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ハンブルク散策:ハンブルク市立美術館からスタート

2018年8月22日水曜日@ハンブルク

旅の10日目、ハンブルクHamburgの3日目です。

昨日はあまりにも歩きすぎて疲労困憊。今日は休養の日にしようということで、目覚まし時計をセットせずに就寝することにしました。でも、疲れすぎてお風呂から出るなり寝てしまった配偶者は朝7時には起床。宵っ張りのsaraiはブログを書いて休んだので10時に起床。
それぞれ十分休んだはずですが、正直ぐったりしてます。温かい味噌汁を飲んで喝を入れます。やはり、日本から持参したアマノの味噌汁は美味しい! 味噌汁を朝食代わりにいただき、元気回復。味噌汁は軽くて美味しくて手軽で旅のお供に最適です。

今日は絶対に見逃せないハンブルク市立美術館Hamburger Kunsthalleに行きます。雲一つない快晴の中、ホテルを出て、歩き始めます。

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駅前には出ずに、駅を迂回して、ビル街の中、駅の反対側を目指します。

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無駄な歩きをしないように、きっちり地図を確認しながら歩きます。やがて、跨線橋で線路を超えていきます。そこからハンブルク中央駅の側面が眺められます。

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線路を渡り終え、駅前の大通り、グロッケンギーサーヴァル通りGlockengießerwallに出ます。この通りの先にあるハンブルク市立美術館にぶらぶらと歩いていきます。

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巨大な美術館の端に到着。騎馬像がお迎えしてくれます。

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美術館の建物の扉には入り口は向こうという案内があります。そちらに進みます。

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グレイの建物の先に入り口があるようです。

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グレイの建物と茶色の建物の間が入り口と思ったら、さにあらず。どうやら、茶色の建物の先まで行かないといけないようです。

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茶色の建物の壁面は美しい装飾が施されています。さすがに美術館ですね。

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壁面の中の彫像はドイツの誇る大芸術家、クラナッハです。saraiも大好きな画家です。

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美術館はなかなか見事な建物です。この建物も芸術品ですね。

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大通りから右に廻り込むと、美術館のファサードがあります。

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このファサード前はちょっとした高台になっていて、グロッケンギーサーヴァル通りの向かい側が見通せます。

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ここまでの散策ルートを地図で確認しておきましょう。

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さて、ファサードに近づいていきます。

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ファサード近くから上方を見上げると、とても美しい装飾や彫像に感銘を覚えます。

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ファサードを抜けて、美術館の中に向かいます。

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エントランスロビーにある窓口でチケットを購入します。

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ところで一昨日に駅のツーリストインフォメーションで今日の分のハンブルクカードも購入済です。このハンブルクカードを提示して、割引料金でチケットを購入しましょう。

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ハンブルクカード割引で一人10ユーロでチケットが買えました。

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荷物もコインロッカーに預けて、身軽になって鑑賞しましょう。が、ロッカーに預けるコインがありません。まずは、お土産を物色。配偶者がいつも重宝しているショッピングバッグを購入します。デザインは配偶者の大好きなマルクの絵です(マルクお得意の動物の絵ですが、配偶者によるとこの動物は青い狐とのこと・・・なるほどね)。こちらのショッピングバッグは大きくて使いやすいのだそうです。12.9ユーロでした。

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では、カメラ一つの手軽さで鑑賞スタートです。



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ハンブルク市立美術館:東日本大震災の写真、そして、フリードリヒ~ムンク

2018年8月22日水曜日@ハンブルク/2回目

今日はハンブルクHamburgでゆったり散策。まずはハンブルク市立美術館Hamburger Kunsthalleで名画鑑賞。カメラ一つの手軽さで鑑賞スタートです。
2階の常設展示室への立派な階段が見えますが、まずは地下の特別展示室を覗きます。

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地下の特別展示室で目に飛び込んできたのは、何と何と・・・東日本大震災の津波の惨状の写真です。

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日本ではよく目にしてきた光景ですが、異国の地で見ると、奇妙な感情がこみ上げてきます。被害者のかたには北ドイツからお見舞い申し上げます。

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このほかには、何故か、フリードリヒが数点あっただけ。でも、数点でもフリードリヒは注目です。

カスパー・ダーヴィト・フリードリヒの《燃え立つノイブランデンブルク》。1834年、フリードリヒ、60歳頃の作品です。ノイブランデンブルクは北ドイツ、メクレンブルク・フォアポンメルン州の古い町です。収穫の終わった畑の向こうにノイブランデンブルクの町が幻想的なシルエットで浮かび上がっています。その町には中心となるマリエン教会の塔が見えています。町は架空の火災で燃え上がっています。自然と人間の営みのかかわりはフリードリヒの主要な画題でしたが、この作品でも人が描かれていないものの、その画題は貫かれています。この作品を描いていた頃、1835年にフリードリヒは脳卒中に襲われ、一命はとりとめたものの、油絵を描くことはできなくなりました。そのため、この作品は未完成のままになりました。画家の晩年の一枚です。

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カスパー・ダーヴィト・フリードリヒの《ブランドシュテッテ(火災現場?)》。1802年、フリードリヒ、28歳頃の作品です。エッチングの版画作品です。火災の場所で呆然とする二人の人物が描かれています。

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カスパー・ダーヴィト・フリードリヒの《氷の海の船》。1799年、フリードリヒ、25歳頃の作品です。もっとも画家の名前の後ろに疑問符が付いているので、フリードリヒの作品と確定しているわけではなさそうです。画風はいかにもフリードリヒそのものですが・・・。氷の海で難破した船をボートに乗った人たちが眺めています。

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カスパー・ダーヴィト・フリードリヒの《氷の海》。1823年/1824年、フリードリヒ、49歳か50歳頃の作品です。フリードリヒの代表作品のひとつと目されています。氷の海の光景が象徴的に描かれて、その中に難破船が小さく描かれています。大自然とその力に対してはあまりにも小さな存在である人間というように読み取れますが、それ以上に大自然の美しさと強さが見事に表出されていることに注目すべきでしょう。当時のウィーン体制下のドイツの政治状況を描いたとも、13歳の時、河でスケート遊びをしていたところ、氷が割れて溺れ、彼を助けようとした一歳年下の弟・クリストファーが溺死してしまったことを象徴的に描いたとも言われていますが、この絵が持つ芸術性そのものがすべてでしょう。フリードリヒの画力の素晴らしさがあふれ出る迫力ある一枚です。

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結局、地下の特別展示は何のことか、よく分かりませんでしたが、フリードリヒの作品を見られたので、よしとしましょう。

2階の常設展示室に移動します。

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まずは20世紀の近代作品が展示されています。

エルンスト・ヴィルヘルム・ナイの《赤と黒のドットで》。1954年、ナイ、52歳頃の作品です。この画家のことはまったく知りませんが、何故か、気になる絵でした。誰かの絵に似ているような気もします。ちょっと違いますが、カンディンスキー風?

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ハンス・アルプの《夢の中の星》。1958年、アルプ、72歳頃の作品です。アルプ特有の緩やかなカーブの彫刻です。その柔らかさに心が和みます。

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ジェームズ・アンソールの《仮面のある静物》。1898年、アンソール、38歳頃の作品です。アンソールの主要なモチーフの仮面がギラギラした色彩の静物画の中に描かれています。実に無気味さを湛えた画面です。あまり好きになれません。

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ここからムンクの作品が続きます。

エドヴァルド・ムンクの《マドンナ》。1893~1895年、ムンク、30~32歳頃の作品です。ムンクの代表作の一つです。生命のフリーズと題されたシリーズに属するもので、《叫び》もその一枚です。セクシュアルでもあり、神の愛にもつながる多面的な要素を持つムンクの傑作です。

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エドヴァルド・ムンクの《セルマ・フォンハイムSelma Fontheim》。1894年、ムンク、31歳頃の作品です。ベルリン在住時に知り合った女性をモデルにした肖像画です。柔らかなタッチが印象的です。

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エドヴァルド・ムンクの《冬の森》。1900~1901年、ムンク、37~38歳頃の作品です。雪の積もった森の風景はムンクの心象風景でしょう。スピリチュアルな雰囲気も湛えています。

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エドヴァルド・ムンクの《橋の上の少女たち》。1901年、ムンク、38歳頃の作品です。幻想的な風景の中に立つ3人の少女たちは生身の人間であるイメージからは離れています。一人だけ、顔をこちらに向けた少女の視線の先にあるものは何でしょう。虚空・・・無のように思えます。同じイメージの作品がオスロ国立美術館にもありますが、その作品では焦点は風景に向けられて、少女たちは3人とも橋の下を覗き込み、顔の表情が見えません。

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エドヴァルド・ムンクの《アルベルト・コルマンとスティーン・ドラウスン》。1902年、ムンク、39歳頃の作品です。ドイツを拠点に活動するムンクも世間から評価されるようになり、ハンブルクの実業家アルベルト・コルマンからの支援も受けます。スティーン・ドラウスンはデンマークの作家でジャーナリストです。不安な心理状況が漂う肖像画になっています。どうやら、二人に依頼されて描いた肖像画ではなさそうですね。背景の描き方がまるでゴッホのようですが、神経質な感じに仕上がっています。

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エドヴァルド・ムンクの《海辺の少女たち》。1906~1907年、ムンク、40~41歳頃の作品です。白いドレスを来た少女たちは一塊に描かれ、そのグループから、赤いドレスの少女が離れていこうとしています。白いドレスは少女たちの無垢さを象徴し、赤いドレスは性への目覚めを象徴しています。この作品は後にザルツブルク音楽祭を創設するマックス・ラインハルトが劇場監督をしていたベルリンのカンマーシュピーレのホワイエを飾るための12枚のパネルの1枚でした。現在、そのパネルの作品のほとんどはベルリンの新ナショナルギャラリーに所蔵されています。

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しばらく、20世紀の作品の展示を見て回ります。一緒にお付き合いくださいね。



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ハンブルク市立美術館:ホドラー、アンリ・ルソー、ドニ、そして、ベックマンの作品群

2018年8月22日水曜日@ハンブルク/3回目

今日はハンブルクHamburgでゆったり散策。まずはハンブルク市立美術館Hamburger Kunsthalleで名画鑑賞。
2階の常設展示室で20世紀の作品の展示を見て回っているところです。アルプ、アンソール、ムンクと見てきました。

次はフェルディナント・ホドラーの《シュトックホルン山系を背景にしたトゥーン湖》。1910年、ホドラー、57歳頃の作品です。この絵はパッと見ると、単なる風景画に見えますが、手前の湖岸、トゥーン湖の水面、対岸、シュトックホルン山系、空が層のように重なって、人工的な構造に作り上げられています。セザンヌの風景画と同様に具象的な風景をもとにした抽象的な絵画とも思えます。どこか日本の浮世絵の技法も連想させます。そう言えば、シュトックホルン山系は墨絵のようにも見えます。淡い色彩も見事に機能しています。ホドラーの熟達の筆が冴え渡った秀作です。

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アンリ・ルソーの《地上の楽園のイヴ》。1906~1907年、アンリ・ルソー、62~63歳頃の作品です。この絵はアンリ・ルソーが繰り返し描いたモチーフ、熱帯の密林の中に裸のイヴが立っています。蛇が差し出すリンゴに手を伸ばすイヴというありきたりの画題ですが、アンリ・ルソーが描くと、何とも幻想的、かつ、ほほえましい絵に仕上がっています。ある意味、主役は熱帯の密林です。1910年までに彼は20枚以上のジャングルの絵を描いています。ジャングルの楽園の庭には、シダ、アガベ、ヤシの木、ゴムの木などが描き込まれていますが、彼がパリの「植物園の温室」に行くことはなく、すべて、エキゾチックな動物や風景の写真を載せた雑誌から描き写したことはよく知られています。確かに素朴な画風ですが、ユニークであることが何よりも重要ですね。いやはや、素晴らしい作品です。

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モーリス・ドニの《アドリアン・ミトゥアール夫人と彼女の息子ジャック》。1903年、ドニ、33歳頃の作品です。ドニは大好きな画家の一人です。オルセー美術館では彼の絵の前で長い時間を過ごします。この作品もドニらしいバラ色系の色彩と輪郭がぼやかされた柔らかいタッチの美しい絵画です。顔の表情が描かれずに人物自体が絵の対象ではなく、あくまでも構図の一部としての人物が描かれています。それにしては絵の題名に具体的な人名がはいっていて、肖像画みたいですが、もちろん、肖像画とは対極のような作品です。

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次はマックス・ベックマンの展示スペースです。ベックマンはドイツ表現主義の画家です。彼はナチスに退廃芸術と烙印を押された芸術家の一人で、同じ烙印を押されてピストル自殺を遂げたキルヒナーと同様にとても気になる存在です。そのベックマンの作品がまとめて展示されていることは稀有なことです。実はこの後、キルヒナーの作品もまとめて展示されているのを見ることになるのですが、この二人の作品がまとめて展示されている美術館はあまりありません。ちなみに今回の旅の初めにデュッセルドルフのK20美術館でベックマンの代表作の《夜》を見ています。凄い迫力の絵に感銘を受けました。

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マックス・ベックマンの《ミンナ・チューブの肖像》。1905年、ベックマン、21歳頃の作品です。ミンナ・チューブはドイツ人の画家でオペラ歌手でもありました。ベックマンの最初の妻です。素晴らしく美しく描かれた肖像画です。この絵を見て、ベックマンの作品だとは分からないでしょう。写実的なベックマンの作品は初めて見ました。

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マックス・ベックマンの《母親の肖像》。1906年、ベックマン、22歳頃の作品です。ベックマンの母親は1906年の夏に亡くなりました。この絵が描かれたのはその死の少し前でした。母親の顔は緊張感と疲れが感じられますが、実に明確に描き出されています。

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マックス・ベックマンの《パーゲル夫人の肖像》。1907年、ベックマン、23歳頃の作品です。ベックマンは1907年の夏を画家仲間のシーザー・クンヴァルトと共にバルト海のヴィエツケルストランドで過ごしました。パーベル家は夏のゲストを定期的に連れて行った家です。パーゲル夫人は12人の子供のうちの一人を妊娠中で、ベックマンは妊娠中の女性の印象に惹かれて、この作品を描いたようです。印象派風のタッチの肖像画になっています。

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マックス・ベックマンの《十字架》。1911年、ベックマン、27歳頃の作品です。十字架を背負って、ゴルゴタの丘に上って行くキリストが大変な迫力で描かれています。表現主義の画風を確立したことが分かります。大作です。

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マックス・ベックマンの《悪夢》。1903年、ベックマン、19歳頃の作品です。題名通りの作品ですね。3人の奇怪な巨人に踏みつけられているのは画家自身でしょう。実際に見た悪夢なのか、画家の心の葛藤なのか・・・。

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マックス・ベックマンの《嘆き》。1908年、ベックマン、24歳頃の作品です。椅子に座った裸の男の死に対して、皆が深い嘆きにくれている様が描かれています。普通の男に描かれていますが、きっとキリストなんでしょうね。日常風景で描かれた宗教画がこの時代、結構、流行っていたような気がします。そうそう、フリッツ・フォン・ウーデの作品がそうですね。その影響でしょうか。

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マックス・ベックマンの《自分自身の肖像》。1936年、ベックマン、52歳頃の作品です。珍しく彫刻作品です。初めて見ました。

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マックス・ベックマンの《灰色の大波》。1905年、ベックマン、21歳頃の作品です。ベックマンはヴァイマールの絵画スクールで学んだ後、1905年の夏に北海からユトランドに行き、そこで絵を描きました。海の風景を見て、その形と色の抽象化を探求し、フランスの前衛を指針とした作品を仕上げました。印象派よりも輪郭が堅固で、自身の道を進むベックマンの姿が明確に見えます。

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当ブログでこんなにまとめてベックマンの作品をご紹介するのは初めてです。残念ながら、表現主義的な作品がほとんどなかったのですが、ベックマンの一端はお伝えできたでしょう。
20世紀の絵画はまだまだ続きます。是非、お付き合いくださいね。



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ハンブルク市立美術館:ドラン、ピカソ、マルク、カンディンスキー、ヴラマンク、ヤウレンスキー、マッケ

2018年8月22日水曜日@ハンブルク/4回目

今日はハンブルクHamburgでゆったり散策。まずはハンブルク市立美術館Hamburger Kunsthalleで名画鑑賞。
2階の常設展示室で20世紀の作品の展示を見て回っているところです。ベックマンのコレクションの展示室を出たところです。

次はアンドレ・ドランの《静物》。1911年、ドラン、31歳頃の作品です。アンドレ・ドランは、フォーヴィスムのフランスの画家で、この作品のような静物画も得意なジャンルにしていました。これはキュービズム風の作品ですね。

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パブロ・ピカソの《画商クロヴィス・サゴ》。1909年、ピカソ、28歳頃の作品です。かつてサーカス・メドラーノで道化師として働いていた古物商クロヴィス・サゴは若いピカソの作品を最初に取り扱うことのできた画商の一人になりました。ピカソは画商サゴの顔を仮面のように描きながら、キュビズムの道を探り始めました。色を減らし、ブラシストロークを工夫しながら、新しい絵画様式を確立していくようになります。

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パブロ・ピカソの《鼻が折れたピカドールの頭》。1903年、ピカソ、22歳頃の作品です。ピカソはパリに滞在時、ロダンの作品中に鼻の折れた男を見て、そのイメージをもとにして、バルセロナでこのピカドールの頭部の彫像を制作しました。ピカソは他の芸術家の作品からインスピレーションを得て、自分の作品を創造することが得意ですが、こんなに若い頃に彫刻作品でもその才を発揮していたんですね。

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次の展示室は《青および他の色から》という謎めいたメッセージが付けられています。どうやら青というのは青騎士der Blaue Reiterに関連しているようです。

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まずは青騎士の旗手であるフランツ・マルクの《猿のフリーズ》。1911年、マルク、31歳頃の作品です。マルク得意の動物が主題の絵画です。でも猿が描かれた作品は珍しいですね。同じ形の猿が繰り返し描かれて、リズムを作っています。装飾的な文様として描かれたとも言えます。背景の緑の植物、赤い山々、バラ色の空・・・すべてがマルクの内的世界として完璧に機能しています。

