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旅の最終日:モーツァルトのお墓参りへ

2019年9月29日日曜日@ウィーン

旅の26日目、ウィーンの4日目。この旅の通算では9日目です。

今日はいよいよ帰国日です。
晴れていますが、とっても寒いです。お昼頃には20度を超える予想です。昨日は雨がぱらつき、とっても寒くて、ウィーンはもう冬だなと思ったのに・・・。
最終日ということで、saraiが珍しく8時前に起きだします。モーツァルトのお墓参りに行こうと配偶者を誘います。今回の旅では、ずい分、モーツァルトの音楽を楽しませてもらいました。お世話になったモーツァルトにお礼を述べるためにお墓参りしたいんです。急いで身支度をして、まとめた荷物は部屋に残して、急いで出かけます。綺麗なホテルのロビーを抜けていきます。

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これが滞在しているメルキュール グランド ホテル ビーダーマイアー ウィーンMercure Grand Hotel Biedermeier Wienのこじんまりした玄関です。

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ホテルの前のお洒落な路地、ズーンホフSünnhofです。路地を跨いで、ホテルの渡り廊下が2階、3階、4階を繋いでいます。路地の両脇にホテルの建物が向かい合って建っています。

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朝の路地は人もまばらです。

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カラフルな雨傘の飾り付けが可愛いですね。

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路地からちょっと入ったホテルの中庭は緑が生い茂っています。

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ホテルの前の路地を出たところにあるバス停で74A系統のバスを待ちます。乗り換えなしでモーツァルトの墓地に行くことができます。

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すぐにザンクト・マルクスSt.Marx行のバスがやってきます。

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バスに乗り込みます。10分ほどでザンクト・マルクス墓地Friedhof Wien St. Marxの最寄りのバス停、ザンクト・マルクスSt.Marxに到着です。ちょっと郊外なので、人通りも少なく騒々しさはありません。雲一つない青空が広がっています。

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以前来たことがあるので、記憶を辿って、迷わずに墓地に向かって進んでいきます。

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前方に高速道路が見えてきます。その手前にザンクト・マルクス墓地がある筈です。

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もう少しで墓地の入口です。



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旅の最終日:モーツァルトのお墓に合掌

2019年9月29日日曜日@ウィーン/2回目

今日は旅の最終日。ウィーンの最終日でもあります。もう、今晩は飛行機で帰国の途についています。しかし、その前に精一杯、ウィーンの1日を楽しみます。
まずは朝一で、この旅で何かとテーマの中心だったモーツァルトのお墓参りに出かけます。ホテルからはバス一本で10分ほどのところにあるザンクト・マルクス墓地Friedhof Wien St. Marxにモーツァルトのお墓があります。
バスを降りて、ちょっと歩くと、墓地の入口の建物が見えてきます。

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煉瓦造りの建物の先に墓地の入口のアーチが見えてきます。

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バス停から道をグルリと周り込んできて、墓地の入口のアーチの正面に出ます。ツタに覆われた美しい門です。ツタの一部が紅葉していますね。

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墓地の入り口の先にはまっすぐな道が伸びています。

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そのまっすぐな道を進んでいきます。

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誰もいなくてし~んとしていますが、木漏れ日が緑に映え、ベンチがあちこちに置かれ、墓地と言うよりもまるで公園のようです。

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モーツァルトのお墓の道案内標識があります。

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左手のほうに道の先にモーツァルトのお墓の見えます。

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お墓に近づきます。天使が寄り添っていますね。

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saraiがお墓に歩み寄ります。合掌。

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もう少し、誰もいないモーツァルトのお墓の前にいましょう。



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旅の最終日:モーツァルトにお別れ

2019年9月29日日曜日@ウィーン/3回目

**久しぶりに2019年9月のイスタンブール~ウィーン~ルツェルン~フランス~ウィーンを巡った旅の記事を再開します。コロナ禍前の旅でまさか、こんな世界になるとは思わず、次の年の旅をしっかり計画していました。26泊、27日に及ぶ長期間のヨーロッパ遠征の最終日、ウィーンで朝一番にモーツァルトのお墓参りに来ているところです。**

今日は旅の最終日。ウィーンの最終日でもあります。もう、今晩は飛行機で帰国の途につきます。しかし、その前に精一杯、ウィーンの1日を楽しみます。
まずはモーツァルトのお墓参り。
モーツァルトのお墓は綺麗な花に囲まれ、天使像が寄り添っています。

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よく見ると、天使は悩ましそうに手を頭にあてています。モーツァルトの音楽はあんなに純粋で透明なのにね。

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モーツァルトのお墓の説明が書かれています。埋葬された正確な場所が特定できなくなった経緯が書かれています。ですから、このお墓は記念碑的なものです。

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しばらく、お墓の傍に佇んでいましたが、そろそろ、お暇しましょう。最後に離れたところからお墓を眺めます。今回の旅の主役は間違いなく、モーツァルトでした。ウィーンとルツェルンで聴いたクルレンツィス&ムジカエテルナの素晴らしいダ・ポンテ3部作は究極の演奏でした。

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モーツァルトを見守るように、近くにキリスト像があります。

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ザンクト・マルクス墓地Friedhof Wien St. Marxの中央を貫く道を入口に向かって歩いていきます。

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煉瓦造りの門に近づきます。

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入口には墓地全体の見取り図があります。敷地の中央にモーツァルトのお墓があります。

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ザンクト・マルクス墓地の外に出ると、通りの向こうにすごくモダンな大きい建物がたっています。よく見ると、その右隣は、前回泊ったホテル、オーストリア トレンド ホテル ドッピオ ウィーンAustria Trend Hotel Doppioです。

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また、バス停、ザンクト・マルクスSt.Marxから74A系統のバスに乗って、ホテルの最寄りのバス停、ヴァイアーガッセWeyrgasseで降りて、ホテルに戻ります。
3泊したメルキュール グランド ホテル ビーダーマイアー ウィーンMercure Grand Hotel Biedermeier Wienをチェックアウトして、荷物をレセプションに預けます。後で空港に向かうときに荷物をピックアップします。
身軽ないでたちで、ウィーン最後の町歩きに出かけます。メインテーマは美術館巡りです。



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ウィーンの街歩き:フォルクスガルテンのバラ園~カフェ・ラントマンで朝食

2019年9月29日日曜日@ウィーン/4回目

今日は旅の最終日。ウィーンの最終日でもあります。もう、今晩は飛行機で帰国の途につきます。しかし、その前に精一杯、ウィーンの1日を楽しみます。
朝一でモーツァルトのお墓参りを済ませ、最後のウィーンの街歩きに出かけます。
ホテルを出て、リング通りRingstraßeをトラムに乗って、ウィーンの旧市街の中心地に向かいます。すぐにウィーン国立歌劇場Wiener Staatsoperが見えてきます。今回の旅でもR.シュトラウスの楽劇《サロメ》の素晴らしい公演を聴きました。次はいつ聴けるでしょう。

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国会議事堂の前でトラムを降ります。議事堂前は何かの工事中ですね。折角のギリシャ様式の優美な建物が半分隠れています。

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議事堂の向かいにあるフォルクスガルテンVolksgartenの庭園に入ります。ここはローゼンガルテンRosengartenと呼ばれるバラのお庭になっています。夏の名残の赤いバラがよく咲いています。

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バラの木の周りには、休憩用のチェアーが並べられています。

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美しく整備された庭園の中をぶらぶら散策します。

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バラはぽつぽつと咲いていますが、今一つの感です。庭園の中を歩いて、ブルク劇場Burgtheaterのほうに向かいます。

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まだ、朝ごはんを食べていないので、朝食をいただけるレストランに向かいます。ブルク劇場Burgtheaterを通り過ぎていくと、カフェ・ラントマンCafé Landtmannがあります。ここでテーブルに着きます。結構、混み合っています。日曜日の朝、11時過ぎです。

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定番の朝食、オレンジジュース、カイザーゼンメル、ボイルドエッグ、バター、ジャムです。

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さらにチーズ、生ハムの皿が運ばれてきて、充実した朝食セットになります。やはり、ウィーン最後の朝食はウィーンの定番のパン、カイザーゼンメルが美味しいです。

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ウィーンの朝食をしっかりと味わいましょう。

ここまでの散策ルートを地図で確認しておきましょう。

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朝食の後は美術館巡りです。



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ウィーンの街歩き:カフェ・ラントマン~美術史美術館

2019年9月29日日曜日@ウィーン/5回目

今日は旅の最終日。ウィーンの最終日でもあります。もう、今晩は飛行機で帰国の途につきます。しかし、その前に精一杯、ウィーンの1日を楽しみます。
最後のウィーンの街歩き中で、カフェ・ラントマンCafé Landtmannで朝食をいただいたところです。(前回の記事でパルメンハウスで朝食をいただいたと書きましたが、カフェ・ラントマンの誤りでした。前回の記事も修正済です。かなり、以前のことで記憶が曖昧になっていました。申し訳ありません。)

カフェの建物の外には張り出したテラス風のテーブルがあります。大きなガラス張りで囲われたスペースは明るい光に満ちています。最近、新たに増設されたようです。

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これは外のテラス席です。陽光が燦燦と降り注いでいます。右手には、リング通りRingstraßeが見えています。

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リング通りに出ると、ウィーン市庁舎Rathaus der Stadt Wienの建物が聳え立っています。リング通りには、こういう大きな建物が並んでいます。

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リング通りを歩き、国会議事堂の前を過ぎて、やがて、ウィーン美術史美術館Kunsthistorisches Museum Wienが見えてきます。その前には、マリア・テレジア広場Maria-Theresien-Platzがあります。

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広場の中央にはマリア・テレジア像があります。多くの観光客で賑わっています。

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これから美術三昧。まずは、美術史美術館に向かいます。立派な建物ですね。ヤン・ファン・エイクの《泉の聖母》のポスターが掲げられています。特別展でもやっているのかな。

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ここまでの散策ルートを地図で確認しておきましょう。

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まずは入口横の窓口でチケットを購入。一人12ユーロ。1500円くらいですね。

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館内マップもゲット。ちゃんと日本語版があります。さすがです。

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館内に入ります。エントランスロビーはドームに覆われています。壮麗な雰囲気です。

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大階段を上がります。3階から2階の丸天井ホールのカフェ・レストランを見下ろします。お昼時でみなさん、ランチを食べているようです。

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見上げると、素晴らしい丸天井のドームがあります。

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さて、2階に戻って、絵画鑑賞を始めましょう。今回は気に入った作品を網羅して見ていきましょう。



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ウィーン美術史美術館:クラナッハ、アルトドルファー、ホルバイン、デューラー

2019年9月29日日曜日@ウィーン/6回目

今日は旅の最終日。ウィーンの最終日でもあります。もう、今晩は飛行機で帰国の途につきます。しかし、その前に精一杯、ウィーンの1日を楽しみます。
最後のウィーンの街歩き中で、ウィーン美術史美術館Kunsthistorisches Museum Wienを訪れています。名作絵画の数々を見ていきます。

ルーカス・クラナッハLucas Cranach der Ältereの1535年、62歳頃の作品、《ザクセンの3人の王女、シビラ(1515-92)、エミリア(1516-91)、シドニア(1518-75)、フロムメン公ハインリヒの娘 Drei sächsische Prinzessinnen, Sibylla (1515-92), Emilia (1516-91) und Sidonia (1518-75), Töchter von Herzog Heinrich von Frommen》です。クラナッハトはドイツ、ヴィッテンベルクに工房を構え、当地の領主ザクセン選帝侯フリードリヒ3世に御用絵師として仕えました。この作品に描かれている3王女は、ハインリヒ4世(Heinrich IV., 1473年3月16日 - 1541年8月18日)の姫君たちです。ハインリヒ4世はアルベルティン系のザクセン公(在位:1539年 - 1541年)で、ハインリヒ敬虔公(Heinrich der Fromme)の呼び名で知られています。この絵が描かれたときはハインリヒ4世はまだ、ザクセン公を継承していませんでした。絵に描かれているのは、右から順にシビラ、エミリア、シドニアで、長女のシビラが20歳頃ですね。とりわけ、シビラの美しさが際立っています。彼女がクラナッハの名作、《サロメ》のモデルと言われています。saraiは傑作《ユーディット》のモデルでもないかと秘かに思っています。後で登場するので、みなさんもよく見てくださいね。

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アルブレヒト・アルトドルファーAlbrecht Altdorfer(1480年頃 ‐ 1538年)の1537年、57歳頃の作品、《ロトと彼の娘Lot und seine Töchter》です。アルトドルファーは、16世紀前半に活動したドイツの画家で、ドナウ派の代表的画家でした。
この作品のテーマはロトとその娘です。彼らのエピソードは『旧約聖書』「創世記」11章から14章で語られています。ロトとその家族はイスラエルのソドムの町に住んでいました。その当時ソドムの町とその近隣のゴモラの町は神を敬わない人が多く、風紀が著しく乱れており、神は怒り、二つの町を滅ぼそうと決めました。しかし、ロトは義人であったために神は天使を遣わせて町から事前に逃げるよう命じます。生き残ったロトと娘らは洞窟に住むことになりましたが、二人の娘には結婚相手を見つける術がなかったので、父親であるロトを酒に酔わせて近親相姦によって身ごもります。この作品では娘が父に性的アピールをするシーンが描かれています。この作品はアルトドルファーの最後期のもので、彼はドナウ派の作風から脱却し、国際的なマニュエリスムの作風に転換した記念碑的なものだと言われています。

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ルーカス・クラナッハLucas Cranach der Ältereの1530年、57歳頃の作品、《ホロフェルネスの首を持つユディット Judith mit dem Haupt des Holofernes》です。ユディットという女性を巡る物語は、旧約聖書の「ユディト記」に出てきます。アッシリア王ネブカドネサルが、敵対する国に討伐軍を差し向け、ユダヤにはホロフェルネスが差し向けられます。その時に一人の女性ユディットが立ち上がり、敵軍の陣地に忍び込み、敵将ホロフェルネスの首をはねてしまいます。将軍を失った敵軍は退却し、ユダヤは勝利します。構図は似ていても、サロメの邪悪さとは一線を画します。そのため、上流の貴婦人の肖像画として、このユディットが高貴さの象徴に使われたようです。で、saraiの説、このユディットのモデルはハインリヒ4世の姫君のシビラであるというのはいかがでしょうか。この作品はこの美術館でsaraiが最も愛する作品です。クラナッハの作品のなかでも最愛の作品です。何と言ってもユディットの美しいこと! 女性を描かせたら天下一品のクラナッハの一世一代の傑作です。

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ハンス・ホルバインHans Holbein (der Jüngere)( 1497年/1498年 - 1543年)の1543年、45歳頃の作品、《国王ヘンリー8世の主治医、ジョン・チェンバース Dr. John Chambers, Leibarzt König Heinrichs VIII.》です。ハンス・ホルバインは、ルネサンス期のドイツの画家です。南ドイツのアウクスブルクに生まれ、後にイングランドで活動しました。国際的に活躍した肖像画家として著名です。この作品は最晩年に描かれた肖像画として、ホルバインの傑作と言えます。描かれた医師ジョン・チェンバースの年齢は88歳と誤って描かれていますが、実際は73歳でした。極めてシンプルに描いた構図で医師の内面に迫る迫真の肖像画に仕上げています。

