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ウィーンで音楽三昧:クルレンツィスの《ドン・ジョヴァンニ》

2019年9月7日土曜日@ウィーン

旅の4日目、ウィーンWienの2日目です。昨日の夜の便でイスタンブールから飛んできました。

ぐっすり眠って、配偶者は8時に起床。窓を開けると曇っていてひんやりしています。
もちろん、saraiはまだまだお休み中。今日の予定は、夜のクルレンツィスのモーツァルトのオペラのみ。今日は休養の一日としましょう。とは言え、ベルヴェデーレ宮殿Schloss Belvedereに散策がてら、クリムトとシーレの名画を鑑賞に行くつもりです。
配偶者はsaraiが寝ている間、メールやブログをチェックして過ごしていました。配偶者が一人で朝食でも買いに行こうかと、準備をしていると、ようやくsaraiも目覚めて、一緒に朝食のお買い物に出かけることにします。出がけに各部屋のメイキングをしているメイドさんに出会い、我々の部屋はタオルだけ交換してもらい、お掃除は不要と伝えることができ、ラッキー。
近くのSバーンの駅、レンヴェークRennwegはショッピングエリアです。パン屋やピザ屋も数軒あって、美味しそうな香りがしています。温かな総菜パンを購入。牛乳、ジュース、水を購入。奥のスーパーも覗いていきましょう。キッチン付ではないので、食事は作れないけど、何でもあるので便利に使えそうです。新鮮な果物が並んでいます。

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パンのコーナーです。

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色んなパンが大量にストックされています。どんだけ、パンを食べるのかいって感じです。

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これは別のパン屋さん。イートインスペースもあります。

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簡単に食事が出来そうなお店もあるので、助かりますね。
おっ、ポストと書かれた何でも屋を発見。後で、孫たちへの絵葉書を出しに来ましょう。市場調査を終え、ホテルに戻ります。
軽く朝ごはんを始めましょう。

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しかし、saraiはお腹の調子が良くないので、そこそこで朝食を切り上げて、ベッドに戻ります。まだまだ旅は始まったばかり。しっかり休養しましょう。予定していたベルヴェデーレ宮殿の名画鑑賞ですが、とてもそんな気分じゃありません。午後4時にウィーンのお友達と会って、一緒にウィーン・コンツェルトハウスまで行く予定なので、それまでは自重して、ホテルで静養しましょう。
昨日と一昨日はイスタンブールで歩き回り、少し、疲れも出ているので、よい休養になりそうです。それにホテルの部屋は頗る気持ちがいいんです。なお、お腹の具合が悪いのは決して盲腸炎の後遺症ではありませんよ。
配偶者は暇になり、またまたパソコンで遊んでいます。その後、孫たちへの絵葉書を書き終えたので、投函に出かけます。以後、配偶者のお買い物記録です。配偶者が先ほどのポストと書かれたお店に行くと、真っ暗。ウ~、そういえば今日は土曜日。曜日の感覚もなくしてます。土曜日は12時までと書かれています。日曜日は当然お休みですから、絵葉書の投函は明後日になりますね。残念ですが、仕方ありません。せっかくだから、スーパーで紅茶用の砂糖を買って帰ることにしたそうです。紅茶の茶葉は持ってきたけど、砂糖を持ってくるのを忘れていたのです。調味料売り場に行きますが、並んでいるのは、塩、コショウ、マヨネーズなどの調味料のみ。そういえば、料理に砂糖を使うのは日本食だけだと聞いたことを思い出します。砂糖は調味料ではないのですね。コーヒーなどの嗜好品売り場でしょう。でも、ズラリと紅茶やコーヒーが並んでいますが、砂糖はありません。ハチミツやジャムなどが置いてあるだけです。そうです、ケーキ作りにはたっぷり砂糖を使うから、お菓子作りコーナーにあるかもと思いつきます。ちょうど店員さんと目があったので、砂糖はどこにあるかと訊くと、案内してくれます。小麦粉やゼラチンなどの売り場。じっくり探すと、確かにその中に砂糖らしきものがあります。1キロ入りの袋です。あの、3グラムとか5グラムとか入った棒状の砂糖って、どこに売っているのでしょう・・・。謎です。以上が配偶者のお買い物記録です。

さて、そろそろ出かける時間です。オペラの前に、ウィーンのお友達と会って、食事をする約束です。残念ながら、雨がしっかり降りだしました。寒いほどです。コートを羽織っている人もいます。一雨ごとに冬に近づいていくのでしょうね。
お友達と4年ぶりの再会。お互い、変わりなく元気なことを確認します。後は、おしゃべりが続きます。配偶者は気になっていた砂糖のことを訊いています。一人分の入った砂糖なんて、売っていないそうです。では、カフェなどで出されるのは? すべて、お店が独自で作ったものだそうです。そういえば、みなお店のデザインになっていますね。日本で一般的に売られている図柄だけのものはなく、あんな紙の無駄遣いの品はないよとのことでした。確かに・・・。家庭では、砂糖を器に入れて使えばいいのよね。文化の違いを痛感します。(後でちょっと大きめのスーパーに行ったら、一人分入りの砂糖は売ってました。コーヒーや紅茶のコーナーにハチミツと並んで。でも1種類のみ。)我々のホテルは、コーヒーと紅茶、砂糖やミルクはフロントに置いてあり、自由に持って行ってよいので、出入りの際に、いっぱいもらってきて確保し、問題ありません。
お友達と一緒の食事はケーキで有名なオーバーラーKurkonditorei OBERLAAでいただいています。最近はここのランチなどの食事が充実しているそうです。
とりあえず、ウィーン風の小麦粉のダンプリング入りのスープをいただきます。

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メインは牛肉のシチュー、グーラッシュです。お腹具合にはやさしい味の料理です。

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サイドメニューのサラダもお腹にやさしいです。

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オーバーラーでぎりぎりの時間までおしゃべりに興じて、超特急でウィーン・コンツェルトハウスWiener Konzerthausに向かって歩きます。結構遠いと思っていましたが、お友達の言った通り、10分ちょっとで着きます。ウィーンの旧市街は意外に狭いことを実感します。

このウィーン・コンツェルトハウスで聴くのはクルレンツィス指揮ムジカエテルナのモーツァルトのオペラ《ドン・ジョヴァンニ》です。クルレンツィス指揮ムジカエテルナでモーツァルトのダ・ポンテ3部作をルツェルン音楽祭で聴くのが今回の旅の最大の目的ですが、それに先駆けて、このウィーンでもダ・ポンテ3部作のうちの2つを聴きます。気持ちは予習がてらのリラックスしたものです。コンツェルトハウスのホールに足を踏み入れると、1階席の中央に録音機材が並んでいます。クルレンツィスは2013年から2015年にかけて、このダ・ポンテ3部作を録音したばかりです。それも超素晴らしい演奏ばかりでした。早くも再録音するんですね。

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この写真では録音機材が見えませんが、確かにライヴ録音していました。
肝心の演奏ですが、予習がてらの気分をふっとばすような凄い演奏に驚愕! このオペラについての記事はここに書きました。

明日は1日、特に決まったスケジュールはありません。明後日、また、このコンツェルトハウスでクルレンツィス指揮ムジカエテルナでモーツァルトのオペラ《コジ・ファン・トゥッテ》を聴きます。楽しみです。



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ベルヴェデーレ宮殿へ散策

2019年9月8日日曜日@ウィーン/1回目

旅の5日目、ウィーンWienの3日目です。昨日のクルレンツィスの興奮も醒めやりませんが、昨日は体調が絶不調だったんです。それを吹き飛ばすような会心の演奏でした。ウィーンの聴衆も観光客などはいなくて、気持ちよく鑑賞できました。一夜明け、バッファリンが効いたのか、体調はほぼ回復しました。ただ、お腹が緩いのは続いています。いけませんね。

カーテンから覗くと、雨は上がっていて、青空が見えています。お天気は回復したようです。でも、今日は特別な予定もないし、saraiの体調を考えて、ゆっくり過ごしましょう。
昨日の朝食の残りを片付けて、今朝の朝食とします。シャワーも浴びて、サッパリ。
お昼に近い時間になり、そろそろ、昨日出かける筈だったベルヴェデーレ宮殿Schloss Belvedereに出かけましょう。ベルヴェデーレ宮殿はホテルに隣接するようなもので、ホテルから歩いてすぐです。
ホテルを出て、すぐ横の路地、マガツィンガッセMagazingasseに入ります。

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路地の上を見上げると、だんだん青空が広がってきています。

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これが今入ってきた路地を振り返ったところです。バロック風の建物が見えます。

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ベルヴェデーレ宮殿に離接する植物園(ウニヴェルシテート・ウィーン植物園Botanischer Garten der Universität Wien)に入ります。

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植物園の上はすっかり青空が広がっていますね。

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ウィーン大学付属の植物園だけあって、多種多様な植物が栽培されています。

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多肉植物まであります。

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ここには、地元の人が散策に訪れています。長閑ですね。

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ベルヴェデーレ宮殿への門に出ます。ベルヴェデーレ宮殿にある美術館で、クリムトとシーレを楽しんできましょう。

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大きな植物園の中を抜けて、ベルヴェデーレ宮殿に入ります。

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ベルヴェデーレ宮殿の上宮Oberes Belvedereの横手に出ます。

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上宮の先にあるチケット売り場に向かいます。

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チケット売り場の前には長い行列ができています。今日は日曜ですからね。

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周りの様子を眺めながら気長に行列に並びます。

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行列の背後には、ベルヴェデーレ宮殿の上宮が眺められます。

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行列はなかなか進みませんが、まあ、焦る気持ちはありません。今日は特別な用事はありませんからね。

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saraiが行列に並んでいる間、配偶者はふらふらとそのあたりを歩いて、写真を撮っています。
離れた位置からのベルヴェデーレ宮殿の上宮の眺めです。

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上宮前の庭園の池です。

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真正面から眺めた上宮です。美しいですね。

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20分ほど並んで上宮のシニアチケットを購入。一人13.5ユーロです。しばらく来ない間に、最近は入場時間制になったようで、入館時間は30分後の12時15分です。

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少し待たされますが、構いません。どうせ暇人です。それまでベルヴェデーレ宮殿の美しい庭園を散策してきましょう。



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ベルヴェデーレ庭園をゆっくり散策、saraiの儀式も再演