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次は青騎士の一方の旗手であるワシリー・カンディンスキーの《アラブ墓地》。1911年、カンディンスキー、43歳頃の作品です。イスラム教徒の墓地の描写は、カンディンスキーの1905年のチュニス旅行の思い出にまでさかのぼります。墓地という場所ではありますが、アフリカの明るい陽光を浴びて、賑やかな色彩が原色で描かれています。また、具象的な素材を抽象的に再構成し、美しいフォルムに描き上げているカンディンスキーの手際は見事です。

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モーリス・ド・ヴラマンクの《曳船》。1908~1910年、ヴラマンク、32~34歳頃の作品です。ヴラマンクもドランと同じく、フォーヴィスムのフランスの画家。1900年、シャトゥー出身の画家、アンドレ・ドランと偶然知り合って意気投合し、共同でアトリエを構えました。他者からは何ものをも受け付けなかったヴラマンクはファン・ゴッホにだけは少なからず影響を受けて、この作品にもゴッホの香りがします。

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アレクセイ・フォン・ヤウレンスキーの《ベゴニアのある静物》。1911年、ヤウレンスキー、46歳頃の作品です。青騎士にも関わったヤウレンスキーですが、この静物画でははっきりとセザンヌの影響が感じ取れます。一方、表現主義的な兆しもみせており、彼の画家としての多面性や他の画家たちとの幅広い交友も垣間見えます。

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アレクセイ・フォン・ヤウレンスキーの《オーベルストドルフ近くのオイ渓谷》。1912年、ヤウレンスキー、47歳頃の作品です。青騎士とは微妙な距離にあったヤウレンスキーではありましたが、この作品では青騎士、それもカンディンスキーの影響を色濃く受けていることがうかがわれます。曖昧な色合い、具象性がとろけたような形象は青騎士そのものです。

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アウグスト・マッケの《雪の中のマリエン教会》。1911年、マッケ、24歳頃の作品です。マッケは青騎士のメンバーの一人。この作品は直線が活かされた構図で青騎士のなかでは独自の作風を保っています。マッケはこの頃、ボンのボルンハイマー通り88番地(今日のアウグスト・マッケ・ハウス美術館)の家に住んでいました。彼は屋根裏部屋をスタジオとして使用し、そこから街の南側の窓からの景色を数回描いています。この作品もその一枚です。

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アウグスト・マッケの《花咲く垣根のある我らが庭》。1912年、マッケ、25歳頃の作品です。この作品はボンで描かれました。彼の妻のエリザベス・マッケは回顧録で次のように述べています。「春には、すべてのものが花の海に浸っていました。家の後ろには大きな庭、納屋、菜園があります。」 鮮やかな緑の芝生には、花と繁茂する植物が近くにあります。マッケはしっかりと厚塗りの油絵の具で画面を塗っています。彼は家族(妻と息子)を中心にしていて、芸術的または社会的慣習に疑問を投げかけたり、政治的意図を追求したりする代わりに、当時の自分の環境により関心を抱いていました。彼は自分の生き方と仕事を「自然の喜び」と表現していました。その彼に悲劇が訪れるのはわずか2年先のことです。

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アウグスト・マッケの《公園の母と子》。1914年、マッケ、27歳頃の作品です。第一次世界大戦の前夜、アウグスト・マッケと彼の家族はスイスの町ヒルターフィンゲンで幸せで屈託のない月日を過ごしました。彼らのトゥーン湖への避難は、遠く離れたベルリンでの政治的緊張と芸術上の闘争を忘れさせました。 マッケは非常に生産的でした。 この絵は、妻のエリザベスと息子のウォルターが水辺を歩いている様子を描いています。 絵のように単純化された2つの大きな後ろ姿は、緑豊かな植物に囲まれた光に満ちた小道を歩いています。 その光景はあたかも楽園に変容するかに見えます。
この絵画は、マッケの芸術の基本的な特徴、つまり自然と人間のアルカディアの調和の祝福を表しています。 マッケは、明暗、形と線、面と空間を調和した全体に組み合わせ、重厚で時代を超越したような構成を構築しています。
しかし、この彼の幸福な時代はこの年に勃発した第1次世界大戦の波に飲み込まれ、若干、27歳でマッケは戦死します。青騎士の仲間のフランツ・マルクと同様に過酷な運命にさらされるわけです。マッケとマルク、もう少し、彼らに時間を与えてやりたかった・・・。

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青騎士の画家たちの作品に続くのはドイツ表現主義の雄、エルンスト・ルートヴィッヒ・キルヒナーのコレクションです。



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ハンブルク市立美術館:キルヒナー

2018年8月22日水曜日@ハンブルク/5回目

今日はハンブルクHamburgでゆったり散策。まずはハンブルク市立美術館Hamburger Kunsthalleで名画鑑賞。
2階の常設展示室で20世紀の作品の展示を見て回っているところです。

次はエルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナーの展示室です。この旅の初めにデュッセルドルフK20州立美術舘で素晴らしい作品を見たばかりですが、またしても再会します。
キルヒナーはベックマンと並ぶドイツ表現主義を代表する画家です。ドレスデンで画家グループ「ブリュッケDie Brücke」を結成して、従来のアカデミックな芸術に反抗する若手画家として活動しました。キルヒナーも当然、ナチスから退廃芸術の烙印を押され、そのショックから、1938年にピストル自殺を遂げます。退廃芸術のそしりを受けた多くの画家の中で、saraiの脳裏に真っ先に浮かぶのはキルヒナーとベックマンの二人です。ヨーロッパの美術館では、無意識のうちに、この二人の作品を探して、見入ってしまいます。そして、いかにもヒットラーに嫌われそうな彼らの作品に深い感慨を覚えてしまいます。キルヒナーの作品は、どぎつい色彩と激しいフォルムで実に表現主義的です。その作品群を見ていきます。

エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナーの《モーリッツブルクの家》。1910年、キルヒナー、30歳頃の作品です。
モーリッツブルクはドレスデン近郊で、湖の中に建つモーリッツブルク城で有名です。キルヒナーは毎夏、画家グループのブリュッケの仲間と遊びに出かけていたそうです。saraiも10年以上前にSLに乗って出かけたことがありました。そのときにお城の前に小さな村がありましたが、この家はその中の一軒なのでしょうか。この作品はキルヒナーにしては比較的、マイルドな感じで描かれています。初期の青騎士の作品に通じるようなものを感じます。

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エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナーの《画家とモデル》。1910年、キルヒナー、30歳頃の作品です。1926年にベルリンからダボスに輸送中に損傷を受けて、彼自身の手で新しい描き方で修復されました。
画家グループのブリュッケにとって、女性モデルは芸術的な創造の動機となるもので、アカデミックな伝統に反して、モデルの裸の体を野性的に描きました。また、彼らのホーム・スタディオでは、そこを創造的なシェルターとして、生活と仕事の融合を目指した活動の場としました。この作品では画家がベッドから抜け出して、素早くコートをまとって、絵筆をとる姿が画面の中心にあり、ベッドに残ったモデル(パートナー)は服を着て、ポーズをとろうとしているところです。作品は原色の色使いと大胆なフォルムでキルヒナーの特徴が浮き彫りになっています。

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エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナーの《のんびりした女の子たち》。1911年、キルヒナー、31歳頃の作品です。
モデルの女の子たちはホーム・スタディオでのんびりした姿を見せています。キルヒナーの描き方も珍しく、装飾的です。リラックスして描いた作品のようです。

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エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナーの《フェーマルン島のアパート(フェーマルン島 Ⅰ)》。1913年、キルヒナー、33歳頃の作品です。
フェーマルン島はモーリッツブルクと同じく、キルヒナーとブリュッケの仲間たちが夏を過ごしたところで、バルト海南部にあるドイツのシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州に属する島です。ドイツで3番目に大きな島です。ドイツ本土とはフェーマルン・スンド海峡で隔てられており、フェーマルン・スンド橋が1963年に架けられました。その島にあるアパートが描かれています。まるでファン・ゴッホの《オーヴェールの教会》のように描かれていますね。アパートの前を歩く一組の男女もいわくありげです。

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エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナーの《鉄の鍛冶屋》。1915年、キルヒナー、35歳頃の作品です。
珍しく彫像です。作られたのは第一次世界大戦中です。この頃、ドイツでは戦争の象徴として、多くの鉄の鍛冶屋の像が作られたそうですが、この彫像との関連は分かりません。

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エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナーの《白い牛》。1920年、キルヒナー、40歳頃の作品です。
キルヒナーの描いた動物とは珍しい。マルクとまた違った描き方で面白いですが、青騎士風でもあり、気になる作品です。このとき、動物を主なモチーフにしていたマルクは第1次世界大戦で戦死して、もう、この世にはいません。

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エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナーの《居間》。1923年、キルヒナー、43歳頃の作品です。
ここでもキルヒナーの描く絵の画面の中心は自画像です。彼は画面からこちらを覗き込んでいます。思わずキルヒナーと視線が合いそうになります。原色系の色彩はもう病的ですらあります。キルヒナーの精神がむしばまれているのが痛切に感じられます。

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エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナーの《人々の前のカップル》。1924年、キルヒナー、44歳頃の作品です。
裸で歩くカップルの男性はキルヒナー自身なのでしょうか。人々に嘲笑されているようです。何と痛々しい作品でしょう。楽園を追放されたアダムとイヴのようにも見えます。ブリュッケ結成時の野心に満ちた作風は一変しています。ダボスに居を移して、7年ほどですが、この14年後にナチスに退廃芸術のレッテルを貼られたことでダボスの自宅でピストル自殺を遂げます。しかし、もう、この時点でかなり、精神的な問題を抱えていたようです。繊細な彼の神経では、激動の時代の波に抗しきれなかったようです。

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キルヒナーの作品は以前、ベルン市立美術館の一室を占めていた大コレクションでも見ましたが、この美術館のコレクションも素晴らしいです。
次もドイツ表現主義のエミール・ノルデの大コレクションです。ノルデも画家グループ「ブリュッケDie Brücke」に参加していました。



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ハンブルク市立美術館:エミール・ノルデ

2018年8月22日水曜日@ハンブルク/6回目

今日はハンブルクHamburgでゆったり散策。まずはハンブルク市立美術館Hamburger Kunsthalleで名画鑑賞。
2階の常設展示室で20世紀の作品の展示を見て回っているところです。

ドイツ表現派の旗手、エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナーの充実したコレクションを見たところです。そのキルヒナーやマックス・ベックマンと並ぶドイツ表現派のエミール・ノルデの展示室に進みます。

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エミール・ノルデはドイツ人の画家(出身地のノルデは現在はデンマーク領)で表現主義的な傾向の絵画を描きましたが、どのグループにも属さずに、あくまでも独自の道を行きました。一時、キルヒナーたちの芸術家集団のブリュッケに所属しましたが、長続きせずに1年ほどで脱退しました。彼もまた、ナチスにより、退廃芸術の烙印を押されることになります。彼はナチス党員であったにもかかわらずです。皮肉なものですね。しかし、戦後は退廃芸術家であったことがプラス方向に働き、広く社会に認められることになります。ところがまた、今年になって、彼の過去が洗い直されることになります。新しい研究でノルデがナチスに深く傾倒し、反ユダヤ主義的な動きをしていたことが分かり、にわかにノルデの作品は批判の嵐にさらされているそうです。長くドイツ首相の執務室に飾られていた2点の絵画もメルケル首相によって、取りはずされたそうです。近年、芸術家の人となりとその芸術は強くリンクされることが社会的な風潮になっています。その波に飲み込まれて、ノルデの作品も消え去る運命にあるのでしょうか。芸術家本人とその作品は一体化したものなのか、独立したものなのか。今後、深く考えていくべき問題でしょうね。とりあえず、このハンブルク市立美術館を訪れた時点では、ノルデの作品は美術館の中心的な役割を担っていました。その作品群を見ていきましょう。

エミール・ノルデの《風の中の船乗り》。1910年、ノルデ、43歳頃の作品です。
強い風を受けて傾きながら進む帆船が暗い画面の中に描かれています。大胆なタッチはファン・ゴッホの影響を感じます。色彩は暗めに渋い表現です。

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エミール・ノルデの《エルベ川のタグボート》。1910年、ノルデ、43歳頃の作品です。
もくもくと煙を上げて、荒波の中を進む船が大胆なタッチで描かれています。色彩表現も原色系ではなく、表現主義というよりもファン・ゴッホの影響を感じます。

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エミール・ノルデの《紳士と淑女(赤い室内)》。1911年、ノルデ、44歳頃の作品です。
赤い部屋の中でワイングラスを挟んで座る正装の男女が極めて単純化されたフォルムと簡明な色彩で描かれています。まさにドイツ表現主義の王道をいくような作品です。

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エミール・ノルデの《エジプトの聖マリア(三連祭壇画)》。1912年、ノルデ、45歳頃の作品です。
3部構成の作品は、エジプトのマリアのあまり知られていない伝説を描いています。エジプトのマリアはキリスト教の聖人で、特に正教会で、第一の聖人の聖母マリアに次ぐ第二の聖人とも呼ばれ、極めて篤く崇敬されているそうです。ノルデはこの頃、宗教を題材とした作品に取り組んでいました。表現主義はいかにも宗教画には不似合いな感じですが、それを逆手にとって、視覚的な魅力を排除して、本質的な価値に踏み込もうとした意欲作ですが、意外に絵画ファンにも受け入れられました。

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三連祭壇画の左側の絵画《アレクサンドリア港》です。マリアは、エルサレムへの巡礼を決心するまで、アレクサンドリアの売春婦でした。淫蕩にふける裸のマリアが実に表現主義的に描き出されています。

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三連祭壇画の中央の絵画《転換》です。マリアは、聖墳墓教会の入り口で立ち入ることができませんでした。聖母子像の前で祈りをささげ、彼女自身、キリスト教精神に目覚めた後、ようやく、立ち入ることができました。赤いドレスのマリアの一心不乱の必死な姿が見事に表現されています。

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三連祭壇画の右側の絵画《砂漠での死》です。数年後、マリアは砂漠で後悔して亡くなり、パレスチナの聖ゾシマがマリアを発見しました。彼がまだ彼女を埋めることを考えている間に、ライオンが来て、彼の足で墓を掘りました。荘厳なシーンが描き切れています。ここまでくると、表現手法が何かよりも、どこまで本質的な内容に迫っているかが重要であることが分かります。

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以上の三連祭壇画はハンブルク市立美術館の至宝であり、ノルデ自身もこの作品がこの美術館に収められることを望んでいたそうです。


エミール・ノルデの《海 VI 》。1915年、ノルデ、48歳頃の作品です。
海の荒波が主題です。バルト海でしょうか。出身地近くのせいか、よくよく海を描いていますね。それも表現主義ではない描き方に思えます。素直に自然に向かい合えたのでしょう。

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エミール・ノルデの《青いアイリスII》。1915年、ノルデ、48歳頃の作品です。
原色系の色彩が目立ちます。それも主題の青いアイリスよりも赤が強烈です。フォルムも単純化されています。ですが、何故か、それほど表現主義的には感じません。不思議です。

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エミール・ノルデの《ヒュルトフト・ホフHÜLLTOFT HOF》。1932年、ノルデ、65歳頃の作品です。
悲観的で脅迫的で、空は広大な沼地の上にアーチ状になっています。あちこちで、明るいレモンイエローが、薄められたオイルペイントで塗られた雲の灰色を突き破り、雷のような不吉な気分を強めます。画面の下端では、農家、ヒュルトフト・ホフHÜLLTOFT HOFは明るい色のスポットとしてうずくまっています。エミール・ノルデは、1926年にドイツとデンマークの国境近くに定住して以来、そばに建つ穀物倉庫の明るいオレンジ色で強調された特徴的な白い納屋の扉がある隣の建物(ヒュルトフト・ホフ)の南にある自分の土地シービュールからこの景色を見ていました。こういう作品も表現主義と呼ぶのでしょうか。ちょっとイメージが違いますね。なかなか美しい絵画です。

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ノルデの力作が並んでいました。これらの絵画もノルデの個人としての評価の凋落とともに消え去るとしたら、残念なことです。まあ、しかし、それも運命かな。
いよいよ、20世紀の作品も残り少なくなり、クレーの名画との対面が近くなってきました。それを見るためにこの美術館を訪れたようなものです。



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ハンブルク市立美術館:ココシュカ、カンディンスキー、そして、クレーの傑作《金色の魚》

2018年8月22日水曜日@ハンブルク/7回目

今日はハンブルクHamburgでゆったり散策。まずはハンブルク市立美術館Hamburger Kunsthalleで名画鑑賞。
2階の常設展示室で20世紀の作品の展示を見て回っているところです。

ドイツ表現派の一人、エミール・ノルデのコレクションを見たところです。この後からは名作が揃いますからね。ココシュカ、カンディンスキー、クレーと続いていきます。

オスカー・ココシュカの《娘と粘土人形》。1922年、ココシュカ、36歳頃の作品です。表現主義の画家のひとりとして、ここにココシュカの作品が展示されているんですね。虚を突かれた思いです。ココシュカと言えば、saraiにとって、《風の花嫁》(バーゼル市立美術館所蔵)がすべてです。saraiの最愛の絵画です。マーラー未亡人のアルマへの燃えるような愛が昇華した作品ですが、現実では、ココシュカが第1次世界大戦の過酷な従軍から戻ると、アルマは別の人物(ヴァルター・グロピウス)と結婚していて、彼の恋愛は成就することはありませんでした。しかし、思い詰めたココシュカにとって、アルマは永遠の恋人。その思いは奇怪な形で結実します。アルマを象った人形を女性作家ヘルミーネ・モースに制作を依頼します。化け物のような人形が出来上がり、ココシュカはそのアルマ人形に魅入られたようになります。結局、その人形との生活は3年ほど続きますが、この作品、《娘と粘土人形》はそのアルマ人形を破棄した頃のものです。この作品は女性彫刻家アンゲリカ・ブルーノ=シュミットのアトリエで彼女が堕胎した子の毛髪を植え付けた粘土人形をココシュカに抱かせようとしたときの恐怖体験に基づいているそうです。娘が粘土人形を抱えている構図はピエタを連想するものです。ココシュカの人形に向ける千々に錯綜した複雑な思いが表現主義的に描き出されている、何とも言えない作品です。