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ハンス・ホルバインHans Holbein (der Jüngere)の1536年、38歳頃の作品、《ジェーン・シーモアの肖像 Jane Seymour》です。ジェーン・シーモアJane Seymour(1508年 - 1537年10月24日)は、イングランド王ヘンリー8世の3番目の王妃で、エドワード6世の生母です。 1536年の2番目の王妃アン・ブーリンの刑死後、ヘンリー8世と結婚し、翌1537年に男子(後のエドワード6世)を出産しましたが、その月のうちに産褥死しました。ヘンリー8世は世継ぎの男子を産んだジェーンに感謝を込めて、6人の王妃のうちでただ一人、ウィンザー城内の王室霊廟において隣に眠ることを許しました。この肖像画には王妃になった頃のジェーン・シーモアが描かれています。

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アルブレヒト・デューラーAlbrecht Dürer(1471年5月21日 - 1528年4月6日)の1519年、48歳頃の作品、《皇帝マクシミリアン1世 Kaiser Maximilian I.》です。アルブレヒト・デューラーはドイツのルネサンス期の画家です。説明の不要な大画家ですね。この作品は皇帝マクシミリアン1世の亡くなった年に描かれたものです。その前年、1518年6月にアウグスブルクの国会議事堂でデューラーとマクシミリアン1世が会ったときに描いた肖像画をもとに完成させました。実に威厳のある君主の風格を描き出した傑作です。

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アルブレヒト・デューラーAlbrecht Dürerの1505年、34歳頃の作品、《若いヴェネツィアの女性の肖像Brustbild einer jungen Venezianerin》です。この作品は彼の2回目のイタリア訪問の際に描かれたものです。他にも多くの上流階級の人々の肖像画が描かれました。イタリア旅行中に巨匠、ジョヴァンニ・ベッリーニに魅了され、友人となりました。この作品でもヴェネチア派の影響を受けて、柔らかなモデリング、劇的な明暗の対比、鮮やかな色彩と色調が見られます。この絵のモデルは不明ですが、おそらく、ヴェネチアの女性のようです。なお、この作品は、1923年にリトアニアの個人コレクションで発見されるまで、デューラーの真筆として認定されていなかったそうです。

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まだ、16世紀ドイツ絵画の傑作群は続きます。



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ウィーン美術史美術館:デューラー、クラナッハ、クラナッハ (子)

2019年9月29日日曜日@ウィーン/7回目

今日は旅の最終日。ウィーンの最終日でもあります。もう、今晩は飛行機で帰国の途につきます。しかし、その前に精一杯、ウィーンの1日を楽しみます。
最後のウィーンの街歩き中で、ウィーン美術史美術館Kunsthistorisches Museum Wienを訪れています。名作絵画の数々を見ています。今は16世紀ドイツ絵画の部屋にいます。


アルブレヒト・デューラーAlbrecht Dürer(1471年5月21日 - 1528年4月6日)の1507年、36歳頃の作品、《若い男の肖像 Brustbild eines jungen Mannes》です。デューラーはヴェネチア滞在中、多くの肖像画の依頼を受けました。とりわけ、ドイツ商人からの依頼が多かったようです。それらはこのヴェネチアで描かれたようですが、一部はニュルンベルクに戻った後に描かれたようです。この作品でも実に緻密な表現が印象的です。肖像画家としてのデューラーの実力が発揮された作品です。
(撮影者のsaraiがガラスに少し写り込んでしまいました。ごめんなさい。)

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ルーカス・クラナッハLucas Cranach der Ältere(1472年10月4日 - 1553年10月16日)の1530年、57歳頃の作品、《楽園 (エデンの園) Paradies》です。エデンの園でお気楽そうなアダムとイヴが描かれています。犬まで気楽そうです。二人に問いただしているのは神です。旧約聖書の一シーンです。羞恥心からイチジクの葉で体を隠しているので、既に禁断の林檎を食べた後のことです。神から問われたアダムはイヴにそそのかされたと弁解し、イヴは蛇に仕向けられたといいわけします。その様子がいかにも気楽そうで、あまり、罪の意識があるように思えません。結果、神はアダム(男)に〝労働の苦役〟を、イヴ(女)には〝出産の苦役〟を与え、老いることと死の宿命を宣告します。人間の宿命が定められたのですが、それが深刻そうに描かれていないのがいいですね。

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ルーカス・クラナッハLucas Cranach der Ältereの1529年、56歳頃の作品、《選帝侯フリードリヒ賢公の鹿狩り Hirschjagd des Kurfürsten Friedrich d. Weisen》です。この作品では1529年当時、既に亡くなっていたフリードリヒ賢公と皇帝マクシミリアン一世が鹿狩りしている様が描かれています。二人と並んで描かれているザクセンのヨーハン堅忍公がクラナッハに命じて、過去の出来事の記録として制作させました。ここには鹿狩りの様子が詳細に描かれていますが、どうやら、クラナッハも狩猟の様子を描くために同行したようです。右上に描かれている城は現在は廃墟となっているマンスフェルドの城のようです。

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ルーカス・クラナッハLucas Cranach der Ältereの1510~20年、37~47歳頃の作品、《アダム、イヴ Adam、Eva》です。この作品は2枚の絵画にそれぞれ別にアダムとイヴが描かれています。とりわけ、イヴの妙なバランスの構図が印象的で、実に魅惑的に描かれています。

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ルーカス・クラナッハ (子) Lucas Cranach der Jüngere(1515年10月4日 – 1586年1月25日)の1544年、29歳頃の作品、《ヨハン・フリードリッヒ選帝侯の鹿狩り Hirschjagd des Kurfürsten Johann Friedrich》です。ルーカス・クラナッハ (子)は同名の著名な画家であったルーカス・クラナッハを父に持っています。父の工房で兄のハンスと共に絵画を学びました。父の作風をそのまま受け継ぎ、まるでそっくりの絵を描いています。ときどき、どちらか見分けがつかないこともあります。
この作品も父親の狩猟画をそのまま継承したスタイルで描かれています。1544年のこの鹿狩りの絵は、遠くに、ハルテンフェルス城Schlosses Hartenfelsの印象的な建物とザクセン選帝侯の住居のあるトルガウTorgauのエルベ川の町のシルエットが見られます。この絵には、選帝侯ヨハン・フリードリヒJohann Friedrichと皇帝カール5世Karl V.がいます。彼の隣には、プファルツ選帝侯フリードリヒ2世Pfalzgraf Friedrich II.が立っています。

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ルーカス・クラナッハLucas Cranach der Ältereの1520年、47歳頃の作品、《キリストの別れ Abschied Christi von den Frauen》です。キリストが受難に向かう前、ラザロの家の前で聖母マリア、マグダラのマリア、クロパの妻マリア、マリア・サロメに別れを告げるシーンが描かれています。マリアたちの悲壮な表情に比べて、キリストの平静で優し気な表情が印象的です。

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次は美術史美術館を代表するコレクション、ブリューゲルの絵画を見ていきます。



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ウィーン美術史美術館:ブリューゲル

2019年9月29日日曜日@ウィーン/8回目

今日は旅の最終日。ウィーンの最終日でもあります。もう、今晩は飛行機で帰国の途につきます。しかし、その前に精一杯、ウィーンの1日を楽しみます。
最後のウィーンの街歩き中で、ウィーン美術史美術館Kunsthistorisches Museum Wienを訪れています。名作絵画の数々を見ています。今は16世紀ドイツ絵画から、オランダ絵画、フランドル絵画の部屋に移動します。


ピーテル・ブリューゲルPieter Bruegel(1525年-1530年頃 - 1569年9月9日)の1567年、37-42歳頃の作品、《聖パウロの回心 Bekehrung Pauli》です。ピーテル・ブリューゲルは、16世紀のブラバント公国(現在のオランダ)の画家です。ブリューゲルの油絵は40点ほどが知られていますが、そのうち12点がウィーンの美術史美術館に収蔵されています。ブリューゲルを見たければ、この美術史美術館に足を運ぶしかありません。今回は8点ほどご紹介しましょう。
この作品は有名な聖パウロの回心のシーンを描いています。使徒言行録によると、エルサレムからダマスカスに向かう途中で、サウル(聖パウロのユダヤ名)はイエスの声を聞き、一筋の光に目がくらんで馬から落ちました。 その瞬間、キリスト教徒の狂信的な迫害者は使徒パウロになります。ブリューゲルの絵画の場合によくあることですが、メインシーンは小さく、大きなシーンの中にほとんど隠れています。画面の中央で馬から落ちて、地面に倒れている青い上着のパウロを探してみてください。写真をクリックすると大きな画面になります。聖パウロが見つかるかな。なお、ブリューゲルが描いた兵士たちの服装はその当時の服装になっています。ブリューゲルは聖書の時代の服装にも精通していたので、あえて、その当時の服装で描いたようです。聖書の有名な風景を現代の雰囲気で描くことで、時代の壁をタイムジャンプさせたものなのでしょう。

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ピーテル・ブリューゲルの1565年、35-40歳頃の作品、《雪中の狩人 Jäger im Schnee (Winter)》です。ブリューゲルの最高傑作とみなされる作品です。
この作品では、雪の山間を背景に、猟銃を背負った狩人が猟犬を引き連れて歩く情景が描かれています。疲れ果てた犬の群れを伴った狩人のグループは、下の村に戻ろうとしています。 肩の槍の1つから1匹のキツネだけがぶら下がっています。 左側では、豚が直火で焼かれています。 凍った池でスケートをするなどの楽しいディテールが、この作品の絶大な人気に貢献しているようです。ほかのブリューゲルの作品と同様に人間の営みを画家の鋭く、透徹した視線で描き出したもので、田園風景を背景に人間を主役にしたルネサンス精神の絵画の一つです。

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ピーテル・ブリューゲルの1567年、37-42歳頃の作品、《牛群の帰り(秋) Heimkehr der Herde (Herbst)》です。
この作品は、アントワープの銀行家であったニクラース・ヨンゲリングの注文で製作され、6つの絵画からなる連作月暦画の一つとして、11月頃における、農民の日常生活を描いています。
秋のモティーフとしての牛群の帰りは、オランダ絵画では珍しい画題で、ブリューゲルによって新たに絵画に取り入れられ、ブリューゲルがスイスを旅したときに得た印象に基づくものでした。 田舎の牛追いがこの作品のタイトルシーンになりますが、メインテーマは秋の季節の色と雰囲気で崇高に高められた風景そのものです。画面手前に緻密に描かれた牛たちと対比して、画面奥に描かれた風景の美しさには息を呑む思いです。

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ピーテル・ブリューゲルの1568年、38-43歳頃の作品、《農民の結婚式 Bauernhochzeit》です。この作品は、「農民ブリューゲル」として知られるきかっけとなった作品で、ほかにも一連の農民主題の作品が制作されています。また、《農民の踊り Bauerntanz》と対になる作品で、サイズが同一で主題が似たものです。
この作品ではフランドルの農民の婚礼の様子が慎重な構図で構成されています。 寓話的な意味はなくて、フランドルの農民の婚宴をリアルに描き出しています。 花嫁は中央の緑の天蓋布の下に座っており、紙の王冠が彼女の髪を飾っています。 フランダースの習慣によると、花婿は結婚式のテーブルにいませんでした。 ベレー帽をかぶった公証人、フランシスコ修道会の僧侶、犬を連れた従者(右端)の姿を見ることができます。 扉板の上に並べて、運ばれるお粥は、担ぎ手の姿勢と同様に、非常にシンプルでリアルに描かれています。

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ピーテル・ブリューゲルの1568年、38-43歳頃の作品、《農民の踊り Bauerntanz》です。
この作品で描かれているのは、教会の奉献祭のオープニングダンスです。これは、カップルたちだけが演じ、一般的なダンスに先行する伝統的なジャンプダンスです。 手前のカップルは何か急いでいる印象ですが、左端のシーンに気を取られているようです。物乞い(または巡礼者?)たちが物乞いをしているテーブルに近づいています。 ブリューゲルの農民に対する見方は、見下すようなものでもユーモラスなものでもありません。むしろ徹底したリアリズムが画面に横溢しています。なお、画面をよく観察すると《農民の結婚式 Bauernhochzeit》の登場人物を発見でき、相互の関係性が感じられます。

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ピーテル・ブリューゲルの1564年、34-39歳頃の作品、《十字架を担うキリスト Kreuztragung Christi》です。この作品は、ブリューゲルの描いた最も大きな絵画です。124cm×170cmのサイズです。
ブリューゲルは、エルサレムからゴルゴタへの行列として十字架の運びを描写するという、ヤン・ファン・エイクにまでさかのぼるオランダの絵画の伝統の画題に従っています。 しかし、彼の描く風景は非常に拡大化・精密化されています。 この作品はブリューゲルのこれまでで最も人物が豊富に描かれた絵画であり、当時の日常生活の観察に基づき、当時の生活風景が忠実に描かれています。画面では中央に群衆に囲まれて十字架を担うキリストが例によって、小さく描かれており、よく見ないと見つかりません。 手前の岩の上で悲しみに暮れる3人のマリアとヨハネだけは当時の流行の風俗ではない服をまとっています。それによって、とりわけ印象的に見えるように描かれています。 右端には、おそらくブリューゲルの自画像が描かれています。

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ピーテル・ブリューゲルの1563年、33-38歳頃の作品、《バベルの塔 Turmbau zu Babel》です。この作品の主題であるバベルの塔は旧約聖書に出る伝説の塔です。天まで届くような巨大な塔を建設しようとした人間に神の怒りが下るという物語です。
ブリューゲルの描いたバベルの塔の記念碑的な構成は、最も有名であり、古典的なバベルの塔の姿として広く伝播されるようになりました。 バベルの塔に比べて印象的に小さいフランドルの港湾都市の風景は、バベルの塔のスケール感を与えてくれます。 ブリューゲルは、細心の注意と百科事典的な知見を持って、バベルの塔の構造的および工芸的なプロセスを表現しています。 バベルの塔の石造りの外殻には、古代とロマネスク建築の要素が混ざっています。なお、画面の手前で市民と対話しているのは塔の建設を進めるニムロデ王です。

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ピーテル・ブリューゲルの1560年、30-35歳頃の作品、《子供の遊び Kinderspiele》です。
ブリューゲルが頻繁に用いた鳥瞰図によって、膨大な数の人物を眺めやすく、画面に収容しています。 230人以上の子供たちが83の異なるゲームを遊んでいます。 それぞれのシーンの細かさは、すべてのゲームを解読したい場合、じっくりと見究めることを可能にします。こんなに楽しい娯楽を提供してくれたブリューゲルに感謝しましょう。この手の絵はとかくに寓話的な意味を持たせるものが多いですが、これは単純明快に楽しい作品に仕上がっています。深読みするのはやめましょうね。

