今日の交響曲第6番は深刻な心理的ダメージを与えるかの如く、叩きつけるような凄まじい演奏でした。よい演奏とか、悪い演奏とかを論ずるレベルではありません。今日の演奏では明るさはまったく感じられず、悲しみ、慟哭、そして、永遠に自己の救済が得られないというメッセージを突きつけられるような演奏に頭が真っ白になるほどでした。
今日のプログラムは以下です。
指揮:エリアフ・インバル
管弦楽:東京都交響楽団
マーラー:交響曲第6番イ短調《悲劇的》
今日はマーラーの交響曲第6番、1曲だけです。
第1楽章、冒頭のマーチは響きの強い演奏です。決然とした演奏は以降も続き、盛り上がりの大きい演奏です。過去に聴いたCDでは、1991年のテンシュテット&ロンドン・フィルのライブ演奏を思い起こす、強烈なインパクトの演奏です。第2主題のいわゆるアルマのテーマも美しい響きではありますが、しっかりと芯のある演奏でアルマへの愛にあふれるという風には聴こえません。このあたりが今日の演奏のコンセプトの伏線になっています。つまり、愛をもってしても、自己は決して救済されないという残酷とも思えるメッセージが明確に示されます。神なき時代、愛も救いにはならないという究極の叫びが音楽を支配しています。もちろん、第1楽章では、まだ、そこまでのメッセージは示されず、ただ、魂の強烈な救いを求める叫びが聴こえてくるだけです。そして、アルマへの愛が究極のものには思えないという感じなんです。
こういうコンセプトの演奏では、どうしても第2楽章のスケルツォの重要性は薄れてしままいます。第1楽章の焼き直しにしか、聴こえません。
そして、後半にはいっていきます。第3楽章のアンダンテは通常の演奏では、アルマの愛に包まれた心の平安を感じるところですが、今日の演奏では、外面的な美しい楽想は感じても、心の平安は感じません。ここあたりから、今日の演奏の異様さを感じ始めます。都響の美しい木管の響きだけが気持ちを安らげてはくれます。しかし、第3楽章が後半に進むにつれて、心の平安どころか、心の悲しみが増していくばかり。そして、頂点では悲しみは慟哭にまで高まります。ある意味、感動に襲われますが、奥底は暗さが支配しています。
第4楽章は不安な気持ちが高まっていくばかりです。そして、救済は求めても得られないという究極のメッセージが強まっていきます。愛の動機は弱弱しく、負のエネルギーが高まるばかり。絶望的な感動に襲われます。人は決して救われないとう現実に、無理やり直面させられ、それに納得している自分に気づきます。ハンマーの打撃音は、死を意味します。死のみがすべてで、そこには救いはないというマーラーの絶望感。
インバルはどこまでを意図しての演奏なのかは判然としませんが、この第6番で、ここまでやるかという思いに駆られました。一体、第9番では、どういう演奏が可能なのでしょう。第9番に至る第7番、第8番はどういう解釈があり得るのでしょう。
マーラーの音楽を聴くことは、人の魂の奥底をのぞき込むという、音楽を超えた行為を覚悟することだと思い知りました。音楽的な感動を超えて、魂が震撼する思いに至りました。素晴らしい演奏ではありましたが、決して、素直にブラボーは叫べない演奏。それがインバルが提示したマーラーでした。複雑に絡み合う思いを引き摺りながら、ホールをあとにしました。
暗い感想になりました。人それぞれ、感じるところは異なります。別の感想もあるのでしょうね。
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