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ワシリー・カンディンスキーの《白い点(コンポジション248)》。1923年、カンディンスキー、57歳頃の作品です。カンディンスキーは青騎士時代を経て、この作品を制作した頃はバウハウスで教鞭をとっていました。青騎士からの仲間、クレーも同僚です。青騎士で抽象化を深めた彼の絵画はいよいよ、幾何学的な文様を用いた純粋な抽象絵画に向かいます。彼の代名詞でもある「コンポジションの時代」です。この作品も一連のコンポジションシリーズの一枚です。ジグザグの線、三角形、円、湾曲した形、孤立した直線が互いに接触または貫通する多数の連動要素を示しています。タイトル名の白い点は、黒で縁取られた抽象的な構成の右上隅に暗く曇った星のように浮かんでいます。作品全体は音楽のようなリズミカルな動きに満ちています。ピエト・モンドリアンと並んで、抽象絵画を確立した創設者の渾身の一枚です。

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さあ、いよいよ、この美術館の目玉のパウル・クレーの《金色の魚》です。本当にクレーの才能に満ちた作品です。暗めに抑えられた色彩感が素晴らしいです。人が全然たかっていないのも凄いです。

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1925年、クレー、46歳頃の作品です。クレーは1921年から1931年までバウハウスで教鞭をとりました。クレーをバウハウスに招聘したのは、ココシュカを失意のどん底に追い込んだアルマの再婚相手のヴァルター・グロピウスでした。グロピウスは近代建築を代表する大建築家でバウハウスの初代校長を務めていました。その傍らにはアルマがいたわけですね。ともあれ、このバウハウス時代はクレーが絵画の探求に打ち込んだ時代で、クレーの黄金時代と言えます。その時期に生み出された大傑作がこの《金色の魚》です。暗い海の中でまるで発光しているかのように存在感を発揮している魚の神々しさは圧倒的です。誰がこれだけの画力を持ちえたでしょう。もう、これ以上の感想は必要ありませんね。

クレーの作品が続きます。

パウル・クレーの《岩の多い海岸》。1931年、クレー、52歳頃の作品です。バウハウス時代の終わり頃の作品ですね。幾何学的に抽象化されていますが、そのデザイン的な構成の妙で美しい具象作品にも思えてしまいます。大きな3角や4角の構図で、画面いっぱいに小さな点が描画されているのはクレー独特の作風です。この作風をとことんまで追求した名作《パルナッソス山へ》(ベルン美術館)はこの作品の翌年に生み出されます。

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パウル・クレーの《町の中心》。1937年、クレー、58歳頃の作品です。バウハウスからデュッセルドルフに移ったクレーはナチスの弾圧にさらされます。スイスのベルンに逃れますが、銀行口座も凍結され、病に倒れます。そのクレーがようやく復調し、再び、旺盛な制作活動に戻ったのが、この1937年のことです。もう彼に残された日々は短いのですが、最後の芸術活動で幾何学的な抽象絵画に取り組んだのがこの作品です。

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パウル・クレーの《高架橋の革命》。1937年、クレー、58歳頃の作品です。上の作品と同時期の抽象的な作品です。高架橋のアーチが並んでいます。しかし、そのアーチは不規則に並び、橋脚も異様な細さで描かれています。高架橋の頑丈で機能的なアーキテクチャが破壊された姿で描かれているようです。戦争が迫る不穏な情勢を描き出すとともに、画家自身の不安な感情を表現しているかのようです。

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この後、クレーは原因不明の難病である皮膚硬化症が悪化していき、それでも創作活動を続けますが、3年後にロカルノ近郊のサンタニェーゼ療養所で不遇な死を迎えます。希代の天才芸術家は不遇な人生の中で我々に素晴らしい遺産を残してくれました。

さあ、最後にもう一度、名作《金色の魚》を見ておきましょう。何という輝かしさでしょう。

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今回の旅はクレーに縁のある旅になりました。
それでも、ハンブルク市立美術館のコレクションはまだまだ続きます。



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ハンブルク市立美術館:エルンスト、デルヴォー、マグリット、ダリ、そして、ムンクの知られざる傑作

2018年8月22日水曜日@ハンブルク/8回目

今日はハンブルクHamburgでゆったり散策。まずはハンブルク市立美術館Hamburger Kunsthalleで名画鑑賞。
2階の常設展示室で20世紀の作品の展示を見て回っているところです。

クレーの名作を見て、感動しきりのところです。表現主義、抽象絵画に続くのはシュールレアリスム。錚々たる画家たちが続きます。

マックス・エルンストの《骨の花》。1928年、エルンスト、37歳頃の作品です。エルンストも当然、ナチスに退廃芸術とそしられた一人です。この作品ではマックス・エルンストが創造した、自然のランダムな構造から絵画制作するための技法、フロッタージュを用いています。フロッタージュでは、紙に木目をこすりつけ、その表面のでこぼこを写し取ります。 この絵画では、彼はさらに技術を発展させ、純粋に絵画的な手段で自然な構造の印象を実現しました。 浮き彫りのような線は魚の骨のように見え、一部の塗装面は大理石や貝殻を連想させます。 同時に、コラージュのような絵画は静物画にも見えます。表面は陶製の花瓶のような光沢が感じられます。

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マックス・エルンストの《人物像》。1930年、エルンスト、39歳頃の作品です。画像は人間のように見え、さらには増殖する植物や羽を広げた鳥のようにも見えます。こういう変容・変身は、マックス・エルンストの芸術の中心であり、画像の主題と実践の両面で重要です。多くの作品で、このシュールレアリストである彼は混在する存在、画像の新しい形への変容、神話、そしてキメラの両義性を扱いました。彼は鳥を特別な重要性があると考えました。なぜなら、彼はそれを人間の象徴として、また分身として理解していたからです。

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ポール・デルヴォーの《女性と石(浜辺の2人の女性)》。1934年、デルヴォー、37歳頃の作品です。ポール・デルヴォーもまた、ベルギーのシュールレアリストです。16世紀のマニエリスト達が描いたような女性像や、独自の夢とノスタルジーの世界を描いています。この作品では、浜辺で陰毛をあらわにした裸の女性たちが無機的に描かれています。saraiはデルヴォーのアトリエが改装されたポール・デルヴォー美術館Museum Paul Delvauxがあるシント・イデスバルドSint-Idesbaldを4年前の2015年に訪れましたが、その近くにある北海のリゾート地のビーチがこの絵に描かれている浜辺のイメージとぴったりと重なります。現実の風景にあり得ないような無機的な女性たちを重ね合わせることでシュールな世界を表現しています。

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ルネ・マグリットの《素早い希望(L'espoir rapide)》。1927年、マグリット、29歳頃の作品です。ルネ・マグリットもまた、ベルギーを代表するシュールレアリストです。マグリットは古典的とも言える描き方で具象的で分かりやすい画面を丁寧に仕上げますが、そこに描かれたものは摩訶不思議な光景になっています。異色のシュールレアリストです。この作品の画面には、木、雲、道、馬、地平線上の村...フランス語の言葉がきちんと書かれています。あたかも暗緑色の黒板に白いチョークで書かれているかのようです。画面構成は、画像表面に分散した5つのフォルムに割り当てられています。しかし、これらは私たちの予期するものになっていません。それらはあいまいで落ち着いた色で不気味に見え、風景全体はありえないような何かに思えます。表象とは何か、幻想とは何か、現実とは何か・・・そんなふうにこの絵を見る我々を不安定な心理状態にかりたてます。まさにマグリットの幻想世界です。

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サルバドール・ダリの《流動的恐怖の誕生》。1932年、ダリ、28歳頃の作品です。サルバドール・ダリは奇想天外とも思えるシュールな作品を数々制作したシュールレアリストです。この作品も幻想的な砂漠のオアシスが描かれています。シュールレアリスム、超現実という言葉がこれ以上相応しい絵画があるでしょうか。画面の丁寧な仕上げも超絶的です。

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この20世紀の作品の最後にぽつんと展示されていたのは、エドヴァルド・ムンクの何とも魅力的な一枚です。こんなムンクの絵があるのですね。

エドヴァルド・ムンクの《横たわる女性のヌード》。1913/14年、ムンク、50/51歳頃の作品です。これはあるいは未完成なのでしょうか。その未完成的なところもこの作品の魅力です。この頃、ムンクはノルウェーに戻り、モス近郊の建物を借りてアトリエとしていました。ムンクのアトリエを訪れた人は、彼が作品に「荒療治」を施すのを目にしました。これは、作品をあえて野外に放置し、風雨や日光にさらされたり犬が引っかいたりするのに任せ、色彩が「落ち着く」まで待つという独特の方法でした。逆に、絵にワニスをかけて保護することに対しては、絵の呼吸を妨げるとして反対しました。この作品もそうした手法で荒療治を受けて、独特の「落ち着いた」雰囲気になったものなのでしょうか。妙に心に迫ってくる傑作です。いいものを見せてもらいました。

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この後はゴシック期頃からルネッサンス期の古典的な絵画の展示が始まります。



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ハンブルク市立美術館:ゴシックからルネッサンス期

2018年8月22日水曜日@ハンブルク/9回目

今日はハンブルクHamburgでゆったり散策。まずはハンブルク市立美術館Hamburger Kunsthalleで名画鑑賞。
2階の常設展示室で20世紀の作品の展示を見終わりました。
この後はゴシック期頃からルネッサンス期の古典的な絵画を鑑賞します。

ヒンリク・ファンホフの《頭飾り(ヘッドドレス)の聖母マリア》。1480年頃の作品です。ヒンリク・ファンホフは残されている作品が少なく、生年は不詳で1485年に亡くなった後期ゴシックの画家です。彼はハンブルクで活躍しました。この作品は彼の最も有名な作品です。とても優美で、色彩感に優れた傑作です。あまり古さを感じさせないバランス感のよい作品ですね。

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ベルトラム・フォン・ミンデン(マイスターベルトラムあるいはミンデンのマイスターとも呼ばれる)の《ハンブルクの聖ペトリ教会のかつての主祭壇の祭壇飾り(グラボウ祭壇)》。1379/83年、ベルトラム、34/38歳頃の作品です。ベルトラムは主に宗教芸術において、ドイツの国際的に知られたゴシック芸術家でした。ベルトラムはミンデンで生まれ、1367年にハンブルクで最初に記録されて以来、彼の人生の残りの間、ずっとそこに住んで活躍しました。このグラボウ祭壇画は彼の最も有名な現存する作品で、この時代の最大かつ最も重要な北ドイツの絵画です。祭壇画のパネルは天地創造と救済の歴史の場面で構成されています。24枚のパネルは受胎告知を始めとする聖書の物語の数々が描き込まれています。この祭壇画は1726年、聖ペトリ教会からグラボウのゲオルク教会に移され、1903年にハンブルク市立美術館に収蔵されました。

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同じく、ベルトラム・フォン・ミンデンの《ハンブルクの聖ペトリ教会のかつての主祭壇の祭壇飾り(グラボウ祭壇)》。1379/83年、ベルトラム、34/38歳頃の作品です。このグラボウ祭壇は彫刻作品群です。当時の芸術家は絵画も彫刻も相当の腕前だったことが分かります。この祭壇彫刻は上記の祭壇画とともに1726年、聖ペトリ教会からグラボウのゲオルク教会に移され、1903年にハンブルク市立美術館に収蔵されました。ハンブルク市立美術館で必見の作品です。

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ハンス・ホルバイン(父)の《キリストの神殿奉献》。1500/01年、ホルバイン(父)、40/41歳頃の作品です。この作者のハンス・ホルバインは有名な肖像画家のハンス・ホルバインと同名ですが、その父親のほうです。迂闊にもハンス・ホルバインに同名の父親がいるとは知らず、息子の作品と思ってしまいました。この作品は律法で定められた産後の清めの期間を終えた後、モーセの律法に従って、マリアがエルサレムの神殿にキリストを捧げに行った場面を描いています。フランドル絵画のような美しい作品ですね。ホルバインの父親もなかなか素晴らしい画家ではないですか。

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南オランダの画家(作者不詳)の《聖カタリナの神秘の結婚》。1515/1520年頃の作品です。アレクサンドリアの聖カタリナは十四救難聖人の1人で、『黄金伝説』によるとキプロス島の王家の出身で、優れた学識の持ち主だったカタリナは女王になったのち、ある隠者から洗礼を受けてキリスト教に改宗し、キリストと神秘的な結婚をしたと伝えられています。この作品は実に精緻なフランドル絵画です。その精密な描画は見事としか言えません。名もなき画家ですが、名前は伝わらなくても、この作品の魅力は未来永劫、輝き続けるでしょう。

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ルーカス・クラナッハ(子)の《カリタスの園》。1500/01年、クラナッハ(子)、22歳頃の作品です。これも親子同名の画家、ルーカス・クラナッハですが、今度は有名な父親に隠れることの多い息子のほうです。父親そっくりの画法ですが、やはり、その画力の違いは残念ですが、現れます。特に女性の顔の魅力が描き出せていないのが致命的です。

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バスティアーノ・マイナルディの《聖母子、洗礼者ヨハネと天使たち》。1495年以降、マイナルディ、35歳以降の作品です。バスティアーノ・マイナルディはサンジミニャーノで生まれたイタリアの画家でした 。彼の人生について知られていることのほとんどは、 ジョルジオ・ヴァザーリの著作、《芸術家列伝》からです。彼はフィレンツェの画家、ドメニコ・ギルランダイオの弟子で義理の兄弟でもありました。聖母子を多く描いたそうです。この作品もその一つ。ちょっと、ボッティチェリに似た画風が魅力です。

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古典の巨匠の作品が続きます。これからは有名な画家が登場してきます。知らない画家の作品の紹介はとても疲れます。ふーっ・・・。



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ハンブルク市立美術館:レンブラント、デ・ホーホ、ヴァン・ダイク、ルーベンス

2018年8月22日水曜日@ハンブルク/10回目

今日はハンブルクHamburgでゆったり散策。まずはハンブルク市立美術館Hamburger Kunsthalleで名画鑑賞。
2階の常設展示室で20世紀の作品の展示から古典的な絵画の展示に移りました。ゴシック、ルネッサンスを経て、オランダ黄金時代の作品が展示されています。

レンブラント・ファン・レインの《寺院のシメオンとハンナ》。1627年、レンブラント、21歳頃の作品です。この頃、レンブラントは画家としてデビューしたてで、小さなサイズで聖書の場面を描いた宗教画シリーズを展開していました。本作もその一枚です。この作品では、預言者シメオンが赤ん坊のイエスを腕に抱えており、そこから明るい輝きが放たれているようです。その背後には、賛美するように手を広げた預言者ハンナが立っています。ふたりが幼子イエスの中に救世主の姿を見出し、シメオンが祈っている両親のマリアとジョセフに預言を発表する瞬間が描き出されています。若きレンブラントがその才能を開花させたことがこの作品で実感させれます。

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レンブラント・ファン・レインの《マウリッツ・ホイヘンス、ハーグ市評議会秘書官》。1632年、レンブラント、26歳頃の作品です。ハーグ市評議会秘書官のホイヘンスの顔の左半分と彼の黒いローブの左肩の上の白いレースの襟は上からの光で照らされ、彼の体の右半分は暗いままで灰色の背景に対してかろうじて目立つ程度です。レンブラントは、同じ年にハーグの知事フレデリック・ヘンドリクの妻アマリア・ファン・ソルムスの肖像画を描いています。おそらく、レンブラントはその縁でホイヘンスの知り合いになったようです。レンブラントは肖像画家としてのキャリアをこうしてスタートさせたところですが、既に傑出した才能は明らかです。

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ピーテル・デ・ホーホの《愛の使い》。1670年頃、デ・ホーホ、41歳頃の作品です。ピーテル・デ・ホーホはオランダ黄金時代の風俗画家の一人に数えられ、とくにデルフト時代の風俗画はデルフト派の絵画として高く評価されています。ヨハネス・フェルメールとほぼ同時代を過ごし、フェルメールの作品にも影響を与えていることでも知られています。本作もいかにもフェルメールを連想させるような画面になっています。この作品は裕福なオランダ市民の私生活からのエレガントなシーンを描いています。身なりの良い若い女性が玄関で男性を応対し、その男性は主人に代わって愛の使者として彼女に手紙を届けます。女性はドレスの膝をつまみ、恥ずかしそうにメッセンジャーを見つめますが、好奇心と期待にあふれた様子です。フェルメールの作品と同様に絵画の中に日常のひとこまのドラマを封じ込めた風俗画の典型です。遠近法や光と影の使い方など、フェルメールの絵画を見ているような錯覚に襲われます。ただ、フェルメールの作品はさらに超精密な描き方が秀逸なのですが・・・。

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アンソニー・ヴァン・ダイクの《紳士の肖像》。1618年頃、ヴァン・ダイク、19歳頃の作品です。ヴァン・ダイクは若くして、その才能がめざましく、本作を描いた頃はマスターとして独り立ちして、アントウェルペンに工房を開くとともに、当時隆盛を誇った巨匠ピーテル・パウル・ルーベンスの有力な弟子の一人となっていました。数年後にはルーベンスの筆頭助手となりました。本作は未知の貴族を描いた肖像ですが、描かれた貴族は椅子の上でわずかに右に傾いて座り、こちらを真剣かつ批判的な眼差しで見ています。彼の左手は彼の足に、彼の右手はしっかりと彼の腰にかかっています。彼の立派な衣服は、彼が上流階級であることを示しています。彼は、花柄の高級シルク生地で作られた黒いローブを身に着けており、肩にも黒いケープをかけ、それは身体の周りを覆っています。レースで作られた白いラフと手の込んだ装飾が施された袖口が魅力的なコントラストを形作っています。右側の背景にある膨らんだ赤いカーテンからは、その向こうの風景がはっきりと見えるようになっています。後に肖像画家として大成するヴァン・ダイクは既にこの若い時代から才を発揮していたんですね。

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アンソニー・ヴァン・ダイクの《羊飼いの礼拝》。1632年頃、ヴァン・ダイク、33歳頃の作品です。ヴァン・ダイクは肖像画を得意にしていましたが、肖像画以外にも歴史画、宗教画、神話画などにも優れた才能を見せました。ヴァン・ダイクは1621年の終わり、22歳頃にはイタリアへと居を移し、ジェノヴァを拠点にイタリア各地で活躍することになります。その後、1627年、28歳頃にアントウェルペンへと戻り、5年の間フランドルの人々の肖像画を洗練された優美な作風で描きました。そして、イングランド王チャールズ1世に招かれて、ロンドンで肖像画家として一世を風靡することになりますが、本作はその直前に描かれたものでしょう。この時期のヴァン・ダイクは肖像画だけではなく、大規模な祭壇画など多くの宗教画を手がけましたが、この作品もそのひとつです。マリアに抱かれた幼子イエスが礼拝されている様子が描かれています。

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ピーテル・パウル・ルーベンスの《聖母被昇天》。1616年頃、ルーベンス、39歳頃の作品です。ヴァン・ダイクの師匠だった巨匠ルーベンスの作品です。ルーベンスは、ブリュッセル大聖堂のノートルダム礼拝堂の祭壇画の準備のためにオイルスケッチを作成しました。聖母被昇天は17世紀初頭のオランダ南部で最も人気のあったテーマの1つでした。この作品はルーベンスの美点がよく出た美しい絵画です。なお、このテーマの作品はルーベンスが繰り返し描いたもので、最も有名な作品はアントウェルペンの聖母大聖堂に収蔵されている作品でしょう。そのほか、ウィーンの美術史美術館に収蔵されている作品、デュッセルドルフのクンストパラスト美術館に収蔵されている作品、デン・ハーグのマウリッツハイス美術館に収蔵されている作品などがよく知られています。

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次はいよいよ、楽しみにしていたフリードリヒの充実したコレクションが並びます。



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ハンブルク市立美術館:フリードリヒの本格的なコレクションに遭遇!