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この部屋に美術史美術館の至宝、ブリューゲルの絵画コレクションが展示されています。壮観な風景です。こうしてみると、ブリューゲルの絵画は大ぶりな作品が多いことが分かりますね。ここはとりわけ、美術ファンが群がる一角です。

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この後もドイツ絵画、イタリア絵画、オランダ・フランドル絵画など、様々な絵画が続きます。



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ウィーン美術史美術館:無名のヨーゼフ・ハインツ、アルチンボルド、ティントレット

2019年9月29日日曜日@ウィーン/9回目

今日は旅の最終日。ウィーンの最終日でもあります。もう、今晩は飛行機で帰国の途につきます。しかし、その前に精一杯、ウィーンの1日を楽しみます。
最後のウィーンの街歩き中で、ウィーン美術史美術館Kunsthistorisches Museum Wienを訪れています。名作絵画の数々を見ています。16世紀ドイツ絵画から、ドイツ絵画、イタリア絵画、オランダ・フランドル絵画など、様々な絵画が続きます。


ヨーゼフ・ハインツJoseph Heintz d. Ä. (1564年6月11日~1609年10月15日)の1600-1605年、36-41歳頃の作品、《洗礼者ヨハネの首を持つサロメ Salome mit dem Haupt Johannes d. Täufers》です。ぱっと見て、てっきり、クラナッハの描いたサロメかと誤認しました。実際は、無名の画家ヨーゼフ・ハインツがクラナッハのユーディットをもとに描いたものでした。皇帝ルドルフ2世は自分の古いドイツ絵画の壮大なコレクションを補足するために、コピーもどきの繊細な新作の制作を積極的に進めました。 ヨーゼフ・ハインツが描いた「サロメ」は、長老クラナッハによる「ユーディット」を再解釈したものです。 切断された頭が大皿に配置され、ユーディットが持っていた剣が欠落し、アスペクト比と衣服の詳細が変更されました。 色彩に関しては、ハインツはクラナッハの作品を忠実に再現しましたが、彼の描いた絵画はより滑らかな作品に仕上がっています。まあ、クラナッハの2番煎じの感ですね。画家も心ならずの作品なのでしょう。

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ジュゼッペ・アルチンボルドGiuseppe Arcimboldo(1526年4月5日 - 1593年7月11日)の1563年、37歳頃の作品、《夏 Sommer》です。ジュゼッペ・アルチンボルドはイタリア・ミラノ出身の画家で、マニエリスムを代表する画家の1人です。
アルチンボルドは、1562年から、ウィーンとプラハの宮廷画家でした。 肖像画家としての彼の仕事に加えて、結婚式のお祝いなどのディレクターやデコレーターとしての彼の仕事は特に賞賛されました。 1563年に一連の季節の絵画が作成されると、画家の死後の名声はその独自性のある絵画群に基づいています。 様々な植物で構成された「夏」は、自然な顔の表面ではありません。巧みに構成された顔には驚嘆しますし、ユーモアも感じますね。署名と日付は麦わらの衣服に巧みに織り込まれています。

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ジュゼッペ・アルチンボルドGiuseppe Arcimboldo(1526年4月5日 - 1593年7月11日)の1563年、37歳頃の作品、《冬 Winter》です。
一連の季節の絵画の一枚です。植物(の一部)と果物で構成された「冬」はユニークな顔の表情を見せています。襟の編みこみのわらに書かれた文字Mは、シリーズを依頼した皇帝マクシミリアン2世を指しています。

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ジュゼッペ・アルチンボルドGiuseppe Arcimboldo(1526年4月5日 - 1593年7月11日)の1566年、40歳頃の作品、《水 Wasser》です。
美術史美術館には「四大元素」シリーズの2枚の絵があります。 これらは、アルチンボルドが以前に作成した季節の絵画シリーズに関連して解釈されます。「冬」は「水」に対応し、「夏」は「火」に対応します。あとは「空気」の「春」と「地球」の「秋」。 この作品中の王冠は、皇帝マクシミリアン2世、すなわち絵画発注主への隠された関係を示すものです。

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ジュゼッペ・アルチンボルドGiuseppe Arcimboldo(1526年4月5日 - 1593年7月11日)の1566年、40歳頃の作品、《火 Feuer》です。
「四大元素」シリーズの中の一枚です。季節の絵画シリーズとの関連では、この「火」は「夏」に対応します。金羊毛と双頭の鷲のメダリオンの首輪のチェーンを備えた「火」は、皇帝マクシミリアン2世を最も明確にほのめかしています。

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次は唐突ながら、イタリア絵画に飛びます。もっとも、アルチンボルトもイタリア人でしたね。
ティントレットTintoretto(本名:Jacopo Comin(Jacopo Robusti))(1518年9月29日 - 1594年5月31日)の1555-1556年、37-38歳頃の作品、《水浴するスザンナ Susanna im Bade》です。ティントレットは、イタリアのルネサンス期のヴェネツィア派を代表する画家です。
旧約聖書には、美しいスザンナが自分の庭で入浴しているときに密かに侵入した2人の長老ののぞき屋からスケベな求愛をどのように受け取ったかが書かれています。 彼女が彼らを拒絶すると、彼らは彼女を彼女の夫に誹謗中傷します。 ダニエルという青年が異を唱えたことが、姦通の疑いで死刑に処されることからスザンナを救います。結果、 不正な告発者は処刑され、美徳が勝利を収めたわけです。「嵐の前の静けさ」というシーンに内在する緊張は、光と闇、極端な近さと極端な距離、女性のまばゆいばかりの美しさ、そして男性の似顔絵のような人相のコントラスト などによって視覚化されています。まあ、この作品で見るべきはスザンナの輝くような白い肌の美しさでしょう。

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クラナッハなどの絵画がまだ続きます。



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ウィーン美術史美術館:クラナッハ、ファン・デル・ウェイデン、ボス、ファン・クレーフェ、フェルメール

2019年9月29日日曜日@ウィーン/10回目

今日は旅の最終日。ウィーンの最終日でもあります。もう、今晩は飛行機で帰国の途につきます。しかし、その前に精一杯、ウィーンの1日を楽しみます。
最後のウィーンの街歩き中で、ウィーン美術史美術館Kunsthistorisches Museum Wienを訪れています。名作絵画の数々を見ています。16世紀ドイツ絵画から、オランダ・フランドル絵画など、様々な絵画が続きます。


ルーカス・クラナッハLucas Cranach der Ältere(1472年10月4日 - 1553年10月16日)の1537年、64歳頃の作品、《ホロフェルネスの頭を持つユーディットと召使い Judith mit dem Haupt des Holofernes und einer Dienerin》です。クラナッハはユーディットの絵を複数描いています。よほど、当時人気があったのでしょう。召使が持つ袋にホロフェルネスの頭を入れようとしているユーディットが画面から、この絵を眺める我々をじっと見つめているのが印象的です。その視線は意思の強さを感じます。一方、召使は優しい表情でホロフェルネスの頭を見ています。これは一種の肖像画でユーディットに扮する女性の気高さを称えているのでしょう。

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ロヒール・ファン・デル・ウェイデンRogier van der Weyden(1399年/1400年 - 1464年6月18日)の1443-1445年、43-46歳頃の作品、《キリスト磔刑の三連画 Kreuzigungsaltar》です。ファン・デル・ウェイデンは、初期フランドル派の画家であり、ロベルト・カンピン、ヤン・ファン・エイクとともに初期フランドル派を代表する三大巨匠とみなされています。
今日、有翼祭壇画として描かれたキリスト磔刑のシーンは、元々、単一フレームに描かれた1枚のパネルで構成されていました。 早い段階で、作品は3つの部分に切断され、中央のパネルにはキリスト磔刑が置かれ、マグダラのマリアと聖ヴェロニカを描写した部分が三連画の翼になりました。 したがって、ファン・デル・ウェイデンの偉大な芸術的革新は、元のバージョンではさらに重要であったはずです。彼は初めて、理想化された景色が描かれた均一な風景の前で、すべての参加者(十字架刑グループ、聖人、寄付者)を結合させました。中央のパネルでは、十字架にすがって嘆く聖母マリアを聖ヨハネが支えています。十字架の右側にはこの作品の注文者と思われる夫婦が跪いています。左のパネルでは香油壺を持って泣いているマグダラのマリア、右のパネルでは聖顔布を掲げる聖ヴェロニカが描かれています。想像上のエルサレムが遠く地平線の背景に描かれています。実に見事な作品です。

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ヒエロニムス・ボスHieronymus Bosch(1450年頃 - 1516年8月9日)の1490-1510年、40-60歳頃の作品、《十字架を運ぶキリスト Kreuztragung Christi》です。ボスは、ルネサンス期のネーデルラントの画家で、初期フランドル派に分類されています。
両面に描かれたパネルは、もともと小さな祭壇画の左翼を形成していました。 ボスは、見る者に世界の邪悪さを認識させるために、シーンを自分の生きている現在、15世紀当時に移し、その頃の風俗を描きました。 パネルの裏側に描かれたウォーキングチェアと風車を持った子供は、子供のイエスとして、または無知の寓話として、等々、さまざまに解釈されてきましたが、そのイノセンスさと受難のシーンの対比は印象的です。ボスの作品は30枚ほどしか現存していません。この作品は貴重な一作です。ボスの作風は後のブリューゲルに引き継がれることになります。1枚目がパネルの表、2枚目がパネルの裏です。

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ヨース・ファン・クレーフェJoos van Cleve(1485年頃 - 1540年頃)の1530年、45歳頃の作品、《三連祭壇画 Flügelaltar》です。ファン・クレーフェは、フランドルの画家ですが、生涯については謎が多く、確定していることは少ないようです。
ヨース・ファン・クレーフェは、古いオランダの三連祭壇画の構図の伝統を守り、その上でさまざまな構築形態と色調の変化で絵画を豊かにしました。 中央のパネルには、聖母子、聖ヨセフ、翼パネルには聖ゲオルグと聖カタリナ、ひざまずく未知の寄進者の夫妻が描かれています。

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ヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer(1632年10月31日? - 1675年12月15日?)の1666-1668年、34-36歳頃の作品、《絵画芸術(画家のアトリエ)Die Malkunst》です。フェルメールは、ネーデルラント(オランダ)の画家で、バロック期を代表する画家の1人です。というか、世界で最も有名な画家の一人ですね。
この作品は美術史美術館の至宝中の至宝として門外不出になっています。つまり、ここでしか見られないという貴重な作品です。
フェルメールは風俗画を絵画芸術の普遍的なものにまで高めました。 この作品で、彼のモデルはギリシャ神話の女神クリオを装っています。そのミューズは画家にインスピレーションを与え、そして、歴史書を持ったミューズは古典的オランダ絵画の不滅のステータスを宣言しています。 彫刻のモデル、スケッチブック、そしてイーゼルに描かれた絵はすべて、芸術の統一を示しています。 北と南に分割される前のオランダの17の州を示す地図は、その名声が絵画芸術において、長い間輝いてきた国であることを示しています。フェルメールが高らかな矜持を抱いて制作した傑作絵画です。もっとも、saraiはこの矜持に満ちた作品よりも『牛乳を注ぐ女』と『デルフトの風景』を愛好しています。

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オランダ絵画が続きます。



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ウィーン美術史美術館:レンブラント

2019年9月29日日曜日@ウィーン/11回目

今日は旅の最終日。ウィーンの最終日でもあります。もう、今晩は飛行機で帰国の途につきます。しかし、その前に精一杯、ウィーンの1日を楽しみます。
最後のウィーンの街歩き中で、ウィーン美術史美術館Kunsthistorisches Museum Wienを訪れています。名作絵画の数々を見ています。オランダ・フランドル絵画を鑑賞しています。


レンブラント・ハルメンソーン・ファン・レインRembrandt Harmenszoon van Rijn(1606年7月15日 - 1669年10月4日)の1652年、46歳頃の作品、《大きな自画像 Großes Selbstbildnis》です。レンブラントは、ネーデルラント(現在オランダ)の画家。光と陰の画家として、世界に広く知られています。
レンブラントの作品の中でも、自画像が特に重要です。 レンブラントは全部で60以上もの自画像を描きました。そして、それは彼の個人的な状況に加えて、主に彼の芸術的発展を記録したものです。一説には、著名な画家の自画像を蒐集する鑑定家向けに描かれたのではないかという穿った意見もあるようです。この作品は1645年以降に描かれた自画像の中では最も初期のものです。以降、彼はほぼ1年に1作ずつ、自画像を描いています。これらは後期自画像と呼ばれています。 レンブラントが成功した初期の頃の自画像では、レンブラントが豪華なローブや変装で自分自身を表現するのが好きでした。しかし、本作では彼はシンプルな茶色の画家のスモック姿で登場します。 彼は自信を持って腕を腰に当て、親指をベルトに引っ掛けています。頭に被ったベレー帽は16世紀当時の芸術家の間で流行らせたもので、この時代の自画像や肖像画でも多くみられます。彩色技法としては、絵の中の影になるべきところにグレーの下塗りを施している点が挙げられます。絵全体のグレーの下地塗りのさらに上に陰影を強調するためにグレーの下地を塗るという凝った技法を駆使しています。眼窩と口ひげの部分にそれが施されています。

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レンブラント・ハルメンソーン・ファン・レインRembrandt Harmenszoon van Rijnの1655年、49歳頃の作品、《ネックレスとイヤリングを付けて、毛皮をまとった自画像 Selbstbildnis im Pelz, mit Kette und Ohrring》です。
レンブラントの自画像での表現は、歴史的な衣装の表現から作業服の肖像画やファンタジーの肖像画にまで及びます。 16世紀の流行にさかのぼり、ベレー帽はレンブラントのトレードマークになりました。 ゴールドチェーンのネックレスは、彼の初期の自画像以来、繰り返し登場するアクセサリーでもあります。 この作品では影の微妙な表現の見事さが際立ちます。

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レンブラント・ハルメンソーン・ファン・レインRembrandt Harmenszoon van Rijnの1657年、51歳頃の作品、《小さな自画像 Kleines Selbstbildnis》です。
この非公式の肖像画では、レンブラントは、茶色の上着と赤いウールのシャツなど、日常の装いで鑑賞者と対峙しています。 年齢が上がるにつれ、レンブラントの自画像では、見た目のシンプルさと田園的な色彩が優勢になります。 正面を向いた顔のポーズと表情は、1652年の自画像に似ています。 自己の内面を感じさせる熟成した自画像の表現に惹き込まれますが、何とも画面のサイズが48×40.6 cmと小さいのが物足りない印象ではあります。

