ごとはがされて、カンヴァスに移され、現在はこのプラド美術館で展示されるようになりました。この作品は砂の上に首から先だけを出した犬の姿がとても印象的。そこに何を見るかは鑑賞者の人生に委ねられることでしょう。


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これは《わが子を食うサトゥルヌス》です。これも《黒い絵》シリーズの一枚。これはそのまま、おぞましい絵です。ゴヤの食堂に描かれていたそうです。食欲をなくしてしまいそうです。


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これは《サン・イシドロ祭》です。これも《黒い絵》シリーズの一枚。祭のシーンと言っても、亡者たちの集まりにしか見えませんね。


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これは《妖術師の夜宴へ》です。これも《黒い絵》シリーズの一枚。これは幻想的な絵ですね。日本のアニメの先を行ったような作品です。


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これは《魔女の集会》です。これも《黒い絵》シリーズの一枚。これは題名通りの絵です。まだ、魔女狩りもあった時代の作品であると思うと、意味深くもあります。


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これは《レオカディア》です。これも《黒い絵》シリーズの一枚。レオカディアは長年連れ添った妻ホセファが1812年に亡くなった後に、ゴヤが一緒に暮らした女。同棲が始まった頃、ゴヤは68歳、レオカディアは24歳の人妻だったというから、驚くほかはありません。しかも、2年後には娘ももうけたというからさらにびっくり。結局、ボルドーでゴヤが亡くなったときには、このレオカディアとその娘が最期を看取ったそうです。


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これは《ボルドーのミルク売り娘》です。1825~27年頃、ゴヤ79~81歳頃の作品です。ゴヤ最晩年の作品です。《黒い絵》シリーズを描いた画家が高齢でこんなに瑞々しい作品を残したとは、ゴヤの多面性のあらわれでしょうか。こういう作品で人生を締め括ったのは、ゴヤの心の闇が晴れたのでしょうか。なんだか、救われたような気持ちになります。


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ゴヤのコレクションも膨大なものでした。エル・グレコ、ベラスケス、ゴヤの傑作群を見るだけでもプラド美術館詣でが大いに報われますが、まだまだ、名画はあるようです。









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エル・グレコはプラド美術館から:謎の画家ボッスも見逃せない

2014年5月27日火曜日@マドリッド、セゴヴィア/16回目

プラド美術館はエル・グレコ、ベラスケス、ゴヤ、ルーベンスの作品の質と量は凄まじいものです。そして、何と言っても、ハイライトはボッスの《快楽の園》を始めとした珠玉のコレクション。配偶者は感嘆の声、しきり。よいものを見させてもらいました。

ボッス(ボス)は謎に包まれた画家です。本名はヒエロニムス・ファン・アーケンでボッスというのは通称です。彼の暮らした町がネーデルランド(オランダ)のス・ヘルトーヘンボスだったことから、その町の名前の一部からとられたものです。「ボッスBosch」というのは、「森」という意味だそうです。少ない記録によると、画家の家系に生まれて、年上の裕福な女性と結婚したたため、お金には困らなかったので、自由な創作活動を行えたということです。分かっているのはここまでです。生まれた年も、作品の制作年もすべて不明です。亡くなったのは1516年のことです。

ボッスが描いたのは、終末観ただよう1500年頃の社会不安と道徳低下の世相を反映し、人々の信仰が薄れて、罪が蔓延した現実でした。彼の描く絵には、地獄の恐怖が生々しく表現されて、人々が犯す罪へ警鐘が打ち鳴らされています。そう書くと、いかにもおどろおどろしいだけの絵のように思われるかも知れませんが、彼が地獄のモンスターとして描いた空想上の生き物の造形的な面白さは、現代の日本のアニメも顔負けです。ユーモラスさには思わず、笑ってしまいます。

