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ドレスデンで音楽・美術三昧:アルテ・マイスター絵画館のフランドル・オランダ絵画2回目

2013年6月13日木曜日@ドレスデン/4回目

前回に続いて、アルテ・マイスター絵画館のフランドル・オランダ絵画の続きを見ていきましょう。このセクションには、イタリア絵画以上に素晴らしい作品が並びます。中でも、これから見ていくフェルメールとレンブラントの作品は凄いとしか言いようがありません。

ヴァン・ダイクの《赤い腕バンドをつけた鎧の男の肖像》です。1625年から1627年頃、ヴァン・ダイク26~28歳頃の作品です。ヴァン・ダイクはイタリアでの修行でルネサンスの巨匠やティツィアーノの作品から強い影響を受けました。当時、肖像画家を自任していたヴァン・ダイクが描いた作品ですが、暗めの落ち着いた色調で凛々しい若い男性の鎧を着けた姿を見事に表現しています。若い男の顔の表情の表現が素晴らしいですね。心の静かな内面まで感じさせられます。


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レンブラントの《サスキア》です。1633年頃、レンブラント27歳頃の作品です。レンブラントが世話になっていた美術商の親戚の娘サスキアと結婚することになるのはこの作品が描かれた翌年の1634年のことです。サスキアはレンブラントよりも6歳ほど若く、サスキアの父は元レーワルデン市長で上流市民階級に属していました。レンブラントはこの結婚を通じて、上流市民階級の多くの顧客を獲得することになります。レンブラントが人気肖像画家として華やかに活躍するのはサスキアが死去する1642年までのことでした。レンブラントが人生の幸福感を味わったのはこの時期でした。この時期にサスキアはレンブラントの油彩作品だけでも10数点の作品に登場し、私生活においても芸術活動においてもなくてはならない存在でした。この作品でのサスキアの微笑みは来たるべきレンブラントの黄金時代を予感させるものですね。


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レンブラントの《放蕩息子の酒宴の場面を演じるレンブラントとサスキア》です。1635年頃、レンブラント29歳頃の作品です。この作品は28歳で上流市民階級の娘サスキアと結婚したレンブラントがその翌年、幸福と喜びの絶頂の様子を描いたものです。ちょっと浮かれ過ぎの感もありますが、人生の絶頂期ということで許されるのではないでしょうか。しかし、近年になって、この作品の解釈が変わってきました。以前は題名も単に《レンブラントとサスキア》ということでした。今では、新約聖書・ルカ福音書にある放蕩息子の物語の主題が作品に秘められていると考えられています。それはそうですよね。あれだけの天才画家レンブラントが単に楽天的なものを描くわけがありませんよね。そう考えると、一種のアイロニーさえ感じられます。


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レンブラントの《ガニュメデスの誘拐》です。1635年頃、レンブラント29歳頃の作品です。この作品では鷲に姿を変えたユピテルが、トロイア王国の建国者トロスの息子で、絶世の美少年のガニュメデスをお小姓として天上に誘拐する様が描かれています。もっとも美少年と言ってもガニュメデスの泣き叫ぶ顔は悲惨さを超えてユーモラスでもあり、また、恐ろしさのあまり、放尿している様子も微笑ましいものです。迫力と言い、ユーモアと言い、構図の見事さも含め、天才レンブラントの鮮やかな作品と言えるでしょう