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レンブラント・ハルメンソーン・ファン・レインRembrandt Harmenszoon van Rijnの1656-57年、50-51歳頃の作品、《本を読む画家の息子ティトゥス Titus van Rijn, der Sohn des Künstlers, lesend》です。
ティトゥス・ファン・レインは1641年に生まれ、レンブラントと彼の最初の妻サスキアの4人の子供の一番下の子で、子供のうち成人期に達した唯一の子供でした。 彼は1668年に亡くなりました。レンブラントは自画像だけでなく、妻、母、子供などの家族の肖像画もしばしば描きました。 ティトゥスも10枚ほどの絵画に描かれています。この絵画は厳密な意味での肖像画ではありません。 むしろ、読書を楽しんでいる状況が実際の画題になります。 光の使用は絵画表現を高めるのに役立ち、若い男の顔の独特の表情と本を持った彼の明るく輝く手が暗闇の中から浮かび上がります。レンブラントの息子への親密な愛情が感じ取れると言ったら言い過ぎでしょうか。

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レンブラントは自画像を中心に鑑賞しました。最後に再び、クラナッハを見て、今回の美術史美術館の鑑賞を終えましょう。



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ウィーン美術史美術館:最後はクラナッハ

2019年9月29日日曜日@ウィーン/12回目

今日は旅の最終日。ウィーンの最終日でもあります。もう、今晩は飛行機で帰国の途につきます。しかし、その前に精一杯、ウィーンの1日を楽しみます。
最後のウィーンの街歩き中で、ウィーン美術史美術館Kunsthistorisches Museum Wienを訪れています。名作絵画の数々を見ています。レンブラントの自画像を鑑賞しました。最後はクラナッハです。


ルーカス・クラナッハLucas Cranach der Ältere(1472年10月4日 - 1553年10月16日)の1528年、56歳頃の作品、《ロトと娘たち Lot und seine Töchter》です。
この作品のテーマはロトとその娘です。この美術館でもアルトドルファーの描いた同一主題の絵画を見ました。このエピソードは『旧約聖書』「創世記」11章から14章で語られています。ロトとその家族はイスラエルのソドムの町に住んでいました。その当時ソドムの町とその近隣のゴモラの町は神を敬わない人が多く、風紀が著しく乱れており、神は怒り、二つの町を滅ぼそうと決めました。しかし、ロトは義人であったために神は天使を遣わせて町から事前に逃げるよう命じます。生き残ったロトと娘らは洞窟に住むことになりましたが、二人の娘には結婚相手を見つける術がなかったので、父親であるロトを酒に酔わせて近親相姦によって身ごもります。この作品では娘が父に性的アピールをするシーンが描かれています。実におぞましいテーマですが、クラナッハの描いた作品はそれを忘れてしまほど、美しい作品に仕上がっています。とりわけ、二人の娘は作品が描かれた当時のファッションに身を包み、とても美しいです。なお、画面の上部には業火で焼き滅ぼされるソドムの町から逃げ延びるロトと娘たちが描かれています。一つの画面に物語が時系列的に描かれているわけです。

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ルーカス・クラナッハLucas Cranach der Ältereの1537年、65歳頃の作品、《人間の堕落(アダムとイヴ) Sündenfall》です。
この作品のテーマは楽園で林檎を食べて堕落するアダムとイヴです。このテーマはクラナッハが繰り返し取り上げたテーマで、この美術館でも何枚も見ました。アダムとイヴを大きく描いた作品ではそれぞれを2枚の別の絵に描いたものもありましたが、これは1枚の画面に2人が一緒に描かれています。必要なパーツ、林檎、蛇、鹿はすべて揃っています。二人の陰部は自分で隠すのではなく、自然に生えている枝葉で隠されています。そのため、アダムとイヴは自由にポーズをとるとこが可能になっています。二人の顔の表情は視線が空を彷徨い、うつろになっていることが印象的です。堕落を象徴するかのごとくです。細部まで完成度の高い傑作ですね。

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結局、今回はクラナッハに始まり、クラナッハに終わりました。なんだかんだ言っても、saraiはクラナッハの作品が好きなんです。この美術史美術館はクラナッハとブリューゲルの作品の宝庫といった風情があります。
これがクラナッハの名品が並ぶ部屋の様子です。最後にゆったりと椅子に座って、クラナッハを眺めていました。

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しばらくして、椅子を離れ、出口に向かいます。ラファエロの聖母子などのイタリア絵画の名品もありますが、今回はこれで完了とします。途中、美術館の中庭が見えます。中庭に面した壁面にも美しい壁画が並んでいます。きっと誰にも見られないでしょうね。もったいない。

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やがて、美しい階段の前に出ます。美術史美術館は収蔵作品も素晴らしいですが、建物自体も美術品です。

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美術史美術館を出て、その前の広場を奥に抜けていきます。振り返ると、マリア・テレジア像の後ろ姿が見えます。

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次は通りを挟んで、美術史美術館の裏手にあるムゼウムシュクヴァルティアーMuseumsQuartierに向かいます。

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ここまでの散策ルートを地図で確認しておきましょう。

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このムゼウムシュクヴァルティアーには、シーレの作品の膨大なコレクションを誇るレオポルド美術館Leopold Museumがあります。2001年に開館した美術館で、古い伝統を誇るウィーンでは新参者と言えるでしょう。saraiは開館間もない時から、幾度となく、この素晴らしい美術館を訪れています。今回も本腰を入れて、全作品を見尽くす意気込みです。しばらくの間、ご一緒にシーレ、クリムト、ココシュカ、ゲルストルの名作を鑑賞しましょう。今回の長旅のグランドフィナーレになります。



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レオポルド美術館:マカルト、ホフマン、シーレ、ホドラー、リスト

2019年9月29日日曜日@ウィーン/13回目

今日は旅の最終日。ウィーンの最終日でもあります。もう、今晩は飛行機で帰国の途につきます。しかし、その前に精一杯、ウィーンの1日を楽しみます。
最後のウィーンの街歩き中で、ウィーン美術史美術館Kunsthistorisches Museum Wienを鑑賞した後、これから、レオポルド美術館Leopold Museumの名品をたっぷり鑑賞するところです。
まずはエントランスでチケットを購入。10ユーロとまずまずリーズナブルな料金だし、チケットがシーレの絵になっているのがいいですね。

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エレベーターで最上階の4階まで上がり、そこから鑑賞を開始。
以下、レオポルド美術館の至宝を見ていきます。今回はこれまでの集大成として見ていくので、本ブログでも紹介済の作品も並べていきます。作品の解説文は本ブログの過去の記事も流用しますので、悪しからず。

ハンス・マカルトHans Makart(1840年5月28日 - 1884年10月3日)の1870-1872年、30-32歳頃の作品、《ベスタの処女 Vestalin》です。
色使いの綺麗な美しい作品です。この美しい色使いによって、マカルトは「色の魔術師」とも呼ばれ、クリムトが最初に影響を受けたと言われています。ハンス・マカルトはオーストリア19世紀の画家で、ウィーンの宮廷で活躍し、歴史画の大作を数多く描いたアカデミック美術を代表する画家です。なお、ベスタの処女は、古代ローマで信仰された火床をつかさどる女神ベスタに仕えた巫女たちのこと。
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続いて、ウィーン分離派のメンバーたちの写真があります。1902年に撮影されました。分離派が結成されたのは、この写真の5年前の1897年です。中心となったのはグスターフ・クリムト。写真では左から2番にいますね。

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その分離派展のポスターがずらっと並んでいます。

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ヨーゼフ・フランツ・マリア・ホフマンJosef Franz Maria Hoffmann(1870年12月15日 - 1956年5月7日)の制作したキャバレー・フレーダーマウスのための家具調度です。キャバレー・フレーダーマウスは、1907年にウィーン工房の全面的な参加のもとで店開きしました。 内装や家具、食器類はもちろんのこと、上演される出し物の舞台装飾まで工房のスタッフがデザインしました。ウィーン工房Wiener Werkstätteは、1903年に建築家ヨーゼフ・ホフマンとデザイナーのコロマン・モーザーによって設立された工房です。二人は分離派のメンバーでもありました。

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エゴン・シーレEgon Schiele(1890年6月12日 - 1918年10月31日)の1908年、18歳頃の作品、《装飾的な背景の前にある様式化された花 Stilisierte Blumen vor dekorativem Hintergrund》です。何となく、シーレの「ひまわり」を連想してしまいます。あれはこの3年後の1911年に描かれます。

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フェルディナント・ホドラーFerdinand Hodler(1853年3月14日 - 1918年5月19日)の1897-98年、44-45歳頃の作品、《夢 Der Traum》です。フェルディナント・ホドラーは、スイスの画家です。ファンタジックで瞑想的な作品です。そこはかとした雰囲気に心惹かれます。

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ヴィルヘルム・リストWilhelm LIST(1864年 - 1918年日)の1906年、42歳頃の作品、《サロメ Salome》です。ヴィルヘルム・リストは、ユーゲントシュティール時代のオーストリアの画家、彫刻家、石版画家です。
この作品は、おどろおどろしい主題にもかかわらず、実に静謐な雰囲気で描き出されています。サロメの少女らしい雰囲気もいいですね。

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次はクリムトの作品群を見ていきます。



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レオポルド美術館:クリムト

2019年9月29日日曜日@ウィーン/14回目

今日は旅の最終日。ウィーンの最終日でもあります。もう、今晩は飛行機で帰国の途につきます。しかし、その前に精一杯、ウィーンの1日を楽しみます。
最後のウィーンの街歩き中で、ウィーン美術史美術館Kunsthistorisches Museum Wienを鑑賞した後、レオポルド美術館Leopold Museumの名品を鑑賞しているところです。

グスタフ・クリムトGustav Klimt(1862年7月14日 - 1918年2月6日)の1899年、37歳頃の作品、《穏やかな池 Ein Morgen am Teiche》です。
この風景画は正方形で、クリムトそのものです。池の朝の様子を描いています。この絵は、ハラインHallein近くのゴリングGollingにあるエーゲル湖Egelseeで描かれ、クリムトの作品の中で非常に特別な位置を占めています。この作品は、正方形形式の最初の風景画であり、アッター湖Attersee周辺の地域で描かれた50を超えるクリムトの風景画のすべての構成の基本となるものです。興味深いことに、このモチーフは、カンマー城Schloss Kammer公園の池であると考えられてきました。 1990年代になって初めて、この池はゴリングのエーゲル湖であることが識別できました。

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グスタフ・クリムトGustav Klimtの1898年、36歳頃の作品、《ウィーンで最初の分離派展(リトグラフ)の際に、テセウスとミノタウロスを描いた、ウィーン分離派の雑誌「Ver Sacrum」の表紙 Ver Sacrum - Thesus und Minotaurus - 1 Kunstausstellung - Secession》です。
1898年3月から9月にかけて開催された『第1回ウィーン分離派展』のポスターです。モチーフはギリシャ神話で、当局の検閲前は上部に描かれたテセウスの下半身が露出していました。これは検閲後のもので、木立で隠しています。

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グスタフ・クリムトGustav Klimtの1900年、38歳頃の作品、《アッター湖 Am Attersee》です。
この風景画も正方形です。アッター湖AtterseeはザルツカンマーグートSalzkammergutにある湖で、クリムトの夏の別荘がありました。マーラーもしばしば訪れていました。saraiもそれに惹かれて以前、訪れました。クリムトが描いた通りのさざ波を見て、感銘を受けた記憶があります。この作品は、クリムトがターコイズの斑点で構成された水面を描写するために正方形を使用するという根本的な構成を用いています。 右上隅にあるリッツルベルク島Insel Litzlbergの暗い木のてっぺんだけが、地平線上に明確に定義されたポイントを形成しています。 1901年の分離派展で初めて作品を見た当時の批評家たちは熱狂的に支持しました。 そのコメントは「アッター湖の湖水で満たされたフレームは、互いにスライドする短い灰色と緑色の波だけで構成されています。」という内容でした。まさにその通りです。

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グスタフ・クリムトGustav Klimtの1915-16年、53-54歳頃の作品、《リッツルベルクケラー Litzlbergkeller》です。
クリムトは1900年から1916年にかけて定期的にアッター湖をエミリー・フレーゲEmilie Flögeとともに訪れて、数多くの風景画を描きました。リッツルベルガー・ケラーLitzlberger Kellerはそのときの定宿です。saraiも以前このホテルに泊まって、クリムトに思いを馳せました。
印象派のクロード・モネのように、クリムトはボートの上から絵を描き、スタジオに戻って仕事を終えました。 これは明らかに、前景の水に映るこの絵の視点を説明しています。 平和と静けさの中でクリムトが風景のほとんどを描くことができたアッター湖では、彼はモーターボートの最初の所有者でした。
クリムトは、キャンバスの表面全体に同じいくつかの色を使用しています。 家の窓には、黄色、緑、青色があります。 湖畔の茂みの花の中に、建物の白が見えます。 この色彩のエコーは、有機的な森と人工の建物の間のつながりに役立ちますが、水面の均一の反射は、画面のさまざまな要素をさらに統合しています。
なお、この絵は以前、サザビーズで高額で落札されたというニュースがありました。その高額落札された個人蔵の絵をこの美術館に寄託して展示しているようです。貴重な作品を見ることができました。

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グスタフ・クリムトGustav Klimtの1916年、54歳頃の作品、《シェーンブルン公園 Schönbrunn landscape》です。
クリムトの風景画のほとんどはアッター湖周辺で描かれました。シェーンブルン宮殿Schloss Schönbrunnの風景が描かれた本作は珍しいものです。もっともこの年あたりからアッター湖に出かけるのはおしまいになっています。クリムト晩年の風景画です。ここでも正方形のフレームは踏襲しています。

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クリムトの風景画を見てきました。クリムトはまだ続きます。



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レオポルド美術館:クリムト、ホドラー、ココシュカ

2019年9月29日日曜日@ウィーン/15回目

今日は旅の最終日。ウィーンの最終日でもあります。もう、今晩は飛行機で帰国の途につきます。しかし、その前に精一杯、ウィーンの1日を楽しみます。
最後のウィーンの街歩き中で、ウィーン美術史美術館Kunsthistorisches Museum Wienを鑑賞した後、レオポルド美術館Leopold Museumの名品を鑑賞しているところです。今はクリムトの作品を見ています。

グスタフ・クリムトGustav Klimt(1862年7月14日 - 1918年2月6日)の1910-15年、48-53歳頃の作品、《死と人生 Tod und Leben》です。クリムトの大作です。この美術館の目玉ですね。
クリムトによるこの後期作品は、大胆な構図を使用して人間の生涯のサイクルを主題にしています。紙に描かれた最初のスケッチは、1910年の油彩画に先立って、1908年に作成されました。1911年にローマで開催された国際美術展での最初の展示の折に、クリムトは金メダルを受け取りました。詳細にはわからない理由で、彼は1915年に絵を根本的に作り直すことにしました。クリムトは、色とりどりの装飾品や花に包まれた裸の人の体の流動するコントラストのある構成を通して、生と死の不協和音の絡み合いを実現しています。すなわち、右側に描かれた母と子、老婆と一組の恋人たち、そして、左側に描かれた暗い色調の死の孤独な姿がそれです。元々はおそらく金色だった背景が最終バージョンで灰色に変わり、青い装飾のマントを纏い、小さな赤い棍棒を握った死がダイナミックに描かれ、明るい色でデザインされた人間の人生は多くの人物と装飾品が凝縮されて描かれています。
この作品ではかつてのクリムトの装飾的な作品でお決りだった豪華な黄金の色彩が封印されて、2度とこの後、復活することはありませんでした。そして、クリムトは晩年に差し掛かります。もう、あの黄金の時代は終わりました。