2019年9月8日日曜日@ウィーン/2回目

ベルヴェデーレ宮殿Schloss Belvedereの上宮Oberes Belvedereの入館チケットを購入しましたが、予約できたタイムスロットが30分後なので、それまではベルヴェデーレ宮殿の美しい庭園を散策してきます。
上宮の横を抜けて、庭園に行きます。

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ベルヴェデーレ庭園Belvederegartenに出ます。何度来ても美しいですね。

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もちろん、saraiの儀式、恒例のタッチをします(笑い)。

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庭は、だいぶん整備されたようです。ゆっくりと散策しましょう。

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庭園から上宮を眺めます。美しいバロックの館です。

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庭園の先に眺められるウィーンの旧市街を見下ろしながら、のんびりと歩きます。

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庭園内には、噴水と彫像のある池が配置されています。

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大きな池の向こうには下宮Unteres Belvedereが見えています。バロックの大建築家ヨーハン・ルーカス・フォン・ヒルデブラントがプリンツ・オイゲンの命により、上宮に先駆けて1714年から1716年にかけて建設した美しい館です。

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この大きな池の横から、下に続く庭園に下りていきます。

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下の庭園に下りる前に上宮と庭園を眺めます。

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下宮前の庭園から振り返ると、庭園に咲く綺麗な花々の向こうに下宮と対をなす上宮が見えます。上宮は下宮に続いて、バロックの大建築家ヨーハン・ルーカス・フォン・ヒルデブラントが1720年から1723年にかけて迎賓館として建設しました。

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下宮前の庭園には真っ白い彫像が印象的です。池の周りの彫像と庭園に点々と並ぶ彫像の先に下宮が鎮座しています。

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庭園は夏の名残の花々が綺麗に咲いています。

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下宮の庭園はこれ以上進まないことにして、そこから上宮を眺めます。ずいぶん遠くに見えています。

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庭園の花々とバロックの館は似合っていますね。

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ズームアップして上宮の全景を撮影します。庭園の真ん中には階段状の噴水があります。

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これが階段状の噴水。上宮とマッチして美しい景色を作っています。

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こうして、庭園内をうろうろしていると、配偶者から、いきなり、入館5分前という指摘。慌てて、入館口に行くと、既に並んでいる人たちがいます。整理のおじさんに一応、チケットを見せると、何と日本語で「はーい、あなたの時間です。」と、綺麗な日本語が返ってきて、ビックリです。確かに、ウィーンは日本人観光客が多いですね。行列している人たちを尻目にさっと入館します。
クリムトとシーレの名画に久しぶりに再会します。



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ベルヴェデーレ宮殿のオーストリア・ギャラリー:マカルト、フォイエルバッハ、ベックリン、クリムト

2019年9月8日日曜日@ウィーン/3回目

ベルヴェデーレ宮殿Schloss Belvedereの上宮Oberes Belvedereの入館時間になり、並んでいる人の列を尻目に入館します。ここにはウィーン美術史美術館に次ぐ規模のオーストリア・ギャラリーÖsterreichische Galerie Belvedereがあり、世紀末芸術を中心とした充実したコレクションが揃っています。とりわけ、クリムトとシーレの傑作群に再会できるのが楽しみです。
入館して、2階への階段に向かいます。

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バロック装飾の階段を上って、2階に向かいます。

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2階の大広間です。

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大広間の大きな窓からはさきほどまで散策していた庭園が見渡せます。下宮とその先のウィーンの旧市街も眺められます。

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目指すはクリムトとシーレ。勝手知ったる美術館です。2階の大広間から、右手の部屋に進みます。途中、印象的な作品だけをピックアップして鑑賞します。

ハンス・マカルトHans Makartの1870年、30歳頃の作品、《マグダレーナ・プラッハMagdalena Plach》です。マカルトは19世紀後半のウィーンを席巻したアカデミック美術の第1人者として活躍した画家でした。近年、再評価されている画家です。この作品に描かれているマグダレーナ・プラッハは、ウィーンの美術商、ゲオルク・プラッハの妻で、ゲオルク・プラッハはマカルトの大きな作品を購入した最初のディーラーでした。とても美しい肖像画に魅了されます。

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ハンス・マカルトHans Makartの1868年、28歳頃の作品、《モダンなキューピッド-壁を飾るデザインModerne Amoretten – Entwurf zur Dekoration einer Wand》です。マカルトは自分のアイデアやアイデアをより簡単かつ迅速に表示するために、初めて写真を使用しました。 彼は「モダンなキューピッド」の3つの複製物に薄くグレージング(光沢を出す艶出しの手法)し、2つのトンディ(円形のイメージ画)をキャンバスに直接描きました。若いマカルトの意欲的な挑戦ですね。

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アンゼルム・フォイエルバッハAnselm Feuerbachの1868-1869年、39-40歳頃の作品、《オルフェオとエウリディーチェOrpheus und Eurydike》です。フォイエルバッハはマカルトと同時期にウィーンで活躍した新古典主義の画家です。フォイエルバッハがこの作品で扱ったテーマは、古代の物語の決定的な瞬間を人間の存在のドラマに集中させることにあります。この作品「オルフェウスとエウリュディケ」では、悲劇的な愛の主題は芸術家の運命の主題にもリンクされています。オルフェウスは、運命や孤独を克服することに成功していない存在として描かれています。絵そのものに注目すると、二人の衣装のひだが美しく描き込まれていることが特徴的ですが、やはり、オルフェオの希望に燃える顔とエウリディーチェの未来を絶望すような暗い表情が対照的に描かれていることがとても印象的です。刮目すべき作品です。

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アルノルト・ベックリンArnold Böcklinの1887年、60歳頃の作品、《海の牧歌Meeresidylle》です。ベックリンは19世紀のスイス出身の象徴主義の画家です。ベックリンはフォイエルバッハとも親交がありました。この作品では海の幻想的な風景が描かれています。ベックリンが好んで取り上げた主題のひとつです。

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ありました! クリムトの作品が登場します。

グスタフ・クリムトGustav Klimtの1895年、33歳頃の作品、《演劇『クラビコ』中のカルロスに扮する宮廷役者ヨーゼフ・レヴィンスキーの肖像Josef Lewinsky als Carlos in Clavigo》です。クリムトはブルク劇場の天井画をてがけましたが、この成功をきっかけにブルク劇場の名優の肖像画を委嘱されるようになります。この作品はその1枚ですが、従来の肖像画に終わらないのがクリムトの凄いところです。中央の肖像も見事ですが、その左右に描かれた装飾画が素晴らしいです。とりわけ、右側は古代の火盤から立ち上る煙の上に描かれた若い女性の美しさはクリムトの真骨頂です。左側の金色とグレイで描かれた月桂樹も中央に描かれた名優の肖像を称えているかのごとくです。装飾的な肖像画で、クリムトが新時代のユーゲントーシュティールの芸術を切り開いていくことを宣言したのでしょう。

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グスタフ・クリムトGustav Klimtの1891–1892年、29-30歳頃の作品、《1862年の花嫁としてのマリー・ケルナー・フォン・マリラウンの肖像Marie Kerner von Marilaun als Braut》です。1862年5月1日、マリー・ケルナーは植物学のアントン・ケルナー教授(後にケルナー・フォン・マリラウン)と結婚しました。教授は1891年に妻へのクリスマス・プレゼントとして、クリムトに肖像画の作成を依頼しました。クリムトは1862年の結婚式の際に作られた水彩のミニアチュアをもとに肖像画を描き、12月24日に暫定的に絵画を手渡しました。クリスマスプレゼントとしての納期を一応守ったわけですが、その後、最終的な手直しを施して、翌年、完成させます。肖像画はミニアチュアをもとにしていますが、白いユリで作られたブライダルブーケとヘアリングのデザインは、1892年の国際音楽および劇場展のポスターと同様にクリムトのデザインです。ウェディングドレスとベールは、1891年のエミリエ・フレーゲのパステル調の肖像画と同様に描かれています。初期のクリムトの作品として、貴重な肖像画です。

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グスタフ・クリムトGustav Klimtの1894年、32歳頃の作品、《婦人の肖像Frauenbildnis》です。この若い女性の肖像画は最初の大きな代表的なクリムトの女性の肖像画です。この作品は後に描かれる立っている女性の肖像画の基礎になります。とりわけ、エミリエ・フレーゲ(ウィーン美術館)、ハルミネ・ガリア(ナショナルギャラリー、ロンドン)、マーガレーテ・ストンボロー・ヴィトゲンシュタイン(ノイエピナコテーク、ミュンヘン)がその系列です。彼の肖像画はカメラで撮影した写真をもとにリアルに再現する手法で描かれています。

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クリムトの肖像画を皮切りにオーストリア・ギャラリーの名品の鑑賞を始めたところです。この後、シーレの傑作も続々と登場します。



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ベルヴェデーレ宮殿のオーストリア・ギャラリー:クノップフ、ムンク、ゴッホ、ホドラー、シュトゥック、セガンティーニ、ロダン

2019年9月8日日曜日@ウィーン/4回目

ベルヴェデーレ宮殿Schloss Belvedereの上宮Oberes Belvedereにあるはウィーン美術史美術館に次ぐ規模のオーストリア・ギャラリーÖsterreichische Galerie Belvedereで絵画鑑賞中です。
クリムトの初期の3枚の肖像画を見たところです。この後もクリムト、シーレの作品を中心に楽しみます。

フェルナン・クノップフFernand Khnopffの1894年、36歳頃の作品、《穏やかな水面Unbewegtes Wasser》です。クノップフはベルギーの画家で、ベルギー象徴派の代表的な人物です。この作品はある意味、クノップフらしくない作品ですが、決して、saraiの期待を裏切るものではありません。静謐な自然の描写は画家自身の内面の鏡像にも思えます。また、この頃、頻繁に訪れていた英国の伝統的な風景画に根ざすものなのかもしれません。素晴らしく美しい絵に深い感銘を受けました。

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エドヴァルド・ムンクEdvard Munchの1908年、45歳頃の作品、《海辺の男たちMänner am Meer》です。エドヴァルド・ムンクは、20世紀のモダニズムのパイオニアの1人です。 彼の衝動的な筆遣い、色彩の適用は、表現主義アーティストにとって模範的なものでした。 この作品では、海辺に立つ二人の入浴者は、アーティストの意図的なスケッチ、パスト(厚塗り)と水彩の間で微妙に変化する油絵の描き方で、感情を与えられます。 ここでは風景の印象は重要ではなく、文学的な物語の象徴でもありません。 色と色のコントラストの感情的な感覚、絵画の構成効果は、2つの男性の肉体の精悍さと同義なものです。