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レンブラントの《婚宴で謎をかけるサムソン》です。1638年頃、レンブラント32歳頃の作品です。この作品で描かれている内容は長い物語の一部の場面です。ここで描かれている場面はサムソンがペリシテ人の娘と結婚する場面です。この結婚式でサムソンは列席したペリシテ人たちにひとつの謎かけをして、謎を解いた者に賞品として、衣を与えることを約束します。その謎とは「食べるものから食べものが出た。強いものから甘いものが出た。強いものとは何か?甘いものとは何か?」です。こんな謎は解けっこありません。単にその結婚式の前に、サムソンがライオンを倒し、そのライオンの死体にミツバチが群がったことを見た経験を踏まえての謎かけだったんです。もちろん、誰も答えられなかったわけです。画面の中央にでんと座って、強い光があたっているのがペリシテ人の花嫁です。その右側にいる長い髪の男がサムソンでペリシテ人の男たちに夢中になって、謎かけをしています。この絵では、その後の物語の展開も暗示しているようです。花嫁と花婿のちぐはくさ加減です。
この場面の後日檀は次のようなものです。花嫁にせがまれて、つい、サムソンが謎の答え、すなわち、強いものはライオンで、甘いものはミツバチだと明かします。花嫁はペリシテ人の一人にぽろりとこの正解を教えていまいます。正解を言い当てられたサムソンは何と残虐にもほかのペリシテ人たちを殺して奪った衣をこの男に与えます。その残虐行為に怒った花嫁の父親によって、サムソンの結婚は数日で終了。その後、サムソンはますますペリシテ人に残虐行為を働きます。
このレンブラントの描いた歴史物語は光の使い方こそ、彼の面目躍如ですが、絵そのものからの感銘はさほど受けないというのがsaraiの正直な感想です。


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レンブラントの《赤い花を持つサスキア》です。1641年頃、レンブラント35歳頃の作品です。サスキアの落ち着いた美しさが内面から滲め出てきているようです。21歳でレンブラントと結婚したサスキアはこのとき28歳で、サスキアも、そして、レンブラントも人生の頂点。しかし、この翌年に突然、サスキアは亡くなります。これが人間の運命でしょうか。


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フェルメールの《娼家にて》です。1656年頃、フェルメール24歳頃の作品です。この作品はフェルメールの初期作品で、署名はもちろん、年記もはいっています。年記がはいった作品はわずか3点しかなく、この作品はその最初のものです。この作品は一見、風俗画ですが、テーマは放蕩息子を扱ったもので、宗教画家を目指したというフェルメールの過渡的な作品とも言えるでしょう。正直なところ、saraiには一見して、この作品がフェルメールの真作かどうかがよく分かりません。フェルメール好きのsaraiにしても、こんな作品をありがたがって鑑賞する趣味はありません。


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フェルメールの《手紙を読む女》です。1659年頃、フェルメール27歳頃の作品です。この作品はこの窓辺から差す光とその光に照らされた室内で女が無心の行為にふけるというフェルメール劇場の開幕となった記念碑的作品です。この典型的パターンに到達したフェルメールは世界の永遠を写し取る大芸術家に飛翔しました。本当に素晴らしい作品です。saraiは《デルフトの風景》と《牛乳を注ぐ女》の2作を異常に愛していますが、この作品もそれらに次いで好きな作品です。窓辺で手紙を読みふける女の一瞬の姿を精密に描き切ることで、大袈裟に言えば、宇宙の永遠の神秘を描きとったと思える、フェルメールの天才的な芸術性を強く感じます。アルテ・マイスター絵画館では、ヤン・ファン・エイクの《3連祭壇画》と並ぶ至宝と思います。


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フランドル・オランダ絵画は本当に堪能しました。次はドイツ絵画に移りますが、何と言ってもsaraiの大好きなクラナッハの作品が楽しみです。


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ドレスデンで音楽・美術三昧:アルテ・マイスター絵画館のドイツ絵画、スペイン絵画

2013年6月13日木曜日@ドレスデン/5回目

ドレスデンDresdenのアルテ・マイスター絵画館Gemäldegalerie Alte Meisterで絵画鑑賞中です。次はドイツ絵画を見ます。この美術館はクラナッハの作品が充実していてsaraiは、大満足です。

まずはハウスブーフの画家の《ピエタ》です。1480年頃の作品です。この作者は1470年代から1500年にかけて、ライン川の中流地域で活躍したと思われる画家で、姓名不詳です。ドイツ南西部のヴォルフエック城に所蔵されていた家庭用祈祷書《ハウスブーフ》の作者であったことから、ハウスブーフの画家Hausbuchmeisterと呼ばれています。素朴ながら、力強い表現が印象深い作品です。


