続くメインのベルリオーズの幻想交響曲は都響の弦セクションの素晴らしさが際立つチャーミングで美しい演奏。終楽章の怒りの日の金管の咆哮と弦の響きには圧倒されました。大変な力演でした。聴き慣れた名曲も新鮮に聴くことができました。
さて、今日のプログラムは以下です。
指揮:ヤクブ・フルシャ
管弦楽:東京都交響楽団
マルティヌー:交響曲第6番《交響的幻想曲》
《休憩》
ベルリオーズ:幻想交響曲 Op.14
まず、マルティヌーの交響曲です。最初はざわめきのような弦楽器の響きです。ここでまず、びっくり。CDでは弦楽器すべての演奏と思っていましたが、弦楽器の各セクションのトップ奏者だけの演奏でした。すべての弦が演奏しているかの如く、よく響いています。弦のざわめきの上にトランペットのメロディーが乗って、印象的なパートです。CDでは不安感を覚える部分ですが、何故か、今日の演奏では不安感は覚えません。繊細な表現だけを感じます。続いて、チェロの独奏でドヴォルザークの《レクィエム》の動機です。ドヴォルザークの《レクィエム》自体は聴いたことがないので、原曲との比較はできませんが、ボヘミア的なメロディーではありません。チェロに引き続いて、フルートがこの動機を続けます。楽器を引き継ぎながら繊細な演奏が続いていきます。しかし、交響曲とは言え、この動機が主題になって展開されるような構造ではありません。ロマン派を新古典的に焼き直したと言えば、いいんでしょうか。自由な音楽です。反面、メロディーは分かりやすいものの、曲を構造的に捉えることも、訴えかける音楽的な意味合いを捉えることも、正直言って、難しい音楽です。色んな要素が合わさって、複雑化しており、奥行きの深い音楽になっています。何度聴いても飽きることのないバッハのようです。マルティヌー本人はこの曲を交響曲とは呼ばずに、交響的幻想曲と命名したとのことです。ベルリオーズの幻想交響曲を意識していたようです。ただ、それは構造的なことだけのようで、ベルリオーズを連想させるような曲想は一切、感じられません。第1楽章は繊細な響き、新古典主義を思わせる響きを楽しみ、最後は冒頭の弦のざわめきに戻って、終わります。なかなかの聴きごたえです。
第2楽章も弦のざわめきで始まりますが、今度は弦セクション全体の演奏です。CDでは、このあたりの演奏楽器がソロか、合奏かはよく分かりませんでした。ヴィオラの美しい旋律が始まり、その旋律が次々と色んな楽器に引き継がれていきます。途中、オーボエの印象的な暗い旋律が始まると、各種の打楽器が加わって、賑やかな演奏に変容していきます。演奏は高揚していき、フルシャも大きな身振りで激しく体を動かします。最後はこの高揚がいったん収まって、この楽章は終了。
最後の第3楽章が始まります。悲劇的とも思える旋律が弦楽器で提示されます。序奏のような部分が終わると、第1楽章の冒頭に出た《レクィエム》の動機が、今度はチェロ合奏で提示されます。この動機が各楽器で繰り返されていきます。ここに至って、今まで感じていたCDの演奏との違和感が何だったのか、ようやく、気付きました。響きがとてもボヘミア的なんです。CDと同じ旋律の筈なのに、何故か、ボヘミアの響きを感じます。遡って、前の楽章もボヘミア的だったと、今更ながら、感じます。もちろん、第1楽章には、ドヴォルザークの《新世界から》のパロディーとも思しきボヘミア風の旋律は少しだけ、登場はしますが、CDでは、かえって、そのボヘミア風の旋律と対比して、大部分がインターナショナルな響き(新古典的な響き)に聴こえていたんです。フルシャの指揮では、新古典的な素材もボヘミア風の味付けで聴こえます。そう言えば、この交響曲第6番だけは、アメリカとヨーロッパの両方の地で作曲されたそうです。1番から5番までの交響曲はすべて、アメリカで作曲したものです。ヨーロッパといっても、マルティヌーは共産政権下のチェコには戻れなかったそうですが、意識下でボヘミアを感じていたのかも知れません。フルシャ以外でこのような演奏をした指揮者がいるのかは分かりませんが、かなり、独特な解釈なんでしょう。この曲はシャルル・ミュンシュとボストン交響楽団に捧げられたそうで、初演もそのコンビです。一度、そのコンビの演奏を聴いてみたいものですが、想像では、ボヘミア的ではなく、繊細で美しい叙情的なものではないでしょうか。ベルリオーズの幻想交響曲の響きを想像してしまいます。
第3楽章はフィナーレに向けて、テンポを上げて、高揚していきます。頂点でタムタムの一撃があり、また、祈るような《レクィエム》の動機に戻ります。そして、コラールの旋律がその上に乗ってきて、静かに祈りながら、しみじみとした最後になります。今日の演奏では、このコラールも、コラールというよりもボヘミアの民俗旋律に聴こえてしまいました。とてもユニークな演奏ですが、質も高く、興の尽きない演奏でした。
これがボヘミア風に解釈した新古典の幻想交響曲だとすれば、この後、演奏されるベルリオーズの幻想交響曲はどんな演奏になるんでしょう。20分の休憩の間中、それを考えていて、あっと言う間に休憩時間は終わってしまいました。もちろん、いかなる想像も結論には達しないままでした。
ベルリオーズの幻想交響曲です。いかなる想像も無駄に終わりました。実にオーソドックスで、繊細で丁寧な演奏でした。もちろん、ここぞというところは、トゥッティで凄まじい音響です。
予習は定番中の定番、ミュンシュ指揮のパリ管弦楽団のLPレコードを聴きました。何十年ぶりかです。今聴いてみると、本当に見事な演奏で、非の付けどころがないばかりか、いきいきとした演奏で、この曲の魅力を余す所なく、表現しています。あまりの素晴らしさに古いミュンシュ指揮のボストン交響楽団のCDまで聴いてしまいました。この演奏はsaraiが少年時代に夢中になって聴いていた、懐かしい演奏です。40年以上も前に聴いた演奏です。この演奏は音質もよく、パリ管弦楽団にも引けをとらない演奏でした。ただ、これから聴くかたはパリ管弦楽団のほうが、より彫りの深い演奏でお勧めできます。
で、この日の演奏と言えば、美し過ぎるというのが難点というくらいの素晴らしい演奏。どの楽章も第1ヴァイオリンの女性奏者たちの美しい響きを聴くだけでも十分です。フルシャも乗りに乗った指揮ぶり。今後、フルシャ指揮のベルリオーズも、インバルのマーラーやショスタコーヴィチと並んで、看板にしてもらいたいくらいです。上のほうに書いたとおり、終楽章のフィナーレの凄まじい演奏には、心躍るものがありました。今年絶好調だった都響を象徴するような演奏でした。
これで、今年は大晦日のジルヴェスターコンサート(みなとみらいホール)を残すのみです。今年は4月のヨーロッパ遠征、そして、秋以降の感動のコンサートの連続と充実した音楽ライフでした。その最後をしめくくる素晴らしいコンサートで満足です。
近く、恒例?の今年聴いたコンサートのベストの特集も予定しています。一緒に感動をふりかえってみてくださいね。
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