現在、ボッスの真筆とされる作品は世界で40点ほどと言われています。フェルメール並みの少なさですね。ヨーロッパの大きな美術館でも、滅多にボッスの作品は見かけませんし、あったとしても1~2点ほどです。ボッスの作品中、最大の大きさ(縦2.2m、横4m弱)のトリプティカ(3連祭壇画)の《快楽の園》はブリュッセルのナッサウ伯の邸宅の祭壇画として描かれました。16世紀後期、ネーデルランドはスペインの支配下になり、この祭壇画はスペイン国王のフェリペ2世に献上されました。当時のスペインは厳格なカトリックの支配する国家だったので、こういう淫らなモチーフ満載の絵が受け入られるわけはないのですが、どういうわけか、フェリペ2世はこの絵をいたく気に入り、《人間の罪悪と愚蒙を描いた偉大なる風刺画》と絶賛します。フェリペ2世というと、エル・グレコがエル・エスコリアル修道院のために描いた傑作《聖マウリシオの殉教》を気に入らず、倉庫に投げ込んだ当人です。そのフェリペ2世がボッスには夢中になったしまいました。ボッスが死んだ後も作品を収集するようになります。10点以上の作品をエル・エスコリアル修道院に集めて、たいそう愛したそうです。そのボッスの世界最大のコレクションが現在はプラド美術館で展示され、世界中のボッスのファンが連日、詰め掛けています。実際、saraiが《快楽の園》の前に立ったとき、大勢の人たちが集まっており、その間から、苦労して、作品を鑑賞したほどです。プラド美術館で一番人気でした。

これがその《快楽の園》です。


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ともかく、大きな画面に幻想的なシーンがびっしりと緻密に描かれています。数えられませんが、200人以上の全裸の男女が野原や池や林の中で悦楽をむさぼっています。それが中央パネルの絵。左翼の絵には、アダムとイブが楽園の中にいます。右翼の絵には、恐ろしい地獄の責苦です。

中央パネルの絵の悦楽のイメージは、7つの大罪のうち、「淫欲」を表したものだと言われます。


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この絵は1500年の節目の年に終末論が論じられて、死後の幸福よりも現世の快楽に走った世相を戒める意味で描かれたと言われています。そこには当時60歳頃だったボッス独自の世界観も著されいます。それは、この世は愚かな大衆の集まりであるという考えで、その世界観をこの作品で大胆に展開したわけです。それって、現代にも大いに通じるところがありますね。こういうところが現代人の心を捉えて、人気が高まっているようです。そういうことは別にしても、ともかく、この絵はどこの部分を見ても面白いんです。あっちを見てはくすっ、こっちを見てはくすっ・・・笑ってしまいながら、いつまでも見飽きることがありません。数十ものシーンがありますから、1時間以上見ても見尽せないでしょう。

いくつかのシーンを見てみましょう。これは中央パネル左上にある奇怪な建物。ボッスの創造力には驚きます。


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これは中央パネルの上部の悦楽の泉。女性だけが水浴しており、その人数は全部で24人。1日の時間を表します。時間を表現したのは、女性の美しさの移ろいやすさを示したものです。


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これは中央パネルの下部左のシーン。ムール貝を運ぶ男の姿は十字架を担うキリストの姿を連想します。しかし、ムール貝の中では2人の男女が絡まり合って、事に及んでいます。こんなのを描いちゃって、いいんでしょうか。


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右翼のパネルの右下では、修道女が男を口説いています。しかし、修道女はどうやら豚のようです。修道女は淫欲と大食の2つの罪を犯しているんでしょう。横からちょっかいをだしているけったいな昆虫怪物は何でしょう。気持ち悪いですね。


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こんな具合に見ているとキリがありませんが、しばらく、配偶者とあれは何だろうとか言いながら、見続けていました。鑑賞客が減ることはありませんでした。

ところで、この3連祭壇画は左右のパネルを閉じることができます。閉じると裏に描かれた絵が現れます。それがこれです。天地創造のシーンを描いたものです。世界が創造されて3日目、天と地が分かれたところです。


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いやはや、これは大変な絵です。これだけを見るためでもプラド美術館を訪れる価値があるでしょう。