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アルブレヒト・デューラーの《聖母の7つの悲しみ》です。1495年から1496年頃、デューラー24~25歳頃の作品です。この作品はデューラーがニュルンベルクNürnbergに居を定めた後、初めての大きな制作になりました。7枚のそれぞれの場面はキリストの生涯からのものです。中央の欠けている部分は本来、《悲しみの聖母》Mater Dolorosaがありましたが、これは現在、ミュンヘンのアルテ・ピナコテークに所蔵されています。7枚の各パネルは左上からぐるりと反時計周りに、順に《キリストの割礼》、《エジプトへの逃避》、《博士たちと議論するキリスト》、《十字架を担うキリスト》、《十字架へのはりつけ》、《キリストの磔刑》、《キリストの哀悼》が描かれています。デューラーにしては、まだまだ、細かい表現がこれからの感はありますが、よく構成された作品ではあります。


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アルブレヒト・デューラーの《ベルンハルト・フォン・レーゼンの肖像》です。1521年頃、デューラー50歳頃の作品です。デューラーは神聖ローマ帝国皇帝のマクシミリアン1世の寵愛を受けました。その皇帝が1519年に死去し、その翌年、デューラーはネーデルランドに旅立ちます。この作品はその旅先で制作されたものです。デューラーの日記の内容から、この作品のモデルはダンツィヒの商人一家の息子ベルンハルト・フォン・レーゼンと考えられています。この時代、商人は手紙を手にして描かれることが多く、この作品でも茶色の壁を背景に、黒い帽子と黒い衣装の男が手紙を手にして描かれています。円熟したデューラーの筆によるこの作品は、ゆるぎない安定感のもと、男の落ち着いた内面が見事に描き切れています。デューラーの傑作の1枚です。


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さて、いよいよ、クラナッハの作品群です。

ルーカス・クラナッハの《聖カタリナの殉教》です。1506年頃、クラナッハ34歳頃の作品です。1505年、ザクセン選帝侯のフリードリヒ賢明公はクラナッハをヴィッテンベルクWittenbergで宮廷画家として任じます。以来、クラナッハは3代のザクセン選帝侯に50年近く、仕えることになります。この作品は宮廷画家として、初めての大きな委嘱作品であり、初めての祭壇画でもありました。
フリードリヒ賢明公は1502年にヴィッテンベルクに大学を創立しましたが、この作品はそれを記念したものです。聖カタリナは学問の守護聖人。言い伝えによれば、聖カタリナはローマ皇帝が招集した50人の学者を論破して、キリスト教の優位性を示し、彼らをキリスト教に改宗させたそうです。しかし、その結果、彼女は死に追いやられます。釘の打ち付けられた車輪による拷問は神の力で打ち砕かれ、結局、斬首による殉教を遂げることになります。この作品の中央のパネルはそのシーンを描いています。左側のパネルは聖ドローテア、聖アグネス、聖クニグンダが描かれ、右側のパネルには、聖バルバラ、聖ウルスラ、聖マルガレートが描かれています。有名な聖女のオンパレードです。その聖女たちの中でも聖カタリナが史上最高のヒロインです。クラナッハはこれらの聖女たちを好んで取り上げました。この作品は美しく描かれた聖女たちの姿の素晴らしさがとても印象的です。女性を描かせたら右に出るもののいないクラナッハの真骨頂の作品と言えるでしょう。


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ルーカス・クラナッハの《ザクセンのハインリヒ敬虔公とその妻カタリーナ・フォン・メクレンブルク》です。1514年頃、クラナッハ42歳頃の作品です。ザクセン選帝侯のフリードリヒ賢明公はヴェッティン家の流れで、一方、ハインリヒ敬虔公は分派したアルベルティン系のザクセン公です。ハインリヒは、1512年にメックレンブルグ公マグヌス2世の娘カタリーナと結婚しましたが、その祝いとして、クラナッハに夫妻の肖像画を依頼しました。そこでクラナッハは、二人の肖像を一対の作品として完成させました。ハインリヒ敬虔公の堂々たる姿、そして、何よりも、カタリーナの才色兼備の美しさは素晴らしいです。


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ルーカス・クラナッハの《エデンの園》です。1530年頃、クラナッハ58歳頃の作品です。この作品は説明の必要はないでしょう。画面の中央にはアダムとイブが描かれています。クラナッハ得意の題材です。ここでは神から知恵の実の林檎を食べないように約束させられています。時間の経過していくほかの場面も一緒に描き込まれています。林檎を遂に食べてしまう場面、楽園から追放される場面とかです。題材は異なりますが、主君の狩猟場面を描いた作品、人間の黄金時代(ゴールデンエイジ)を描いた作品も同一系列上の作品群です。こういう傾向の作品は過去に多く鑑賞しました。クラナッハの得意の構図の一つです。