2018年8月22日水曜日@ハンブルク/11回目

今日はハンブルクHamburgでゆったり散策。まずはハンブルク市立美術館Hamburger Kunsthalleで名画鑑賞。
2階の常設展示室で20世紀の作品の展示から古典的な絵画の展示に移りました。オランダ黄金時代の作品を見た後は、いよいよお待ちかねのフリードリヒです。既に地下の特別展示で数枚の作品は見ましたが、これから、本格的にフリードリヒの展示室です。フリードリヒと言えば、ベルリンの博物館島の旧ナショナル・ギャラリーAlte Nationalgalerieの3階のフリードリヒの部屋で見た合計15枚のフリードリヒの傑作群が圧倒的に素晴らしかったです。その感動は今でも忘れられません。そのときの記事はここここです。しかし、このハンブルク市立美術館でも10枚を超えるフリードリヒのコレクションに出会えるとは望外の喜びです。ドレスデンDresdenのノイエ・マイスター絵画館Galerie Neue Meisterですら、フリードリヒのコレクションは6枚だけでしたからね。

カスパー・ダーヴィト・フリードリヒの《オイビン、教会の遺跡》。1812年頃、フリードリヒ、38歳頃の作品です。1810年、『海辺の修道士』『樫の森の中の修道院』がプロイセン王室に買い上げられ、ベルリン美術アカデミーの在外会員になって、2年後の作品です。世の中に認められて、フリードリヒのロマン主義の作風はますます磨き上げられます。本作もフリードリヒの自然の中に朽ち果てる廃墟の森閑とした静けさを美しく描き上げています。

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カスパー・ダーヴィト・フリードリヒの《自由の戦士の墓(古代の英雄の墓)》。1812年頃、フリードリヒ、38歳頃の作品です。上の作品と同じ頃に描かれた作品です。

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フリードリヒの傑作『雲海の上の旅人』がベルリンに貸し出し中だったのは残念。とても楽しみにしていた作品でした。やはり、フリードリヒはベルリンで見ろというご託宣でしょうか。この美術館でフリードリヒの最高の傑作の筈です。

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カスパー・ダーヴィト・フリードリヒの《流れる雲》。1820年頃、フリードリヒ、46歳頃の作品です。雄大な大自然が描かれています。珍しく人影も人の営みもありません。ただ、大自然を眺めるフリードリヒの視線のみがあります。

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カスパー・ダーヴィト・フリードリヒの《グライフスヴァルト近くの草原》。1821/22年頃、フリードリヒ、47/48歳頃の作品です。今日でも、グライフスヴァルト市の西にある、この絵が描かれた場所を訪れることができます。そこからフリードリヒは、多少の理想化はあるものの、故郷の町のシルエットを正確に描き出しています。聖マリア教会、聖ニコラス大聖堂、聖ヤコビの塔、市庁舎の尾根は容易に認識できます。彼の作品の多くと同様に、フリードリヒは正確に風景を描いています。この作品の原型はおそらく1806年に地元で既に描いていたものです。ただし、彼の絵画は町の景色を忠実に再現することだけに限定されていたわけではありません。むしろ、グライフスヴァルトの町を対称的な構図の中心に配置しているようです。この町は地平線の上に置かれ、霞でおぼろげな印象にぼかされて、静かで青々とした緑の風景と、雲のない、光に満ちた空との間をつなぐものになっています。このように、2つの根本的に異なる存在である陸と空を相互に町の存在が仲介しています。フリードリヒにとって、自然と人間が創造したものを心象空間の中に再構成することが彼の絵画の中心的な関心事であったわけです。それこそがロマン主義のアプローチそのものでした。

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カスパー・ダーヴィト・フリードリヒの《ドレスデン近郊の丘と耕した畑》。1824/25年頃、フリードリヒ、50/51歳頃の作品です。一見、自然の風景だけが描かれたように見えます。しかし、そこには人間が耕した田園が広がり、ここでも自然と人間の調和が歌い上げられています。これがフリードリヒの理想とする風景なのでしょう。

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まだまだ、フリードリヒの素晴らしいコレクションは続きます。



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ハンブルク市立美術館:フリードリヒのコレクションを満喫

2018年8月22日水曜日@ハンブルク/12回目

今日はハンブルクHamburgでゆったり散策。まずはハンブルク市立美術館Hamburger Kunsthalleで名画鑑賞。
2階の常設展示室で20世紀の作品の展示から古典的な絵画の展示に移りました。現在、フリードリヒの展示室でフリードリヒの名品に魅了されています。

カスパー・ダーヴィト・フリードリヒの《初雪》。1827年頃、フリードリヒ、53歳頃の作品です。うっすらと雪を被った森の風景です。一本の道がここを歩む者の存在を見る人に考えさせるかのようです。

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カスパー・ダーヴィト・フリードリヒの《滝のあるモミの森》。1828年頃、フリードリヒ、54歳頃の作品です。深く暗い森の中を緩やかな滝が流れ落ちていく様が描かれています。ここには人の姿がまったく感じられません。自然そのものだけを描いたのはいかなる意図だったんでしょう。ロマン主義というよりも自然主義みたいですが、自然といってもフリードリヒの心の中で再構成された理想化された自然なのでしょう。
・・・と書いたのですが、配偶者から鋭い突っ込み。滝の横に人が立っているじゃないのってことです。そんな筈はと・・・とよくよく見ると、確かに黒い人の形があります。前言を翻さざるを得ませんね。人が美しい滝を見ているロマンに満ちたロマン主義そのものの作品です。それも控えめに人影を描いた抒情的な名作ですね。

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カスパー・ダーヴィト・フリードリヒの《ボヘミアの山の風景》。1830年頃、フリードリヒ、56歳頃の作品です。ボヘミアの山の風景は、フリードリヒが風景を単純化・抽象化する根本的な理解だけでなく、視覚的な調和に対する彼の特別な感覚も明らかにしています。草が茂った平野、低い山岳地帯の尾根、空を漂う雲-これらの3つのスペースを含む水平に層状になったストライプから、絵画の構図が構成されています。微妙な色の調和のとれた開墾地に対するフリードリヒの意識は、トウモロコシ畑でも明らかにされます。それは、中地に狭い黄色のストライプとして現れ、平野の緑のパレットと山の鉛灰色の間を仲介します。この山脈の地形がどこなのかということを明確に特定化できませんでした。おそらくそれは、スニェシュカ山を最高の頂に持つクルコノシェ(リーゼン)山脈の一部なのでしょう。このような地形の特定の問題は、フリードリッヒの絵画でしばしば発生します。彼は自然の探求でたいていは忠実にその事実に従いましたが、絵画では異なる地域から取り出した異なる地形の断片を自由に組み合わせました。

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カスパー・ダーヴィト・フリードリヒの《鍬の入った畑》。1830年頃、フリードリヒ、56歳頃の作品です。自然と人の営みの融合は何と美しい風景になるのでしょうか。これもフリードリヒの心の中で再構成し、理想化した心象風景なのでしょう。

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カスパー・ダーヴィト・フリードリヒの《月明かりの海岸》。1835/36年頃、フリードリヒ、61/62歳頃の作品です。この10年ほど前から、時流から外れたフリードリヒは徐々に忘れられていきました。絵も売れなくなり、貧しくなったフリードリヒは、ただひたすら森や荒野を彷徨い歩いていました。1835年、61歳のフリードリヒは遂に脳卒中で倒れてしまいました。一命は取り留めたものの、麻痺が残り、油彩画は描けなくなってしまいました。本作が彼の最後の油彩画となりました。この作品がとりわけ暗い作品になってしまったことにフリードリヒのファンとして、大変、心が痛みます。

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このハンブルク市立美術館で13枚ほどのフリードリヒの大コレクションを見て、ようやく、フリードリヒの代表的な作品のほとんどを見終えることができました。フリードリヒの絵画はドイツの美術館を中心に展示されています。saraiが見たのは以下の美術館です。

 ベルリンBerlinの博物館島の旧ナショナル・ギャラリーAlte Nationalgalerie
 ベルリンBerlinのシャルロッテンブルク宮殿Schloss Charlottenburg
 ドレスデンDresdenのノイエ・マイスター絵画館Galerie Neue Meister
 ミュンヘンMünchenのノイエ・ピナコテークNeue Pinakothek
 フランクフルトFrankfurtのゲーテ博物館Goethe Museum
 ウィーンWienの美術史美術館Kunsthistorisches Museum
 ヴィンタートゥールWinterthurのオスカー・ラインハルト美術館Kunst Museum Winterthur / Reinhart
 当美術館(ハンブルク市立美術館)

フリードリヒの絵画は妙に日本人のsaraiの心に響きます。かつて、ヨーロッパに留学していた東山魁夷もフリードリヒに心惹かれた日本人の一人だったようです。
ハンブルク市立美術館の鑑賞はさらに続きます。



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ハンブルク市立美術館:ベックリン、フォイエルバッハの美女

2018年8月22日水曜日@ハンブルク/13回目

今日はハンブルクHamburgでゆったり散策。まずはハンブルク市立美術館Hamburger Kunsthalleで名画鑑賞。
2階の常設展示室で20世紀の作品の展示から古典的な絵画の展示に移りました。フリードリヒの名品に魅了され、次はベックリンです。
象徴主義の画家アルノルト・ベックリンと言えば、《死の島》が彼の代名詞のようなものですが、意外に地味な作品も多いんです。ベックリンはスイスのバーゼルで生まれ、イタリアのフィレンツェのフィエゾレで没しました。フィエゾレと言えば、ルネサンス期にメディチ家の別荘があったところで、ギリシャ人や知的な人物が集ったプラトン・アカデミーが有名です。そのなかから、ボッティチェリの《春》、《ビーナスの誕生》も生まれました。saraiも以前、フィエゾレの丘に上り、遠くフィレンツェの眺望を楽しみ、在りし日の優雅さを思い起こしました。ベックリンがどのような思いでかの地を最期の住まいにしたのかは定かではありませんが、イタリア・ルネッサンスと無関係な筈はないでしょう。
ベックリンは人生の大半はドイツとイタリアで過ごしましたが、フィレンツェのフィエゾレで晩年を過ごす前にもフィレンツェに1874年から1885年まで過ごし、その間、傑作の数々を描きました。

アルノルト・ベックリンの《橋のあるローマの風景》。1863年頃、ベックリン、36歳頃の作品です。古代ローマを思わせるアーチ橋が風景の中心で、その橋の袂に一人の画家が絵を描いているようです。その視線の先には一組のカップルの姿が見えます。何やら、ドラマがありそうな場面が描かれています。

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アルノルト・ベックリンの《アウグスト・フラテッリの肖像》。1864年頃、ベックリン、37歳頃の作品です。ベックリンは肖像画も多く描いています。実に明晰に人物を描き出しています。この人物の詳細は不明です。

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アルノルト・ベックリンの《悔い改めたマグダラのマリア》。1873年頃、ベックリン、46歳頃の作品です。ベックリンは戸外で絵を描くことはなく、アトリエで神話、聖書などを題材に作品を作り出していました。この作品も伝統的な題材を描いたものです。それにしても保守的な作風に思えますが、そういうところがヒットラーに好まれた要因でもあったのでしょう。

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アルノルト・ベックリンの《自画像》。1873年頃、ベックリン、46歳頃の作品です。よく知られた作品ですが、この美術館にあったのですね。まあ、よく描けた自画像です。画家の自負心が滲み出ています。背景も凝っています。

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アルノルト・ベックリンの《聖なる木立》。1886年頃、ベックリン、59歳頃の作品です。神聖な木立の神話に基づいた作品です。背景の森の中の暗闇から、白い衣を着てベールに包まれた人物の行列が犠牲を捧げる石の祭壇に近づきます。焦げた供え物から紫色の煙が上がります。右側の神聖な境内は、海を隔てる壁に囲まれています。木々の間には古代寺院があり、それは明るく照らされています。象徴主義のベックリンが神話を題材として、現実世界との関わりの何かを我々におぼろげに訴えかけてくる一作です。ある意味、彼のライフワークなんでしょう。

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次はベックリンとも親交があり、イタリア芸術への傾倒で共通していたアンゼルム・フォイエルバッハの作品を見ていきます。
アンゼルム・フォイエルバッハは19世紀ドイツの絵画界で新古典主義の画家たちを牽引した存在で、彼の描く歴史画は高く評価されました。ブラームスとの交友も知られ、フォイエルバッハが亡くなったとき、ブラームスは彼の死を悼み、ネーニエ(悲歌)Op.82を作曲したそうです。


アンゼルム・フォイエルバッハの《ビアンカ・カペッロ》。1864/68年頃、フォイエルバッハ、35/39歳頃の作品です。フォイエルバッハはローマに赴いた折、1861年、アンナ・リージ(通称ナンナ)と運命的な出会いを果たし、以後4年間、絵のモデルとしました。もちろん、恋人でもありました。アンナをモデルにしたイフィゲニア、メデア、フランチェスカ、ローラなどを描きました。この作品では、彼女をモデルにして、ビアンカ・カペッロを描きました。ビアンカ・カペッロはトスカーナ大公国でフランチェスコ大公の愛人、大公夫人の死後は妃になった美女です。ここでは、彼の兄弟フェルディナンドに毒殺されたフランチェスコ大公の悲劇のヒロインとしての風貌を描いています。いやあ、モデルのアンナは凄い美女ですね。まるでファム・ファタールじゃないですか!