次の絵を見ましょう。これは《7つの大罪》です。中央の円が7つに区切られており、大罪がそれぞれ描かれています。4隅の円は「死の床での終油」、「最後の審判」、「天国」、「地獄」が描かれています。画面の中心にはキリストがいます。下に書かれているのは「心せよ、心せよ、神は見給うなり」で、この絵は神の巨大な目が描かれていることが分かります。罪を犯しそうな人への警鐘の絵画です。フェリペ2世はこの絵を自分の寝室に飾っていたそうです。我が国の政治家たちも寝室にこの絵の複製画でも飾っておいたら、いかがでしょう。


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これは《干し草車》です。これも3連画ですが、これは中央部分のパネルです。左右には、楽園と地獄のパネルがありました。中央にある大きな干し草は富を象徴しており、まわりには貪欲に駆られた人々が7つの大罪を犯している様が描かれています。そういう人々に最後の審判を下すべく、上空から、キリストが見守っています。この絵もまた、人々の罪への警告です。


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ボッスの作品のテーマは一貫していることが分かります。その作品を支える見事な色彩と緻密な構成がボッスの芸術です。世界中の人がその素晴らしさを賞賛して、プラド美術館に通ってきます。









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エル・グレコはプラド美術館から:ムリリョと言えば《無原罪の御宿り》、そして、素晴らしきフランドル絵画の傑作群

2014年5月27日火曜日@マドリッド、セゴヴィア/17回目

プラド美術館には、まだまだ、名品があります。

スペインを代表する画家のひとり、ムリリョも見逃せません。
ムリリョは1618年、アンダルシア地方のセビーリャに生まれました。以後、ずっと、そこで活躍しました。50歳以降の1670年から晩年まで、その芸術は頂点に達します。宗教画の世界で、スティロ・バポローソ(薄もやの様式)と呼ばれる、画面がぼんやりと柔らかい薄もやに包まれた幻想的な表現で描いた聖母マリアの姿はムリリョならではのものです。特に繰り返し描いた《無原罪の御宿り》はムリリョの独壇場の画題です。無原罪の御宿りというのは、聖母マリアの処女懐胎のことではなく、マリア自体もその母アンナの胎内にいたときから、原罪を逃れていたというものです。つまり、男女の情欲なしにマリアも生まれてきたというもので、マリア信仰の基礎になる考え方です。そういう無原罪の存在としてのマリアが描かれたのが《無原罪の御宿り》の絵画で、言わば、そのスペシャリストであったのがムリリョです。無論、エル・グレコの《無原罪の御宿り》も大傑作ですが、ムリリョは飽きることなく、何枚もこの《無原罪の御宿り》の傑作を描き続けました。

これはその《無原罪の御宿り》の一枚です。1670~80年頃、ムリリョ52~62歳頃の作品です。ムリリョの描くマリアはあどけなさを残し、とっても愛らしい存在に感じます。この画題では、いつもほとんど同じ構図ですが、天を仰ぎみるマリアの美しさはなんとも言えません。夢か幻のようなマリアの姿はマリア信仰にふさわしく神々しいものです。


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これも《無原罪の御宿り》の一枚です。1678年頃、ムリリョ60歳頃の作品です。真っ白い衣に青いマントのマリアは三日月に乗って、天使たちに支えられながら、天から舞い降りてきます。キリスト教徒ならずとも、マリアにうっとりと魅了されてしまいます。あー、マリアが可愛い!!


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これはそれらの作品に先立って、若い頃にムリリョが描いた《ロザリオの聖母子》です。1650年頃、ムリリョ32歳頃の作品です。聖母子が実にリアルな人間として、写実的に描かれています。夢幻などではなく、現実に存在する人間です。しかし、ここでもマリアは美しいですね。この美しい表現はロココ美術の先駆けとなるものでした。


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これは《善き羊飼い(善き牧者としての幼児キリスト)》です。1655~60年頃、ムリリョ37~42歳頃の作品です。フェリペ5世の王妃がセビーリャ滞在時に気に入って買い上げて、以後、アランフェス宮殿の国王夫妻の寝室に飾れていたそうです。牧歌的な美しい作品です。画題は、罪を犯した人間が悔い改めて、それを神が受け入れる姿を、子羊が迷っているのを羊飼いが見つけることができて、喜んでいる姿として、なぞられた教義≪善き羊飼い≫です。きっと、スペイン国王も人間としての救いを希求していたんでしょう。