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フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホVincent Willem van Goghの1890年、37歳頃の作品、《オーヴェールの平原Die Ebene von Auvers》です。ゴッホが最晩年を過ごしたオーヴェールで、農村風景を描いた12枚のシリーズの1枚です。麦畑の周辺に広がる大地を明るい色彩の連なりで描いています。しかし、強烈な太陽の輝きはなく、曇り、または雨後を連想させる緑や青の色彩が画面を支配しています。この独特とも言える風景画はゴッホにしか描けない心象風景とも思えます。

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フェルディナント・ホドラーFerdinand Hodlerの1900年、47歳頃の作品、《感情Ergriffenheit》です。ホドラーはスイスの画家で、グスタフ・クリムトと並んで世紀末芸術の巨匠とも言われます。この作品はホドラーの独自の女性の描き方で、女性がその内面を示すポーズ(この場合は手の形や足の置き方、首の傾げ方)を見せています。背景はホドラーがその終生を過ごしたスイスのアルプスの風景です。

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フランツ・フォン・シュトゥックFranz von Stuckの1891年、28歳頃の作品、《喪失Verirrt》です。フランツ・フォン・シュトゥックは世紀末のミュンヘンで活躍したドイツの奇想の画家です。ミュンヘン美術院の教授として、パウル・クレー、エルンスト・ルートヴィッヒ・キルヒナー、ワシリー・カンディンスキーなどを教え子に持ちます。この作品は初期のものですが、不思議な状況のどことも知れぬ空間に痛みを抱える男が描かれています。まさにシュトゥックワールドです。幻想的とも象徴的とも思えます。saraiも一度はミュンヘンのヴィラ・シュトゥックVilla Stuckを訪れたいと念願していますが、いまだ果たせずにいます。

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ジョヴァンニ・セガンティーニGiovanni Segantiniの1894年、36歳頃の作品、《悪しき母達(嬰児殺し)Die bösen Mütter》です。セガンティーニはイタリアの画家で、アルプスの風景などを題材とした絵画を残し、アルプスの画家として知られています。saraiはその薄っぺらく感じられる作風が好みではありません。しかし、この作品を見て、すぐにセガンティーニを連想できずに、虚を突かれた思いです。何と美しい作品なのでしょう。こういうセガンティーニの作品を見ていたら、きっと、saraiの好みの画家の一人になっていたでしょう。この作品はその主題の陰惨さに似合わずにとても美しい作品に昇華しています。逆に美しいアルプスの風景を描くと、その対象の美しさに負けてしまったのではないかと思ったりします。芸術とは何と難しくて、意地悪でもある世界なのでしょう。この作品を見て、saraiは芸術の美とは何かと少し考え込んでしまいました。

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フェルナン・クノップフFernand Khnopffの1896年、38歳頃の作品、《ニンフの半身像(「ヴィヴィアン」)Halbfigur einer Nymphe ("Vivien")》です。クノップフには珍しい彫刻作品です。しかし、絵画作品と同様に実に官能的な美が成就されています。モデルは愛する妹マルグリットでしょうか。ちなみにヴィヴィアンという名前はアーサー王伝説に登場する湖の乙女の名前に由来するものかな・・・。

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フランソワ=オーギュスト=ルネ・ロダン François-Auguste-René Rodinの1909年、69歳頃の作品、《グスタフ・マーラーGustav Mahler》です。ウィーン国立歌劇場のホワイエにもロダンによるマーラー像がありますが、同じ形態のものですね。以前、パリのオルセー美術館でのマーラー展でも見ましたが、あれはこの美術館のものだったのかしら。ウィーンとマーラーは切っても切り離せないものですね。このマーラー像はマーラーが亡くなる2年前にパリのロダンのアトリエを訪れて、モデルになったのだそうです。マーラーが49歳の頃ですね。ちなみにロダン自身の音楽の好みはモーツァルトなどの古典派作品だったそうです。

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この後、クリムトの名作が並び、続いて、いよいよシーレも登場します。



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ベルヴェデーレ宮殿のオーストリア・ギャラリー:クリムト、ゲルストル、シーレ 2019年9月8日日曜日@ウィーン/5回目

ベルヴェデーレ宮殿Schloss Belvedereの上宮Oberes Belvedereのオーストリア・ギャラリーÖsterreichische Galerie Belvedereで絵画鑑賞中です。
クリムトやクノップフの世紀末芸術作品を見ています。この後もクリムト、シーレの作品を中心に楽しみます。

グスタフ・クリムトGustav Klimtの1897-1898年、35-36歳頃の作品、《ソニア・クニップスSonja Knips》です。この作品は金属産業で財を成した実業家アントン・クニップスの妻ソニアの肖像画です。彼女は帝国陸軍准将の娘で、当時25歳。クリムトには、鉄鋼業のヴィトゲンシュタイン、繊維業のヴェルンドルファー、金属産業のクニップスといった裕福なユダヤ人実業家たちがパトロンについていて、応援してくれていました。クリムトはそういうパトロンの家族たちの肖像を描いていました。彼らの期待に応えるためか、クリムトの肖像画はリアルでかつ芸術性に富むものでした。この肖像画でもソニアを、リアルなタッチを基本に描いています。とりわけは顔はまるで写真のようにリアルで、衣装は印象派風のお洒落なタッチ、背景は人物を浮き立たせるように暗めに描かれています。こういう肖像画が当時の社交界で人気があったことは想像するまでもありません。我々、現代の人間から見ると、こういうユニークな肖像画の芸術的価値は高く評価できます。着衣の肖像画ではありますが、実にセクシュアルに感じるのはなぜなんでしょう。

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グスタフ・クリムトGustav Klimtの1906年、44歳頃の作品、《フリッツァ・リードラーFritza Riedler》です。この作品はドイツ出身でありながらウィーンで高級官僚となった男の妻、フリッツァ・リードラーの肖像画です。この肖像画もリアルな顔の描写、印象派風の衣装というクリムトの肖像画の基本に則っていますが、頭部や家具や背景が極めて装飾画的に描かれていることに注目しましょう。ここに至って、クリムトの肖像画のスタイルが最終地点に到達したことがうかがわれます。失礼ながら、さして美しいわけではないモデルを用いて、クリムトの芸術が頂点に達したのはなんとも皮肉に感じます。まるでこのモデルの女性が王侯貴族に上り詰めたがごとくです。素晴らしきかな、クリムト!

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リヒャルト・ゲルストルRichard Gerstlの1905年、22歳頃の作品、《カロリーネとパウリーネ・フェイ姉妹Die Schwestern Karoline und Pauline Fey》です。クリムトの肖像画を見ていた後にこの作品を見ると、まるでお仲間の作品のように思えてしまいます。若干、22歳のゲルストルは世紀末芸術に背を向けていた筈ですが、しっかりと、彼の頭にはクリムトの作品が刻印されていたようです。もちろん、ゲルストルは独自の芸術表現を目指していたので、表象的に似てはいても、顔の描き方はリアルな表現ではなく、全体としては、表現主義的な雰囲気に仕上がっています。彼はこの作品を描いた3年後には、作曲家シェーンベルクの妻、マティルデとの愛を失い、芸術上の行き詰まりもあり、首吊り自殺を遂げてしまいます。25歳の若さでした。彼がどこに行こうとしたのかは知る術がありません。自殺にあたって、彼はほとんどの作品を焼いてしまいました。現在、残されているのは油彩66点、素描8点です。この作品も貴重な1点です。惜しい才能でした。

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いよいよ、この美術館のもう一人の主役、エゴン・シーレの登場です。

エゴン・シーレEgon Schieleの1918年、28歳頃の作品、《エディット・シーレ、椅子に座る画家の妻Bildnis der Frau des Künstlers, Edith Schiele》です。シーレの最晩年の作品です。この年、猛威をふるったスペイン風邪で子供を身籠った妻、エディットが逝き、その3日後に後を追うようにシーレ自身も亡くなります。今流行中のコロナとはけた外れのスペイン風邪の脅威です。あまりに惜し過ぎる才能が失われました。とりわけ、シーレの最晩年、28歳の作品はどれも最高の傑作揃いです。このなんでもないような妻の肖像画もsaraiにとっては、魅了される名画中の名画です。名画というのは結局、理屈抜きに“美”がその作品から立ち上るものです。エディットを結婚した後のシーレは作風が一変し、極上の“美”の世界に上り詰めました。それにこの作品を見ていると、なんとも、ほのぼのと温かい気持ちで見たされて、幸福な感動に至ります。

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グスタフ・クリムトGustav Klimtの1914年、52歳頃の作品、《ヴァイセンバッハの田舎家Forsthaus in Weißenbach I (Landhaus am Attersee)》です。クリムトの典型的な風景画です。まず、描かれたのがアッター湖周辺。大半の風景画がこのあたりで描かれました。そして、カンバスが真四角。彼の風景画はほとんどがこの形です。
この作品にはアッター湖Atterseeのヴァイセンバッハ渓谷Weißenbachにある森の田舎家を描かれています。クリムトは1914年から1916年まで夏休みをこの地で過ごしました。この田舎家は町の中心部から少し離れた山の斜面にあり、クリムトはここで集中して絵に打ち込むことができました。 家の前には広い草原があります。 クリムトは双眼鏡で見て、風景を描くのを習慣としていましたが、この森の家も同様に描きました。これにより、画像のセクションが極端に狭まり、森の家のモチーフに集中することができました。 一方、前景の花の草原は、調和のとれたバランスで組み合わせて、クローズアップで表現されています。何と美しい風景画でしょう。

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次はいよいよクリムトの最高傑作、《接吻》です。パリで《モナリザ》を見逃せないように、ウィーンで《接吻》は見逃せません。saraiもずい分、この作品は見ましたが、最近、ウィーンにご無沙汰していたので、およそ8年ぶりの再会です。しかも前回まではこの美術館は内部の撮影が禁止だったので、カメラで《接吻》を撮影するのは初めてです。ワクワクしますね。



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ベルヴェデーレ宮殿のオーストリア・ギャラリー:クリムトの最高傑作《接吻》・・・そして、風景画