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ハンス・ホルバインの《モレット卿、シャルル・ド・ソリエの肖像》です。1534から1535年頃、ホルバイン36~38歳頃の作品です。ホルバインはドイツのアウグスブルク出身でスイス時代を経て、1532年ロンドンに赴き、ヘンリー8世の宮廷画家として、肖像を描いて花を開かせました。ヨーロッパ各地でホルバインの肖像画を見ることができます。特にヘンリー8世と彼の妻、愛人の肖像画が印象的です。この作品はモレット卿、シャルル・ド・ソリエを描いたものですが、彼は4人のフランス王の下で軍人、外交官を務めた人物で、この作品に登場するときは駐英フランス大使の職にありました。威風堂々とした姿で描かれていますが、ホルバインは実際よりも人物を立派に綺麗に粉飾する傾向がありますから、肖像画としては割り引いて見ないといけないでしょう。肖像画ではなく、モデルを用いた人間賛歌と思えば、素晴らしい作品です。


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次は18世紀に進み、スイス絵画を見ます。

ジーン・エティエン・リオタールの《ココアを運ぶ娘》です。1744年から1745年頃、リオタール42~43歳頃の作品です。リオタールっていう画家、全然知りませんが、ジュネーヴ生まれでヨーロッパを転々とした挙句、スイスで亡くなりますから、一応、スイス絵画の画家といってもいいでしょう。それに作風がまさにスイスらしい細密でリアリスティックなものです。絵の内容は当時、高級な飲み物だったココア(チョコレート)が主題になっていて、高価な陶磁器(マイセンと思われます)を運び、緊張している娘の内面が微笑ましく感じられます。


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最後はスペイン絵画を見ます。スペイン絵画ではムリリョの絵画が素晴らしいです。

エル・グレコの《盲人を癒すキリスト》です。1570年頃、エル・グレコ29歳頃の作品です。1567年にヴェネツィアに移住したエル・グレコがヴェネツィア・ルネサンス様式で描いた初期の作品です。後のスペイン時代に見られる熱い個性はまだ感じられません。言わば、借りてきた猫っていう感じでしょうか。ここにはトレドで巨匠に上り詰める人の片鱗も感じられないと言ったら、言い過ぎでしょうか。この人が10年も経ずして、トレドで素晴らしい作品を描くようになるのですから、人間、分からないものです。


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スルバランの《祈る聖ボナヴェントゥーラ》です。1628年から1629年頃、スルバラン30~31歳頃の作品です。スルバランもまたカラヴァッジョの光と影の明暗技法の洗礼を受けた画家です。この作品は聖フランチェスコの弟子であるボナヴェントゥーラの前に天使が現れ、次に選出されるローマ教皇の名前を告げるシーンが描かれています。画面右側には、コンクラーヴェに臨んでいる枢機卿たちの姿が描かれています。構図の素晴らしさはもとより、劇的な緊張感にあふれた名作です。


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ムリリョの《聖キアラ(聖クララ)の死》です。1645年から1646年頃、ムリリョ27~29歳頃の作品です。この作品はフランチェスコとともにフランチェスコ会派を起こした聖キアラの死の場面を描いたものです。アッシジの聖キアラ教会を訪問したときの感銘が蘇ってきます。


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ムリリョの《聖母子》です。1670年から1680年頃、ムリリョ53~63歳頃の作品です。ムリリョ晩年の超名作ですね。美しいマリアに抱かれたかわいいキリスト。名だたる聖母子作品のなかでも光を放つ素晴らしい作品です。ムリリョの最高傑作と言っても過言でないでしょう。


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ドレスデンのアルテ・マイスター絵画館は展示作品の数は多くはないのですが、素晴らしい作品が多く、とても楽しめました。
次はドレスデンに多く名品が所蔵されているというフリードリッヒの絵を見たいところですが、これはノイエ・マイスター絵画館のほうに展示されているので、明日、ゆっくりと鑑賞することにします。