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スペイン絵画はここまでにします。まだ、スルバランとか重要な画家はいますが、スペイン人画家以外の素晴らしい作品もあります。

まずはフランドル絵画で、ヤン・ファン・エイクと並ぶファン・デル・ウェイデンです。
ファン・デル・ウェイデンは近年、ぐんぐん評価がうなぎ上りの初期フランドル絵画を代表する画家です。しかし、世界に約60点ほど残る彼の作品のうち、1点も確実に真筆と認められている作品はないという異常な状況です。その中で、ほぼ真筆であろうと言われている作品が3点あり、資料が一番多いのが次の作品です。

これは《十字架降下》です。1435年頃、ウェイデン35~36歳頃の作品です。これは素晴らしい傑作ですね。緻密な表現ではヤン・ファン・エイクに一歩譲るかもしれませんが、実に深い表現の作品です。亡くなったキリストを悼む空気感が強く感じられます。構図も考え抜かれた素晴らしいものです。宗教画を超えて、人間の普遍的な悲しみが見事に表現されています。初期フランドル絵画、恐るべしと思いました。


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次は同じ15世紀から16世紀にかけて活躍したドイツ・ルネサンスの巨匠アルブレヒト・デューラーです。

これは《自画像》です。1498年頃、デューラー26歳頃の作品です。あらゆる自画像の見本とも思える出来栄えの素晴らしい作品です。ミュンヘンのアルテ・ピナコテークにある自画像も見事な作品ですが、こちらも同様な価値を持つ作品です。それにしても、若きデューラーの自信満々の姿って、笑ってしまうほどです。


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これは《アダムとイブ》です。1507年頃、デューラー35歳頃の作品です。いやはや、これも傑作ですね。特にイブの裸婦像が独特な表現で素晴らしいです。身体の微妙なバランスの感じがなんともいえません。


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次は16世紀フランドルの画家ピーテル・ブリューゲル(父)です。

これは《死の勝利》です。1562年頃、ブリューゲル32歳頃の作品です。ブリューゲルというと、必ず、その絵に寓意を込めています。この作品の寓意は、死は貴賤の違いにかかわらず、誰にも訪れるというもの。画面上、あらゆる階層の人間が死に襲われる様が描かれています。当時、ペストがヨーロッパ中に大流行したことも下地にあります。また、フェリペ2世のフランドルへの暴政に苦しまされた民衆の暴動も頻発し、この絵はスペイン圧政への抗議も込められています。それにしても画面一杯に広がる様々な表現の多様さは凄まじいばかりです。


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次はオランダを代表するというか、世界的巨匠のレンブラント。

これは《アルテミシア》です。1634年頃、レンブラント28歳頃の作品です。アルテミシアは古代小アジアの提督の妻で、夫の死後、夫の遺灰を飲み込み、自らを夫の墓と化したと言われています。モデルは妻サスキア。夫婦の愛をこの作品に込めたのでしょう。


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次は17世紀フランドル最大の画家にして、スペインを外交官として訪れたルーベンスです。ベラスケスとも親交を結びました。

これは《三美神》です。1636~37年頃、ルーベンス59~60歳頃の作品です。ルーベンスが外交官としてスペインを訪問して以来、フェリペ4世はルーベンスの絵画の虜となっていきました。作品収集を続ける中、ルーベンスが1640年に亡くなります。死後、競売に出された作品の中から、この《三美神》を購入しました。こうして、プラド美術館に素晴らしいルーベンス・コレクションが出来上がることになります。実はこの作品以外にも素晴らしい作品が満載です。ですが、saraiは残念ながら、ルーベンスは好みではないので、コレクションの中の最高の一枚だけを紹介するだけにします。この作品はルーベンスの美点が表出している傑作です。


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プラド美術館のコレクションもあとイタリア絵画を残すのみとなりました。次回をお楽しみに。