2019年9月8日日曜日@ウィーン/6回目

ベルヴェデーレ宮殿Schloss Belvedereの上宮Oberes Belvedereのオーストリア・ギャラリーÖsterreichische Galerie Belvedereで絵画鑑賞中です。
クリムト、シーレの作品が登場します。そして、いよいよ、このオーストリア・ギャラリーの至宝、ウィーンの至宝、そして、人類の至宝、クリムトの最高傑作《接吻》です。

さすがにこの名画の前の広いスペースは人だかりがしています。スマホで写真を撮る人も多いですね。大変な人気です。

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グスタフ・クリムトGustav Klimtの1908年、46歳頃の作品、《接吻Der Kuss (Liebespaar)》です。傑出した絵画はみなそうですが、この絵画は光り輝いています。天才芸術家にとっても一生で1回しか描けない“美”のオーラに包まれています。その主題は芸術がめざすべき頂点である愛です。永遠の愛の一瞬の刻が絵画に切り取られています。この時代のウィーンは音楽ではマーラーが永遠の愛と苦悩を描き切りましたが、美術ではクリムトが愛の信徒としての役割を果たしました。黄金のマントで身を包んだ愛する男女が熱い接吻をかわします。その焦点は愛の恍惚の表情を浮かべる女性の美しい顔にあてられています。この絵画のすべての装飾的要素はこの女性の顔=愛を称えるために奉仕しています。女性のモデルはエミリエ・フレーゲであるとも、別の人物であるとも言われていますが、saraiにはクリムトが愛し続けた女性という存在すべてを象徴する無人格であると思います。クリムトの黄金時代の頂点の超傑作です。
クリムトはこの作品を描いた10年後の1918年にスペイン風邪で亡くなりました。同年に亡くなったエゴン・シーレにわずかに先立つものでした。スペイン風邪とともにウィーンの世紀末芸術は終焉を迎えることになりました。

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正面から見た《接吻》も見ておきましょう。

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グスタフ・クリムトGustav Klimtの1907年、45歳頃の作品、《けしの咲く野Blühender Mohn》です。この作品もクリムトの他の風景画と同様にアッター湖畔Atterseeで描かれました。クリムトはおそらくアッター湖北岸のリッツルベルクLitzlbergにあるけしの花の草原でこの絵を描いたようです。ちなみに、この地にはクリムトゆかりの宿、リッツルベルガー・ケラーLitzlberger Kellerがあります。この宿リッツルベルガー・ケラーは、クリムトも滞在し、この宿を絵に描いています。最近、サザビーズのオークションでこの宿を描いた絵は高額で売れたそうです。実は以前、saraiはこのクリムトゆかりの宿、リッツルベルガー・ケラーに宿泊したことがあります。で、なんだか、この絵にも親近感を抱きます。緑の草原に可憐に咲く赤い花が綺麗ですね。

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グスタフ・クリムトGustav Klimtの1907年、45歳頃の作品、《ひまわりの園Bauerngarten mit Sonnenblumen》です。この作品も上の作品と同時期にアッター湖北岸のリッツルベルクLitzlbergにある農園の庭でこの絵を描いたようです。クリムトは1900年以降、夏の休暇をアッター湖畔で過ごすようになり、それは死の2年前の1916年まで続きました。ここで描いた風景画は45点以上になります。この作品では、ヒマワリを始め、夏の花々が美しく描き込まれています。

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グスタフ・クリムトGustav Klimtの1917/1918年、55/56歳頃の作品、《アマリエ・ツッカーカンドルAmalie Zuckerkandl》です。この作品は未完成の肖像画です。描かれたアマリエ・ツッカーカンドルは当時、オーストリアの泌尿器科医で外科医のオットー・ツッカーカンドルの妻でした。アマリエは、クリスチャンでしたが、ツッカーランドルと結婚するためにユダヤ教に改宗しました。この肖像画は1913年に委嘱されましたが、第1次世界大戦の勃発とその後のクリムトの死で未完成のままになりました。夫妻は第一次世界大戦後に離婚しました。第二次世界大戦中の1942年、彼女と彼女の娘ノラはナチスにベルゼクの絶滅収容所で殺害されました。不幸な運命がつきまとった絵画作品です。

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グスタフ・クリムトGustav Klimtの1907/1908年、45/46歳頃の作品、《ひまわりSonnenblume》です。この作品もアッター湖北岸のリッツルベルクLitzlbergにあるアントン・マイヤーの農園の庭で描かれました。フィンセント・ファン・ゴッホとの対照で語られることも多い作品です。ゴッホのひまわりには、画家自身の感情移入が強く、ゴッホの内面を描いたような作品です。一方、クリムトはあくまでも自立する自然としての姿でひまわりを描いています。ただ、この作品は擬人法的にひまわりの肖像画としても見ることができます。この地に一緒に滞在していたエミリエ・フレーゲをひまわりに見た立てて描いた作品のようにも感じられます。

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クリムトの絵画が続きましたが、次はエゴン・シーレの作品に移ります。



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ベルヴェデーレ宮殿のオーストリア・ギャラリー:シーレ、ゲルストル

2019年9月8日日曜日@ウィーン/7回目

ベルヴェデーレ宮殿Schloss Belvedereの上宮Oberes Belvedereのオーストリア・ギャラリーÖsterreichische Galerie Belvedereで絵画鑑賞中です。
素晴らしいクリムト、シーレの作品に魅了されます。

エゴン・シーレEgon Schieleの1914年、24歳頃の作品、《家の壁(窓)Hauswand (Fenster)》です。クリムトがアッター湖Atterseeの景色にインスピレーションを得て、風景画を描いたように、シーレは母マリアの故郷クルマウKrumau(チェコ語表記:チェスキークルムロフČeský Krumlov)の古い町の景色にインスピレーションを得て、多くの風景画を描きました。この作品もその1枚です。この作品は初めは立体的に家の側壁まで描き込んでいましたが、最終的に平面的に壁と窓だけを描きました。そして、古い壁の質感を出すために粗いカンバスの上に下地を塗らずに粗いタッチで、細かい砂とチョークの粉を絵の具に混ぜて描きました。発表当時は批判的だった世評も今では高い評価に変わっています。なお、描かれた家は母マリアの実家だそうです。シーレ、渾身の1枚です。

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エゴン・シーレEgon Schieleの1910年、20歳頃の作品、《ライナー坊や(ヘルベルト・ライナーの肖像)Reinerbub (Bildnis Herbert Reiner)》です。このモデルの少年はウィーンの整形外科医マックス・ライナーの息子で、ライナー坊やと呼ばれていました。シーレはこの作品に強い自信を持っていたようです。クリムトの肖像画に見られるような装飾性を排し、背景には何も描かずに、ずばっと少年の内面に迫るような直球勝負に出ています。シーレの若い時代の作品に珍しく、大胆な性的な表現なしの真摯とも思える1枚です。

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リヒャルト・ゲルストルRichard Gerstlの1908年、25歳頃の作品、《笑う自画像Selbstbildnis, lachend》です。一見、屈託なく笑っている自画像です。でも、これが描かれたのは彼が首吊り自殺をとげた年です。人間、あまりに絶望すると、もう、笑うしかないという心境に陥ります。saraiもたまに経験します。この笑い顔はまさにその表情のようです。その自画像を描いている画家の心境はどうだったのか、想像もできません。この年の夏に作曲家シェーンベルクの妻マティルデと駆け落ちしますが、マティルデはアントン・ウェーベルンの説得で10月に夫シェーンベルクのもとに戻ります。その愛の痛手と芸術上の行き詰まり(クリムトと敵対して、いざこざを起こして孤立)で、ゲルストルは若干25歳で11月に自殺しました。ところでこの作品はゴッホのようなタッチで描かれています。でも、ゴッホはこんな絵を絶対に描きませんね。

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エゴン・シーレEgon Schieleの1917年、27歳頃の作品、《4本の木Vier Bäume》です。一見すると、何でもないような風景画に見えますが、この絵の前に佇んで、じっと眺めていると、この絵の途轍もない素晴らしさが心に沁み渡ってきます。この絵に哀愁を感じない人はいないでしょう。画家の心の中のやるせない思いが投影されて、それがこの風景画を美しく見えています。画面のほぼ真ん中にある夕方の太陽のバラ色の光と手前の暗い緑の丘に立つ4本の木が対照的に描かれて、この世とも思えない“美”が現出します。ゴッホが描いた狂気の風景画をシーレもまた別の狂気で描き出しています。風景画の超傑作です。
改めて思いますが、こういう天才的なシーレ、クリムト、そして、ココシュカのいたウィーンでは、やはり、若きゲルストルは苦悩したことでしょう。才能あるゲルストルは死を選びたくもなったかもしれないと実感します。

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リヒャルト・ゲルストルRichard Gerstlの1907年、24歳頃の作品、《エルンスト・ディエツ教授Professor Ernst Diez》です。美術史家のエルンスト・ディエツ博士を描いたものです。彼はシェーンベルクの弟子のアントン・ウェーベルンの従弟で、当時、ウィーンに滞在していました。その後、彼はイスラム美術の研究に打ち込み、イスタンブール大学で教鞭と研究を行いました。なぜか、ゲルストルの絵はピントの外れた写真になりますね。

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次はもう一人の天才、オスカー・ココシュカの登場です。



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ベルヴェデーレ宮殿のオーストリア・ギャラリー:ココシュカ、シーレ、クリムト・・・とりわけ、シーレの最高傑作《家族》に感動!