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これはクリムトの中国趣味のアトリエの復元展示です。大変興味深いですね。

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復元アトリエのもととなった写真も展示されています。当たり前ですが、そっくりですね。なお、このアトリエはウィーンのヨーゼフシュテッター通り21番地Josefstädter Straße 21にあったそうです。ウィーン市庁舎のすぐ近くです。以前saraiが泊まったホテルの近くでsaraiもこのあたりはよく歩きましたが、まさか、クリムトのアトリエがあったところであったとは・・・。

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フェルディナント・ホドラーFerdinand Hodler(1853年3月14日 - 1918年5月19日)の1912年、59歳頃の作品、《ヴァランティーヌ・ゴデ=ダレルの肖像 Bildnis Valentine Godé-Darel》です。
50歳を過ぎて画家として認められたホドラーは、1909年、55歳のときに20歳も若い36才の美術教師ヴァランティーヌ・ゴデ=ダレルと情熱的な恋に落ち、彼女との間に一女をもうけますが、最愛のヴァランティーヌは癌により40歳で亡くなります。
晩年のホドラーはヴァランティーヌと自画像しか描かなくなり、病に伏していた1918年にジュネーブで死去します。65歳でした。ヴァランティーヌを失って、3年後のことです。ヴァランティーヌの肖像は100枚以上にのぼります。この作品はヴァランティーヌの死の3年前に描かれました。
ところで、これを書いていて気が付いたのですが、1918年は偉大な画家が次々と亡くなった年です。ホドラー、クリムト、シーレ・・・。スペイン風邪が大流行した年です。村山槐多は1919年に亡くなりますが彼もスペイン風邪の犠牲になりました。

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ヨーゼフ・ホフマンとコロマン・モーザーによって設立されたウィーン工房の作品です。現代の我々の視点からも実にモダンな意匠ですね。

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次はオスカー・ココシュカです。ココシュカについては特に記述しなくてもいいでしょう。クリムト、シーレと並び、近代オーストリアを代表する画家です。

オスカー・ココシュカOskar Kokoschka(1886年3月1日 - 1980年2月22日)の1913年、27歳頃の作品、《トレクロッチ峠-ドロミテの風景 Tre Croci – Dolomitenlandschaft》です。
ココシュカが1913年8月にイタリアの南チロルのアルプス、ドロミテに当時の恋人アルマ・マーラーと旅したときの作品です。この翌年には彼らは破局を迎え、感動的な傑作「風の花嫁」が生まれます。saraiがこの世でたった1枚の絵画を選べと言われたら、迷わずに選ぶのが「風の花嫁」です。この「風の花嫁」を見るために2度もわざわざバーゼルまで足を運びました。3度目はバーゼル美術館が改修中で見ることができずに残念な思いになりました。それを目的にバーゼルに足を運んだのにね。その「風の花嫁」の背景に描き込まれているのが、この「トレクロッチ峠-ドロミテの風景」の山岳風景です。
アルマ・マーラーは彼女の回想録の中で、彼らの旅は「仕事がすべて」だったと書いています。「朝、私たちは鬱蒼とした森に入り、最も暗い緑のスポットを探しました。 森の開けた場所に着いたとき、私たちは若い馬が遊んでいるのを見つけました。 それはココシュカを魅了しました。 スケッチブックと色鉛筆を持っていました。彼は一人でいることを嫌がりましたが、それでも一人だけ残り、独特の美しい絵を描いていました。」
まさにこのときに描かれたのがこの絵ですね。

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ココシュカの作品は続きます。



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レオポルド美術館:ココシュカ

2019年9月29日日曜日@ウィーン/16回目

今日は旅の最終日。ウィーンの最終日でもあります。もう、今晩は飛行機で帰国の途につきます。しかし、その前に精一杯、ウィーンの1日を楽しみます。
最後のウィーンの街歩き中で、ウィーン美術史美術館Kunsthistorisches Museum Wienを鑑賞した後、レオポルド美術館Leopold Museumの名品を鑑賞しているところです。今はココシュカの作品を見ています。

オスカー・ココシュカOskar Kokoschka(1886年3月1日 - 1980年2月22日)の1915年、29歳頃の作品、《運命の女神フォルトゥーナ Fortuna》です。
フォルトゥーナはローマ神話に登場する女神で、 運命の車輪を司り、人々の運命を決めると言われています。変わった題材を選びましたね。描かれた時期を考えると、ココシュカの脳裏にはアルマに翻弄される自分のことがあったのでしょうか。この作品は個人蔵で、2016年にsaraiは初めて見ました。その頃から展示されているのでしょうか。

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オスカー・ココシュカOskar Kokoschkaの1914年、28歳頃の作品、《アルマ・マーラーの壁画 Wandbild für Alma Mahler》です。
詳細は分かりませんが、珍しい作品です。横長の画面の中央にココシュカ自身、そして、彼は左側にいるアルマを追いすがっているようです。この年、彼らは破局を迎えました。個人蔵の作品で、saraiは初めて見ました。

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オスカー・ココシュカOskar Kokoschkaの1925年、39歳頃の作品、《開いた窓際の花 Blumen am offenen Fenster》です。
この頃、ココシュカはアルマへの恋慕の念、そして、第1次世界大戦で負った負傷も癒えて、平静な状態になったようです。明るい色彩の花は窓際に置かれ、窓からはビーチが見えています。淡い色彩はこれがココシュカかと思うようなものです。

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オスカー・ココシュカOskar Kokoschkaの1925年、39歳頃の作品、《アムステルダム、クローヴェニールスブァルフフル河岸 Amsterdam, Kloveniersburgwal I》です。
上の絵と同じ頃に描かれた作品です。アムステルダムの運河風景を高い視点から描いています。まるで印象派のような写実的な絵画で、お洒落と言ってもいい作品に仕上がっています。これが12年前に「風の花嫁」を描いた画家とは思えません。

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オスカー・ココシュカOskar Kokoschkaの1931年、45歳頃の作品、《ヴィルヘルミネンベルク城とウィーンの眺め Schloß Wilhelminenberg mit Blick auf Wien》です。
ヴィルヘルミネンベルク城は20世紀に初頭に建てられたかつての宮殿。ウィーンの西部、ガリッツィンベルクの東斜面に位置しています。現在は 4 つ星ホテル、レストラン、会議施設になっています。この作品では、ヴィルヘルミネンベルク城前の広場に集う人々と丘の下に広がるウィーンの街並みが構成されています。何とも豪勢な眺めではないでしょうか。この風景を確かめるためにsaraiも一度、このヴィルヘルミネンベルク城を訪れてみたくなりました。

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ココシュカの作品がいつの間にか充実しましたね。まだ、ココシュカが続きます。



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レオポルド美術館:ココシュカ、シェーンベルク、シーレ

2019年9月29日日曜日@ウィーン/17回目

今日は旅の最終日。ウィーンの最終日でもあります。もう、今晩は飛行機で帰国の途につきます。しかし、その前に精一杯、ウィーンの1日を楽しみます。
最後のウィーンの街歩き中で、ウィーン美術史美術館Kunsthistorisches Museum Wienを鑑賞した後、レオポルド美術館Leopold Museumの名品を鑑賞しているところです。今はココシュカの作品を見ています。

オスカー・ココシュカOskar Kokoschka(1886年3月1日 - 1980年2月22日)の1942年、56歳頃の作品、《併合、不思議の国のアリス Annexation-Alice in Wonderland》です。
タイトルの『併合』はナチスによるドイツ・オーストリア併合のことです。その併合を批判的に描いた絵画であると思われます。画面の右端にはヌードのアリス、左端の防毒マスクを着けた赤ん坊、真ん中の鉄兜を被った3人は見ざる、言わざる、聞かざるのポーズ。ココシュカらしい筆致で描き出した表現主義的な作品です。背景で燃えさかる建物は国会議事堂放火事件をあてこすっているのでしょうか。こんな作品を描いた以上、ナチスの支配下の国に留まるわけにはいきませんね。この時期はロンドンに逃れたようです。

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オスカー・ココシュカOskar Kokoschkaの1922年、36歳頃の作品、《イーゼルの前の画家 Selbstbildnis an der Staffelei》です。
アルマ人形を前にして抜け殻のような存在のココシュカ自身を描いた奇怪な作品です。アルマ人形は破局した恋人のアルマ・マーラーを忘れられずに、アルマがヴァルター・グロピウスと結婚したことへの失意から覚めやらぬ1918年の夏に、ココシュカが女性作家ヘルミーネ・モースに制作を依頼したものです。制作過程でココシュカが詳細な指示を与えており、事実上、共同制作作品と言えます。そのアルマと等身大の人形は化け物じみたもので、ココシュカは4年間もそのアルマ人形と生活をともにします。居間や寝室でも生活を共にしたり、衣服を着せて同伴して外出したりという奇行で世間の耳目を集めます。ココシュカは、この人形をモチーフとして3つの油彩画を制作しました。この作品はその最後のものです。画面の左に描かれたアルマ人形のグロテスクさは目を覆うべきもので、呆けたような表情のココシュカはもはや狂人の態です。ある意味、こんな絵を描けたココシュカは凄い画家とも思えます。一体、どんな心境だったのでしょう。このままでは廃人になることが必至だったと思われますが、この年、ココシュカは酔った勢いで自身でアルマ人形を破壊します。これでココシュカは立ち直ることになります。

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オスカー・ココシュカOskar Kokoschkaの1924年、38歳頃の作品、《アルノルト・シェーンベルク Arnold Schönberg》です。
オーストリアの作曲家アルノルト・シェーンベルクが指揮する姿を描いた作品です。シェーンベルクは美術界とも交際が深く、ゲルストルは名高い肖像画を描き、カンディンスキーの『印象Ⅲ(コンサート)』はシェーンベルクの音楽に触発されて描いた抽象画の金字塔です。シェーンベルクが確立した12音技法はいかにも抽象絵画と相性がよさそうです。

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アルノルト・シェーンベルクArnold Schönberg(1874年9月13日 - 1951年7月13日)の1906-1907年、32-33歳頃の作品、《庭園の情景 Gartenszene》です。
作曲家シェーンベルクは絵画も描いていました。二刀流ですね。ご覧の通り、本格的な絵画です。アーノルド・シェーンベルクの絵画は、その自発性と多様性が特徴であり、彼の音楽と同様にモダニズムの精神に満ちています。

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さて、そろそろ、大本命のエゴン・シーレのコレクションを見に行きましょう。気になる絵画もありますが、さっと見ながら先を急ぎます。

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エゴン・シーレEgon Schiele(1890年6月12日 - 1918年10月31日)の1910年、20歳頃の作品、《菊 Chrysanthemen》です。
何となく、シーレの「ひまわり」を連想してしまいます。あれはこの翌年の1911年に描かれます。何故か、シーレの描く花は枯れた花が多いですね。屈折した感性がその根幹にあるのでしょう。

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エゴン・シーレEgon Schieleの1912年、22歳頃の作品、《隠者たち Eremiten》です。
モデルはシーレ自身と師匠のクリムトだと言われています。着ている黒い衣装はクリムトが愛用していたカフタンです。二人は実に似通っており、まるで一人の人物が双頭のような形で描かれています。師匠のクリムトへの傾倒の意が込められているようです。しかし、若きシーレの表情は鋭く、師匠を乗り越えようとするかのごとき野心に満ちています。

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世界最大のシーレのコレクションが続きます。



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レオポルド美術館:シーレの自画像

2019年9月29日日曜日@ウィーン/18回目

今日は旅の最終日。ウィーンの最終日でもあります。もう、今晩は飛行機で帰国の途につきます。しかし、その前に精一杯、ウィーンの1日を楽しみます。
最後のウィーンの街歩き中で、ウィーン美術史美術館Kunsthistorisches Museum Wienを鑑賞した後、レオポルド美術館Leopold Museumの名品を鑑賞しているところです。今はこの美術館の華、エゴン・シーレのコレクションを見ています。

エゴン・シーレEgon Schiele(1890年6月12日 - 1918年10月31日)の1910年、20歳頃の作品、《口を開けた灰色のヌードの自画像 Selbstakt in Grau mit offenem Mund》です。
シーレの自画像はある意味、彼のすべてが詰まっています。表現主義的でありながら、一目でシーレの作品と分かるような自我の強い個性に満ちた絵画。その強い自我は自画像として表現されます。画家としてのキャリアを始めた頃、20歳頃の1910年から1911年にかけて集中的に自画像を描きます。28歳で閉じた生涯で170枚以上の自画像を描き上げています。灰色の単色で描いた自画像は何と矜持に満ちていることでしょう。

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エゴン・シーレEgon Schieleの1910年、20歳頃の作品、《座る男のヌード(自画像) Sitzender Männerakt (Selbstdarstellung)》です。
シーレの自画像は何と露出的でセクシュアルなんでしょう。ナルシストの筈のシーレですが、過剰とも思える表現意欲がここまでの露骨な絵画を描かせたのでしょうか。線と面の表現も異常な緊張感に満ちています。表現主義の究極とも思える作品です。

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エゴン・シーレEgon Schieleの1910年、20歳頃の作品、《跪くヌードの自画像 Kniender Selbstakt》です。
これもシーレの大胆な自画像です。彼の表現意欲はとどまるところを知りませんね。世間の共感を得ようとかいう甘ったるい気持ちは微塵もなさそうです。自己の芸術をめざして、我が道をひたすら進むという気概なんでしょう。

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エゴン・シーレEgon Schieleの1911年、21歳頃の作品、《自己観察者・Ⅱ(死と男) Die Selbstseher ll (Tod und Mann) 》です。
これも一種の自画像、それも特殊な自画像です。自己観察者・Ⅰでは2重自画像を描きましたが、この自己観察者・Ⅱでは背後に幽体離脱したかのような自己が死神となり、前方の生きている自己をからめとっています。シーレにとって、死と生は表裏一体のものであり、そのいずれからも逃れることもできず、また、いずれも愛すべき存在であるという意識を持っているようです。ある意味、自虐的な観念でもありますが、実に深い芸術表現の自画像を描き出すことに成功しています。若きシーレの芸術的深化は驚くべきものです。

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エゴン・シーレEgon Schieleの1911年、21歳頃の作品、《詩人 Der Lyriker 》です。
これは一転して、ナルシスト的な自画像です。自分を詩人に見立てて、笑ってしまうほどに自己陶酔しています。こういう自画像を恥ずかしげもなく描くところがシーレなんですね。

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エゴン・シーレEgon Schieleの1908年、18歳頃の作品、《ヌードの習作 Aktstudie》です。
ごく初期のヌードの自画像です。この頃から露骨な表現で奇妙な構図の自画像を描いています。シーレは根っからの表現主義の画家なんですね。