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エル・グレコはプラド美術館から:イタリア絵画も傑作揃い

2014年5月27日火曜日@マドリッド、セゴヴィア/18回目

プラド美術館には、イタリア美術の名品も揃っています。

まず、フィレンツェのドメニコ修道会の修道士として、絵筆をとったフラ・アンジェリコです。彼は1400年頃にフィレンツェ近郊で生まれました。本名はグイド・ディ・ピエトロですが、愛称フラ・アンジェリコで呼ばれています。フラ・アンジェリコとは「天使のような修道士」という意味です。彼の描く控え目な表現の宗教画には、その天使もよく登場します。テンペラ画、フレスコ画で描かれる静謐で瞑想的な宗教画は現代人にも心の安らぎを与えてくれます。

これは《受胎告知》です。1435~45年頃、フラ・アンジェリコ35~45歳頃の作品です。フラ・アンジェリコの《受胎告知》と言えば、フィレンツェのサン・マルコ修道院の階段を上がったところに描かれているフレスコ画がとても有名ですが、プラド美術館にも、ほぼ同時期に描かれた作品が展示されていて、驚きました。印象としては、ほぼ同じような構図の作品です。大天使ガブリエルがマリアに懐胎を告げている雰囲気はそっくりで、控え目にマリアが受胎を受容しているのがしみじみと心に伝わってきます。受胎告知は3月25日とされており、庭園には春の花々が美しく咲いています。その庭園には、アダムとイブの楽園追放のシーンが描かれていますが、これはサン・マルコ修道院の絵には描かれていません。また、神からの強烈な光線がマリアに降り注ぎ、精霊も描かれていますが、これもサン・マルコ修道院の絵には描かれていないものです。全体として、こちらの作品のほうが鮮やかな表現になっています。なお、写本の細密画も含めて、フラ・アンジェリコの《受胎告知》は15点ほど現存するようです。


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次は北イタリア、ヴェネツィアでルネサンス期に活躍した天才画家マンテーニャです。彼は同世代の画家ジョヴァンニ・ベリーニと義兄弟であったことが知られています。ベリーニとは作風はかなり異なり、テンペラ画であくまでも写実を追求しました。執念とも思えるほどです。

これは《聖母の死》です。1460~62年頃、マンテーニャ29~31歳頃の作品です。若い頃の作品ですが、ここでも写実に徹する作風が見られます。悲しみにくれて亡くなる聖母マリアは老いた女の姿で描かれています。それまでは聖母は美しき存在として、若く描かれていましたが、マンテーニャは写実に徹したのです。まあ、saraiは若く、美しいマリアが好きなので、正直、この絵は趣味に合いません。マンテーニャの画力は認めますけどね。


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次はsaraiの大好きなボッティチェリです。プラド美術館にもボッティチェリの力作があるのでびっくりしました。それも連作が並んでいました。この連作はボッカチオの《デカメロン》に基づいた青年ナスタジオの恋物語です。ただ、どうやら、この作品はボッティチェリが下絵だけを描いて、後は工房の弟子に任せたらしいとのことです。十分にボッティチェリらしさのあふれた作品なんですけどね。
以下、《ナスタジオ・デリ・オネスティの物語》、1482~83年頃、ボッティチェリ38~39歳頃の作品です。全部で4枚からなる板絵です。ここには3枚がありました。残りの1枚はアメリカの個人蔵だそうです。この連作はフィレンツェの有力な家系、プッチ家とビーニ家の婚礼の記念で、新婚夫妻の寝室を飾るスパリエーラ(装飾用の羽目板)として描かれました。この婚礼はメディチ家のロレンツォ・イル・マニフィコが仲介者でした。ロレンツォはボッティチェリのパトロンですね。

これは《ナスタジオ・デリ・オネスティの物語 第1の挿話》です。画面中央にいる赤いタイツの青年ナスタジオが恋人パオラ・トラヴェルサーリに拒絶されて、悩んでいます。彼が林の中を歩いていると、白い馬に乗る騎士に追いかけられる裸の美女を目撃します。実はこの美女は恋人の騎士につらくあたって、その騎士を自殺に追いやったのです。その報いとして、彼女は犬と騎士に追い掛け回される責苦に合うことになっているのでした。青年ナスタジオは自分と同じような境遇の二人が地獄の責苦に合っているところを見てしまったのです。