2019年9月8日日曜日@ウィーン/8回目

ベルヴェデーレ宮殿Schloss Belvedereの上宮Oberes Belvedereのオーストリア・ギャラリーÖsterreichische Galerie Belvedereで絵画鑑賞中です。
素晴らしいクリムト、シーレの作品に魅了されています。

オスカー・ココシュカOskar Kokoschkaの1910年、24歳頃の作品、《マトンとヒヤシンスのある静物Stillleben mit Hammel und Hyazinthe》です。マトン(羊肉)、亀、マウス、ヒヤシンス。実に雑多なものが描かれた静物画です。ココシュカの初期の作品のコレクターだった内科医のライヒェル博士の家でこの作品は描かれました。イースターの時期に描かれた、この静物画の対象要素は実はライヒェル博士の子供たちがキッチンや冬の庭などから持ち込んだものです。マトンはイースターラムです。イースターの静物とでも名づければ、よさそうな絵です。画面全体は暗い色調で、若きココシュカはいかなる気持ちで描いたものなんでしょう。いずれにせよ、この作品はこの美術館では、ココシュカの最も重要なコレクションです。

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オスカー・ココシュカOskar Kokoschkaの1910年、24歳頃の作品、《管財人Der Rentmeister》です。この肖像画のモデルはかって、ジャーナリストのJulius Szeps博士と誤って伝えられていました。実際はココシュカの記憶では、ウィーンの管財人だった人でした。ココシュカの初期の肖像画はモデルの内面に強く踏み込んだものになっています。この作品では、男は視線を落とし、何か自分の中の思いにふけっているようです。そういう男の心を見透かすように画家は男の外面をはぎ取るような冷徹な観察でこの肖像を描いています。

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エゴン・シーレEgon Schieleの1918年、28歳頃の作品、《しゃがむカップル(家族)Kauerndes Menschenpaar (Die Familie)》です。シーレの最晩年の作品です。saraiの最愛の作品のひとつです。この美術館にはクリムトの《接吻》という傑作もありますが、saraiはこの作品を見るためにこの美術館を訪れます。シーレの見果てぬ夢が描かれている作品です。シーレ自身とその妻エディット、そして、エディットのお腹の中にいて、もうすぐ産まれる筈だった子供が描かれた仮想の家族の絵画です。人間の温もり、究極の愛が描かれた作品にsaraiはいつも胸が熱くあります。この年、スペイン風邪でこの家族は実現することなしにみな、この世を去ることになりますが、芸術家はこの最高の絵を世に残しました。極上の“美”の世界に、saraiはほのぼのと温かい気持ちで満たされて、幸福な感動が胸の内に広がります。
この最愛の絵に5年ぶりに再会して、ウィーン訪問のひとつの目的を果たした思いです。

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グスタフ・クリムトGustav Klimtの1916/17年、54/55歳頃の作品、《アダムとイヴAdam und Eva》です。《接吻》の約10年後に描かれました。《接吻》のように豪奢な金箔が使われることはなくなりましたが、官能美は永遠にクリムトのトレードマークです。クリムト最晩年の集大成の1枚です。クリムトは最後まで“愛”を描き、女性をこれ以上なく、美しく描き続けました。

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エゴン・シーレEgon Schieleの1915–1917年、25-27歳頃の作品、《母と二人の子供Ⅲ Mutter mit zwei Kindern III》です。シーレの母と子シリーズの1枚です。母と子の情愛というよりも、子は生の象徴、母は死にゆくものとして対照的に描かれています。シーレの育った家族環境ゆえの呪縛です。この呪縛から解かれるのは最晩年となる28歳のときというのはあまりに残酷な人生ですが、最後に愛せる家族を持てたシーレは幸福に死ねたのかもしれません。

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グスタフ・クリムトGustav Klimtの1917/1918年、55/56歳頃の作品、《花嫁Die Braut》です。クリムトの絶筆です。クリムトが亡くなったとき、未完のまま、アトリエに残されていました。彼は最後まで“愛”の画家を貫いて、この作品も美しい女性を中心とした愛の空間が描かれています。そして、空間の多くを占めるのは装飾的な色彩の乱舞です。黄金時代は既に10年前に終焉しましたが、金箔がなくても、華麗な画面表現は健在でした。

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エゴン・シーレEgon Schieleの1915年、25歳頃の作品、《死と乙女Tod und Mädchen》です。シーレが表現主義の画家だったことを如実に示す1枚です。死にゆく男にすがる女性。恋人だったヴァリー・ノイツェルがモデルです。この頃、シーレはヴァリーに別れを告げ、エディット・ハルムスと結婚しようとしていました。ヴァリーとの愛の終焉を描いた本作は、来るべき新生シーレの誕生も予告するものでした。しかし、がらっと作風を変えて、商業的にも成功する画家に上り詰めようとしたシーレに残されている時間はあまりに少ないものでした。ところで、この作品の主題の《死と乙女》は15世紀のドイツ芸術で隆盛を誇った《死の舞踏》から派生したもので、シューベルトの作品を想起させます。シューベルトのロマンに満ちた名曲(saraiの大好きな音楽!)に比して、表現主義のグロテスクな絵画は100年という時の大きな隔たりを思わせます。そして、今、saraiは100年後にこの作品を眺めています。2人の大芸術家の残してくれた二様の美を鑑賞できることの幸せに感謝しています。

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まだ、クリムトとシーレの名作は続きます。



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ベルヴェデーレ宮殿のオーストリア・ギャラリー:クリムト、シーレ、ラープ、マッシュ、フリードリヒ、ダヴィッド、ジェラール

2019年9月8日日曜日@ウィーン/9回目

ベルヴェデーレ宮殿Schloss Belvedereの上宮Oberes Belvedereのオーストリア・ギャラリーÖsterreichische Galerie Belvedereで絵画鑑賞中です。
素晴らしいクリムト、シーレの作品に魅了されています。

グスタフ・クリムトGustav Klimtの1917/1918年、55/56歳頃の作品、《ヨハンナ・シュタウデの肖像Johanna Staude》です。クリムトの遺作であり、最後に描かれた肖像画のひとつです。モデルのヨハンナ・シュタウデ(未亡人のヴィドリッカ)は当時、34歳であり、彼女は現代の天使とも呼ばれ、ともかく、現代的なファッション感覚を身に着けた最先端のモデルだったようです。ショートヘアでお洒落なドレスを着ています。そのドレスはウィーン工房Wiener Werkstätteによるものです。肖像画自体は以前のものと比べると、その穏やかでシンプルな構成が特徴的です。ただし、この肖像画は未完であり、唇が完成していません。その理由はクリムトによると、彼女がスタジオに来なくなったからだそうです。背景も単色で塗られていますが、装飾画的に描き直される可能性も考えられます。いずれにせよ、色んな意味でクリムトにしては一風変わった肖像画です。

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エゴン・シーレEgon Schieleの1917年、27歳頃の作品、《抱擁Die Umarmung》です。シーレの晩年の傑作です。1917年と翌年の亡くなる1918年のシーレ作品はすべて傑作揃いで、saraiは大好きなものばかりです。これも素晴らしい作品で、男女の愛を描いたという事実を超えて、その画面を通して、人間の互いに思いやる優しい気持ちを永遠に結びつけるような究極の作品です。

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ゲオルク・マーティン・イグナーツ・ラープGeorg Martin Ignaz Raabの1874年、53歳頃の作品、《皇帝フランツ・ヨーゼフ1世Kaiser Franz Joseph I.》と《皇后エリザベートKaiserin Elisabeth》です。王室の肖像画を多く手掛けたゲオルク・ラープによる皇帝夫妻です。もっとも二人の肖像画を並べただけで、別々の肖像画ですけどね。やはり、エリザベートの美しさが光りますね。

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フランツ・フォン・マッシュFranz von Matschの1916年、55歳頃の作品、《死の床の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世Kaiser Franz Joseph I. auf dem Sterbebett》です。皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の死は実質的におよそ400年続いたハプスブルク帝国の終焉を示すものでもありました。

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カスパー・ダーヴィト・フリードリヒCaspar David Friedrichの1822/1823年、48/49歳頃の作品、《エルベサンドスタイン山の風景Felsenlandschaft im Elbsandsteingebirge》です。saraiはフリードリヒの絵画が好きでドイツの美術館ではまず、フリードリヒの作品を探します。ドイツ以外では、このウィーンの美術史美術館にフリードリヒの作品があることを知っていましたが、まさか、この美術館にもあることは知らず、今日、初めて、その存在を知りました。迂闊でした。ここにはフリードリヒの作品が6枚も所蔵されているようです。今回はこの1枚だけを見ることができました。エルベ川沿いのいわゆるザクセン・スイスのようですね。フリードリヒらしく、崇高な自然が描き出されているロマン派らしい絵画です。意外な邂逅で嬉しくなりました。

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ジャック=ルイ・ダヴィッドJacques-Louis Davidの1801年、53歳頃の作品、《サン=ベルナール峠を越えるボナパルトBonaparte franchissant le Grand-Saint-Bernard》です。この有名なナポレオンの絵がここで見られるのは意外ですが、この絵は全部で5枚描かれ、ヴェルサイユ宮殿などに展示されています。この美術館にある絵は元々、ナポレオンの支配下だったミラノにあったものを後にミラノを支配下に収めたオーストリアが強引にウィーンに持ち去ったものです。本来なら、返還交渉が行われるところですが、フランス国内にも同じ絵があることで、あまり、問題になっていないようです。まあ、何とも勇ましい作品ですね。ダヴィッドの代表作とは言えませんが、こんなに有名な絵もそんなにありません。

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フランソワ・ジェラールFrançois Pascal Simon Gérardの1801年、53歳頃の作品、《モリッツ・クリスティアン・フォン・フリース帝国伯と妻のマリア・テレジア・ヨゼファと息子モリッツMoritz Christian Reichsgraf von Fries mit seiner Frau Maria Theresia Josepha, geb. Prinzessin Hohenlohe-Waldenburg-Schillingsfürst, und dem Sohn Moritz》です。フランソワ・ジェラールはダヴィッドの弟子の新古典主義の画家です。ナポレオンの肖像を描いています。師のダヴィッドに代わって、レカミエ婦人の肖像も描いています。この肖像画もいかにもフランスの新古典主義らしい描き方の美しい絵画です。

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これで急ぎ足の美術館鑑賞は終了。
世紀末芸術の傑作揃いで、圧巻の展示にまたまた感銘を受けました。なかでも、たっぷりと、クリムトとシーレを堪能しました。



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ウィーンと言えば、カフェ・ハイナー。夕食はホイリゲで。

2019年9月8日日曜日@ウィーン/10回目

ベルヴェデーレ宮殿Schloss Belvedereの上宮Oberes Belvedereのオーストリア・ギャラリーÖsterreichische Galerie Belvedereで素晴らしいクリムト、シーレの作品を堪能しました。

さて、美術を堪能した後はグルメでしょう。旧市街に出て、お茶でもしてきましょう。Dラインのトラムに乗って、町の中心、ケルントナー通りKärntner Straßeに向かいます。

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懐かしのシュターツオーパーWiener Staatsoper前の停留所、ケルントナーリング/オパーKärntner Ring. Operで、トラムを降ります。

