2014年5月27日火曜日@マドリッド、セゴヴィア/15回目
プラド美術館では、ベラスケスと並んでゴヤも最重要の画家です。
ゴヤもベラスケスと同様に宮廷画家に上り詰めますが、24歳の若さで宮廷画家になったベラスケスに対して、43歳でようやく宮廷画家の地位を手に入れたゴヤ。人間性でも、出世欲、金銭欲、自己顕示欲の強かったゴヤはあまりに人間的な面が見える画家です。
フランシスコ・デ・ゴヤは1746年、スペインのアラゴンの荒野の小さな寒村で生まれました。彼はそういう片田舎出身でしたが、27歳で一流画家になる野望を胸にマドリッドに向かいます。彼の傍らには新妻のホセファ、彼女は宮廷画家フランシスコ・バイユーの妹でした。この縁故関係を活かして、マドリッドの王立タペストリー工場の下絵(カルトン)を描く仕事を得ます。やがて、国王カルロス3世に認められる日がやってきます。ゴヤ、33歳のときです。翌年、彼はサン・フェルナンド王立アカデミー会員の肩書を得、画壇での評価を高めていきます。そして、新しい国王カルロス4世の即位とともに、ゴヤは43歳にして、宮廷画家の地位をつかみます。ようやく、社会的地位と経済的な余裕が持てたゴヤでしたが、思わぬ試練に襲われます。47歳のゴヤは突然、原因不明の高熱に襲われ、命の危機に陥ります。何とか一命を取り止めたゴヤでしたが、この高熱でまったく聴覚を失ってしまいます。以後、ゴヤは音のない世界を生きることになります。しかし、こういうときにこそ、その人間本来の真価が試されることになります。ゴヤは己の魂と向かい合うようになり、真の芸術家として、高みに上っていきます。彼の芸術はよりリアルな表現を追求していくことになり、天才芸術家の仲間入りを果たすことになります。53歳で首席宮廷画家に抜擢され、不朽の名作《カルロス4世とその家族》を描き上げます。芸術家の真実の目で、冷徹に宮廷の主役たちの心の奥底を抉り出すような名作中の名作です。宮仕えの身でありながら、心に臆するものもなく、これまで宮廷画で誰も描かなかった、国王夫妻の下劣とも思える品性を絵で表現してしまいました。このとき、近代リアリズム絵画が誕生しました。
この頃、ゴヤはスペイン1の美貌とも言われたアルバ公爵夫人とのアバンチュールも経験し、当時としては衝撃的であった《裸のマハ》を描き上げますが、それは厳格なカトリック社会であったスペインで許される筈もなく、密かに注文主の屋敷に所蔵されていました。この作品は実に150年ぶりにスペインで描かれた裸婦像でした。この作品もまた、ヨーロッパ近代絵画の幕開けを告げるものでした。こうして、ゴヤは新しい絵画の世界の先駆者となっていきます。ナポレオン戦争、スペイン王家の継承争いなど激動の時代のなか、ゴヤは宮廷画家の地位を守り、したたかに生きていきます。やがて、高齢となったゴヤは公の場を退き、マドリッド郊外のキンタ・デル・ソルド(聾者の家)と名付けた家に隠棲します。その家の壁中に描いたのが、晩年の傑作《黒い絵》シリーズ全14作です。74歳でゴヤは混乱のスペインからフランスのボルドーに居を移します。そして、1828年、82歳でそのボルドーの地で没しました。波乱の時代を生きた一人の天才画家の人生は愛と野望に満ちたドラマを思わせるものです。そういう彼の生み出した芸術作品は今日なお、プラド美術館で光り輝いています。その多面的な彼の芸術世界を見ていきましょう。
これは《日傘》です。1777年頃、ゴヤ31歳頃の作品です。ゴヤがタペストリーの下絵(カルトン)を描いた作品。フランスのロココ美術の影響が感じられます。この頃、スペイン王家はハプスブルク家からフランスのブルボン王家に変わっており、フランスの華やかな文化に包まれていました。ゴヤは1775年から1792年まで、63枚のタペストリー下絵を制作しました。下絵には、当時のスペインの民衆風俗が描かれており、マホ(伊達男)、マハ(伊達女)が登場しています。風俗を描いたのは当時としては斬新なものでしたが、ひたすら、明るく描かれた絵には、民衆のリアルな生き様は表されていません。天才画家ゴヤの登場はまだまだ後のことです。