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これは《ナスタジオ・デリ・オネスティの物語 第2の挿話》です。白い馬の騎士に追いつかれた美女は背中を切り裂かれます。画面の奥のほうでは、また、白い馬の騎士に美女が追い掛け回されています。つまり、美女は殺されては生き返り、また、追いかけられるという地獄の責苦を繰り返し、受けているのです。画面には複数の時間の場面が一緒に描かれています。異時同図法です。


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これは《ナスタジオ・デリ・オネスティの物語 第3の挿話》です。青年ナスタジオは恋人パオラ・トラヴェルサーリを祝宴に招き、自分が見ていたヴィジョン、白い馬の騎士と美女の地獄の責苦を見せて、恋人の翻意を促します。青年ナスタジオに冷たかった恋人パオラ・トラヴェルサーリはこの地獄の責苦を見て、彼と婚約します。ちなみに第4の挿話は、青年ナスタジオと恋人パオラ・トラヴェルサーリの盛大な婚礼の場面です。


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次は聖母子の画家ラファエロです。

これは《羊を連れた聖家族》です。1507年頃、ラファエロ24歳頃の作品です。構図的には、よく描かれています。幼な子イエスと父ヨセフの見つめ合う様子が微笑ましいです。しかし、残念ながら、マリアがもうひとつ美しく描かれていませんね。これでマリアの顔が美しければ、超名作だったのに・・・。


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次はコレッジオです。コレッジオは1481年頃に北イタリアのモデナ近くのコレッジョで生まれ、パルマを中心に活躍しました。パルマの大聖堂は彼の見事な絵で埋め尽くされていて、圧巻です。特に天井画の見事さには圧倒されました。

これは《ノリ・メ・タンゲレ(我に触れるな)》です。1520~24年頃、コレッジオ31~35歳頃の作品です。新約聖書・ヨハネ福音書20章17節に、復活したイエスがマグダラのマリアに姿を見せる場面が記述されています。その場面では、マグダラのマリアが、イエスが復活したことを喜んで、彼に触れようとしますが、イエスは「ノリ・メ・タンゲレ(私に触れるな)」とマグダラのマリアに命じます。イエスはその理由を「わたしはまだ父のみもとに昇っていないのだから」と告げます。キリスト昇天はこの後のできごとです。もちろん、昇天してしまった後は、地上の人間は誰もキリストに触れることはできません。愛の救済者たるキリストにしては冷たい仕打ちにも思えますが、この意味はキリスト教の教義なので、非キリスト者たるsaraiには解説できません。ただ、その場面を描いたコレッジオの作品の写実のあまりの見事さには息を呑んでしまいます。


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最後は半世紀もの間、ヨーロッパ随一の大画家として、ヨーロッパ中の王侯・貴族から注文が絶えなかったヴェネツィアの巨匠ティツィアーノです。スペイン王室は、1529年以来、神聖ローマ帝国皇帝(スペイン国王でもある)カール5世と彼の息子のフェリペ2世の2代にわたって、ティツィアーノの最大のパトロンとなります。ティツィアーノは1576年にペストで死去。スペインには膨大なティツィアーノのコレクションが残されました。ここでは、代表作の2枚だけを見ていきましょう。

これは《ミュールベルクのカール5世騎馬像》です。1548年頃、ティツィアーノ58歳頃の作品です。カール5世とティツィアーノには、こんなエピソードが残されています。画家のアトリエを訪れた皇帝が、画家が落とした絵筆を拾うために跪きます。当時、画家と言えば、身分は職人でした。その画家に絶大な権力を持つ絶対君主がひざまずいたのです。芸術家の栄光の時代が始まったのです。ティツィアーノが初めて、カール5世の肖像画を描いたのは、1530年のボローニャでの戴冠式でのことです。それ以来、皇帝はティツィアーノ以外には肖像画を描かせなかったということです。それほど、心酔したということです。1548年に帝国議会の開かれたアウグスブルグで二人は会っており、その際に、この騎馬像が描かれました。実に堂々たる騎馬像ではありませんか。カール5世はティツィアーノの肖像画で後世にそのイメージ、それもとびっきり素晴らしいイメージを残すことになりました。もちろん、ティツィアーノも最強のパトロンを得ることで名声を手に入れることになりました。まさにウィン・ウィンの関係です。