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ドレスデンで音楽・美術三昧:聖十字架教会の塔からのドレスデンの眺め

2013年6月13日木曜日@ドレスデン/6回目

アルテ・マイスター絵画館Gemäldegalerie Alte Meisterの傑作絵画群を1時間半ほどで堪能し、ツヴィンガー宮殿Zwingerの外に出ます。


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傍らにはゼンパーオパーSemperoperの美しい姿が見えます。今夜はここでバレエを見ます。また、後で戻ってきましょう。


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ゼンパーオパーの前には劇場広場Theaterplatzが広がり、その先には、カトリック旧宮廷教会Katholische Hofkircheが見えています。


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カトリック旧宮廷教会の横にはドレスデン城Residenzschloss。華麗なバロックの都ドレスデンDresdenで一番美しい場所です。何度見ても見飽きません。


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この後は、昨日空振りだった聖十字架教会Kreuzkircheの塔に登ってドレスデンの街を見下ろしてみましょう。

聖十字架教会までのルートを地図で確認しておきましょう。


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聖十字架教会は、ホテルの目の前なので、カバンなどの余計なものはホテルに置いて、身軽になって階段を上りましょう。配偶者が聖十字架教会でオルガン奏者の練習の響きを楽しんでいるあいだに、saraiが荷物をすべてホテルの部屋に置いてきます。さあ、これで上れなかったら情けないですね。ドレスデンカードで半額になる料金2人分3ユーロを支払って上ります。塔の入り口の扉を開けてくれるので、中にはいります。目の前には早速、階段がお出迎えです。


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これが今入ってきた入口のドア。こちらからは出口と書いてあります。既に固く閉じられています。


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2階まで上ると、オルガン席への入り口があります。ここまでは、塔に上る階段と2階への階段が共通になっています。


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この2階から、塔に上る専用階段が始まります。


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急な螺旋階段です。心して上りましょう。


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もう、鐘の横まで上ってきました。展望台はもうすぐ。


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大分汗をかきますが、256段の階段を一気に上り切ります。高さ54mの塔の展望台からの素晴らしい眺めが待っています。
目の前には、隣接する市庁舎Rathausの建物とその中央に98.5mのドーム型の塔が聳えています。塔の尖端には《黄金の男》像が立っています。


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視線を左に移すとドレスデンDresdenのシンボルのフラウエン教会Frauenkircheが目に入ります。


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少し左手を見ると、手前にアルトマルクト広場Altmarkt Platz、通りを挟んで文化宮殿Kulturpalast、その先がドレスデン城Residenzschloss、ツヴィンガー宮殿Zwingerが見えています。


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アルトマルクト広場を見下ろすと、暑い日差しを避けたのか、ほとんど、人影が見えません。


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少し、遠くを見渡すと、建物の向こうにエルベ川Elbeの蛇行する流れも見えます。見えている橋はアルベルト橋Albertbrückeのようです。旧市街と新市街をつなぐ橋の一つです。エルベ川はこの先、アウグスト強王の夏の離宮ピルニッツ宮殿Schloss Pillnitz、さらには、大自然の荒々しい景観のザクセン・スイスSachsische Schweizに遡っていきます。その先はチェコ国境です。その先はエルベ川もモルダウ川Moldau(チェコ語ではヴルタヴァ川Vltava)と名前を変えて、プラハPrahaの街に続きます。明後日はこのルートを鉄道で辿って、プラハに向かう予定です。


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遥か丘の上には古城も見えています。


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期待した通り、聖十字架教会の塔の上からは素晴らしい街の風景を眺めることができました。

この後はいつものパターンです。バレエを見る前にホテルで休みます。


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ドレスデンで音楽・美術三昧:ドイツ菓子の老舗クロイツカム、そして、エルベ川水害の復旧は?