これは《木登り》です。1791~92年頃、ゴヤ45~46歳頃の作品です。ゴヤはたびたび、子供の姿を描いています。子供の世界に入り込んだような表現が見事な作品と言えます。

これは《ゴヤの妻、ホセファ・バイユウ》です。1798年頃、ゴヤ52歳頃の作品です。ゴヤと40年連れ添うことになる妻のつつましい姿が描かれています。宮廷画家バイユウの妹だった、この妻との結婚がゴヤの一流画家への飛躍の足掛かりになりました。ゴヤはアルバ公爵夫人とのスキャンダラスな恋など、浮名を流しましたが、妻はじっと寄り添っていたようです。

これは《着衣のマハ》です。1798~1805年頃、ゴヤ52~59歳頃の作品です。これは誰でも知っている作品ですね。saraiも学生時代、京都の展覧会で両方のマハを見て、下宿の壁に大きなポスター(着衣のマハ)を張っていたことを懐かしく思い出しました。

これは《裸のマハ》です。1798~1805年頃、ゴヤ52~59歳頃の作品です。《着衣のマハ》とセットで、時の宰相ゴドイが屋敷で鑑賞していたという話が残っています。普段はこの《裸のマハ》は《着衣のマハ》の裏に隠されていたとのことです。今の我々の目で見れば、この程度の裸婦像はエロティックでもなんでもありませんけどね。宗教裁判の厳しかったカトリックの国スペインでは、見つかれば、大変な事件だったようです。実際、saraiは両方のマハでは、《着衣のマハ》のほうが色っぽくて、好きなんです。

これは《チンチョン伯爵夫人》です。1800年頃、ゴヤ54歳頃の作品です。この女性はカルロス3世の弟、ドン・ルイス親王の長女です。彼女は国王カルロス4世の従妹ですが、カルロス4世の王妃マリア・ルイサの愛人だったゴドイと結婚。不幸な結婚生活を送った彼女へのゴヤの憐れみが感じられる肖像画です。このあたりから、天才画家ゴヤの対象の内面を抉り出す眼差しの鋭さが発揮されるようになってきました。

これは《カルロス4世とその家族》です。1800~01年頃、ゴヤ54~55歳頃の作品です。これは凄い傑作です。人間の内面の奥底を絵で表現する究極のリアリズムの作品と言えます。ある批評家が「まるで宝くじにあたったパン屋夫婦のようだ」と評したそうですが、王家の家族の姿を遠慮会釈なしにリアルに描き上げた作品です。そこには尊敬の念もなく、理想化した表現もありません。ベラスケスの作品も生ぬるく思えるほどです。国王カルロス4世の遊び好きなだけの愚鈍そうな表情、王妃マリア・ルイサの高慢かつ狡猾そうな好色女の風情・・・この王家の没落を見据えているような情景です。画家自身は画面左端から冷やかに視線を送っています。まあ、よく、こんな絵を怒りもせずに国王夫妻が受け取ったものですね。よほどの太っ腹か、あるいはお人好しだったんでしょう。

これは《巨人》です。1808~12年頃、ゴヤ62~66歳頃の作品です。謎めいた不思議な絵です。とてつもない巨人が山の向こうを歩き回り、手前では群衆が逃げ惑っています。ナポレオン戦争中に描かれたので、この巨人が何を象徴しているのか、色々な解釈があるようですが、下手な解釈などせずに、この絵の破壊力をそのまま、受け入れるのが一番ではないかとsaraiは思います。