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エゴン・シーレEgon Schieleの1910年、20歳頃の作品、《ストライプのシャツを着た自画像 Selbstbildnis mit gestreiftem Hemd》です。
これは珍しく着衣の自画像です。この自画像では斜に構えた顔の表情で、いぶかしげな視線でこちらの世界を覗き込んでいます。まるで映画の世界のジェームス・ディーンみたいですね。自己の矜持と反抗心、傷つきやすい精神。若者の内面を見事に描き尽くした傑作です。

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ここまでがシーレの一連の自画像です。シーレのコレクションはまだまだ続きます。



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レオポルド美術館:シーレ

2019年9月29日日曜日@ウィーン/19回目

今日は旅の最終日。ウィーンの最終日でもあります。もう、今晩は飛行機で帰国の途につきます。しかし、その前に精一杯、ウィーンの1日を楽しみます。
最後のウィーンの街歩き中で、ウィーン美術史美術館Kunsthistorisches Museum Wienを鑑賞した後、レオポルド美術館Leopold Museumの名品を鑑賞しているところです。今はこの美術館の華、エゴン・シーレのコレクションを鑑賞しています。

エゴン・シーレEgon Schiele(1890年6月12日 - 1918年10月31日)の1911年、21歳頃の作品、《晩秋の小さな木 Kleiner Baum im Spätherbst》です。
シーレの風景画は人間を描いた作品の激情とは対極にあり、とても興味深いものです。この作品はジャポニズムの影響も感じられるし、抽象画的な側面も持っていて、この年齢での芸術的深化が感じられる一枚です。木の幹の曲がり方や枝の直線の張りめぐり方はとても自然の木の姿ではなく、心象風景そのものです。色彩の渋さはまさに水墨画を連想させますし、少ない枯れ葉や地面には金箔が使われているようです。クリムトが装飾画風の絵画で絢爛豪華に描いたものの影響をこういう形でシーレは彼の独自の表現で結実させています。恐るべき若者だったわけですね。saraiはふいに雪舟の水墨画を連想してしまいました。シーレは予測不可能な作品を生み出してきました。

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エゴン・シーレEgon Schieleの1916年(1914年?)、26歳頃の作品、《本のある静物画(シーレのデスク) Stilleben mit Büchern ( Schreibtisch des Künstlers)》です。
シーレの静物画。画面の要素が変わっていますね。机の上に一列に本が置かれています。馬の置物もあります。果物や花という定番のものはありません。本の持つ直線性が画面を支配し、画面は直線が横溢しています。どこか、抽象性も感じられる静物画になっています。見方によっては、この構図はシーレの描く町並みの絵を連想させます。

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エゴン・シーレEgon Schieleの1913年、23歳頃の作品、《ショールをまとった半裸の女性の後ろ姿(フラグメント) Rückenansicht eines weiblichen Halbaktes mit Tuch (Fragment)》です。
シーレにしては色んな意味で穏当な表現のセミヌードの作品です。後ろ姿のせいか、あるいはショールをまとっているせいか、性別があまり明確ではありません。極端に縦長のフレームもユニークです。色調はシーレらしい抑えたものになっています。女性の左右にも別の人物のごく一部が描かれています。もっと大きな画面を切り取ったものでしょうか。題名にフラグメント(断片)とあるのは大きな絵の一部という意味なのかな・・・。

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エゴン・シーレEgon Schieleの1910年、20歳頃の作品、《死する母Ⅰ Tote Mutter I》です。
死せる母とその胎内で運命を共にする胎児の悲惨な絵です。シーレは相当に自信作だったようで、本作を描いた翌年に自身の最高傑作だと述べたそうです。それにしても、この8年後の妻エーディトの運命を予告するような作品です。エーディトはもうすぐ生まれてくる子供がお腹にいるうちにスペイン風邪で命を落とします。シーレ自身もその三日後にスペイン風邪で後を追います。実に不吉な作品です。

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エゴン・シーレEgon Schieleの1912年、22歳頃の作品、《母と子 Mutter und Kind》です。
西欧絵画では、この画題は聖母子と関連付けられますが、これはちょっと違うような気もします。シーレの母マリーとシーレの幼子時代を回想したのでしょうか。母の平静な表情に対し、赤ん坊が目を見開き、何かにびっくりして、怯えているような表情は幼子シーレが来るべき未来や自分が直面していくことになる社会への疎外感を予感しているようにも思えます。

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シーレの膨大なコレクションはまだまだ続きます。



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レオポルド美術館:さらにシーレ

2019年9月29日日曜日@ウィーン/20回目

今日は旅の最終日。ウィーンの最終日でもあります。もう、今晩は飛行機で帰国の途につきます。しかし、その前に精一杯、ウィーンの1日を楽しみます。
最後のウィーンの街歩き中で、ウィーン美術史美術館Kunsthistorisches Museum Wienを鑑賞した後、レオポルド美術館Leopold Museumの名品を鑑賞しているところです。今はこの美術館の華、エゴン・シーレのコレクションをを鑑賞しています。

エゴン・シーレEgon Schiele(1890年6月12日 - 1918年10月31日)の1912年、22歳頃の作品、《ヴァリーの肖像 Bildnis Wally Neuzil》です。
ヴァリーはシーレの裸体モデルを務めていた少女ヴァリー・ノイツェルです。シーレに尽くした恋人でもありました。このハチミツ色の金髪と青い目をもつ17歳の少女とシーレは1911年、同棲を始めました。紆余曲折はありますが、二人の関係はシーレが妻に迎えることになるエーディトと出会うまで続きます。シーレがエーディトを妻にすることを告げると、ヴァリーはすぐに彼のもとを去ります。その後、2度と二人は会うことはありませんでした。4年間にわたる関係でした。

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エゴン・シーレEgon Schieleの1912年、22歳頃の作品、《ほおずきの実のある自画像 Selbstbildnis mit Lampionfrüchten》です。
上の「ヴァリーの肖像」と一対をなす作品です。シーレのヴァリーに対する愛情が感じられます。この自画像は彼の自画像の中でも素直に描かれた作品ですね。エゴン・シーレが22歳の時にウィーン分離派の展覧会に出品した数多くの作品の一つで、その年にミュンヘンでも展示されました。まあ、公序良俗に反するような作品ではありませんから、一般の展覧会にも出展しやすいでしょうね。

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エゴン・シーレEgon Schieleの1910年、20歳頃の作品、《ポルディ・ロジンスキーの肖像 Bildnis Poldi Lodzinsky》です。
1910年の夏、シーレは母の郷里のクルマウ(チェスキー・クルムロフ)を訪れていて、クルマウの御者(運転手)の娘であったポルディ・ロジンスキーと知り合いました。この年、ヨーゼフ・ホフマンは,ブリュッセルのストックレー邸Le palais Stocletを飾るステンドグラスのデザインをシーレに依頼しました。シーレはポルディの肖像を提出しましたが、結局、採用されませんでした。ステンドグラス用ですから、この肖像画はこんなにカラフルなんですね。なお、ストックレー邸は現在、一般公開されていませんが、世界遺産に登録されています。内装はクリムトとクノップフがてがけています。若いシーレの出る幕はありませんでしたね。

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エゴン・シーレEgon Schieleの1912年、22歳頃の作品、《喪服姿の女 Trauernde Frau》です。
モデルはヴァリーです。喪服姿のヴァリーは美しく輝きます。シーレにとって、やはり、ヴァリーはミューズとも言える存在でした。シーレと別れた後、ヴァリーは従軍看護師になります。そして、1917年、陸軍病院で煌紅熱で倒れ、23年の短い生涯を終えました。シーレが亡くなる前の年です。

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エゴン・シーレEgon Schieleの1912年、22歳頃の作品、《ゴルゴタの丘 Kalvarienberg》です。
宗教的なテーマの作品は珍しいです。十字架に架けられたキリストが灰色でさりげなく描かれて、まるで風景画のように見えます。十字架に並ぶ枯れ木が等間隔に描かれて、絵画にリズム感が生まれています。異形の宗教画です。ところでこの作品はクリムトゆずりの正方形の風景画サイズになっています。

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シーレのコレクションは次々と傑作が登場します。saraiは最晩年のシーレの作品が好きですが、この頃のシーレも尖がっていて素晴らしいです。



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レオポルド美術館:シーレ渾身の作品群

2019年9月29日日曜日@ウィーン/21回目

今日は旅の最終日。ウィーンの最終日でもあります。もう、今晩は飛行機で帰国の途につきます。しかし、その前に精一杯、ウィーンの1日を楽しみます。
最後のウィーンの街歩き中で、ウィーン美術史美術館Kunsthistorisches Museum Wienを鑑賞した後、レオポルド美術館Leopold Museumの名品を鑑賞しているところです。今はこの美術館の華、エゴン・シーレのコレクションを鑑賞しています。

エゴン・シーレEgon Schiele(1890年6月12日 - 1918年10月31日)の1911年、21歳頃の作品、《カラスのいる風景 Rabenlandschaft》です。
クルマウにあるガーデンハウスをシーレの心象風景にしたもののようです。ゴッホの名作、《カラスの群れ飛ぶ麦畑》を想起させますが、それぞれ、別の個性を持ちつつ、同時に不気味さを湛えた共通性も感じます。クルマウKrumauというのはチェスキー・クルムロフČeský Krumlov (チェコ語)のドイツ語での表記です。シーレの母親の出身地です。

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エゴン・シーレEgon Schieleの1911年、21歳頃の作品、《啓示 Offenbarung》です。
画家本人によると、実に難解な説明がされています。生ある存在の啓示、それも偉大な人格の持ち主が燃え尽きて、肉体自体が持つ光を使い果たしています。それは右手前に描かれた生気のない男のことのようです。よく見るとその前に後ろ向きのの男が屈んでまるで拝んでいるように見えます。彼は生気のない偉大な人物に感化されて、催眠術にかけられたように偉大な人物の中に融けて流れていくように見えます。問題は背後にいる左側の人物ですが、これは右側の生気のない偉大な人物に似た存在でありながら、異なった風で、偉大な人物から幽体離脱した死神のような存在に思えます。生と死で一体の存在が分離して描かれているようです。その生死一体の偉大な存在に手前の跪く小さな男が融け入る瞬間を描いたということのようです。これがシーレのある意味、宗教観、実存論、等々を絵画芸術で表現した哲学的な美術なのでしょう。神秘芸術と理解すべきなおでしょうか。この作品は1912年1月にブダペストでの新芸術集団の展覧会に出展されました。

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エゴン・シーレEgon Schieleの1912年、22歳頃の作品、《枢機卿と尼僧 Kardinal und Nonne》です。
スキャンダラスな内容ですね。しかし、それよりも注目すべきは、このシーレの絵画《枢機卿と尼僧》は、その5年前に制作されたグスタフ・クリムトの代表作《接吻Der Kuss (Liebespaar)》を引用して、描き変えたものであることです。二人の男女の形の構図はほぼ踏襲されていますが、クリムトの絵画の絢爛豪華な色彩表現は、暗い色調に変えられています。黄金の背景は漆黒に変更され、熱い抱擁は2つの手だけのものになっています。《接吻》でとりわけ心に残る印象的な女性の官能的な表情は、尼僧の怯えたような表情に置き換わっています。すなわち、《接吻》で描かれた男女のセクシュアルな愛情の恍惚感は、ここでは同じような構図でありながら、枢機卿と尼僧の隠避な男女関係に塗り替わっています。天国的な夢のような愛が現実世界の愛に醒めてしまったかのようです。ロマンティシズム絵画が表現主義絵画に変容したとも言えます。師匠のクリムトはこれを見て、どう思ったのでしょうか。2枚を並べて展示すると面白いですが、《接吻》は同じウィーンでもベルヴェデーレ宮殿のオーストリア・ギャラリーに展示されています。普通は並べて展示することはありません。でも、当ブログでは並べてみましょう。どう思いますか?

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エゴン・シーレEgon Schieleの1913年、23歳頃の作品、《沈む太陽 Versinkende Sonne》です。
シーレの風景画はとても美しいですね。師匠のクリムト譲りの正方形の画面で描いています。ジャポニズムの影響を思わせる大胆な画面構成です。手前では太陽の光を失った暗い空間に二本の木が画面を縦に切り取っています。画面は3分割されたような効果を生んでいます。遠景は夕日に赤く染まった2つの島が遠近法を無視して大きく左右に描かれてます。海と空も薄紅色に染まって、美しく輝いています。シーレのこだわった生と死がここでも、手前の光を失った暗い空間と夕日で明るく染まる海、空、島で表現されています。描かれたのはトリエステ付近のようです。傑作ですね。

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シーレ渾身の絵画が並んで壮観です。まだまだ、シーレは続きます。





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レオポルド美術館:シーレの風景画

2019年9月29日日曜日@ウィーン/22回目

今日は旅の最終日。ウィーンの最終日でもあります。もう、今晩は飛行機で帰国の途につきます。しかし、その前に精一杯、ウィーンの1日を楽しみます。
最後のウィーンの街歩き中で、ウィーン美術史美術館Kunsthistorisches Museum Wienを鑑賞した後、レオポルド美術館Leopold Museumの名品を鑑賞しているところです。今はこの美術館の華、エゴン・シーレのコレクションを鑑賞しています。

エゴン・シーレEgon Schiele(1890年6月12日 - 1918年10月31日)の1910年、20歳頃の作品、《川沿いの山 Berg am Fluss》です。
川のそばに黒々とした存在感のある山がどっしりと腰を据えています。単なる自然を描いたものではなく、シーレの心の中に黒い塊があるかのようです。

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エゴン・シーレEgon Schieleの1911年、21歳頃の作品、《夜のクルマウ(死せる街Ⅱ) Krumau bei Nacht (Tote Stadt II)》です。
母の郷里、クルマウを訪れたシーレは、「死せる街」という主題をタイトルに含む6枚の絵を描きます。この作品はそのシリーズの1枚です。クルマウの街の重苦しい雰囲気を夜の闇とともに描き出しています。シーレにとって、街は生きている人の魂を感じるもので、風景画でありながら、人を描く作品にもなっています。

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エゴン・シーレEgon Schieleの1911年、21歳頃の作品、《死せる街Ⅲ(青い流れに面した街Ⅲ) Tote Stadt III (Stadt am blauen Fluss III)》です。
「死せる街」シリーズの中で一番名高い作品です。クルマウの街の暗い屋根の家々が深い青色の川に囲まれています。人の気配の感じられない死せる街の雰囲気に沈んでいます。何とも不気味です。