2013年6月13日木曜日@ドレスデン/7回目

ホテルでゆっくり休憩した後、バレエを見るためにゼンパーオパーSemperoperに出かけます。今夜の開演時間は8時なので、バレエの前に、アルトマルクト広場Altmarkt PlatzにあるクロイツカムKreuzkammの本店(バウムクーヘンの発祥の店)でお茶していきましょう。クロイツカムはミュンヘンにも支店がある有名なお菓子屋さんです。
アルトマルクトの広場を通りかかると、子供たちがはしゃいで、水浴びをしています。天候不全も収まって、ようやく暖かくなりましたね。その実感が感じられる光景です。


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クロイツカムは大きなビルの中のテナントショップで、老舗の貫禄は感じられず、ちょっと残念ではあります。


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それでもカフェにはいると、中は可愛くて雰囲気のよいお店です。


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今回はバウムクーヘンではなく、ケーキをいただきます。
配偶者はホワイトチョコレートのケーキ。


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saraiはチョコレートケーキ。


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紅茶はガラスのカップで出てきます。カップも紅茶もダルマイアーのものです。


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大変美味しいケーキを楽しめました。

お茶の後、バレエの開演時間にまだ時間があるので、エルベ川Elbeの状況を観察しようと、エルベ川岸辺のブリュールのテラスBrühlsche Terrasseに向かいます。ブリュールのテラスはもともと、エルベ川の洪水から街を守る護岸のために築かれた岸壁でした。この岸壁からの眺めをアウグスト2世が大変気に入って、土地を所有していたブリュール伯爵から購入し、その後、アウグスト2世のお抱えの建築家によって、エルベ川に沿った見晴らしバルコニーが建設されました。この経緯から《ブリュールのテラス》と名付けられることになりました。かって、ドレスデンを訪れたゲーテはこの《ブリュールのテラス》からの眺めを絶賛して、《ヨーロッパのバルコニー》と呼んだという話が残っています。ゲーテは色んな名言?を残していますね。

ブリュールのテラスに上る階段の前までやってきます。夕暮れの青空の碧さが目に染みます。


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ここまでのルートを地図で確認しておきましょう。


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ブリュールのテラスに上って、そこからエルベ川を見下ろすと、昨日に比べて、ずい分、水が引いています。エルベ川クルーズ船乗り場の前の道もすっかり水が引き、道としての姿を現しています。


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まだ水の引かない川岸のベンチに悠然と座っている長髪の青年もいるくらいですから、いかに洪水に対する危機感がなくなってきたか、わかりますね。しかし、水に浸かっているベンチに座って、一体、彼は何をしているんでしょうね。


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重機も出動して、川岸のゴミの片づけが始まっています。もう、完全復旧が間近い感じです。


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ブリュールのテラスの裏にはドレスデン要塞Festung Dresdenの堂々たる建物が建っています。水害とは無縁の感じです。ブリュールのテラスで洪水から守られていますから、当然と言えば、当然です。


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ブリュールのテラス自体も明るい日差しを浴びて、平和そのものに見えます。


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再び、エルベ川を見渡します。まだ、川岸の一部は冠水していますが、明日あたりは引きそうな勢いです。


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先ほどのベンチの青年の様子を見ますが、じっとそのままです。近くには親子で散策する姿も見えます。水害と平和な人々の営みが共存する様はとても違和感を感じますが、自然と人の共存関係は太古の昔から続いてきたものです。こんなものなのでしょうね。


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アウグストゥス橋Augustusbrückeのあたりを眺めると、エルベ川沿いの道は橋の下で水没しています。復旧間近と言えども、まだまだ、大変な状況なんだと感じます。


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ブリュールのテラスから、エルベ川水害の復旧状況の観察を続けます。


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ドレスデンで音楽・美術三昧:エルベ川水害の順調な復旧、そして、ライトアップされたドレスデンの美

2013年6月13日木曜日@ドレスデン/8回目

ブリュールのテラスBrühlsche Terrasseに立って、エルベ川水害の復旧の様子を見守っています。
既に川岸の道路(昨日は水に浸かっており、通行禁止)は全部ではありませんが、ほとんどの部分は水が引いています。しかし、妙に道路が水に濡れています。まだ、水に浸かっていたときの後遺症なのかなと頭を捻ります。


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すると、すぐにその答えが分かりました。消防の放水車が出て、道路清掃を始めていたんです。その放水で道路が濡れていたようです。


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放水車は元気よく、道を清めていきます。こういう自然災害からの復旧活動を見ると、無性に嬉しくなります。