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ケルントナー通りは、相変わらず賑わっています。シュターツオーパーの姿を横目に見ながら、一目散にsaraiのお気に入りのカフェへ急ぎます。目指すは、saraiの御用達のL.ハイナーです。ケルントナー通りに面したお店はいろいろ変わっていますが、ハイナーは変わらず健在。到着後、さっと2階に上がると、地元の方たちが寛いでいます。

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が、結構、空席もあります。窓際の席はありませんが、空いている席をさっと確保。

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ポット入りの紅茶をお願いします。たっぷり4杯分はあるので、二人で一つのポットとカップを2つお願いします。慣れたもんです。ケーキはケースに並んでいるものから、ハウストルテ(チェコレートトルテです)と配偶者ご指定のアプフェルシュトゥルーデルをお願いします。相変わらず、ハイナーのケーキは美味しい。4年ぶりに味わいます。満足です。

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お気に入りのカフェでゆったりした時間を過ごします。さて、お会計。ハイナーは、カードでの清算は1階に下りてするので、スタッフのおばさんと1階に移動しなければいけません。おばさんへのチップを握りしめ、カードでの清算をお願いすると、何とクレジットカードの清算マシンを持ってきます! 4年も来ないと、システムも変わるのですね。
シュターツオーパーの音楽ショップ、アルカディアをちょっと覗いて、トラムでホテルに戻り一服です。
今の時期、ウィーンのホイリゲは新酒が供されます。ネットでグリンツィングのホイリゲに予約を入れます。ホテルで一休みした後、ホテルの近くのトラムの停留所、レンヴェークRennwegからトラムに乗って出かけます。

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71番のトラムでショッテントーアSchottentorまで行って、別のトラムに乗り換えます。71番の停留所は地上にありますが、ここから先の行くトラムの停留所は珍しく地下にあります。地下から地上を見上げると、ヴォティーフ教会Votivkircheの2本の尖塔が見えています。

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次々とトラムがやってきますが、乗るべき38番のトラムだけがやってきません。

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ようやく、10分近く待って、38番のトラムに乗ります。地上に出ると、目の前にヴォテーフ教会が見えます。

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トラムの乗り継ぎも含めて、全部で1時間弱で無事、グリンツィングGrinzingに到着。

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ここまで来ると、大都会のウィーンの賑わいから田舎の長閑さに変ってしまいます。夕暮れ時の景色が、いっそう長閑さを演出してくれます。

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ここからはスマホの道案内アプリMAPS.MEがまた助けてくれます。

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そぞろ歩きで、予約したホイリゲに迷わずに向かいます。

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5分ほど歩いて、予約したホイリゲに到着です。ホイリゲは有名店のツム・マルティン・ゼップZum Martin Sepp。

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通路の奥に中庭があります。

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入り口にモストMOST、シュトゥルムSTURMの看板が下がっています。これはシュトゥルムを飲まないとね。シュトゥルムは葡萄を収穫後、葡萄ジュースから発酵途上のワインです。この時期しか飲めません。

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さあ、中に入りましょう。中庭の奥に居心地のよさそうな建物があります。

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お客さんはまだそんなに多くはないです。入り口では、アコーディオン奏者が、ささやくように弾いています。

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予約した旨を告げると席に案内されます。一番奥まった落ち着ける席です。

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さあ、ホイリゲのお酒と料理を楽しみましょう。



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グリンツィングのホイリゲ、ツム・マルティン・ゼップ:シュトゥルムと美味しい料理

2019年9月8日日曜日@ウィーン/11回目

グリンツィングGrinzingのホイリゲの有名店、ツム・マルティン・ゼップZum Martin Seppのテーブルに着きました。料理の並ぶビュッフェの建物から張り出したテラス席です。

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テラス席とは言え、屋根があるので、夏の強い日差しを避けることができます。

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秋の初めらしく、テーブルの上にはかぼちゃが置いてあります。

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まずは、お酒を選びましょう。シュトゥルムと白ワインを1杯ずつお願いします。すぐに運んできてくれます。

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ネットで評判のスープもお願いします。具材たっぷりのビーフ・コンソメスープ。古きウィーン風のスープとメニューに書かれています。お店のメニューからお願いするのはここまで。まだまだいっぱいメニューはあるのですが、慣れないドイツ語や英語を読んで、苦労しながら料理の中身を解読するよりは、見て選んだ方が楽です。お惣菜の並んでいるビュッフェに行きます。お肉もいろいろありますが、美味しそうな塊が並んでいます。おじさんに、希望の肉を指さすと、これくらい?と厚さを聞いてくれます。切り分けて、重さを計り、値段を書いてくれます。それに、付け合わせの野菜を選べばOK。素晴らしい1皿が完成です。

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席に運び、シュトルムとワインとともにいただきます。

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既に鍋にはいったスープも届いています。

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美味しそうなビーフ・コンソメスープです。それにたっぷりあるのがいいですね。

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このお皿にはお肉や野菜とともにライスまで盛ってもらいました。久しぶりのライスはやはりいいですね。

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こちらのお皿にはお肉とともに配偶者が大好きなヨーロッパのじゃがいもを盛ってもらいました。

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来たときは空いていたお店も、どんどん混んできます。
さて、そろそろ帰りましょう。と、演奏を再開していたアコーディオン弾きと目があいます。1曲お願いしましょう。 《ウィーン、わが夢の街》Wien、du Stadt meiner Träumeを演奏してもらいます。とても洒落っ気のあるロマンティックな演奏を披露してくれます。ウィーンに来たら、この曲を聴かないとね。ついでに日本人向けに《上を向いて歩こう》。途中で歌詞を口づさんでいます。あれっ・・・トヨタ、ミツビシ・・・。
最後にアコーディオン奏者にチップをはずみ、楽しいホイリゲ訪問と相成りました。

ホイリゲを出ると、夜の7時半。薄暮です。祠の聖人像が灯りで浮かび上がっています。

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グリンツィングの町はどんどん暗くなっていきます。

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帰りは38Aのバスでグリンツィングからハイリゲンシュタット駅Wien Heiligenstadt Bahnhofまで移動し、そこから地下鉄のU4に乗って、最速のルートで帰ることにします。

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グリンツィングの町の灯りを見ながら、バスが来るのを待ちます。

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やがて、やってきたバスでハイリゲンシュタット駅に行き、U4でウィーン・ミッテ/ランドシュトラーセ駅Wien Mitte-Landstraße Bahnhofまで行き、そこでSバーンに乗り換えて、レンヴェーク駅Wien Rennweg Bahnhofに到着。あっという間に着きます。そこからはホテルは数分。上機嫌でホテルに戻ります。バタンキュー!

今日の移動ルートを地図で確認しておきましょう。

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明日はまた、クルレンツィス指揮ムジカエテルナのモーツァルトのオペラ《コジ・ファン・トゥッテ》です。楽しみです。ウィーン滞在も実質、明日1日になります。もっとも、また、今月末にパリから戻ってきますけどね。


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ウィーン散策:モーツァルトゆかりの場所を探して

2019年9月9日月曜日@ウィーン/1回目

旅の6日目、ウィーンWienの4日目です。

青空はちょっと見えています。天気予報で言えば「晴れ」という程度には青空は見えていますが、風も冷たく、少し、肌寒さを感じますが、まだまだ、冬は到来していません。
ホテルにはランナーズデスクというコーナーがあり、ベルヴェデーレ宮殿の周りをジョギングするコースの紹介をしています。早朝にジョギングする人も多いのでしょう。

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ようやく月曜日でタバコ屋さんも営業しているはずですから、絵葉書を出してきましょう。タバコ屋さんで絵葉書を示すと、領収のスタンプを押して、絵葉書を受け取ってくれます。ここでは、郵便業務をやっているのですね。孫たちに届けてね!

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パンを買ってホテルに戻ります。熱い紅茶で、朝食を頂きます。
今日も夜のクルレンツィス指揮ムジカエテルナのモーツァルトのオペラ《コジ・ファン・トゥッテ》までは全くのフリー。ホテルでごろごろしていても仕方がないので、朝食をぱくつきながら、今日の予定を考えます。久しぶりに中央墓地でも行ってみましょうか。このホテルからはSバーンでちょっと行くだけです。それとも・・・

街をぶらついてきましょう。そうだ、モーツァルトのウィーン市内の史跡巡りというのもありますね。ほとんどは行ったところですが、まとめて行ったことはありません。街歩きのテーマは「モーツァルトゆかりの場所を探して」とします。今回の旅はクルレンツィスのモーツァルトのダ・ポンテ3部作のオペラを聴くことですから、当然のテーマでしょう。

身支度を整えて、まずはシュテファンプラッツStephansplatzへ。

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旧市街の中心にあるシュテファン大聖堂Domkirche St. Stephanから街歩きをスタートします。

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この大聖堂もモーツァルトゆかりの場所ですが、それは後にします。シュテファン広場から歩き出します。

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モーツァルトがウィーンでのキャリアを始めたドイツ騎士団の家DeutschordenHausへ向かいます。ジンガー通りSingerstraßeの先にドイツ騎士団教会Katholische Kirche Deutschordenskircheの塔が見えています。

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マクドナルドの前にはシェアサイクルのステーションがありますね。

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ジンガー通りの最初の角に差し掛かると、路地の先にシュテファン大聖堂が姿を現します。結局、シュテファン大聖堂の周りをぐるぐる歩いているだけなんですね。

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ドイツ騎士団の家の前に着きます。

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扉には黒い十字架のドイツ騎士団の紋章が描かれています。

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建物の通路に入ると、ドイツ騎士団の施設への入り口があります。

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この壁にも黒い十字架の紋章があります。

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通路を抜けると、中庭に出ます。建物越しにシュテファン大聖堂の尖塔が聳えています。何のことはない・・・ドイツ騎士団の家はシュテファン大聖堂の裏に隣接しているんです。

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中庭に面した建物を見上げると、総ガラス張りの2階と3階の回廊が目に入ります。緑も絡まる美しい建物です。

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saraiはこの美しい中庭のベンチに腰かけて、PCで情報をチェック。

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ここに滞在していた若きモーツァルトは、それまで仕えていたザルツブルク大司教のコロレド伯爵と決定的な仲違いをして、モーツァルトは自由の身になります(つまり、クビになったわけです)。モーツァルト25歳のときです。これから、彼の早過ぎる死までの10年間をウィーンで過ごします。フリーランスの音楽家としてのモーツァルトの出発点がここです。