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これは《ヴィーナスとオルガン奏者とキューピッド》です。1548年頃、ティツィアーノ58歳頃の作品です。これも同時期にカール5世のために描かれた作品です。アウグスブルグに会いに行くときにティツィアーノが持参した作品です。この裸婦の構図は、ジョルジョーネの大傑作《眠れるヴィーナス》に由来するものです。《眠れるヴィーナス》は未完のまま、ジョルジョーネが世を去ったため、ティツィアーノが完成させました。その素晴らしい裸婦の構図に基づいて、ティツィアーノは本作以外にも、《ウルビーノのヴィーナス》や《ダナエ》を描いています。本作はそれらとは左右逆のポーズになっています。本作では、ヴィーナスが意味ありげにキューピッドに何やら、ささやきかけています。それにオルガン奏者が意味ありげな視線を送っています。一説では、このオルガン奏者はカール5世を模したとも言われています。のちに同じ画題で、カール5世の息子のフェリペ王子(後のフェリペ2世)にも制作したといいますから、よほどにスペイン王室にこの享楽的とも言える作品が気に入られたのでしょう。フェリペ2世のためには、魅惑的な作品《ダナエ》も制作しています。この《ダナエ》もプラド美術館に展示されています。とても美しい作品でした。これらの作品を愛したことから考えると、厳格なカトリックを信仰する、お堅いイメージのフェリペ2世ですが、彼も相当に享楽的な一面があったようですね。


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プラド美術館の膨大な作品群をひとつ残らず見るために、3時間もの時間を要してしまいました。もう、2度と来ることはないでしょうが、心残りはありません。







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この記事へのコメント

1, 健一さん 2014/12/24 12:31
プラド美術館に前回行ったのは、もう20年以上前のことになりますが、魅力的な絵がたくさん並んでいて、数年後には再訪しようと思っています。

「ナスタジオ・デリ・オネスティの物語」は大変、惹かれる作品ですね。ボッティチェリは大好きな作品です! 大人の童話とでも言えるような物語自体も面白いですが、それを鮮やかな絵画の世界にして見せてくれているボッティチェリの巧みさに感嘆します。

なお実際の制作には確かに協力者の手が多く入っているようですが、今のボッティチェリ研究者は、ボッティチェリ自身がナスタジオや騎士など主要な人物を描いたと考えているようですよ。

2, saraiさん 2014/12/24 21:01
当ブログはもうすぐ閉鎖になるので、コメントは引っ越し先のブログに移行させてもらいました。ご了承くださいね。移行先は以下です。

?ttp://sarai2551.blog.fc2.com/?no=25

?はhです。
 

エル・グレコはプラド美術館から:美術鑑賞の後は、初のバル体験(エスタード・プーロ)

2014年5月27日火曜日@マドリッド、セゴヴィア/19回目

いやあ、プラド美術館を見尽して本当に疲れました。そもそも、今日はセゴヴィアで予定外に歩き回って疲れ切っていた上に、プラド美術館での3時間にも及ぶ鑑賞。疲れないわけがありません。それでも、目的のエル・グレコの作品鑑賞はもちろん、ベラスケス、ゴヤ、ボッスを始めとした傑作群と対峙し、大変満足しました。
でも、プラド美術館は広くて複雑で、とっても観づらいのが欠点ですね。なんとかならないかしら。
美術館から外に出ると、もう7時半になっていました。美術館の東側の階段の上で、綺麗な教会が夕日を浴びて輝いています。この教会はサン・ヘロニモ・エル・レアル教会San Jerónimo el Realです。1501年創建のゴシック様式の教会で、代々のスペイン国王の戴冠式が行われたとのことです。


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美術館見学でくたびれ果てましたが、最後は食い気。スペイン名物のバルに初見参です。もう遠くまで歩いていく気力も体力もないので、美術館近くの有名バル、エスタード・プーロEstado Puroに向かいます。プラド美術館の前のプラド通りPaseo del Pradoがカノバス・デル・カスチーリョ広場Plaza Cánovas del Castilloにぶつかったところの角に、このバルがあります。地図で確認しておきましょう。