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アンゼルム・フォイエルバッハの《マンドリン奏者》。1865年頃、フォイエルバッハ、36歳頃の作品です。この作品もアンナ・リージ(通称ナンナ)をモデルに描いたもののようですね。モデルがよいと絵が引き立ちますね。しかし、この翌年、フォイエルバッハはあっさりと絵のモデルをアンナから宿屋の妻だったルチア・ブルナッチに乗り換えます。もったいないですね。しかし、ローマにはそんなに美女が多かったんでしょうか。

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フォイエルバッハの絵を見たんだか、モデルのナンナを見たんだか、判然としませんが、saraiは彼女の美しさに魅せられました。そもそも、この絵を見るまで、フォイエルバッハという画家の名前すら知らなかったんですから・・・。

ドイツ絵画はここでいったん終わり、この後はフランス絵画に移ります。



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ハンブルク市立美術館:コローの銀色の靄の風景

2018年8月22日水曜日@ハンブルク/14回目

今日はハンブルクHamburgでゆったり散策。まずはハンブルク市立美術館Hamburger Kunsthalleで名画鑑賞。
2階の常設展示室で20世紀の作品の展示から古典的な絵画の展示に移りました。ドイツ絵画を見終えて、次はフランス絵画です。
まず、最初に登場するのは、自然派・写実派のジャン=バティスト・カミーユ・コローです。彼は3度のイタリア訪問を経て、風景を心象風景として捉える新たな画法を身に着けました。その描く風景画には灰色もしくは銀色の靄がかかり、独特の世界観を示しました。彼のこの戸外で描く画法は印象派の画家たちに継承されていくことになります。もっとも、ぱっと見では、とても地味な風景画にしか見えないので、彼の真の価値を探り当てるのは難しい作業になります。

ジャン=バティスト・カミーユ・コローの《ヴィッラ・ドーリア・パンフィーリ》。1826/27年頃、コロー、29/30歳頃の作品です。ヴァティカン市国の南東、下町トラステヴェレ地区の東側にあるヴィッラ・ドーリア・パンフィーリ(Villa Doria Pamphilj ドーリア・パンフィーリ公園)は公共の公園としてはローマで最大の面積を持ちます。ヴィッラは他の多くのローマの庭園と同じように、ローマ貴族パンフィーリ家に起源を持ちます。ローマ教皇インノケンティウス10世の甥、カミッロ・パンフィーリ枢機卿は、1630年代の初めに現在の場所に幾ばくかの土地を購入しました。園内には様々な種類の樹木が生い茂っています。数百本のカシなどが並ぶ散策道は、美しい景色になっています。若きコローはその風景を描きましたが、後年の灰色もしくは銀色の靄がかかったようなファンタジックな作品とは縁遠いような凡庸な絵画になってしまっている印象です。

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ジャン=バティスト・カミーユ・コローの《瞑想》。1855/60年頃、コロー、58/63歳頃の作品です。画面の4分の3を占める若い女性の姿は、肖像画と風俗画の間で揺れ動きます。コローの人物像を描いた作品数は少ないため、ファンタジー・フィギュアー(幻想的な人物像とでも訳すのかな)と呼ばれています。空想的な人物像で、誰かの肖像を描いたのではなく、瞑想的で内省的な態度が理想化され、非人格化された人物の画像であり、憂鬱、詩、または感覚の純粋な感情と象徴として理解するべきものです。若い女性は、不明確な風景の前で、自分の考えに迷い込んで座っています。女性の視線は明確に向けられていますが、彼女は夢想に沈んでいるようです。コローの人物像は物理的には存在しないもののように見えます。このように、描かれた人物像はそのものではなくて、まるで投影スクリーンにようになり、共感と想像力の助けを借りて、見るもの自身がイメージを作り上げます。

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ジャン=バティスト・カミーユ・コローの《バラを持つ娘》。1860/65年頃、コロー、63/68歳頃の作品です。彼の夢のように素晴らしい風景画に加えて、コローは油絵によるスケッチでも有名です。バラを持つ少女は彼のスタジオでモデルをしています。自信を持って構成された画面は、中心から端に向かって徐々にゆるやかにスケッチされています。シンプルなドレスとシンプルなジュエリーを身に着けている女性の顔は影付で暗くなっています。むき出しの肩越しに、デコルテに光が当たり、右手でドレスのネックラインの前にバラを抱きます。絵画の右端の半暗闇で、彼女はもう一方の手で髪に触れます。そこから、コローは赤いイヤリングの色のアクセントを見つめた後、中央の花に戻ります。少女の自分自身に閉じこもった態度と逸らされた視線によって、鑑賞者はこの少女に心理的に近寄ることができ、同時に少女自身が描かれたフレームを凝視することになります。

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ジャン=バティスト・カミーユ・コローの《ヴィル=ダヴレー (Ville-d'Avray)の湖》。1861〜69年頃、コロー、64/72歳頃の作品です。この作品は、コローがパリ近郊のヴィル=ダヴレーにある、両親から譲り受けた邸宅に住んでいた頃に描かれたものです。静かな湖面と遠くにある田舎の屋敷など、ありふれた風景が描かれています。
コローは風景を描くことで、描かれた光や空気の平和的な静けさにより、鑑賞者自身が自然界に溶け込んでいるという恩恵を感じさせることができました。緑、銀、黄土色の明るい調和がこの作品をより柔らかくしています。湖の手前の岸辺に座っている人物はコロー自身でしょうか。

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ジャン=バティスト・カミーユ・コローの《渡し守》。1868年頃、コロー、71歳頃の作品です。この物悲しさを呼び起こす、サンリス近郊にあるモルトフォンテーヌの沼の風景は、震えるような軽やかな筆遣い、靄のかかった雰囲気といった、1850年以降のコローの作品における特徴を表わしています。灰色もしくは銀色の靄のかかった独特の画法はコローが生み出した最終的な到達点でした。コローはアトリエで、エルムノンヴィルの近郊に位置するモルトフォンテーヌにある沼を思い描き、繰り返し、そのイメージを絵画として描きました。そこは画家が水面の反射と光の効果を研究するために、1850年以降繰り返し訪れた場所です。この作品は画家がこの地で得たイメージをもとにして、心の中に特別に再構成して描いたもので、単純な写実とは大きくかけ離れたものです。そういう意味では印象派の先駆けとなったものです。

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フランス絵画はクールベ、ミレー、テオドール・ルソーと続きます。



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ハンブルク市立美術館:クールベ、ミレー、テオドール・ルソー

2018年8月22日水曜日@ハンブルク/15回目

今日はハンブルクHamburgでゆったり散策。まずはハンブルク市立美術館Hamburger Kunsthalleで名画鑑賞。
2階の常設展示室で20世紀の作品の展示から古典的な絵画の展示に移りました。現在、フランス絵画を鑑賞中です。
自然派・写実派のジャン=バティスト・カミーユ・コローに続き、写実主義の画家ギュスターヴ・クールベです。

ギュスターヴ・クールベの《花でいっぱいの枝》。1855年頃、クールベ、36歳頃の作品です。クールベは後に代表作とみなされることになる《オルナンの埋葬》を既に描いていますが、この頃はまだ、一般に評価されることはありませんでした。この1855年は世界で2番目の万博がパリで開かれました。その万博に《オルナンの埋葬》の出品を拒否されたクールベは世界で初めての個展を開くことになります。そういうときのクールベが狩猟画や風景画以外の「花の静物画」シリーズに取り組み始めたのが本作です。結局、今ではあまり知られることのない「花の静物画」シリーズですが、クールベが未来に向かって、あがいていたことを知るための貴重な資料です。

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ギュスターヴ・クールベの《ルー川の洞窟》。1864年頃、クールベ、45歳頃の作品です。クールベはよくフランシュ・コンテ地方の村である故郷のオルナンの出来事や風景を描きました。代表作の《オルナンの埋葬》もその一枚です。本作は、オルナンの中心を流れるルー川の巨大な岩層と洞窟を描いています。結構、地味な風景画にしか見えませんが、対象を克明に観察し、その質感を表現した佳作です。なお、ほぼ、同じ構図の作品がワシントン・ナショナル・ギャラリーにありますが、そこには本作にない漁師の姿が描き加えられています。同じ構図に対する画家の執念のようなものが見えます。

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ギュスターヴ・クールベの《ダン=デュ=ミディ山の冬の風景》。1876年頃、クールベ、57歳頃の作品です。クールベは1870年、パリ・コミューン(コミューン美術委員会議長になっていた)に参加し、反乱に加担し、ヴァンドーム広場の円柱破壊事件の責任を問われて逮捕されました。その後、1873年にクールベはスイスに亡命します。亡命後のスイスでバレー州内に位置するサボア・アルプスの最高峰ダン=デュ=ミディ山の冬の風景を描いたのが本作です。この作品を描いたクールベの心中はいかなるものだったのか・・・単なる風景画ではなかったと確信します。本作を描き上げた翌年の1877年、クールベは亡命先で失意のうちに58歳の生涯を閉じました。

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次はバルビゾン派を代表するミレーです。

ジャン=フランソワ・ミレーの《ルイーズ・ミレー、画家の娘》。1863年頃、ミレー、49歳頃の作品です。1849年、パリでコレラが大流行したことや、ミレーの政治的支援者が失脚したことから、ミレーは、バルビゾンに移住し、先に滞在していたルソーらの仲間入りをしました。以後、農民画家として、名作を生み続けることになります。本作を描いた1863年は既に『落穂拾い』、『晩鐘』の2大名作を描き終えていましたが、まだ、世間の評価は定まっておらず、質素な暮らしをバルビゾン村で送っていました。子だくさんのミレーの第2子のレオンティーネ・ルイーズ・ミレーを描いたものと思われます。1847年生まれの第2子のレオンティーネ・ルイーズ・ミレーが描かれたものとすると、このとき、娘は16歳の少女だったわけです。ミレーはこの年に名作《羊飼いの少女》を描いて、翌年のサロンで絶賛を浴びます。それでもミレーが巨匠としての名声を確立するのは、4年後の1867年に、パリ万国博覧会の美術展覧会で一室を与えられ、傑作を展示するときを待つことになります。巨匠としての地位を得て、8年後の1875年にミレーは家族に看取られて、バルビゾンで亡くなりました。60年の生涯でした。

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次は同じバルビゾン派の有力な画家、テオドール・ルソーです。

テオドール・ルソーの《コンピエーニュの森のピエールフォンズ村での伐採》。1833年頃、テオドール・ルソー、21歳頃の作品です。彼は1833年にバルビゾンを訪れ、1836年には当地に定住します。この作品はごく初期の作品です。コンピエーニュの森はフランス、オワーズ県に位置する広大な森です。皇太子時代のルイ16世(ルイ=オーギュスト)とマリア・アントーニア(のちのマリー・アントワネット)が初めて相見えた地でもあります。

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次はいったん、ドイツの印象派を代表するマックス・リーバーマンのコレクションを見ていきます。その後、綺羅星のように並ぶフランス印象派の画家たちの作品になります。



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ハンブルク市立美術館:マックス・リーバーマン、ドイツ印象派を代表するドイツ画壇の重鎮

2018年8月22日水曜日@ハンブルク/16回目

今日はハンブルクHamburgでゆったり散策。まずはハンブルク市立美術館Hamburger Kunsthalleで名画鑑賞。
2階の常設展示室で20世紀の作品の展示から古典的な絵画の展示に移りました。現在、フランス絵画の鑑賞中ですが、いったん、ドイツの印象派、マックス・リーバーマンのコレクションに立ち寄ります。

マックス・リーバーマンの《神殿の12歳のイエス》。1879年頃、リーバーマン、32歳頃の作品です。リーバーマンはフランスの印象派に傾倒し、ドイツの印象派の代表的な存在です。ユダヤ系ドイツ人であった彼はナチスの台頭によって、ドイツ画壇の中心的存在の座から追われ、寂しい最期となったそうです。それでもクレーなどとは違って、彼の作品群がドイツの各地でこうして見られるのですから、まだしもではないでしょうか。
本作は現実の場面にキリストが登場しているので、普通の意味での印象派ではなくて、宗教性との融合を図った作品です。その真価はsaraiにはまだ理解できません。フリッツ・フォン・ウーデにも同じような意図の作品があるので、当時の流行だったのかもしれません。しかし、この作品はスキャンダルになり、リーバーマンも作品の改訂を余儀なくされることになりました。

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マックス・リーバーマンの《オランダのレースを織る女》。1881年頃、リーバーマン、34歳頃の作品です。リーバーマンはフランスのパリで勉強した後、この頃はオランダに移り絵画を勉強していました。本作はいかにもオランダ風の絵画作品になっています。

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マックス・リーバーマンの《エヴァ》。1883年頃、リーバーマン、36歳頃の作品です。上の作品と同様に本作もオランダ風の絵画作品になっています。

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マックス・リーバーマンの《庭の中のアムステルダムの孤児の少女》。1885年頃、リーバーマン、38歳頃の作品です。本作は印象派風に戸外で描いた作品ですが、随分、オランダ風です。彼はこのテーマを繰り返し描いています。そこに彼独自の作風が感じられます。

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マックス・リーバーマンの《網を繕う人たち》。1887/89年頃、リーバーマン、40/42歳頃の作品です。この作品はドイツを題材にしながらも印象派的に描かれたリーバーマンの代表作です。中央に立ち、彼方に視線を送る娘の姿が美しく表現されています。何となく、ミレーの《羊飼いの少女》を思い浮かべてしまいます。

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マックス・リーバーマンの《エルベ川のニエンシュテッテンにあるレストラン・ヤコブのテラス》。1902年頃、リーバーマン、55歳頃の作品です。この作品はパリの印象派そのもののような描き方です。ハンブルク近郊のエルベ川河畔のホテル、ルイス C.ヤコブのガーデンレストランで菩提樹の立ち並ぶテラスの風景の印象を描いた秀作です。人々の賑わいがルノワールやモネに比べると、しっとりと落ち着いているところがドイツ風です。

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マックス・リーバーマンの《アルフレッド・フォン・ベルガー男爵》。1905年頃、リーバーマン、58歳頃の作品です。この作品に描かれたアルフレッド・フォン・ベルガー男爵は、オーストリアの劇作家、劇場監督、作家でした。特にウィーンのブルク劇場の監督として知られています。ウィーンの女優、ステラ・ホーエンフェルスと結婚していました。この作品が描かれたころはハンブルクに新しく設立されたドイツシャウシュピールハウスの最初の監督をしていました。当時、52歳くらいでリーバーマンとも同世代です。その後、1910年にウィーンのブルク劇場に転身します。

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マックス・リーバーマンの《自画像》。1909-1910年頃、リーバーマン、62-63歳頃の作品です。リーバーマンは批判的な眼差しで一時的に停止した姿勢でこちらを向いています。壁に寄りかかったキャンバス、背景の鏡、白いスモックは彼の職業を暗示していますが、手はブラシとパレットの代わりにタバコを持っています。スモックの下のスーツ、ベスト、ネクタイ、白いシャツはきちんとした印象です。彼の安定した立場と地位を誇示しています。

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マックス・リーバーマンの《ウーレンホルスターのフェリーハウスの夜》。1910年頃、リーバーマン、63歳頃の作品です。本作はハンブルクで舟遊びに打ち興じる人々の眺めを描いています。3つのバージョンがあるようです。これはそのひとつ。この作品を描くためにリーバーマンは何度もベルリンからハンブルクを訪れる熱の入れ方だったようです。パリの印象派の舟遊びの作品を連想させますね。

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マックス・リーバーマンの《ゲルハルト・ハウプトマン》。1912年頃、リーバーマン、65歳頃の作品です。ゲルハルト・ハウプトマンは、ドイツの劇作家、小説家、詩人。この肖像が描かれた1912年にノーベル文学賞を受賞しました。ハウプトマンは当時、50歳でした。

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マックス・リーバーマンの《ヴァン湖の芸術家の庭》。1918年頃、リーバーマン、71歳頃の作品です。ヴァン湖は、ドイツのベルリン南西部のシュテーグリッツ=ツェーレンドルフ区に位置しています。日光浴やレクレーションスポットとしてよく知られています。どうやら、この風光明媚な地にリーバーマンの別荘でもあったようですね。彼の栄光に満ちた時代です。この2年後の1920年から1932年までプロイセン芸術院の総裁の地位にいましたが、ナチスの台頭でその地位を降り、1935年に寂しい死を迎えます。87年の生涯の最後は苦難に満ちていました。

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ベルリンにずっと居を定めていたリーバーマンはこのハンブルクも度々訪れており、ゆかりの地です。そのため、このハンブルク市立美術館には充実したコレクションがあります。次は綺羅星のように並ぶフランス印象派の画家たちの作品を見ていきます。



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ハンブルク市立美術館:ゴーギャン、ルノワール、シスレー

2018年8月22日水曜日@ハンブルク/17回目

今日はハンブルクHamburgでゆったり散策。まずはハンブルク市立美術館Hamburger Kunsthalleで名画鑑賞。
2階の常設展示室で20世紀の作品の展示から古典的な絵画の展示に移りました。現在、ドイツの印象派、マックス・リーバーマンのコレクションを見終え、次はフランスの印象派を中心とした画家たちの作品です。

ポール・ゴーギャンの《水浴びするブルトン人(ブルターニュ地方のケルト人)の少年》。1888年頃、ゴーギャン、40歳頃の作品です。ゴーギャンがブルターニュのポン=タヴァン村を訪れたのは1886年のことで、それ以来、度々、訪れるようになります。そのときの主要な題材のひとつがブルトン人の少年たちの水浴でした。本作はゴーギャンのポン=タヴァン時代を代表する一枚でもあります。また、この年はゴッホとアルルで共同生活を送った年でもあります。彼がタヒチに旅発つのはこの作品を描いた後、3年後の1891年になります。

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ピエール=オーギュスト・ルノワールの《温室の花》。1864年頃、ルノワール、23歳頃の作品です。ルノワールの印象派以前のごく初期の作品です。温室のガラスの壁の前には、花の咲く小さなヒナギクが植えられた木製の箱があり、その隣には花の咲く白いオランダカイウ、チューリップ、ライラック、シクラメンの鉢があります。背景は不明瞭な低木で、左上には窓の十字の横木が見えます。この作品はマックス・リーバーマンが所有していたそうです。

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ピエール=オーギュスト・ルノワールの《ブローニュの森での朝の乗馬》。1873年頃、ルノワール、32歳頃の作品です。この作品では、1850年代に広大な公園に変貌したパリ西部のかつての森林地帯だったブローニュの森で、午前中に女性と少年が乗馬をしている場面が描かれています。このように、ルノワールは裕福なパリのブルジョア階級の人気のある娯楽を描きました。この作品を1873年のサロンに応募しましたが、この作品も落選し、この年5月から開かれた落選展に出品しました。この作品に好意的な批評と批判的な批評が出ましたが、エドガー・ドガの友人アンリ・ルアールが購入してくれました。その後、1913年にハンブルク市立美術館のコレクションに加わりました。なお、本作が描かれた年の翌年、1874年に「第1回印象派展」と呼ばれる歴史的展覧会が開かれます。ルノワールは、7点を出品し、『踊り子』、『桟敷席』、『パリジェンヌ(青衣の女)』など風俗画5点、風景画1点、静物画1点でした。

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ピエール=オーギュスト・ルノワールの《マダム・エリオ》。1882年頃、ルノワール、41歳頃の作品です。この作品では、ゆったりと椅子にかけるルーブル百貨店の大株主オーギュスト・エリオ氏の夫人が描かれています。夫人は日本の着物をドレスの上に着ています。着物は 19 世紀の中ごろになると、室内着として知られるようになっていました。また、いわゆる、ジャポニズムが絵画の世界でも流行し、既にモネが着物姿の女性を描いています(《ラ・ジャポネース(日本の女性)》という1876年にクロード・モネによって制作された油彩作品。モデルは妻のカミーユ・ドンシュー。)。

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ピエール=オーギュスト・ルノワールの《ヴィーナス》。1913年頃、ルノワール、72歳頃の作品です。ルノワールは晩年、南仏カーニュ=シュル=メールで住みました。1907年、カーニュ=シュル=メールのレ・コレットに別荘を買い、晩年をここで過ごしました。1906年にアリスティド・マイヨールがルノワールの胸像を制作したことを機に彫刻に興味を持ち始め、画商ヴォラールの勧めで彫刻を手がけるようになったそうです。この作品を制作した6年後にルノワールは78歳でこの世を去ります。