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エゴン・シーレEgon Schieleの1914年、24歳頃の作品、《海沿いの家(家並み) Die Häuser am Meer (Häuserreihe)》です。
この作品はその絵の価値もさるものながら、実は来歴がナチスがユダヤ人の資産家から略奪して、売却した末にレオポルド美術館が買収したことで長年、係争していたそうです。この絵の価格が現在、数十億円とのことで、結局、レオポルド美術館が元のユダヤ人の持ち主に60%の補償金を支払うことで決着の方向だそうです。同様に《ヴァリーの肖像》もナチスの略奪美術品として、アメリカ政府に押収されて、12年の交渉の後、レオポルド美術館に返還されたそうです。1933年から45年の間にナチスが個人や美術館から略奪した美術品は60万点。そのうち10万点が今も行方不明とされているそうです。多くはスイスで売買され、今もその行方が捜索されています。いまだに80年ほど前の戦争の影が素晴らしい美術品の上にあるとは、驚きです。それにしても生前はあまり評価されていなかったシーレの絵画作品の価値が軒並み、数十億円とは言葉を失います。絵の価値はお金では測れないのにね。
ともあれ、シーレの風景画、とりわけ、町並みを描いた作品は具象画でありながら、その幾何学的な構成が抽象画に通じるところがあり、何とも魅力的です。

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エゴン・シーレEgon Schieleの1913年、23歳頃の作品、《小さな街Ⅲ Kleine Stadt III》です。
この作品は《小さな街》シリーズの一枚です。クルマウと街を流れるモルダウ川が描かれています。「死せる街」よりは写実的で、現在のチェスキー・クルムロフを彷彿とさせる風景が描かれています。描かれた場所も特定できそうです。
チェスキー・クルムロフにあるエゴン・シーレ・センターには悲しいことにシーレがチェスキー・クルムロフの街を描いた絵は本物は1枚もないのですが、その代わりによくできた複製が、その絵が描かれた場所の写真とともに展示されています。残念ながら館内は写真撮影が禁止でその展示を思い出すことはできません。

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シーレの膨大なコレクションもかなり見てきましたが、まだまだ、あります。



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レオポルド美術館:シーレの描くクルマウ(チェスキー・クルムロフ)・・・粒よりの傑作群

2019年9月29日日曜日@ウィーン/23回目

今日は旅の最終日。ウィーンの最終日でもあります。もう、今晩は飛行機で帰国の途につきます。しかし、その前に精一杯、ウィーンの1日を楽しみます。
最後のウィーンの街歩き中で、ウィーン美術史美術館Kunsthistorisches Museum Wienを鑑賞した後、レオポルド美術館Leopold Museumの名品を鑑賞しているところです。今はこの美術館の華、エゴン・シーレのコレクションを鑑賞しています。

エゴン・シーレEgon Schiele(1890年6月12日 - 1918年10月31日)の1914年、24歳頃の作品、《モルダウ川に面したクルマウ(小さい街Ⅳ) Krumau an der Moldau (Die kleine Stadt IV)》です。
この作品は《小さな街》シリーズの一枚です。クルマウと街を流れるモルダウ川(ヴルタヴァ川)が描かれています。《小さな街Ⅲ Kleine Stadt III》とほぼ同じような絵ですね。それにしても、シーレのクルマウの街を描いた風景画はすべて素晴らしいです。これからもその評価は上り続けることでしょう。

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エゴン・シーレEgon Schieleの1915年、25歳頃の作品、《弓形の家々 Der Häuserbogen II (Inselstadt)》です。
この作品もクルマウを描いたものの一枚です。その中でも完成度が高く見事な作品です。弧を描くモルダウ川に沿って、弓形に並ぶ家々という構成の素晴らしさが印象的です。クルマウの街を描いた作品の中でsaraiが一番好きなものです。

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エゴン・シーレEgon Schieleの1915年、25歳頃の作品、《板葺屋根の家(古い家Ⅱ) Haus mit Schindeldach (Altes Haus II)》です。
この作品もクルマウを描いたものの一枚ですが、家に焦点を当てて描いています。《古い家》シリーズの一枚です。チェスキー・クルムロフには今でも、こういう古い家が存在し、まるでシーレの描いた家のテーマパークのようです。シーレは古い家を何と魅力に満ちて描いているのでしょう。

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saraiが実際に見たチェスキー・クルムロフの板葺屋根の家はこんな感じです。

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エゴン・シーレEgon Schieleの1915年、25歳頃の作品、《川沿いの家の壁 Hauswand am Fluss》です。
この作品もクルマウを描いたものの一枚です。モルダウ川沿いに建つ家の壁を描いたものですが、注目すべきは画面中央に描かれた洗濯物です。ここではクルマウは不気味に暗く沈みこんだ無人の街ではなく、人の営みを暖かく描き込んでいます。とりわけ、オレンジ色の洗濯物が画面にアクセントを与えています。実は別のクルマウの絵でもシーレはオレンジ色を結構使っています。20歳の頃はクルマウを暗く描いて、「死せる街」を主題にしていましたが、24歳頃からは色彩に暖かみが加わっています。そして、画風が尖ったものから晩年に向けて、優しく暖かみのあるものに変貌していきます。人によってはシーレの先鋭性が失われたと否定的にとっているようですが、saraiは早逝したシーレが熟成したのだと思って、何か救われたような気持ちになるんです。saraiが最も愛するシーレの絵は最晩年の27歳から28歳の頃のものです。この後にご紹介していくことになります。

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エゴン・シーレEgon Schieleの1911年、21歳頃の作品、《クルマウの市庁舎Ⅱ Das Krumauer Rathaus II》です。
この作品もクルマウを描いたものの一枚です。市庁舎の壁はえらく薄汚れた雰囲気です。もしかしたら、壁絵が描かれていたのでしょうか。現在の市庁舎は形は同じですが、壁は白っぽくて綺麗です。

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チェスキー・クルムロフの街の中心の広場のスヴォルノスティ広場náměstí Svornostiにある市庁舎です。写真の左端の建物(半分以上、写真からはみ出ています。まさか、シーレがこの建物を描いていることに気が付きませんでした。)が市庁舎です。夕方遅くでひどく寒かったことを覚えています(フランクフルトからウィーンのフライトでロストバゲッジになって、暖かい衣類がない状態だったんです。暖かいマルタ島での装いのままでした。)。

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シーレのコレクションもだんだん残り少なくなってきましたが、もう少し、シーレの作品は続きます。



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レオポルド美術館:シーレ最晩年の傑作

2019年9月29日日曜日@ウィーン/24回目

今日は旅の最終日。ウィーンの最終日でもあります。もう、今晩は飛行機で帰国の途につきます。しかし、その前に精一杯、ウィーンの1日を楽しみます。
最後のウィーンの街歩き中で、ウィーン美術史美術館Kunsthistorisches Museum Wienを鑑賞した後、レオポルド美術館Leopold Museumの名品を鑑賞しているところです。今はこの美術館の華、エゴン・シーレのコレクションを鑑賞しています。

エゴン・シーレEgon Schiele(1890年6月12日 - 1918年10月31日)の1915年、25歳頃の作品、《二人の子供と母親Ⅱ Mutter mit zwei Kindern II》です。
母親とその子供を描いた作品ですが、中央に描かれた母親は灰色の顔で死にゆく者、そして、二人の子供は生の象徴。ここでもシーレは死と生を主題においています。左側の子供は目を閉じて眠っていて受動的な存在、右側の子供は目をぱっちり開けて能動的な存在として描かれています。3者3様の描かれ方でこの絵は構成されています。シーレは難しい家族問題を抱えていて、母親に対しては屈折した感情を持ち、これまでも絵の中で母親は死せる存在として描かれていましたが、ここでは家族関係も改善したこともあって、生きた存在になっています。子供はシーレの甥、すなわち、妹ゲルティが前年に産んだ子供を念頭に置いたものです。

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エゴン・シーレEgon Schieleの1918年、28歳頃の作品、《3人の裸の女(未完) Drei stehende frauen (Fragment)》です。
1918年、シーレ28歳の最晩年の作品です。1915年以降、ほとんど、絵画が描かれなくなります。それはシーレがエーディトとの結婚の3日後、勃発していた第一次世界大戦のためにオーストリア=ハンガリー帝国軍に召集されたことで、絵画制作活動が休止に追い込まれたことによります。しかし、従軍後、芸術家としてのシーレの経歴が考慮されて、シーレは前線に出ることはなく、この従軍期間はさらなる芸術的飛躍のための準備期間となります。1917年にウィーンに転属となると、シーレは事実上、制作活動を再開します。そして、1918年、シーレの最晩年になります。
この作品では、モデル(中央)は妻のエーディトですね。最晩年はこういう茶系統の色彩でまとめられた暖かみのある作品が多く描かれます。妻エーディトがほとんどモデルを務めています。家族の愛情に満ちた作品に心が和みます。

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エゴン・シーレEgon Schieleの1915年、25歳頃の作品、《空中浮揚(盲目Ⅱ) Entschwebung (Die Blinden II) 》です。
この時期(1913年~1915年)、シーレにとって、《盲目》は主要な絵の主題でした。彼が社会との断絶を象徴する概念が《盲目》でした。彼は常に社会に受け入れられない存在、そして、社会に溶け込めないことに苦しんできました。多くの自画像を盲目の男として描きます。この作品では空中浮揚の奇跡が描かれていますが、オカルトや神秘主義のひとつとみなされるものです。これも《盲目》のなせる業として、描いたのでしょうか。不可思議な絵ではありますが、シーレの描くタッチや色彩は素晴らしいものです。

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エゴン・シーレEgon Schieleの1917年、27歳頃の作品、《少女 Mädchen》です。
ヌードの少女ですが、もはや、もっと若い頃の衝撃的なエロスは描かれずに、実に素直で“まっとうな”で綺麗な作品です。モデルへの愛情さえも感じます。女性ではなく、人間を描いたと感じます。モデルは妻のエーディットによく似ていますね。

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エゴン・シーレEgon Schieleの1918年、28歳頃の作品、《うずくまる2人の女(未完) Hockendes Frauenpaar (Unvollendet)》です。
モデルはダブルで愛妻のエーディトですね。最晩年の作品はどれをとっても傑作揃いです。このうずくまるポーズはシーレが好んで描いたものです。最高傑作《家族》もシーレ自身と妻エーディットをこのポーズで描いています。

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シーレの作品も最晩年に達し、残り少なくなってきました。このあたりの作品はどれをとっても傑作揃いです。シーレの作品はもう少しだけ続きます。



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レオポルド美術館:晩年のシーレ

2019年9月29日日曜日@ウィーン/25回目

今日は旅の最終日。ウィーンの最終日でもあります。もう、今晩は飛行機で帰国の途につきます。しかし、その前に精一杯、ウィーンの1日を楽しみます。
最後のウィーンの街歩き中で、ウィーン美術史美術館Kunsthistorisches Museum Wienを鑑賞した後、レオポルド美術館Leopold Museumの名品を鑑賞しているところです。今はこの美術館の華、エゴン・シーレのコレクションを鑑賞しています。

エゴン・シーレEgon Schiele(1890年6月12日 - 1918年10月31日)の1917年、27歳頃の作品、《横たわる女 Liegende Frau》です。
もっと若い頃の挑戦的なシーレの絵画を想起させる作品です。エロスに満ちて、野性的なシーレの復活です。当初は相変わらず性器を露出した作品だったようですが、1918年の分離派展に出展するために部分的に手直ししたようです。シーレも大人になり、そういうシーレをウィーンは受け入れたのですが、彼に残された時間はほとんどありませんでした。それでもシーレは自分の芸術が世界に認められるという確信はありました。この作品の力強さ、そして、女の顔の矜持に満ちた表情はどうでしょう。ちょっと印象は異なりますが、これもモデルは妻エーディトでしょう。シーレは軍務の合間に描いたようです。

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エゴン・シーレEgon Schieleの1916年、26歳頃の作品、《裸の女が横たわっている “横たわる女”への習作 Liegende Entblößte Studie zu “liegende Frau”》です。
シーレは師匠のクリムトと同様に多くの女性のモデルを使って、習作を重ねて、絵の完成度を高めるようになっていきます。これもそういう習作の一枚で上の作品、《横たわる女 Liegende Frau》の習作です。下半身のポーズは同じですが、上半身はかなり違っています。シーレは技法的にも大きく前進し、才能だけではなく、周到な準備を重ねた絵画作成を行うようになっています。そういう過程で最晩年の傑作群が生み出されました。

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エゴン・シーレEgon Schieleの1916年、26歳頃の作品、《右足を上げた女性のセミ・ヌード Frauenhalbakt, rechtes Bein angezogen》です。
これも習作の一枚ですね。モデルは妻のエーディトだと思われます。同様のポーズの肖像画があります。

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エゴン・シーレEgon Schieleの1918年、28歳頃の作品、《男と女Ⅱ(恋人たちⅢ)(未完) Mann und Frau II (Liebespaar III) (Unvollendet)》です。
これは最晩年の一連のシーレ自身と妻エーディトを描いた作品のひとつだと思いましたが、どうやら、事情は込み入っていたようです。エーディトは妊娠のためにモデルとしてはふっくらし過ぎていて、本人もモデルを務めるのに消極的だったようです。この頃のシーレはプロのモデルを雇う余裕もあったようで、この作品のモデルはエーディトではなく、プロのモデルでした。しかもこの作品の下部は変に塗りつぶされています。ここには3番目の人物が当初描かれており、塗りつぶされた上で未完となりました。師匠のクリムトのように複数の裸の女性を描いた作品を目指していたようです。結果的に妻エーディトの妊娠と我が子の誕生を前に妻と家族の絵が残されることになりました。それはシーレが一人の男から、父親の自覚を持つに至り、心境の変化があったかに思われます。実際のモデルはエーディトではなかったにせよ、この画面に描き出されたのはシーレと妻エーディトになったとsaraiは信じています。社会や家族からの閉塞感を感じていたシーレもその死を前にして、深い家族愛に目覚め、究極の名作群を残してとsaraiは思いたい・・・。

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これでシーレの絵画は完了。
第1次世界大戦のころに流行したスペイン風邪でシーレの子供を身籠った妻エーディトが1918年10月28日に死去。シーレも同じ病に倒れ、3日後の10月31日にエーディトの後を追うように亡くなりました。saraiがウィーンのベルヴェデーレ宮殿とレオポルド美術館でまとめてシーレの作品群と対峙したのは、没後100年の翌年の2019年9月のことでした。合掌!
そう言えば、クリムトも同じ1918年に亡くなりましたから、同じく、没後100年の翌年に両美術館で名作群を鑑賞しました。同じく、合掌!