この中庭でモーツァルトも色々な思いに駆られたことでしょう。感慨深いです。
この中庭はバルコニー構造の中庭になっていて、パヴラッチェンPawlatschenと呼ばれています。住居の入口をバルコニーから入るようにして、建物のコストを抑えているのだそうです。パヴラッチェンは普通はむき出しになっていますが、ここはガラス張りになっているので、少々高級ですね。

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モーツァルトゆかりの地を巡る街歩きはまだ、始まったばかりです。



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ウィーン散策:ドイツ騎士団の家

2019年9月9日月曜日@ウィーン/2回目

ウィーンのモーツァルトゆかりの地を巡る街歩きを始めたところです。シュテファン大聖堂Domkirche St. Stephanから街歩きを始めて、モーツァルトがウィーンでのキャリアを始めたドイツ騎士団の家DeutschordenHausに来ています。
ここの中庭にしばし佇んでいます。ウィーンの街の真ん中とは思えない静かな場所です。昔日のモーツァルトに思いを馳せるにはうってつけのところです。

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この中庭はすっきりした白い建物に四方が囲まれています。

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ガラス張りの回廊には目を惹かれます。この館でモーツァルトが音楽家として自立していくことを決心しました。また、後にブラームスが滞在したこともあるそうです。

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壁際には美しい彫像もあります。

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ドイツ騎士団の家には小さな教会があります。ドイツ騎士団教会Katholische Kirche Deutschordenskircheです。ゴシック様式の内部は意外に簡素な佇まいです。ゴシック様式らしく高い天井が印象的です。

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壁面には丸いワッペンがずらっと並びます。80個以上あるそうです。この教会で刀礼(騎士叙任式)を受けた騎士たちが自分のワッペンを飾った習慣によるものです。ワッペンwappenとは武器(主に盾)を意味するドイツ語で、実際は紋章を意味します。紋章が個人に普及しはじめたのは、12世紀初めの第1次十字軍遠征のころからです。従軍した騎士たちは鎧・冑を身に着け面部を隠していたので、戦場で敵味方を識別するために紋章を用いるようになりました。ドイツ騎士団の歴史も十字軍まで遡りますから、ちょうど紋章の歴史と重なります。

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こちらは入口です。2階に小さなオルガンがあります。

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この教会のある建物内に小さなホールがあります。昔、モーツァルトが演奏したと言い伝えられているホールです。ここで時折、観光客向けにモーツァルトのコンサートをやっているそうです。いい雰囲気ですね。(saraiは行きませんけどね)

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中庭からは鉄格子のはまった窓越しにこのホールを覗けます。

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これがジンガー通りSingerstraßeから中庭に通じる通路のアーチです。

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ドイツ騎士団の家には大きな中庭に隣りあって、第2の中庭があります。

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この第2の中庭の左手の建物の中には、ティーハウスのハース&ハースHaas&Haas Restaurantがあります。入口はシュテファン大聖堂側にあります。

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ドイツ騎士団の家を出て、ジンガー通りをちょっと進むと、左手にブルートガッセBlutgasseの路地があります。

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路地の石畳みの横にまた、ドイツ騎士団の十字架の紋章があります。

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このブルートガッセを通り抜けると、ドームガッセDomgasseの路地に出ますが、この短いブルートガッセでは必見の場所があるので、見落とさないようにしましょう。

ここまでの散策ルートを地図で確認しておきます。

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ブルートガッセ3番地の門の奥には、17世紀に造られた美しいパウラッチェンハウスがあるんです。ウォーキングツアーの人たちでこの狭い通り抜けの広場は混み合っています。

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彼らがいなくなるまで、ちょっと待ちましょう。



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ウィーン散策:ブルートガッセの中庭、モーツァルト博物館、シュテファン大聖堂

2019年9月9日月曜日@ウィーン/3回目

ウィーンのモーツァルトゆかりの地を巡る街歩きをしています。シュテファン大聖堂Domkirche St. Stephanからドイツ騎士団の家DeutschordenHausを経て、ブルートガッセBlutgasseの路地の3番地にある通り抜けの中庭に来ています。もっともここはモーツァルトゆかりではありませんが、彼の住居に近いのでふらっと立ち寄ったことはあるかも・・・。
美しいパウラッチェンハウスがある、この中庭には、ウォーキングツアーの一団が来ていて、ガイドの説明を聞き入っています。

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壁の下に置いてある石の甕は水を溜めるものでしょうか。これも古いもののようです。

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やがて、ウォーキングツアーの一団は立ち去り、バロックの中庭は静謐さを取り戻します。

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中庭はウィーンの旧市街の中心にあるとは思えない静かさに満ちて、17世紀のバロックの雰囲気に浸ることができます。

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この中庭は通り抜けになっていて、ブルートガッセからグリューナンガーガッセGrünangergasseに抜けることができるようです。

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このバロックの中庭からブルートガッセに戻り、少し進むと、ドームガッセDomgasseにぶつかります。そのぶつかったドームガッセの5番地がモーツァルト博物館Wien Museum Mozartwohnung、通称、フィガロハウスFigaro Hausです。この住居でモーツァルトはオペラ《フィガロの結婚》を作曲しました。ダ・ポンテ3部作の一つです。

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モーツァルト博物館(フィガロハウス)はドイツ騎士団の家の間近であることが分かり、びっくりです。結局、モーツァルトはこのあたりのウィーンのど真ん中で生活し続けたのですね。都会好きの若者だったわけです。

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モーツァルト博物館の中には入らずに外から眺めるだけにします。

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ここから、ドームガッセの路地を進むと、2番地の建物の中に通り抜けがあります。

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通り抜けると、門のアーチの先にシュテファン大聖堂が見えます。

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シュテファン大聖堂の裏に出ます。観光用のフィアカーが客待ちをしています。

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目の前にはシュテファン大聖堂が聳えています。シュテファン大聖堂からスタートして、ドイツ騎士団の家を経て、モーツァルト博物館の前を通り、ぐるっと周って、また、シュテファン大聖堂に戻ってきました。

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このシュテファン大聖堂にはモーツァルトが亡くなったときに葬儀が行われ、最終的な祝福を受けた「十字架礼拝堂Kruzifixkapelle」がある筈です。どこでしょう。

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分かりませんね。ともかく近づいて探してみましょう。

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これはフランシスコ会のヨハネス・カピストラーノを記念する彫刻が飾られた「カピストラーノの説教壇Capistrankanzel」です。カピストラーノは1453年のコンスタンティノープル陥落後、オスマン帝国に対して、十字軍を呼び集めて、1456年に一時的に包囲を解かせることに成功しました。その功で彼はローマ法王によって聖人に叙せられました。そこで、ここにバロックの装飾が加えられた記念碑が1737年に置かれることになりました。


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その左手には、「歯痛のイエス・キリストZahnwehherrgott」のレプリカがあります。本物は大聖堂の内部にあるそうです。

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配偶者は呑気に花屋さんを覗いています。

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「カピストラーノの説教壇」の右手に「十字架礼拝堂」を遂に発見!

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ここまでの散策ルートを地図で確認しておきます。

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「十字架礼拝堂」の前でしばらく、モーツァルトの葬儀を偲びましょう。



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ウィーン散策:モーツァルトの葬儀が行われたシュテファン大聖堂の十字架礼拝堂

2019年9月9日月曜日@ウィーン/4回目

ウィーンのモーツァルトゆかりの地を巡る街歩きをしています。シュテファン大聖堂Domkirche St. Stephanからスタートして、また、シュテファン大聖堂に戻って来ています。
モーツァルトの葬儀が行われた「十字架礼拝堂Kruzifixkapelle」の前に立っています。

十字架礼拝堂はシュテファン大聖堂の建物の北東の端の外側にある、錬鉄製の門のある小さな礼拝堂です。この場所で不滅のW. A.モーツァルトの遺体は、1791年12月6日に最終的な祝福を受けました。

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礼拝堂の内部の壁の十字架の下に記念のプレートがあります。花が一輪、手向けてありますね。

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これがプレート。MOZARTの文字が見えます。1791年12月6日と言う埋葬の日が刻まれています。亡くなった翌日です。全文は"AN DIESER STÄTTE WURDE DES UNSTERBLICHEN W.A.MOZART LEICHNAM AM 6 DEZ 1791 EINGESEGNE W(R) SCHUBERTBUND 1931" 「この場所で、不滅のモーツァルトの遺体が、1791年12月6日に祝福を受けた ウィーン男声合唱協会 1931年」です。

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ここからモーツァルトの遺体はザンクト・マルクス墓地Sankt Marxer Friedhofに運ばれました。
礼拝堂の床を見ると、地下に続く階段があります。大聖堂の地下にはカタコンベがあるそうですから、そこに続く階段でしょうか。

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と、その階段から子供たちが上がってきます。

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十字架礼拝堂の門の鉄の扉が開けられて、その子供たちがぞろぞろ出てきます。

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教会内部のガイドツアーだったのかな。子供たちは陰鬱な地下から抜け出したせいか、みな笑顔で出てきます。きっと、この子供たちはあのモーツァルトの葬儀の場所を通り抜けたことに気が付いていないのでしょう。

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どれだけいるのかというほど、ずい分、大人数の子供たちが出てきます。

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ようやく、全員が外に出て、スタッフのかたは鉄の扉を閉じて、去っていきます。

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さて、大聖堂の正面(西側)に周ります。

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大聖堂の内部に入ると、そこではおりしもミサが執り行われています。

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ここはモーツァルトがコンスタンツェとの結婚式を行ったところで、モーツァルト夫妻の二人の子供も洗礼を受けています。ミサのために主祭壇の前には行けません。信者席の外から眺めるだけにしましょう。

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次はかって、モーツァルトやベートーヴェンがコンサートで演奏した建物に行きます。ケルントナー通りKärntner StraßeからヴァイブルガッセWeihburggasse、ラウエンシュタインガッセRauhensteingasseを歩くと目的の建物が正面に見えてきます。

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目的の建物は1階にカフェ・フラウエンフーバーCafé Frauenhuberが入っている黄色い建物です。