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放水車は今度は向きを変えて、逆方向に向かいながら、道を洗っていきます。こうして、川の泥水で汚れた道もどんどん綺麗になっていきます。


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放水車が次第に遠ざかっていきます。このあたりで復旧活動の観察を切り上げましょう。


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きっと、明日はエルベ川クルーズも再開できるのではないでしょうか。今日の時点では、船着き場の一部が水没していますが、あと僅かで乗船可能でしょう。乗船チケット売り場の建物も水が引き、床が乾いています。ドレスデン完全復活、近しの感です。

観光客で賑わうブリュールのテラスを後にします。


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バレエを見るためにゼンパーオパーSemperoperに向かいます。これが今日のチケット。前のほうの中央の席です。


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今日はドレスデン国立バレエの公演です。バレエの公演は、観客席にさすがに子供が多いですね。オペラとはかなり雰囲気が違います。演目も、フォーサイス振付のモダンバレエで、こんな世界もあるのかという肉体と集団の美を楽しみました。詳細はここにアップ済です。

終演後、既にゼンパーオパーの外は宵闇に包まれています。目の前にライトアップされたカトリック旧宮廷教会Katholische Hofkircheの美しいバロック建築の建物が夜空を背景にぼーっと浮かび上がっています。


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劇場広場Theaterplatzの中央から振り返ると、美しいゼンパーオパーのライトアップされた姿が浮かび上がっています。重厚にして、優美ですね。


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ツヴィンガー宮殿Zwingerのゼンパーが増設したアルテ・マイスター絵画館Gemäldegalerie Alte Meisterの建物もライトアップされ、イタリア・ルネサンス様式の美しい姿を見せています。


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これはゼンパーオパーとその向かいに建つドレスデン城Residenzschlossのライトアップされた姿です。


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劇場広場を立ち去る前に、もう一度振り返って、ゼンパーオパーの美しい姿を脳裏に刻み付けます。


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お昼に見たドレスデンの美とはまた一味違った、もう一つの美を堪能しました。

明日も1日、ドレスデンカードをフル活用して、ドレスデンの美術館・博物館を精力的に見て回ります。夜は今度はドレスデンのオペレッタです。


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ドレスデンで音楽・美術三昧:コーゼルパレーで豪華なランチ・・・今日もシュパーゲル!

2013年6月14日金曜日@ドレスデン/1回目

旅の15日目です。今日はドレスデン滞在4日目になります。

ドレスデンDresdenは今日も快晴です。しかし、ちょっと風はひんやりしています。上着を羽織って出掛けます。
いつものパターンで、ランチがてらの散策です。ホテルを出たところで、忘れないうちに目の前の聖十字架教会Kreuzkircheの写真を撮っておきましょう。あまりにも目の前過ぎて、うまく写真におさまりきれません。出来るだけ引いて何とか撮ります。


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ここで気が付きますが、この聖十字架教会も黒い石と白い石がまだらになっています。フラウエン教会Frauenkirche同様、戦災で焼かれて再建したんですね。ただ、こちらは黒い石の部分が多くて、まるで古い建物のままのように見えていたんです。
先ほどの写真はファサードしか写せませんでしたが、さらに下がって、何とか全景をおさめることができます。


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隣にあり気になっていた市庁舎Rathausの建物の前に行きますが、古そうな建物の中に尖塔が建っているのを見て、好奇心は満足。聖十字架教会の塔から見えたのは、地上で見るとこんな具合だったんですね。


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広場には、変わった彫像のある噴水もあります。何でしょうね。