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首尾よくテラス席に座れました。ここからはカノバス・デル・カスチーリョ広場が見えます。マドリッドの広場らしく、広場の真ん中で噴水が上がっています。


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フォークとナイフの収まった紙ケースがテーブルに置かれ、その紙ケースにはメニューがプリントされています。なかなか効率的ですね。


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スペインのスパークリングワイン、カヴァをいただきながら、タパスをいただきます。


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スペインのバルで最初にいただく記念すべきタパスは、アスパラガスの天ぷら(本当に天ぷらってメニューに書いてあります)です。


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続いて、タラのすり身のフライ。


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初めてのタパスを堪能。大変、美味でした。

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このバルでもうひとつ驚いたのは、メニューにサラダは2種類しかないのに、その1つが「ジャパニーズサラダ」なんです。カルパッチョ風かなと思いますが、びっくりですね。

このバルで休んで元気が出たところで地下鉄の駅アトーチャAtochaまで歩き、そこから地下鉄1号線に乗ってホテルの最寄り駅グラン・ヴィアGran Viaまで行きます。


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地下鉄駅からホテルはすぐ。疲れた足を引きづりながら、ホテルに辿り着きました。長くて、収穫も多かった1日でしたが、本当にくたびれ果てました。saraiの足裏には豆までできました。初日から頑張り過ぎましたね。実は、この後遺症はスペイン滞在中ずっと残り、スペインでは常に疲れた状態のままでした。

ホテルではさらに驚いたことが・・・ホテルにはルームサービスがあったのですが、その案内パンフレットの表紙の図柄が「すし」なんです。もちろん、そのルームサービスの内容もお寿司が中心で、ルームサービスをやっているお店の名前がSUSHICLUBです。


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「ginza」という回転寿司屋もあるようです。恐るべし・・・ヨーロッパの「すし」ブーム!

さて、大変疲れたので、ゆっくりとベッドで休みます。

明日は雨模様のようです。明日はエル・エスコリアル宮殿でエル・グレコを見て、夜はこの旅で最初のオペラを聴きます。







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Author:sarai
首都圏の様々なジャンルのクラシックコンサート、オペラの感動をレポートします。在京オケ・海外オケ、室内楽、ピアノ、古楽、声楽、オペラ。バロックから現代まで、幅広く、深く、クラシック音楽の真髄を堪能します。
たまには、旅ブログも書きます。

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金婚式、おめでとうございます!!!
大学入学直後からの長いお付き合い、素晴らしい伴侶に巡り逢われて、幸せな人生ですね!
京都には年に2回もお越しでも、青春を過ごし

10/07 08:57 堀内えり

 ≪…長調のいきいきとした溌剌さ、短調の抒情性、バッハの音楽の奥深さ…≫を、長調と短調の振り子時計の割り振り」による十進法と音楽の1オクターブの12等分の割り付けに

08/04 21:31 G線上のアリア

じじいさん、コメントありがとうございます。saraiです。
思えば、もう10年前のコンサートです。
これがsaraiの聴いたハイティンク最高のコンサートでした。
その後、ザル

07/08 18:59 sarai

CDでしか聴いてはいません。
公演では小沢、ショルティだけ

ベーム、ケルテス、ショルティ、クーベリック、
クルト。ザンデルリング、ヴァント、ハイティンク
、チェリブ

07/08 15:53 じじい@

saraiです。
久々のコメント、ありがとうございます。
哀愁のヨーロッパ、懐かしく思い出してもらえたようで、記事の書き甲斐がありました。マイセンはやはりカップは高く

06/18 12:46 sarai

私も18年前にドレスデンでバームクーヘン食べました。マイセンではB級品でもコーヒー茶碗1客日本円で5万円程して庶民には高くて買えなかったですよ。奥様はもしかして◯良女

06/18 08:33 五十棲郁子

 ≪…明恵上人…≫の、仏眼仏母(ぶつげんぶつも)から、百人一首の本歌取りで数の言葉ヒフミヨ(1234)に、華厳の精神を・・・

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