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アルフレッド・シスレーの《アルジャントゥイユ近くのトウモロコシ畑》。1873年頃、シスレー、34歳頃の作品です。シスレーは、ピサロ、セザンヌ、ルノワールおよび他の画家とともに、1873年に設立された「印象派の協会」に初めから所属していました。その同じ年、このトウモロコシ畑の絵はセーヌ川沿いのアルジャントゥイユの近くで描かれました。風景は、黄色、青、緑の3色で構成されています。明るい黄色のトウモロコシ畑が広がり、村の教会のある丘の上へ続く暗い色調の木々が、絵画を構成しています。この絵のように、シスレーのほとんどの作品はパリ周辺の風景を題材にした穏やかな風景画で、シスレーは一貫して、印象派画法を保ち続け、もっとも典型的な印象派の画家と呼ばれています。

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フランス絵画は続きます。



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ハンブルク市立美術館:セザンヌ、マネ、ドガ、モネ

2018年8月22日水曜日@ハンブルク/18回目

今日はハンブルクHamburgでゆったり散策。まずはハンブルク市立美術館Hamburger Kunsthalleで名画鑑賞。
2階の常設展示室で20世紀の作品の展示から古典的な絵画の展示に移りました。現在、フランスの印象派を中心とした画家たちの作品を鑑賞しています。

ポール・セザンヌの《パリのベルシー河岸》。1875/76年頃、セザンヌ、36/37歳頃の作品です。この作品では、パリのセーヌ川のほとりが描かれています。画面の中央には、5つのアーチが連なるナシオナル橋の手前に、広い空に突き出ているクレーンが高くそびえています。セザンヌは、ハンブルグ市立美術館にある友人のアルマン・ギヨマンによる印象派の絵画のコピーとしてこの絵を作成したため、これは特に興味深いものです。構図はまったく同じで、色合いとタッチがセザンヌ風に変わっています。

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エドゥアール・マネの《ナナ》。1877年頃、マネ、45歳頃の作品です。この作品では、ほぼ等身大のペチコートとコルセット姿の高級娼婦ナナ、エレガントなストッキング、おしゃれな靴が中心に描かれています。鏡の前で彼女は化粧をするのに忙しく、広げた小指でパフと口紅を誇示しています。彼女の後ろで、スーツとシルクハットを着た次の顧客がソファで彼女を待っています。この作品は1877年のサロンに応募し、『オランピア』と同様、高級娼婦を描いた自然主義的な主題の作品でしたが、サロンに落選しました。この年のサロンには、『ハムレットを演じるフォール』が入選しました。

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エドゥアール・マネの《アンリ・ロシュフォールの肖像》。1881年頃、マネ、49歳頃の作品です。アンリ・ロシュフォールはフランスの政治家・ジャーナリスト。激動期のフランスで数奇な運命をたどります。この肖像が描かれたときはパリ・コミューンの首謀者としての罪を問われていたのが、恩赦が決まり、フランスに帰国、熱狂的な歓迎を受けます。第三共和政下では極左派の論陣を張り、活躍しました。

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エドガー・ドガの《女性の肖像の習作》。1867年頃、ドガ、33歳頃の作品です。ドガの初期の作品です。しかし、なかなかの出来栄えです。

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エドガー・ドガの《ジョゼフィーヌ・ゴージェリン》。1867年頃、ドガ、33歳頃の作品です。この絵画も上の作品と同様に肖像画の表現のための習作です。この習作では、ドガは顔の特徴に焦点を当てました。顔の特徴は、アーチ型の額が特徴的です。 瞳は暗く懐疑的で、非対称の唇はしっかりと閉じています。 そういう表現の中で、ドガは、理想的な美しさに関係なく、モデルの特徴を捉えようとしました。モデルのジョゼフィーヌ・ゴージェリンは、パリオペラ座のダンサーでした。

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クロード・モネの《梨とブドウ》。1880年頃、モネ、40歳頃の作品です。屋外絵画で有名なクロード・モネは、1878年から1882年まで、静物画のジャンルのみを集中的に取り組んでいました。ナシやブドウなどを構成した静物画で、彼はこのジャンルで一歩突き抜けることができしました。画面に斜めに置かれた白いテーブルクロスを備えたテーブルは、絵画の幅全体に広がり、見る人に向かって傾むいています。モネは梨、ぶどう、りんごを装飾的なシダの葉の上に置き、明るくシンプルな背景のもと、自由にキャンバス上に素材を広げました。彼はテーブルクロスを強く白い線で描きましたが、果物は細かく区別されたブラシワークと色彩の視覚的効果によって表現されています。ブドウの反射と青い影のある赤いリンゴは、印象派の特徴であるきらめく光の効果を高めています。

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クロード・モネの《ウォータールー橋》。1902年頃、モネ、62歳頃の作品です。モネは1899年秋から毎年のようにロンドンを訪れて、ロンドンを題材に100点を超える連作を制作しました。この作品で描いたテムズ川にかかるウォータールー橋も主要な題材のひとつでした。霧に包まれた光が印象的な連作は印象主義の到達点として、歴史に残る傑作です。1899年から1901年の間に、モネはロンドンのサヴォイホテルの同じ部屋を繰り返し借りました。その窓からはテムズ川を一望できます。ロンドンのウォータールー橋の眺めは、現在42のバージョンで存在しています。

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これでフランス絵画は一区切り。次はクノップフなどのベルギーの作品、ミレイ、ロセッティなどのラファエル前派やバーン・ジョーンズの作品に移ります。



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ハンブルク市立美術館:クノップフ、ルドン、バーン=ジョーンズ、ミレイ、ロセッティ・・・魅惑の作品群

2018年8月22日水曜日@ハンブルク/19回目

今日はハンブルクHamburgでゆったり散策。まずはハンブルク市立美術館Hamburger Kunsthalleで名画鑑賞。
2階の常設展示室で20世紀の作品の展示から古典的な絵画の展示に移りました。現在、フランスの印象派を中心とした画家たちの鑑賞を終えて、次はクノップフなどのベルギーの作品、ミレイ、ロセッティなどのラファエル前派やバーン・ジョーンズの作品に移ります。

フェルナン・クノップフの《仮面》。1897年頃、クノップフ、39歳頃の作品です。フェルナン・クノップフは、ベルギー象徴派の代表的な画家です。時に絵画以外のものも制作します。クノップフの作品にはいつも刺激を受けます。この仮面の男性とも女性とも分からぬ美形にいたく魅了されます。因みにこの時期、クノップフはイングランドとの交流を深め、そこでウィリアム・ホルマン・ハント、ジョージ・フレデリック・ワッツ、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、フォード・マドックス・ブラウン、エドワード・バーン=ジョーンズといった画家たちと親交を深めるようになりました。この後にラファエル前派の作品が続くので、このあたりにクノップフの作品を展示したものと思われます。

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オディロン・ルドンの《バーク(小さな船)》。1900年頃、ルドン、60歳頃の作品です。オディロン・ルドンもフェルナン・クノップフと同様にその作品にはいつもいたく刺激を受けます。本作では小さな手漕ぎボートに乗る男女が柔らかい光彩に包まれて、幻想的な雰囲気を現出しています。象徴主義にも似ていますが、あくまでもルドン独自の孤高のスタイルを貫いた作品のひとつです。ルドンが1900年以降繰り返し用いたモチーフであるバーク(本作では手漕ぎボート)は、正確な物語や図像的な意味なしに、別れ、移行、約束を告げるものとして機能しました。ところで、日本にもルドンの作品を集中的に収集している美術館があるそうです。岐阜県美術館です。是非、訪れたいと思っていますが、未だ果たせていません。

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サー・エドワード・コーリー・バーン=ジョーンズの《ヘスペリデスの庭》。1869/73年頃、バーン=ジョーンズ、36/40歳頃の作品です。エドワード・バーン=ジョーンズもその緻密で精密極まりない美しさの作品でいつも魅了されます。ラファエル前派とも深い関わり合いを持ちましたが、彼はラファエルよりもボッティチェリの影響を色濃く感じさせます。本作に登場するヘスペリデスは、ギリシア神話に登場する世界の西の果てにあるニンフたちです。「黄昏の娘たち」という意味を持ちます。ヘーシオドスによればヘスペリデスは夜の女神・ニュクスの娘たちであり、アイグレー(Aegle、輝き・明るい女)、エリュテイア(Erytheia、紅・赤い女)、牝牛の眼のヘスペレトゥーサ(ox-eyed Hesperethusa、夕焼け女)の3人姉妹で構成されています。彼女たちは不滅の処女であり、百の頭を持つ竜(または蛇)・ラードーンと一緒に、ヘラがゼウスと結婚したときに母のガイアから豊穣と愛の象徴として受け取った金色のりんごを地球の西の境界で守っています。本作の踊っているヘスペリデスの3姉妹は、ボッティチェリの春(プリマベーラ)の3美神をもとにしていると言われています。一方、バーン=ジョーンズは恋人のメアリー・ザンバコを含む実際のモデルに従って顔をデザインしましたが、何となく、ボッティチェリの絵画の女性も連想させます。ヘスペリデスのローブの美しい襞はアンドレア・マンテーニャとボッティチェッリを連想させるものです。このようにバーン=ジョーンズはイタリア・ルネサンス絵画の研究をもとに神話の世界を緻密な美しさで描き上げて、独自の世界を作り出しました。19世紀によみがえったボッティチェリの風情です。

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サー・ジョン・エヴァレット・ミレイの《メヌエット》。1866年以降、ミレイ、37歳以降の作品です。ミレイはラファエル前派を代表する画家の一人で、その代表作の《オフィーリア》は今や知らぬ者のいない有名な絵画になりました。しかし、彼はその《オフィーリア》を描いた1852年以降、しばらくすると、その人気が落ち始めます。批評家ジョン・ラスキンの妻であったユーフィミアとの結婚が世間に認められないものとなったのもその一因のようです。ミレイを寵愛していたヴィクトリア女王はユーフィミアの謁見を拒否し、以後ミレイに肖像画を描かせる事はありませんでした。苦境に陥ったミレイが復活したのは、1863年、ロイヤル・アカデミーに出品した『初めての説教』が最も人気のある作品に選ばれ、正会員として選出されたことが契機でした。この『初めての説教』でイギリスに少女画ブームが捲き起こりました。ファンシー・ピクチャーとも呼ばれる子供を描いた絵で人々に広く愛されるようになったミレイが描いた一枚が本作です。ミレイの言葉を借りると、「ただ、微妙で静かな表情のみが完璧な美と両立する。誰が見ても美しい顔を描くなら、人格が形成され表情が決まる前の8歳前後の少女が一番よい」を地で行った作品がこの一枚です。もっともsaraiはこういう作品は好みません。ラファエル前派時代のミレイを愛するのみです。

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ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの《トロイのヘレナ》。1863年頃、ロセッティ、35歳頃の作品です。ラファエル前派の共同創立者で知的なリーダーであるロセッティが、数年前からイタリアの古典詩の本のイラストレーター、詩人、翻訳者として働いた後、1859年に油絵の世界に戻りました。 寓話的で文学的な言及のある一連の女性の肖像画が登場します。本作のトロイのヘレナのモデルは彼の恋人アニー・ミラーです。アニー・ミラーはもともとウィリアム・ホルマン・ハントによって見出されたラファエル前派を具現するタイプの女性モデルで、ハントの恋人でもありました。ハントのパレスチナへの長期旅行の間にハントの意に反して、ロセッティのモデル兼恋人になったようです。この一件でハントとロセッティは不仲になります。ともあれ、トロイの陥落は、当時の英文学で人気のある話題でした。たとえば、アルフレッド・テニスンも取り上げました。本作ではハリウッドばりの金髪の美女として、アニー・ミラーをモデルにしたトロイのヘレンが描かれていますが、さすがにロセッティらしい魅惑に満ちています。しかし、やはり、ロセッティの2大モデル、エリザベス・シダルやジェーン・バーデンの美には遠く及ばないというのがsaraiの意見ですが、いかがなものでしょうか。何と言っても、この年にはエリザベス・シダルをモデルにした傑作《ベアタ・ベアトリクス》が描かれます。saraiの大好きな絵画の一枚です。

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この後は何故か、時代を遡り、ルーカス・クラナッハのコレクションになります。多分、saraiの歩いた経路がおかしかったのでしょう。ともあれsaraiの愛好するクラナッハのコレクションが楽しめます。



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ハンブルク市立美術館:クラナッハ、ボッシュ、オランダ絵画

2018年8月22日水曜日@ハンブルク/20回目

今日はハンブルクHamburgでゆったり散策。まずはハンブルク市立美術館Hamburger Kunsthalleで名画鑑賞。
2階の常設展示室で20世紀の作品の展示から古典的な絵画の展示に移りました。これからはルーカス・クラナッハのコレクションを見ていきます。ドイツの美術館ではやはりクラナッハの作品が充実しているのが嬉しいところです。

ルーカス・クラナッハの《マルティン・ルター、フィリップ・メランヒトン》。1534年頃、クラナッハ、62歳頃の作品です。1517年のヴィッテンベルクにおいて、10月31日にルターの論文で始まった改革は、クラナッハの芸術的および個人的な生活に強く影響していくことになります。ルターの論文によって、大衆が大きな関心を寄せる人物として、ルターの肖像画の必要性は着実に増加しました。そのため、クラナッハは1520年にルターの多数の肖像画を制作し、その後、数年でさまざまなタイプの肖像画を作り出しました。彼は何度も何度も、修道士または学者としての宗教改革者を、立像または横顔で、絵画で表現しました。クラナッハの描いた肖像画が、ルターの姿についての現代の私たちのイメージを形成しています。
一方、ルター以外の最も重要な宗教改革者であるフィリップ・メランヒトンの肖像画もクラナッハの工房で生まれました。ルターの最も親しい親友の一人であるメランヒトンは、聖書を翻訳する際に彼をサポートしました。

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ルーカス・クラナッハの《子供たちを祝福するキリスト》。1538年頃、クラナッハ、66歳頃の作品です。子どもたちの祝福の表現は、1530年代からプロテスタントたちの好みの絵の主題であり、クラナッハの工房で多数制作されました。このハンブルク市立美術館の作品以外にも、別の22のバージョンが知られており、宗教改革前には独立したモチーフとして決して描かれなかったこの主題の大きな人気が窺いしれます。
キリストの周りには子供を祝福してもらうために集まった多くの母親たちが描かれ、画面の左端にはペテロとパウロを含む3人の使徒が立っています。

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ルーカス・クラナッハの《聖母マリアと使徒ヨハネに挟まれた傷ついた救い主》。1540年頃、クラナッハ、68歳頃の作品です。黒い背景の画面の中央に位置するキリストは、私たちを苦しい顔で見ています。彼の側面の傷は露わにされ、いばらの冠が彼の肉体に深く突き刺さり、彼の体は痛みで苦しんでいます。救い主はおそらく、聖母マリアと使徒ヨハネに左右で挟まれた墓石の上に座っています。カトリックとプロテスタントの両方から、痛みに苦しむキリストは人気のある主題でした。

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ルーカス・クラナッハの《フリードリヒ賢明公、ヨハン不変公、ヨハン・フリードリヒ度量公(ザクセン選帝侯)》。制作年不詳です。クラナッハはフリードリヒ賢明公により、1505年に宮廷画家に任命されました。それから約50年にわたって、ザクセン選帝侯のために働きました。彼の工房では、統治者の多数の肖像画を含む、おびただしい数の傑作が生み出されました。3連衝立画(トリプティク)としてデザインされたパネルは、連続した風景を背景として、フリードリヒ賢明公、ヨハン不変公、ヨハン・フリードリヒ度量公の3人のザクセン選帝侯が描かれています。ヨハン・フリードリヒ度量公はこの3連衝立画(肖像画)の発注主であるばかりでなく、ザクセン宮廷の紋章によっての現在の摂政として特定されています。ヨハン・フリードリヒ度量公は1532年に統治を引き継ぎ、宗教改革へのコミットメントを通じて神聖ローマ帝国の皇帝カール5世に対抗しました。

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クラナッハに続き、配偶者の大好きなボッシュも1点あります。

ヒエロニムス・ボッシュ(あるいはその弟子)の《リンボのキリスト》。1520年頃、ボッシュが亡くなったとされる1516年の4年後の作品です。ボッシュの真作か、あるいは弟子の作品か判然としません。おどろおどろしいところはボッシュに見えますが、ボッシュならばもっと細密な表現がありそうな感じもあります。なお、リンボとは、辺獄とも訳され、イエス・キリストが死後復活までの間にとどまった場所のことです。ですから、死後復活までのキリストが描かれています。現代人から見れば、シュールな作品ですね。

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次はオランダの画家の作品が続きます。

ヤン・ファン・ロッサムの《カーテンのある花の静物》。1671年頃、ロッサム、41歳頃の作品です。フランドルあるいはオランダでよく描かれた花の静物画です。写実に優れた作品です。

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ウィレム・クラース・ヘダの《素晴らしき静物》。1638年頃、ヘダ、41歳頃の作品です。ウィレム・クラース・ヘダはオランダの画家で、1620年代後半から40年代に流行した「モノクローム・バンケッチェ(モノクローム風の晩餐図)」を代表する画家です。ヘダの静物画はいつも散らかっています。これは、食事が突然中断されたような印象を与えます。それでも、絵画の構図は慎重にバランスが取れています。たとえば、さまざまな高級な中国製の磁器が、左に押し戻される白いクロスを備えたテーブルに配置されています。そのほかにも様々なガラス食器や容器、ボウルやひっくり返った銀のカップ、焼かれたホロホロ鳥、カワカマス、オリーブ、カキ、錫と磁器のプレートに部分的に皮をむかれたレモンがあります。「モノクローム・バンケッチェ」では、色の範囲を茶色、緑、灰色の色合いに限定しました。オブジェクトに光が反射することで、素晴らしいアクセントを演出しています。