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カフェ・フラウエンフーバーの左側に建物の銘票があります。1720年にベルヴェデーレ宮殿やシュヴァルツェンベルク宮殿などを建築したバロックの巨匠建築家ヨハン・ルーカス・フォン・ヒルデブラントによって、このバロック建築の建物が建てられました。ヒンメルプフォルトガッセHimmelpfortgasseのこの場所には14世紀頃から公衆浴場があり、衛生問題などを抱えつつ、長年、営業していましたが、建物の老朽化のため、取り壊されて、その後、この現在の建物が建てられました。

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この建物はオイゲン公の冬の離宮Winterpalais des Prinzen Eugenのすぐ隣という立地のよさもあり、マリア・テレジアのもとで宮廷料理長だったフランツ・ヤーンが高級レストランを開き、晩餐会の他に、舞踏会やコンサートの会場にもなり、贅沢な雰囲気の中、貴族たちはこぞってこの建物の2階のサロンに集まりました。モーツァルトは1788年にここでコンサートを行った他、最期のコンサートもここで行われたと言われています。1797年には、ベートーヴェンもここでコンサートを行いました。ウィーンにはこういう歴史を持つ建物が数多くありますね。

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1階にあるカフェ・フラウエンフーバーは、1824年にカフェを開業したカフェ・ヘーニッシュCafé Hänischを引き継いで、1891年に現在の名前のカフェになりました。ウィーンの最古のカフェのひとつです。saraiは30年前にウィーンを初めて訪れた際、たまたま、このカフェに入り、そのとき食べたアプフェルストゥルーデルの美味しさが今でも忘れられません。ただし、モーツァルトやベートーヴェンがコンサートを行ったのはこの建物の2階のサロンなので、1階にあるカフェ・フラウエンフーバーがコンサートの場所だったわけではありません。

ここまでの散策ルートを地図で確認しておきましょう。

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次はモーツァルトが亡くなったときに住んでいたところに行ってみましょう。ここからすぐ近くです。



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ウィーン散策:引っ越し魔モーツァルトの住居跡・・・夜はクルレンツィス指揮ムジカエテルナのモーツァルトのオペラ《コジ・ファン・トゥッテ》の最高の演奏に感動!

2019年9月9日月曜日@ウィーン/5回目

ウィーンのモーツァルトゆかりの地を巡る街歩きをしています。シュテファン大聖堂Domkirche St. Stephanからスタートして、現在はモーツァルトがコンサートを行った建物、今はカフェ・フラウエンフーバーCafé Frauenhuberがある建物の前です。
次はモーツァルトが亡くなったときに住んでいたところに行ってみましょう。ここからすぐ近くです。ケルントナー通りKärntner Straßeに出て、少し歩くと、その場所に着きます。
もう、現在はモーツァルトが住んだ当時の建物はなく、今はシュテッフルデパートStefflになっています。とってもお洒落なデパートです。エレベーターで最上階の6階(日本流で言うと7階)まで上ってみます。

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もっともモーツァルト一家が住んでいたのは2階部分でした。モーツァルトはそこの広々とした6つの部屋、2つのキッチンからなるアパートメントに住んでいました。
デパートの最上階からケルントナー通りを見下ろします。

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モーツァルトの住居はケルントナー通り側ではなく、裏通りのラウエンシュタインガッセRauhensteingasse側の8番地にありました。いずれにせよ、ウィーンの旧市街のど真ん中ですね。彼の晩年はお金がなく、借金だらけでしたが、結構、贅沢をした上での借金生活だったようです。窓からは直ぐ近くにシュテファン大聖堂が見えます。ここで亡くなって、すぐ近くの大聖堂に遺体が運ばれて、葬儀になったわけです。

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視線を左に移します。旧市街の家並みがびっしりと建ち並んでいます。モーツァルトの雰囲気を感じさせるものは微塵もありません。

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デパートの前に出てみると、何と、このデパートのお隣がsaraiのお気に入りのカフェ、L.ハイナーです。何か因縁じみたものを感じます。いつもモーツァルトが亡くなった住居の隣でお茶していたんですね。

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ここから、モーツァルトが住んだ跡を尋ねて、グラーベン通りGrabenまで歩きます。通りの入口からグラーベン通りを見渡します。

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このあたりがモーツァルトがグラーベンで住んでいた29番地です。1784年1月にモーツァルト夫妻は2つのリビングルームと1つのキッチンを備えたアパートに引っ越します。次男のカール・トーマスはここで産まれました。このアパートの後に引っ越すのがドームガッセ5番地のフィガロハウスです。1784年10月1日に引っ越しました。フィガロハウスは4つの部屋、2つのキャビネット、キッチンを備えた贅沢なアパートメントでした。

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グラーベン通りをもう少し先に進むと、モーツァルトがコンスタンツェと結婚する前に住んでいたアパートがあった17番地があります。

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ここの3階に一部屋だけのアパートに住んでいました。1781年9月5日から1782年7月の終わりまでここで暮らし、オペラ《後宮からの誘拐》やハフナー交響曲を書いています。コンスタツェと1782年8月4日にシュテファン大聖堂で結婚式を挙げたのを機にここから引っ越します。ここの建物の壁に記念プレートがあるのを発見。

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モーツァルトはウィーンで11回ほど頻繁に引っ越しをしたそうです。ウィーンに永住したのは1781年5月の初めからで、1791年12月5日に亡くなるまでの10年間、ほぼ、毎年のように引っ越しをしていたんですね。さらにその間、プラハやドレスデン、ライプツィヒ、ベルリン、フランクフルト、ミュンヘンなどにも旅していますから、一つ所に腰を落ち着けることがなかったようです。それで膨大な曲を書いていたんですから、驚きます。
モーツァルトが住んでいたところのうち、5カ所ほど巡って、今回のモーツァルトの跡を尋ねる散策は終了。今回はさすがにいっぺんに全部周るわけにはいかないので、半分ほど周りました。それが実に狭いエリア内であることに驚きます。ベートーヴェンとは大違いです。おかげでsaraiの足には優しいですけどね。

最後は、姪っ子に頼まれた帽子をゲットしにグッチのお店へ。コールマルクトKohlmarktの5番地にあるので、すぐ近くです。お店に入り、姪っ子から送られてきた紙を見せてお願いすると、スタッフの方が探してきてくれます。よかったです。これで、大きな顔をして日本に帰れます。
お腹も空いていないので、すぐそばにあるカフェ・デーメルDemelでケーキでも食べて帰ろうかとしますが、とんでもなく混んでいます。大行列です。退散します。気分も盛り下がり、食欲もないので、近くのスーパーで食品を買い込んでホテルに戻ります。

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今日の散策のルートを地図で確認しておきましょう。

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ホテルで休憩して、英気を養い、オペラに出かけます。今日もクルレンツィス指揮ムジカエテルナのモーツァルトのダ・ポンテ3部作のオペラです。今日は《コジ・ファン・トゥッテ》を聴きます。
会場はウィーン・コンツェルトハウスWiener Konzerthausです。開演20分ほど前に到着。美しい建物です。

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一昨日の《ドン・ジョヴァンニ》も素晴らしかったのですが、今日の《コジ・ファン・トゥッテ》はそれ以上の最高の演奏でした。このオペラについての記事はここに書きました。
ところで、今日のオペラはコンサート形式。最近、ジョナサン・ノットがコンサート形式のオペラ演奏について、一文を書いていました。ノットはコンサート形式が大好きで、その理由は歌手とオーケストラがすぐ間近で、聴衆とも近い距離でそのオペラを感じてもらえるということだそうです。ただ、一つだけ問題になるのはオーケストラの“音量”で、オーケストラピットで抑えられる音量を制御をするのが難しいということです。
しかし、ジョナサン・ノットと東響のモーツァルトのダ・ポンテ3部作も見事な演奏でしたし、今回のクルレンツィス指揮ムジカエテルナの演奏も最高でした。ノットやクルレンツィスのような優れた指揮者が聴かせてくれるコンサート形式のオペラは最高に素晴らしいことをますます実感します。これからは変な演出のオペラよりもすっきりしたコンサート形式オペラのほうが音楽をより楽しめるような気がします。

これで今回の旅のウィーンでの前半の短い日程は終了。また、最後の日程のためにスイス・フランスの旅の後、16日後に戻ってきて、短い3日間でまた音楽三昧の予定です。明日からはグラーツGrazを経由して、スイスに抜けて、ルツェルン音楽祭でクルレンツィス指揮ムジカエテルナのモーツァルトのダ・ポンテ3部作のオペラを再度聴き、スイスアルプスを再訪し、フランスの西部、カルカソンヌ、ルルド、サン・セバスティアン(スペイン)、ボルドー、モンサンミッシェル、そして、パリを経て、ウィーンに戻ってきます。明日からは旅の記事が増えます。ご期待くださいね。



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首都圏の様々なジャンルのクラシックコンサート、オペラの感動をレポートします。在京オケ・海外オケ、室内楽、ピアノ、古楽、声楽、オペラ。バロックから現代まで、幅広く、深く、クラシック音楽の真髄を堪能します。
たまには、旅ブログも書きます。

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ブッフビンダーの音色は本当に美しいですね。このライブストリーミングは爪が鍵盤に当たる音まで捉えていて驚きました。会場ではどうでしょうか?

実は初めて聴いたのはブ

03/19 08:00 

《あ》さん、コメントありがとうございます。
ライヴストリーミングをやっていたんですね。気が付きませんでした。

明日から4回目が始まりますが、これから、ますます、

03/18 21:44 sarai

行けなかったのでオンライン視聴しました。

しっとりとした演奏。弱音はやはり美しいと思いました。
オンラインも良かったのですが、ビューワーが操作性悪くて困りました

03/18 12:37 

aokazuyaさん

コメントありがとうございます。デジタルコンサートホールは当面、これきりですが、毎週末、聴かれているんですね。ファゴットのシュテファン・シュヴァイゲ

03/03 23:32 sarai

DCHは私も毎週末、楽しみに聞いています。
・スーパースターには、ファゴットのシュテファン・シュヴァイゲルトの名も挙げたいところです。
・清水直子さん後半のみ登場、D

03/01 19:22 aokazuya

金婚式、おめでとうございます!!!
大学入学直後からの長いお付き合い、素晴らしい伴侶に巡り逢われて、幸せな人生ですね!
京都には年に2回もお越しでも、青春を過ごし

10/07 08:57 堀内えり

 ≪…長調のいきいきとした溌剌さ、短調の抒情性、バッハの音楽の奥深さ…≫を、長調と短調の振り子時計の割り振り」による十進法と音楽の1オクターブの12等分の割り付けに

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