これは《1808年5月2日、エジプト人親衛隊との戦闘》です。1814年頃、ゴヤ68歳頃の作品です。これはナポレオン軍へのスペイン民衆の蜂起を描いたものです。ナポレオンが没落した後、フェルナンド7世が王として、凱旋しますが、その際にゴヤが「ヨーロッパの暴君に対する、我々の輝かしき反乱と崇高な英雄的行為を、絵筆によって永遠に残すために」と申し出て、描いた作品です。この絵は確かに雄々しく戦う姿をダイナミックに描いていますが、次の作品とセットで見ると、意味合いが変わってきます。

これは《1808年5月3日、プリンシペ・ピオの丘での銃殺》です。1814年頃、ゴヤ68歳頃の作品です。上の作品とセットになったもので、民衆の蜂起が鎮められ、反逆者として処刑されます。ゴヤはリアリズム画家としての透徹した視線で戦いの悲惨さを浮き彫りにしています。

これは《フェルナンド7世》です。1814年頃、ゴヤ68歳頃の作品です。スペインに凱旋した国王を宮廷画家たるゴヤが描いたものです。一見、若くて、凛々しい国王の姿にも見えますが、誇りと自信に満ちた表情は民衆を見下す暴君の姿とも重なって見えます。父カルロス4世の裏返しのような姿です。

これは《自画像》です。1815年頃、ゴヤ69歳頃の作品です。人間の世界の真実を見極めて、その表情は疲れ切って、絶望的にも思えます。孤独感も漂っています。芸術を極めた人間はとても幸福ではいられないようです。

これは《砂に埋もれた犬》です。1820~24年頃、ゴヤ74~78歳頃の作品です。「聾者の家」に描かれていた《黒い絵》シリーズの一枚。《黒い絵》は1870年代に「聾者の家」の壁から漆喰ごとはがされて、カンヴァスに移され、現在はこのプラド美術館で展示されるようになりました。この作品は砂の上に首から先だけを出した犬の姿がとても印象的。そこに何を見るかは鑑賞者の人生に委ねられることでしょう。

これは《わが子を食うサトゥルヌス》です。これも《黒い絵》シリーズの一枚。これはそのまま、おぞましい絵です。ゴヤの食堂に描かれていたそうです。食欲をなくしてしまいそうです。

これは《サン・イシドロ祭》です。これも《黒い絵》シリーズの一枚。祭のシーンと言っても、亡者たちの集まりにしか見えませんね。

これは《妖術師の夜宴へ》です。これも《黒い絵》シリーズの一枚。これは幻想的な絵ですね。日本のアニメの先を行ったような作品です。

これは《魔女の集会》です。これも《黒い絵》シリーズの一枚。これは題名通りの絵です。まだ、魔女狩りもあった時代の作品であると思うと、意味深くもあります。

これは《レオカディア》です。これも《黒い絵》シリーズの一枚。レオカディアは長年連れ添った妻ホセファが1812年に亡くなった後に、ゴヤが一緒に暮らした女。同棲が始まった頃、ゴヤは68歳、レオカディアは24歳の人妻だったというから、驚くほかはありません。しかも、2年後には娘ももうけたというからさらにびっくり。結局、ボルドーでゴヤが亡くなったときには、このレオカディアとその娘が最期を看取ったそうです。

これは《ボルドーのミルク売り娘》です。1825~27年頃、ゴヤ79~81歳頃の作品です。ゴヤ最晩年の作品です。《黒い絵》シリーズを描いた画家が高齢でこんなに瑞々しい作品を残したとは、ゴヤの多面性のあらわれでしょうか。こういう作品で人生を締め括ったのは、ゴヤの心の闇が晴れたのでしょうか。なんだか、救われたような気持ちになります。

ゴヤのコレクションも膨大なものでした。エル・グレコ、ベラスケス、ゴヤの傑作群を見るだけでもプラド美術館詣でが大いに報われますが、まだまだ、名画はあるようです。
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