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シモン・リュティックハイスの《ワイングラスとパンのある静物》。1650年頃、リュティックハイス、40歳頃の作品です。シモン・リュティックハイスはオランダ黄金時代の静物画家です。6つ年下の弟、イサーク・リュティックハイスもオランダ黄金時代の肖像画家です。シモン・リュティックハイスはさまざまな形の静物画で知られ、画家ウィレム・カルフに影響を与えました。この作品では、実に精密にワイングラスの質感が描かれ、パン屑の微細な表現は見事です。

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この後、19世紀のドイツ・フランスの絵画が続きます。ハンブルク市立美術館は多彩なコレクションを誇っています。


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ハンブルク市立美術館:レンバッハ、ドラクロワ、ドーミエ、コロー、ミレー、ファンタン=ラトゥール、ロートレック、ドガ、ブーダン、ギヨマン、ドミンゲス(キリコ)

2018年8月22日水曜日@ハンブルク/21回目

今日はハンブルクHamburgでゆったり散策。まずはハンブルク市立美術館Hamburger Kunsthalleで名画鑑賞。
2階の常設展示室で20世紀の作品の展示から古典的な絵画の展示に移りました。クラナッハ、ボッシュ、オランダ絵画を見て、この後は19世紀のドイツ・フランスの色々な絵画を見ていきます。

フランツ・フォン・レンバッハの《赤い傘》。1860年頃、レンバッハ、24歳頃の作品です。フランツ・フォン・レンバッハはドイツ出身で、貴族、芸術家、企業家などの肖像画家として成功した人物です。豊かな家の出身で「貴公子画家」と 呼ばれました。しかし、正直なところ、彼の名前は画家としてよりも、ミュンヘンの青騎士の大コレクションを有するレンバッハハウス美術館に名前を冠することのほうでその名前が知られています。少なくともsaraiにとってはそうです。でも、結構、ドイツの美術館では彼の作品を見かけることが多いことに気が付きました。多くは有名人の肖像画です。この作品は珍しく田舎の風景が描かれたものです。彼のごく初期の作品だからでしょう。ミュンヘン近くのアレシングの村からそれほど遠くない田舎のモチーフを描いた作品です。ちょっと見にくいのですが、赤い傘の陰にいるのは、手押し車の幼児と地面に横たわって、休んでいる子供です。

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フランツ・フォン・レンバッハの《作曲家フランツ・リスト》。1884年頃、レンバッハ、48歳頃の作品です。フランツ・フォン・レンバッハはこの作品を描いた2年前、1882年にバイエルン王国から功労章を受勲し、貴族の称号を与えられました。まさに絶頂のときにあったわけです。この作品を描き上げた年の翌年にはローマ教皇、レオ13世の肖像画の製作を依頼されます。そういうときに大作曲家リストの肖像画を描きました。リストは当時73歳くらいで、この2年後に亡くなります。前年に娘コジマの夫であったリヒャルト・ワーグナーが亡くなり、力を落としている時期でもありました。

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フランツ・フォン・レンバッハの《母と子》。1893年頃、レンバッハ、57歳頃の作品です。これまた珍しい絵ですね。普通、このテーマだと、聖母子を連想させるものが多いですが、これは違いますね。何か雰囲気のある作品ですが、詳細は不明です。

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ウジェーヌ・ドラクロワの《虎と蛇》。1854/58年頃、ドラクロワ、56/60歳頃の作品です。フランス・ロマン主義の大家ドラクロワの動物を描いた作品です。

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ウジェーヌ・ドラクロワの《ライオンとワニ》。1863年頃、ドラクロワ、65歳頃の作品です。ドラクロワの最晩年、亡くなる年に描いた作品です。何故、この美術館はドラクロワの動物の絵ばかりがあるのでしょう。

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オノレ・ドーミエの《初めての水浴び》。制作年は不詳です。ドーミエは19世紀のフランスの画家で、風刺版画家として知られるとともに、当時のパリ市民の日常生活などを油彩画で描きました。この作品もそのひとつ。

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オノレ・ドーミエの《救助》。1870年頃、ドーミエ、62歳頃の作品です。子供が救われる場面が描かれています。

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ジャン=バティスト・カミーユ・コローの《城》。1865/70年頃、コロー、68/73歳頃の作品です。コローの作品は既にまとめて見ましたが、何故か、1点だけ、ここに離れて展示されています。この作品も灰色もしくは銀色の靄のかかった独特の画法で描かれています。

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ジャン=フランソワ・ミレーの《掃除する農家の女》。1867年頃、ミレー、53歳頃の作品です。このミレーの作品も離れて展示されています。この作品はようやく、名声を得た頃のものです。何気ない農家の日常風景を描いています。

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アンリ・ファンタン=ラトゥールの《花のバスケット》。1875年頃、ファンタン=ラトゥール、39歳頃の作品です。ファンタン=ラトゥールは、フランスの19世紀の画家で、静物画、花の絵、友人の画家・作家たちのグループ肖像画などを描きました。この作品も得意の花の絵です。

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アンリ・ファンタン=ラトゥールの《楽劇:ラインの黄金、第1場》。1888年頃、ファンタン=ラトゥール、52歳頃の作品です。ファンタン=ラトゥールは、リヒャルト・ワーグナーの音楽の熱心な支持者であり、1876年の最初のバイロイト音楽祭で《ニーベルンゲンの指輪》のプルミエ上演を鑑賞しました。その経験で《ニーベルンゲンの指輪》の序夜《ラインの黄金》の第一場を描き上げましたのが本作です。

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アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックの《横顔の女性の肖像の習作》。1890年頃、ロートレック、26歳頃の作品です。この作品のモデルは《保護者の娘》と呼ばれていますが、彼女の身元はいまだ不明です。彼女の椅子に硬直して座っている姿勢はその内面の緊張を感じさせるものになっています。彼女は完全に自分自身にのみ関心があり、内向的な存在として描かれています。

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エドガー・ドガの《鏡の前》。1889年頃、ドガ、55歳頃の作品です。ドガも2度目の登場です。ドガは、画面の官能性と色彩の明るさのために、1870年頃からパステルチョークを好んで用いました。ドガは斜め上の視点から、化粧台で髪を結んでいる女性の後ろ姿を描きました。パステル画は、ドガの晩年の作品の特徴である、さまざまな絵画技法の実験的な取り扱いがみられます。

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ウジェーヌ・ブーダンの《フェカンの漁船》。1893年頃、ブーダン、69歳頃の作品です。ブーダンは19世紀フランスの画家であり、外光派の一人として印象派に影響を与えました。特にモネとはル・アーヴルで一緒に絵を描き、モネに屋外で絵を描くことを教えました。ノルマンディーの海岸を描いた作品が多く残されています。本作もその一枚です。フェカンはル・アーヴルから40㎞ほど北の漁港です。

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アルマン・ギヨマンの《パリのベルシー河岸》。1874年頃、ギヨマン、33歳頃の作品です。この作品はさきほど見たセザンヌの同名の作品のもととなった作品です。あのセザンヌがコピーするほどですから、よほど、インパクトのある作品だったのでしょう。印象派の先駆けの作品の一つです。

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さて、いよいよ、この美術館でご紹介する最後の絵です。面白い絵を見つけました。てっきり、キリコの絵だと思ったのですが・・・

オスカル・ドミンゲスの《通りの神秘と憂愁(ジョルジョ・デ・キリコに拠る)》。1941-45年頃、ドミンゲス、35-39歳頃の作品です。オスカル・ドミンゲスはスペイン出身の画家で、主にシュルレアリスムに属するとされています。ピカソや、ジョルジョ・デ・キリコ等の作品の贋作を描いていたとも言われています。実際、この作品は同名のジョルジョ・デ・キリコの有名な作品のコピー、あるいは贋作に思えます。

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これでこの美術館の鑑賞は完了。
カンディンスキー、マルク、マッケ、ヤウレンスキーなどの青騎士の作品、ブーダン、モネ、マネ、シスレー、ルノワール、ドガ、ゴーギャンなどの印象派やセザンヌ、コロー、クールベ、ミレー、テオドール・ルソーなどのフランス絵画、リーバーマンのドイツ印象派作品、マグリット、デルヴォー、クノップフなどのベルギーの作品、レンブラント、ルーベンスを始めとするオランダ・フランドル絵画、ミレイ、ロセッティなどのラファエル前派やバーン・ジョーンズ、ムンク、クラナッハ、ベックマンやキルヒナーやノルデのコレクションも充実、配偶者の大好きなボッシュも1点、ホドラー、アンリ・ルソー、ドニ、ルドン、ドーミエ、ドラン、ピカソ、ロートレック、ダリ、ヴラマンク、ヴァン・ダイク、ベックリンなど錚々たる画家たちの作品が並んでいました。これだけ並べると、ちょっと展示がごたついていたのも仕方がないのかもしれません。

なかなか見て回りにくい展示室の並びなので、面白いものを見逃さないように、最後に確認の一周をします。

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おかげで、ボッスを見逃さずに済みました。これだけを2時間ほどで見て回り、くたくたになりました。それでも、なかなか充実した美術鑑賞になり、満足です。

ここで休憩をしたいところですが、せっかくですから、美術館のカフェでは寂しいですね。運河沿いの赤レンガ倉庫まで足を伸ばし、そこでお茶することにします。



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ハンブルク散策:赤レンガ倉庫地区のお洒落な紅茶専門カフェ

2018年8月22日水曜日@ハンブルク/22回目

久しぶりにハンブルク散策(一昨年の旅)を再開します。

今日はハンブルクHamburgでゆったり散策。ハンブルク市立美術館Hamburger Kunsthalleでの名画鑑賞は2時間半ほどに及びました。予想よりも充実したコレクションに満足しました。
美術鑑賞の後の休憩はどうしようかと迷いますが、運河沿いの赤レンガ倉庫まで足を伸ばし、そこでお茶することにします。
歩く距離を減らすため、ちょっと遠回りになりますが、Uバーンを乗り継いで移動することにします。到着した最寄り駅はU1のメスベルクMeßbergです。地上に出ると、大通りのヴィリー・ブラント通りWilly-Brandt-Straßeの向こうに教会の大きな尖塔が見えます。聖ニコライ教会廃墟Mahnmal St. Nikolaiです。この尖塔は高さが147.3mもあり、大火事の後の1842年にネオンゴシック様式で建てかえられた当時は世界一の高さでしたが、現時点でも世界で5番目の高さを誇っています。第二次世界大戦では奇しくも空爆の格好の標的になり、大きなダメージを受けました。結局、修復されることなく廃墟と化してしまいました。現在は戦争の負の遺産として保存されています。

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地下鉄の駅から少し歩くと運河の前に出ます。ツォル運河Zollkanalです。運河の対岸には赤レンガ倉庫Lagerhaus aus rotem Backsteinが見えています。

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運河に架かるヴァンドラーム歩道橋Wandrahmstegを渡って、倉庫街Speicherstadtに入っていきます。運河の先には聖カタリーネン教会Hauptkirche St. Katharinenが見えています。

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橋の先には赤レンガ倉庫地区が広がっています。

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倉庫地区に入ると、赤レンガ倉庫地区の地図が表示されています。広大な倉庫街ですね。

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倉庫を見ながらブラブラ歩きますが、赤レンガ倉庫群の凄さに圧倒されます。我が横浜の赤レンガ倉庫が貧弱に思えてしまいます。

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赤レンガ倉庫はどれも7階建てほどのとても巨大な建物です。

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赤レンガ倉庫地区には縦横に運河が張り巡らされています。その運河を渡って、倉庫街の一角にあるヴァッサーシュロスWasserschloss(水の城)という紅茶専門カフェを目指します。

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目的のカフェのオープンテラスが見えてきます。

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カフェの前には運河に面している倉庫街が建ち並んでいます。

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見上げるような赤レンガ倉庫群の間に瀟洒なパラソルの開いた空間があります。なんてお洒落なんでしょうね。

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生憎、目の前の赤レンガ倉庫は工事中ですが、そう目障りなわけではありません。

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地下鉄の駅、メスベルクからここまでの散策ルートを地図で確認しておきましょう。

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木陰のテラス席を選んで、座ります。

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カフェの建物も元は赤レンガ倉庫だったようです。建物の中の様子は後でチェックしてみましょう。

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さて、早速、オーダーしましょう。アイスクリーム入りコーヒーなどを飲みたい気分ですが、このお店はやはり紅茶でしょう。茶葉は200種類ほどあるらしいのですが、選択する能力もないので、お勧めの中から、ダージリンとアッサムの一品をお願いします。ランチは10ユーロだよという言葉につられてメニューを見るとなかなか美味しそうです。一番を1つ、三番を一つ、お願いします。
注文の品が届くまで、周りの景色を楽しみます。こちらはカフェの建物とその前の綺麗な緑。

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運河の対岸には修復工事中の赤レンガ倉庫の建物。

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景色と雰囲気を楽しみながら、しばし、紅茶が届くのを待ちます。



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ハンブルク散策:赤レンガ倉庫地区で紅茶とパスタのランチ

2018年8月22日水曜日@ハンブルク/23回目

今日はハンブルクHamburgでゆったり散策。ハンブルク市立美術館Hamburger Kunsthalleでの名画鑑賞の後、運河沿いの赤レンガ倉庫まで足を伸ばし、ヴァッサーシュロスWasserschloss(水の城)という紅茶専門のお洒落なカフェのテラス席に落ち着いたところです。
オーダーを済ませて、倉庫街の一角でそこだけが異次元のような不思議な空間の雰囲気を味わいます。

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やがて、待ちに待った紅茶が届きます。ですが、また、ここでお預けです。砂時計がスタートします。

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刻々と砂時計が時を刻んでいきます。

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時の進みは遅々としています。

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巨大な赤レンガ倉庫の間で美しい青空が広がっています。何て気持ちのよいティータイムなんでしょう。

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ようやく、カップに紅茶を注ぎ入れます。定番のダージリンとアッサムです。

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赤レンガ倉庫の空間に陽光が降り注ぎます。まあ、暑いことは暑い!(笑い)

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ここでランチのパスタが届きます。一番を1つ、三番を一つ、お願いしましたが、なぜか三番のパスタしか届きません。会話が通じなかったのですね。

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でもこれが大正解。とってもお洒落なパスタをシェアし、量的には十分でした。この後、ディナーで美味しいものをいただくことになっているので、これ以上食べるのはダメです。大満足で疲れも取れました。建物の中にある紅茶屋さんのショップも眺めましたが、高そうなので止めます。saraiと配偶者は本質的にケチですからね。

美味しい紅茶とランチで息を吹き返した思いで素敵なカフェを後にします。運河に架かる橋を渡ります。

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日陰を選びながら、赤レンガ倉庫地区をぶらぶら歩きます。

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整然と建ち並ぶ赤レンガ倉庫の間には広々とした石畳の通りが続きます。

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赤レンガ倉庫の建物と青空を愛でながら、ゆったりと散策します。

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ツォル運河Zollkanalの前に出ると、2本の教会の尖塔が見えます。手前が聖カタリーネン教会Hauptkirche St. Katharinen、その向こうが聖ニコライ教会廃墟Mahnmal St. Nikolaiです。

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運河は意外に広い川幅でたっぷりした水量です。

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再び、運河越しに2本の教会の尖塔を眺めます。

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運河沿いに建つ赤レンガ倉庫の建物の1階はリノベーションされて、お洒落なショップやカフェになっています。

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赤レンガ倉庫地区の端までやってきたところで、倉庫街の建物群を振り返ります。赤レンガ倉庫の建物や建てかえられたモダンなビルが並んでいます。

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運河に架かるヴァンドラーム歩道橋Wandrahmstegを渡って、倉庫街Speicherstadtに別れを告げます。

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橋の中ほどから運河を眺めます。左手には赤レンガ倉庫の建物が見えます。

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地下鉄Uバーンの駅に向かいます。大通りには珍しくごみ箱が設置されていますね。

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次はハンブルクの町の展望を楽しむために展望台のある聖ミヒャエル教会Hauptkirche St. Michaelisに向かいます。



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ハンブルク散策:聖ミヒャエル教会のパイプオルガンによる壮大なベートーヴェンのシンフォニー

2018年8月22日水曜日@ハンブルク/24回目

今日はハンブルクHamburgでゆったり散策。ハンブルク市立美術館Hamburger Kunsthalle、運河沿いの赤レンガ倉庫を巡りました。赤レンガ倉庫の最寄りの地下鉄駅、U1のメスベルクMeßbergから、U1、S1を乗り継いで、シュタットハウスブリュッケStadthausbrückeまで移動し、そこから聖ミヒャエル教会Hauptkirche St. Michaelisに歩きます。高いところ好きのsaraiの要望で教会の尖塔に上ることにするんです。大通りのルードヴィッヒ・エアハルト通りLudwig-Erhard-Straßeを地下道をくぐって横断します。地下道を上がると、ツアーらしき一行が立ち止まっていて、ツアーの案内人がしっかり説明しています。あれっ、もう聖ミヒャエル教会に着いたのかなと思っていると、どうやら違うようです。ツアーの一団は籠を持ったおばあさんの銅像を取り囲んでいます。

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そのおばあさんの銅像の撫でられて金色に光る指をsaraiも握ってパチリと写真を撮りたいのですが、そのツアーの一団が動こうとせずに撮ることが出来ません。仕方がないので、聖ミヒャエル教会に向かいます。帰りに写真を撮ることを忘れないようにしましょう。すぐに聖ミヒャエル教会に到着。

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教会前広場で尖塔を含めて写真を撮ろうしますが、高すぎてなかなか難しいです。塔の高さは132mもあります。

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少しずつ後ずさりしながら、写真を撮ります。バロック様式のスタイルですね。

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何とか全景をカメラにおさめてOK。

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近づいて塔の迫力のある姿をもう一枚。

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さて教会に入ろうとしますが、ドアが開きません。エッ、お休みかと思っていると、通りすがりのご夫妻が、正面へと案内してくれました。ダンケ。ドアを開けると、素晴らしいオルガンの音がします。ちょうど、巨大なパイプオルガンでベートーヴェンの交響曲を演奏中です。オルガンの響きを聴き入っている人たちが大勢、着席しています。

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美しいバロック様式の教会内部を見ながら、演奏を楽しみます。

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とりあえず、saraiも席に着いて、オルガンによるベートーヴェンに耳を傾けます。オルガンでのベートーヴェンの交響曲を聴くのは初めての経験です。

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プロテスタントの教会なので、装飾は簡素ですが、バロック様式の控えめな美しさに目を奪われます。

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肝心のパイプオルガンを見上げます。その姿は壮大で美しいです。そこからの音の響きも美しく、うっとりします。

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おや、こちらにも、もう一台、パイプオルガンがありますね。

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ええっ、これもパイプオルガン?