もう少し、シーレ関連の展示は続きます。



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レオポルド美術館:カフェで一休み、そして、ゴッホ

2019年9月29日日曜日@ウィーン/26回目

今日は旅の最終日。ウィーンの最終日でもあります。もう、今晩は飛行機で帰国の途につきます。しかし、その前に精一杯、ウィーンの1日を楽しみます。
最後のウィーンの街歩き中で、ウィーン美術史美術館Kunsthistorisches Museum Wienを鑑賞した後、レオポルド美術館Leopold Museumの名品を鑑賞しているところです。今はこの美術館の華、エゴン・シーレのコレクションを鑑賞しています。

エゴン・シーレEgon Schiele(1890年6月12日 - 1918年10月31日)の1918年、28歳頃の作品、《第49回ウィーン分離派展のポスター Plakat für die 49. Ausstellung der Secession》です。
1918年2月に師匠のグスタフ・クリムトが亡くなり、既に企画されていた第49回ウィーン分離派展をシーレが実質的に引き継ぐ形になりました。これはその第49回ウィーン分離派展のポスターです。その展覧会でシーレは50枚もの新作を出展し、一躍、ウィーンの画壇の主役に躍り出ます。しかし、ヨーロッパで猛威をふるっていたスペイン風邪がシーレ夫妻を直撃し、シーレは28歳でその短い生涯を終えます。このポスターでは、シーレの友人たちがテーブルを囲んでいます。空いた席は亡くなった師匠クリムトのための席だそうです。すぐにシーレの席も空いてしまうとは・・・。リトグラフのポスターなので、色んな美術館に所蔵されています。

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《愛犬ロードとエーディト・シーレ、ウィーン16区のアトリエで》です。
シーレの妻エーディトの写真です。足元には愛犬ロード、背後には、左に《横たわる女 Liegende Frau》の一部、真後ろに《少女 Mädchen》が見えています。エーディトはあたかも王侯貴族のような雰囲気でポーズをとっています。

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ひととおり、シーレのコレクションを鑑賞したところで、休憩することにします。美術館に併設するカフェ・レオポルドCAFÉ LEOPOLDでお茶します。驚くほど多くの種類のメニューがあります。何とカルピス・ソーダなんてものがあります。saraiはこれを注文。小さな牛乳瓶のようなもので出てきます。うん、たしかにカルピスソーダ。海外で初体験のカルピスです。

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配偶者はアイスコーヒー(メランジェ)。何故か配偶者は海外ではアイスコーヒーを好みます。

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このカフェは変わっていて、何故か、日本のものがあります。玄米茶とか、清酒の大関とか、朝日ビール、味噌汁、鶏の唐揚げ、餃子、焼売・・・。日本人のお客が多いのか、それとも日本食ブーム?

窓からは前庭が見下ろせます。のどかだな。

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喉の渇きも潤せて、再び、レオポルド美術館の絵画鑑賞を再開します。

フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホVincent Willem van Gogh(1853年3月30日 - 1890年7月29日)の1887年、34歳頃の作品、《自画像 Selbstportrait》です。
ゴッホは3年半という短い間に37点もの自画像を描きました。ほぼ1ヵ月に1枚のペースですね。この自画像はパリ時代後半に描いたもののようです。この時代に17枚もの自画像を量産しています。気難しそうな顔をしていますが、大都会のパリに馴染めなかったのでしょうか。翌年の1888年に南フランスのアルルに移り住みます。

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次はリヒャルト・ゲルストルの作品群を見ていきます。まだ、シーレの作品も数点あります。



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レオポルド美術館:ゲルストル、シーレ

2019年9月29日日曜日@ウィーン/27回目

今日は旅の最終日。ウィーンの最終日でもあります。もう、今晩は飛行機で帰国の途につきます。しかし、その前に精一杯、ウィーンの1日を楽しみます。
最後のウィーンの街歩き中で、ウィーン美術史美術館Kunsthistorisches Museum Wienを鑑賞した後、レオポルド美術館Leopold Museumの名品を鑑賞しているところです。ゴッホの自画像を見た後、次はリヒャルト・ゲルストルのコレクションを鑑賞します。

リヒャルト・ゲルストルRichard Gerstl(1883年9月14日 - 1908年11月4日)の1906-07年、23-24歳頃の作品、《スマラグダ・ベルク Smaragda Berg》です。リヒャルト・ゲルストルは19世紀末から20世紀始めのごく短い期間に象徴主義の画家としての人生を燃焼させました。作曲家シェーンベルクの妻マティルデと深い仲になり、作曲家シェーンベルクは苦悩し、画家ゲルストルは若干25歳で首吊り自殺してしまいました。
この作品で描かれたスマラグダ・ベルクは作曲家アルバン・ベルクの妹です。

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エゴン・シーレEgon Schiele(1890年6月12日 - 1918年10月31日)の1912年、22歳頃の作品、《むき出しの肩を高くあげた自画像 Selbstbildnis mit hochgezogener》です。
多くの自画像はシーレの自己表現そのものです。この作品では、大きく見開いた目が印象的です。常に社会との軋轢を抱えたシーレの独特の表情です。肩を高く上げたポーズを挑戦的な態度を思わせます。技法的には、筆を使うほかに、指先を使って描いています。

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リヒャルト・ゲルストルRichard Gerstlの1904-05年、21-22歳頃の作品、《半裸の自画像 Selbstbildnis als Halbakt》です。
独特な画風を貫いたゲルストルの作品の中で、最も有名な作品のひとつです。

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エゴン・シーレEgon Schieleの1911年、21歳頃の作品、《丘陵風景の中の家と壁 Mauer und Haus vor hügeligem Gelände mit Zaun》です。
何とも暗い風景画ですね。シーレの内面を描いたような鬱屈した作品です。結局、シーレにとって、自画像も女性のヌードも風景画もすべて、自己の内面の心象風景なんですね。

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リヒャルト・ゲルストルRichard Gerstlの1908年、24歳頃の作品、《アトリエのマティルデ・シェーンベルクの肖像 Selbstbildnis als Halbakt》です。
ゲルストルが自殺した年の作品です。作曲家シェーンベルクの妻マティルデは問題のゲルストルの愛人ですね。二人はこの夏駆け落ちします。画家はどんな気持ちでこの絵を描いたんでしょうか・・・。結局はマティルデは夫のもとに戻り、ゲルストルは失意のうちに自殺します。
ちなみにマティルデ・シェーンベルクの旧姓はツェムリンスキーです。そうです。彼女はあの作曲家アレクサンダー・ツェムリンスキーの妹なんです。音楽好きで知られたゲルストルの周りにはウィーンの高名な作曲家の友人が多かったんです。

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この後、ムンクの作品、そして、また、ゲルストルの作品が続きます。



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レオポルド美術館:ムンク

2019年9月29日日曜日@ウィーン/28回目

今日は旅の最終日。ウィーンの最終日でもあります。もう、今晩は飛行機で帰国の途につきます。しかし、その前に精一杯、ウィーンの1日を楽しみます。
最後のウィーンの街歩き中で、ウィーン美術史美術館Kunsthistorisches Museum Wienを鑑賞した後、レオポルド美術館Leopold Museumの名品を鑑賞しているところです。リヒャルト・ゲルストルのコレクションを鑑賞したところです。次はムンクです。

エドヴァルド・ムンクEdvard Munch(1863年12月12日 - 1944年1月23日)の1895-1902年、32-39歳頃の作品、《吸血鬼Ⅱ Vampyr II》です。
ムンクは《叫び》で知られるノルウェーの画家ですが、隠れた人気を持つのがこの吸血鬼です。このテーマはシリーズとして、吸血鬼シリーズになっています。ムンク自身は吸血鬼を描いたのではなく、男女の愛を描いたと語っており、タイトルも『愛と痛み』です。女性は男性の首にキスをしているのであり、嚙みついているのではないとのことですが、どう見ても吸血鬼に見えますね。評論家は吸血鬼ではなく、ファム・ファタール(運命の女)を描いたと評しています。

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エドヴァルド・ムンクEdvard Munchの1895年、32歳頃の作品、《接吻 Der Kuss》です。
この作品は、「叫び」を初めとする1890年代に制作された一連の作品群「生命のフリーズ」の中のひとつです。愛と死をテーマとする作品群はムンクの芸術上の頂点を形成するものでした。この作品はエッチングですが、油彩で制作された着衣のものもあります。愛を通して、女性への恐怖も描かれていると言われています。これも世紀末芸術のひとつと言えるでしょう。

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エドヴァルド・ムンクEdvard Munchの1896年、33歳頃の作品、《別離 Loslösung》です。
この作品は、《接吻》に始まって、《別離》に終わる男女の恋愛関係の一連のストーリーの最後の部分を描いたものです。悲しみにくれる男性の前には深紅色の植物マンドレイクが立ちはだかります。植物マンドレイクは幻覚作用を催し、根の形が人の姿に似ていることから、魔術の儀式で用いられるものです。女性はまったく別の方向を向き、男性と共有するものは何もありません。この作品はリトグラフですが、同じテーマの油彩で描かれた素晴らしく美しい作品もあります。

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ムンクはこの3枚です。残るはゲルストルの作品だけになりました。



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レオポルド美術館:ゲルストル

2019年9月29日日曜日@ウィーン/29回目

今日は旅の最終日。ウィーンの最終日でもあります。もう、今晩は飛行機で帰国の途につきます。しかし、その前に精一杯、ウィーンの1日を楽しみます。
最後のウィーンの街歩き中で、ウィーン美術史美術館Kunsthistorisches Museum Wienを鑑賞した後、レオポルド美術館Leopold Museumの名品を鑑賞しているところです。ムンクのコレクションを鑑賞したところです。最後は再びゲルストルです。

リヒャルト・ゲルストルRichard Gerstl(1883年9月14日 - 1908年11月4日)の1908年、24歳頃の作品、《庭のマティルデ・シェーンベルク Mathilde Schönberg im Garten》です。
ゲルストルが自殺した年の作品です。ゲルストルは大の音楽好きで作曲家シェーンベルクとも親しくなり、彼の肖像画も描いています。そのシェーンベルクの紹介で彼の妻マティルデの肖像画を何枚も描いています。その中でゲルストルとマティルデは不倫関係になります。この年の夏、ゲルストルはシェーンベルク夫妻とトラウン湖で過ごします。その時に不倫が発覚し、ゲルストルとマティルデは駆け落ちします。しかし、アントン・ウェーベルンの説得でマティルデは夫の元に戻ります。ゲルストルはその失意のうち、芸術上の行き詰まりもあり、若干25歳で自殺します。この時代、ウィーンには、クリムト、シーレ、ココシュカという天才芸術家がいて、才能のあったゲルストルも行き詰まりを感じざるを得なかったわけです。この作品を見ると、ゲルストルも芸術上の発展の余地はあったと思うのですが・・・。自殺の際に多くの作品を焼いてしまったそうで、現存する作品は66点の油彩画と8点の素描だけだそうです。

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リヒャルト・ゲルストルRichard Gerstlの1908年、24歳頃の作品、《半身像のマティルデ・シェーンベルクの肖像 Bildnis Mathilde Schönberg als Halbfigur》です。
これもマティルデの肖像です。多くの肖像画のモデルとなるうちに愛し合うようになったのでしょう。ちなみにマティルデはゲルストルよりも6歳年上です。ゲルストル24歳、マティルデ30歳の許されない恋でした。

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リヒャルト・ゲルストルRichard Gerstlの1908年、24歳頃の作品、《緑のブラウスで座る女性 Sitzende Frau in eine grüne Bluse》です。
モデルが特定されていませんが、モデルは女優Schauspielerinのようです。このモデルの肖像画は3枚描かれています。家具や背景、服装は緑で統一されています。1908年2月から6月下旬にかけて、ウィーンのリヒテンシュタイン通りのシェーンベルクと共有したスタジオで描かれたものです。実に魅力的な作品ですね。

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これで素晴らしいレオポルド美術館の鑑賞が完了しました。最後までウィーンの文化を思いっきり、楽しみました。レオポルド美術館のエゴン・シーレのコレクションは今回も圧倒される素晴らしさでした。
これで長かった今回のヨーロッパ遠征も完了です。イスタンブールに始まり、前半のウィーン、グラーツ、ルツェルン、そして、アルプス再訪、ヴヴェイ、ローザンヌというオーストリア・スイス訪問、その後のフランス周遊、そして、後半のウィーン、29日の旅が完結しました。これから最後の行程、日本への帰還に移ります。



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帰国の途、ウィーン~イスタンブール

2019年9月29日日曜日@ウィーン/30回目

今日は旅の最終日。ウィーンの最終日でもあります。もう、今晩は飛行機で帰国の途につきます。しかし、その前に精一杯、ウィーンの1日を楽しみました。
ウィーン美術史美術館Kunsthistorisches Museum Wienとレオポルド美術館Leopold Museumの名品鑑賞を完了。
夕方4時近くになり、いったん、ホテルに戻り、預けていた荷物をピックアップして、ウィーン・ミッテWien Mitte駅からCAT(シティ・エアポート・トレイン)に乗って、ウィーン・シュヴェヒャート空港Flughafen Wien-Schwechatに向かいます。CATのチケットはウィーン到着時に往復券を購入済。

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たった20分ほどで空港に到着。ちょっと歩いて出発ロビーに着きます。

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荷物のドロップオフは結構、混み合っています。

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すべての手続きを終えて、出国します。ヨーロッパにお別れです。まだ、配偶者の最後のお楽しみが残っています。空港内のレストランでウィーン風スープをいただきます。

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最後は急いで搭乗待合室に駆け込みます。帰りもターキッシュエアラインズです。搭乗を終えて、機上から空港の照明を眺めます。

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ジェット機は滑走路を移動していきます。

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離陸です。あっという間に空港を見下ろす高度に上昇します。

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どんどん空港から遠ざかっていきます。

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街の灯りが見えます。ウィーンでしょうか。さらば、ウィーン。また、来年、訪れます。(コロナ禍でこれがウィーンとの長い別れになるとは・・・)

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これからイスタンブールまで飛びます。そこでトランジットして、成田に向かいます。
予定高度に上昇し、安定飛行に入ると、早速、食事が出ます。
これはイタリアン。ペンネのトマトソースです。

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これはチキンです。ライス付きというのがいいですね。

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イスタンブールまでは3時間ほどのフライトです。まだまだ、ヨーロッパの上空を飛行していきます。



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首都圏の様々なジャンルのクラシックコンサート、オペラの感動をレポートします。在京オケ・海外オケ、室内楽、ピアノ、古楽、声楽、オペラ。バロックから現代まで、幅広く、深く、クラシック音楽の真髄を堪能します。
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10/07 08:57 堀内えり

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じじいさん、コメントありがとうございます。saraiです。
思えば、もう10年前のコンサートです。
これがsaraiの聴いたハイティンク最高のコンサートでした。
その後、ザル

07/08 18:59 sarai

CDでしか聴いてはいません。
公演では小沢、ショルティだけ

ベーム、ケルテス、ショルティ、クーベリック、
クルト。ザンデルリング、ヴァント、ハイティンク
、チェリブ

07/08 15:53 じじい@

saraiです。
久々のコメント、ありがとうございます。
哀愁のヨーロッパ、懐かしく思い出してもらえたようで、記事の書き甲斐がありました。マイセンはやはりカップは高く

06/18 12:46 sarai

私も18年前にドレスデンでバームクーヘン食べました。マイセンではB級品でもコーヒー茶碗1客日本円で5万円程して庶民には高くて買えなかったですよ。奥様はもしかして◯良女

06/18 08:33 五十棲郁子

 ≪…明恵上人…≫の、仏眼仏母(ぶつげんぶつも)から、百人一首の本歌取りで数の言葉ヒフミヨ(1234)に、華厳の精神を・・・

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