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教会内部の美しさに気付いたsaraiは、たまらずに鑑賞しながら教会内を写真撮影します。これが主祭壇です。キリストの復活が描かれています。

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やはり、素晴らしい響きのパイプオルガンが気になります。実に巨大です。

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白を基調としたバロック様式の内部空間も素晴らしいです。

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saraiが歩き回る様子を眺めていた配偶者が、急にsaraiが帽子をかぶったままなのに気付きます。配偶者から慌てて注意されて、saraiもギョッとします。これはまずいですね。早速、帽子を脱ぎます。失礼しました。パイプオルガンの響きと教会内部の美しさに気を取られて、帽子のことを失念していました。しばらく、オルガンを聴きながら、反省しましょう。



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ハンブルク散策:聖ミヒャエル教会の塔からの絶景

2018年8月22日水曜日@ハンブルク/25回目

今日はハンブルクHamburgでゆったり散策。ハンブルク市立美術館Hamburger Kunsthalle、運河沿いの赤レンガ倉庫から聖ミヒャエル教会Hauptkirche St. Michaelisにやってきました。高いところ好きのsaraiの要望で教会の尖塔に上ることにしたんです。教会内部ではパイプオルガンでベートーヴェンの交響曲を演奏中。その響きを聴きながら、バロック様式の美しい内部空間を眺めています。

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パイプオルガンの凄い演奏が続いています。

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結局、当初の目的を忘れて、パイプオルガンの演奏を最後まで聴いていました。

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演奏が終わった後、金色に輝く天使も一緒にオルガンに耳を傾けていたことに気が付いて、軽い感銘に陥ります。うーん、ヨーロッパの教会はやはりいいですね。

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さて、ここに来た目的は、尖塔に上ること。ようやく、エレベーターで塔に昇ることにします。料金は、シニア料金で一人4ユーロ。高速エレベータで一気に上がります。やはり高い所からの眺めは素晴らしいです。106mの高さの展望台からのハンブルクの絶景を楽しみます。真っ先に目に入るのは第2次世界大戦の戦禍を受けて廃墟になっている聖ニコライ教会廃墟Mahnmal St. Nikolaiの姿です。無残ではありますが、凛とした美しさもあります。

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視線を左に移すと、内・外アルスター湖Binnenalster/Aussenalsterの青い湖面が見えます。最初にハンブルクを訪れた26年前、湖畔のホテルに滞在した記憶が蘇ります。今回はそれ以来、2度目のハンブルク訪問です。

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さらに視線を左に移すと、ハンブルクのランドマークのテレビ塔、ハインリッヒ・ヘルツ塔Heinrich-Hertz-Turmが屹立しています。高さ271.5mです。周波数の単位ヘルツはハンブルク生まれの物理学者の名前ハインリッヒ・ヘルツがもとになっていたんですね。

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ハンブルク港の景色も素晴らしいです。クルーズ船乗り場、ザンクト・パウリ桟橋St. Pauli Landungsbrückenのあたりがよく見えます。

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一昨日、間近に見たエルプ・フィルハーモニーElbphilharmonie Hamburgの超モダンな建物も見えています。ガラスの壁面に周りの景色が映り込んでいますね。

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そのエルプ・フィルハーモニーの左には先ほど訪れた赤レンガ倉庫群がすべて見渡せます。さらにその左に聖カタリーネン教会Hauptkirche St. Katharinen、聖ニコライ教会廃墟Mahnmal St. Nikolaiが見えています。

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360度のパノラマを見渡して、再度、聖ニコライ教会廃墟と向き合います。この廃墟の存在感に何か心がとらわれます。

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一周見終わったところで、また、気になる風景をピンポイントで眺めていきましょう。

夕陽に輝くエルベ川Elbe、運河の景色も素晴らしいです。

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アルター・エルプ・パルクAlter Elbparkのこんもりとした緑の中に巨大なビスマルクの像Bismarck Denkmal Hamburgが見えています。残念ながら、その背中しか見えませんが・・・。

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眼下のビルの屋上は緑に覆われたものが目立ちます。環境に配慮したドイツの姿でしょうか。

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おっ、エルベ川に外輪船が進む姿が見えます。ルイジアナ・スター号ですね。

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エルプ・フィルハーモニーをズームアップします。鏡面のような壁面が凄いです!

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マッチ箱のような建物も可愛いですね。

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大きくて広い青空の下にエルベ川と周辺の景色がハンブルクの絶景を作り上げています。空には小さく宣伝用の飛行機が飛んでいます。

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運河沿いに立ち並ぶ赤レンガ倉庫群です。

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展望台からエルベ川の風景を眺める若者たち。

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市庁舎Rathausの塔も見えます。その先には聖ペトリ教会Hauptkirche Sankt Petri、聖ヤコビ教会Hauptkirche St. Jacobiの塔も見えます。やはり市庁舎は見ておきたいですね。配偶者と相談して、この後、行ってみることにします。

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ハンブルクの町の絶景を堪能しました。地図でハンブルクの町の概要を確認しておきましょう。

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聖ミヒャエル教会の塔に上ることにして正解でした。満足して塔の上からの眺めを完了します。この後は市庁舎に向かいます。



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ハンブルク散策:謎のおばあさんの銅像と握手

2018年8月22日水曜日@ハンブルク/26回目

今日はハンブルクHamburgでゆったり散策。ハンブルク市立美術館Hamburger Kunsthalle、運河沿いの赤レンガ倉庫、そして、今は聖ミヒャエル教会Hauptkirche St. Michaelisに来て、塔の上からの絶景を楽しんだところです。
さあ、展望台の高い所から降りて、エレベーターに向かいましょう。

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高速エレベーターに乗って、一気に下ります。モダンなエレベーターは内部に綺麗な表示画面があり、移動状況を知らせてくれます。現在、8階で94.3m。106mの高さの展望台から下降中。

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6階、66.7mまで下降。塔の形が表示されるている画面の中の赤い小さな●がエレベーターのゴンドラの位置を示しています。

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2階、39.0m。もうすぐ、下に到着します。

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エレベーターから降りて、教会の外に出ます。教会の前には銅像がります。プロテスタントの教会ですから、マルティン・ルターの像です。

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塔を見上げます。塔の高さは132m。展望台は106mのところにありました。

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教会前の広場の石畳の上に銘板が埋め込まれています。何と高級デパートのアルスターハウスAlsterhausの宣伝です。けばけばしくない宣伝なのは、プロテスタントの教会の前だからでしょうか。それでも教会でデパートの宣伝なのでしょうか。きっと教会に多額の寄付をしたんでしょう。

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真夏の陽光に包まれて輝く聖ミヒャエル教会に別れを告げます。そうそう、この教会は音楽にも縁が深いそうです。教会の地下墓地には,ハンブルクで活躍した音楽家たちが眠っています。その一人がバッハの次男、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハで、ハンブルクの5つの中央教会の音楽監督を務めていました。また、ブラームスはこの教会の近くで生まれ,ここで洗礼を受けました。その生家跡の近くには、ブラームス博物館があります。

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さて、Sバーンの駅に向かいますが、その途中、おばあさんの指を握ってパチリ。先ほどはツアーの一行に囲まれていて、近づくことができませんでした。ようやく念願が叶いました。

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ところで、このおばあさんは誰でしょう? チトロネンジュッテ Zitronenjetteと呼ばれる薄幸の人生を生きた女性です。ハンブルクに生き、そして、死んで行ったヘンリエッテ・ミュラーHenriette Müllerという女性です。彼女はある意味、ハンブルクを代表する女性として、チトロネンジュッテ Zitronenjetteという演劇の主人公として取り上げられて、ハンブルクでは知らぬもののいない存在になりました。彼女は生きるために昼も夜もレモンを売り歩き、夜半にはザンクト・パウリ桟橋近くの酒場に入り浸り、やがて、アルコール依存症になります。警察に捕まり、精神病院に入れらましたが、精神に障害はなく、その病院のキッチンで働き、やがて、そこで死を迎えます。何のことはない人生ですが、そのレモンのように酸っぱい人生はハンブルクっ子たちの心の隙間に入り込んだようです。
この銅像は彼女が住んでいた聖ミヒャエル教会近くのこの場所にレモンの入った籠を持つおばあさんとして、建てられました。その差し出す指先は触れると幸運が訪れると信じられて、皆が触るためにピカピカに光っています。saraiもこのレモン売りのおばあさんから幸運をもらえたでしょうか。
おばあさんの姿をハンブルクっ子の気持ちになって、しみじみと眺めます。

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ところで、チトロネンジュッテ Zitronenjetteという名前はバラ好きの人はご存知だそうです。レモンイエローの品種のバラとして知られているようです。
ツアーの一団がこの銅像の前に立ち止まっていなければ、saraiがこの銅像に注目することはなかったでしょう。何かの縁があったんですね。そのおばあさんに永遠の別れを告げます。

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このチトロネンジュッテの銅像の前にある地下道をくぐって、大通りのルードヴィッヒ・エアハルト通りLudwig-Erhard-Straßeの向かい側に出ます。地下道にはエスカレーターの設備があるので、助かります。

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シュタットハウスブリュッケStadthausbrückeの駅からSバーンに乗って、市庁舎Rathausに向かいます。

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市庁舎は、電車の駅の地下から出てくると目の前です。

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これまた凄い装飾です。日本人の感覚では、たかが市役所なのにねって思いますが、ヨーロッパの町ではどの市庁舎も立派な建物ばかりです。

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そのネオ・ルネッサンス様式の建物をしばらく堪能することにしましょう。



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ハンブルク散策:まるで宮殿のように壮麗な市庁舎

2018年8月22日水曜日@ハンブルク/27回目

今日はハンブルクHamburgでゆったり散策。ハンブルク市立美術館Hamburger Kunsthalle、運河沿いの赤レンガ倉庫Lagerhaus aus rotem Backstein、聖ミヒャエル教会Hauptkirche St. Michaelisを巡って、市庁舎Rathausの前までやってきたところです。
市庁舎広場Rathausmarktから高さ112mの尖塔が聳える市庁舎を眺めます。ネオ・ルネッサンス様式の堂々たる建物です。

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広場の後ろを振り返ると、ハンブルクの5つの中央教会の一つ、聖ペトリ教会Hauptkirche Sankt Petriの塔が見えています。

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市庁舎は大規模な建物で、ハンブルク州議会の議事堂も兼ねています。部屋数は647室もあり、バッキンガム宮殿よりも6室多いそうです。

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強い夕日を背後から浴びながらの雄姿です。広場の一番後ろまで下がりますが、全景を捉えることができないほど、巨大な建物です。

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とりあえず、市庁舎の左半分をカメラに収めます。

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市庁舎に近寄ってみます。斜めから市庁舎の豊かな装飾のファサードを眺めます。

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中央部分をアップで撮影。

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次は右側をアップで撮影。

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次は左側をアップで撮影。

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中央の尖塔をアップで撮影。

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中央の尖塔の下にあるゲートの繊細な装飾を近づいて眺めます。

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市庁舎の内部はガイドツアーでのみ見られる筈ですが、人がどんどんゲートを自由に出入りしているので、我々も無断でちょっと覗いてきましょう。ゲートを抜けると、列柱のアーチが連なっています。

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なかなか美しい内部空間が続きます。

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これ以上はそれほど特別なものはありません。ローマ風の水飲み場がありますね。

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ぐるっと一巡りしたところでゲートに戻ります。

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また、市庁舎広場に戻ります。聖ペトリ教会が見えています。

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広場の石畳の上に金属製プレートが並んでいます。どうやら、ナチスの強制収容所で命を落としたハンブルクのユダヤ人たちの墓標のようです。ドイツの戦後はいつまでも終わらないようです。合掌!

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さて、夕方の5時を過ぎました。今日のメインイベントのひとつはディナーです。そろそろ美味しいディナーを頂きに行きましょう。一昨日は臨時休店していたお魚料理のお店、ダイヒグラフDeichgraf Restaurantに再挑戦です。市庁舎広場から携帯でお店に電話をすると、今日はちゃんと繫がり、無事、予約を入れられます。Uバーン(地下鉄)でお店まで移動します。早速、Uバーン乗り場に向かいます。

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Uバーンの駅、ラートハウスRathausへ階段を降ります。

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U3の電車に乗って、レストランの最寄り駅のレディングスマルクト駅Rödingsmarktに向かいます。



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ハンブルク散策:運河沿いの人気レストランで最高のディナー

2018年8月22日水曜日@ハンブルク/28回目

今日はハンブルクHamburgでゆったり散策。ハンブルク市立美術館Hamburger Kunsthalle、運河沿いの赤レンガ倉庫Lagerhaus aus rotem Backstein、聖ミヒャエル教会Hauptkirche St. Michaelis、市庁舎Rathauを巡って、今日の散策は終了。
これから、ディナーを楽しみます。市庁舎のあるラートハウス駅RathausからU3の電車に乗って、レストランの最寄り駅のレディングスマルクト駅Rödingsmarktに着きました。駅を出ると、巨大な廃墟、聖ニコライ教会Mahnmal St. Nikolaiが前方に見えます。

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お魚料理のお店、ダイヒグラフDeichgraf Restaurantが先ほど予約したお店ですが、一昨日も訪れており、今日は二度目なので、迷うことなく、まっすぐ最短のルートを進み、すぐにお店が見えてきます。

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お店の前に着くと、まだ、開店前です。

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開店時間まで、お店の前のテラス席で待ちます。

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同じく開店を待つお客さんがメニューを開いています。

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こちらもメニューをチェックしておきましょう。おっ、フランケンのワインがありますね。

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このレストランのお隣は一昨日にディナーをいただいたレストラン、ジャガイモ・レストラン、カルトッフェルケラーKartoffelkellerです。

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待つこと、しばし。時間になり、店内に案内されます。
お店の紹介記事を見ていると、運河に面した眺望の良い席があるとのことなので、そこを希望すると、OKがもらえました。一番の窓際は4人席とのことで、その一つ手前の席に案内されます。これは仕方がないですね。

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でも、雰囲気はバッチリです。

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窓からの運河の風景は最高です。

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メニュ-には生牡蠣があります。これは食べるしかないでしょう。半ダースで我慢です。新鮮なニシンの酢漬け、ハンブルク名物のラブスカウス(コーンビーフとマッシュポテトを練り合わせたもの)もいただきます。オーダーを済ませ、運河の風景を楽しみながら、料理を待ちます。

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まずはワイン。フランケンのリースリンクの白ワインです。

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美味しいワインで乾杯。

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開店後、10分もすると、続々とお客さんが来店します。なかなかの人気店なんですね。

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窓の外に手を伸ばして、写真を撮ります。運河の先に聖ニコライ教会が大きく見えています。

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パンを肴にワインをいただきます。

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生牡蠣です。お魚料理のレストランらしく、絶品です。

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ハンブルク名物のラブスカウスです。目玉焼きがのっています。魚料理ではありませんが、名物を逃すわけにはいきません。

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野菜の付け合わせも美味。

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新鮮なニシンの酢漬けもそろって、ハンブルク名物のオンパレード。

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もう、何も語ることはありません。またまた贅沢をしてしまいました。
帰路はまたレディングスマルクト駅からUバーンの電車に乗ります。

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ハンブルクで余裕の1日を過ごしました。ハンブルクは一昨日の港探訪を合わせて、十分に満足しました。
今日1日の散策ルートを地図で振り返っておきましょう。

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最後はふらふらとほろ酔い気分でホテルへ。一時のうたた寝をして、熱いお風呂につかり、ブログを書いて、荷物を片付けて、おやすみなさい。

明日は1日、鉄道に乗って、バイロイトに移動します。音楽三昧の第2幕の開演です。初めてのバイロイト音楽祭・・・ティーレマンの《トリスタンとイゾルデ》、ビシュコフの《パルジファル》はsaraiのワーグナー体験の頂点となるでしょう。



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首都圏の様々なジャンルのクラシックコンサート、オペラの感動をレポートします。在京オケ・海外オケ、室内楽、ピアノ、古楽、声楽、オペラ。バロックから現代まで、幅広く、深く、クラシック音楽の真髄を堪能します。
たまには、旅ブログも書きます。

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金婚式、おめでとうございます!!!
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10/07 08:57 堀内えり

 ≪…長調のいきいきとした溌剌さ、短調の抒情性、バッハの音楽の奥深さ…≫を、長調と短調の振り子時計の割り振り」による十進法と音楽の1オクターブの12等分の割り付けに

08/04 21:31 G線上のアリア

じじいさん、コメントありがとうございます。saraiです。
思えば、もう10年前のコンサートです。
これがsaraiの聴いたハイティンク最高のコンサートでした。
その後、ザル

07/08 18:59 sarai

CDでしか聴いてはいません。
公演では小沢、ショルティだけ

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07/08 15:53 じじい@

saraiです。
久々のコメント、ありがとうございます。
哀愁のヨーロッパ、懐かしく思い出してもらえたようで、記事の書き甲斐がありました。マイセンはやはりカップは高く

06/18 12:46 sarai

私も18年前にドレスデンでバームクーヘン食べました。マイセンではB級品でもコーヒー茶碗1客日本円で5万円程して庶民には高くて買えなかったですよ。奥様はもしかして◯良女

06/18 08:33 五十棲郁子

 ≪…明恵上人…≫の、仏眼仏母(ぶつげんぶつも)から、百人一首の本歌取りで数の言葉ヒフミヨ(1234)に、華厳の精神を・・・

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