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今日も美術館を訪問しますが、その前に早いランチにします。今日のランチのお目当ては、フラウエン教会の横のコーゼルパレーCoselpalaisにあるレストランです。ぶらぶら歩きながらフラウエン教会を目指します。フラウエン教会近くまで来たとき、以前に尋ねたワイン屋さんの様子を見に行こうということに配偶者と意見が一致。実はこのワイン屋さんは、当ブログの第1回目を飾る話題だったんです。その時の記事、すなわち当ブログの第1回の記事はここです。
5年前、その日本人経営のワイン屋さんは開店2日目で、日本人の初めての客がsaraiだったんです。フラウエン教会周辺でチラシを配っていたオーナーのお兄さんに是非にと引っ張り込まれたんです。saraiの記憶にもワイン屋さんの場所はしっかりと残っており、さほどに悩むことなくワイン屋さんが入っているお土産物屋リメンバー・ドレスデンを見つけることが出来ます。ワイン屋さんはこのお店の地下にある筈です。地下への階段には、ワインが並んでいます。ワイン屋はまだあるみたいですね。オーナーはいるかしら・・・あれ、日本人の女の子が店番です。ん?お嫁さんかな? 5年前のことを話してみると、話が通じ、オーナーは出勤途上とのこと。女の子は残念ながらお嫁さんではありませんでしたが、接客上手で、ワインをいろいろ試飲させてもらいながらオーナーの出勤を待ちます。しかし、まだしばらくかかりそうなので、待っている間にランチを済ませてくるのも良いかなということになり、後で戻ってくることにしてお店を出ます。

ランチのお店を探していると、その店と思われる宮殿の壁にプレートを発見。なんと、ここでシューマン夫妻の演奏会があったと書いてあります。


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ドレスデンはシューマン夫妻が6年間過ごし、3分の1の楽曲を作曲した街で、2010年のシューマン・イヤーには大きな催しもあり、この宮殿でも記念コンサートが行われたそうです。これがコーゼルパレーの美しい建物です。この宮殿はコーゼル伯爵の邸宅だったそうですが、やはり戦災で焼かれて、戦後再建したそうです。


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建物の中に入るとお土産物が売られており、その隣がレストランになっていて、入り口には美味しそうなケーキがケースの中に並んでいます。


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これがコーゼルパレーのパンフレット。カフェ・レストランを紹介しています。


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レストランの内部はマイセンの陶器も飾られている美しい内装です。


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配偶者は前庭のテラスのテーブルがよさそうですが、saraiは断然この内部の美しい内装の空間を味わいたいので、まだ誰もいない内部に座っていいかをお店のスタッフに確認して、好みのテーブルに陣取ります。とりあえずミネラルウォーターをいただきます。


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レストランはいくつかの大きな部屋に分かれていますが、何故か客はsaraiと配偶者の2人だけ。


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他の部屋の様子も偵察しますが、ほぼ同じような内装です。


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窓辺には陶器の可愛い置物。マイセンでしょうね。


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部屋の中央には、立派なシャンデリアが輝いています。


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その後、続々とお客さんが入って来て、まわりは一杯になってきます。
ランチは、もちろんシュパーゲルです。毎日こんなに美味しいものを食べていて良いのでしょうか。
スープもシュパーゲルクリームスープ。料理も美味しそうですが、食器の豪華さに驚きます。さすがにマイセン陶器の本場です。


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黒板にメニューが書かれています。シュパーゲル尽しですね。


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これはsaraiのメイン。添え物のシュパーゲルの方が気になります。


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これは配偶者のメイン。こちらも添え物のシュパーゲルの方が気になりますね。


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もちろん美味しいですよ。連日のシュパーゲルですが、本場の旬の食べ物ですから食べ逃すわけにはいきません。
ランチに満足してレストランを出ます。これがレストランの入り口。綺麗ですね。


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これが前庭のテラス席。気持ちよさそうですが、やはり豪華な内部で食べてよかったかな。


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ここまでの散策ルートを地図で確認しておきましょう。


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次はノイエ・マイスター絵画館Galerie Neue Meisterで美術鑑賞です。


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ドレスデンで音楽・美術三昧:ノイエ・マイスター絵画館のフリードリヒの傑作

2013年6月14日金曜日@ドレスデン/2回目

コーゼルパレーCoselpalaisのカフェ・レストランでのランチを終えて、ノイエ・マイスター絵画館Galerie Neue MeisterのあるアルベルティヌムAlbertinumに向かいます。


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アルベルティヌムに向かって歩いていると、後ろから声を掛けられます。昨日もばったりと会ったお友達Steppkeさんです。偶然にしてもよく会いますね。やはり、ノイエ・マイスター絵画館に向かっているそうで、行動を共にします。すぐにアルベルティヌムの建物が見えてきます。この建物も重厚で堂々としています。


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アルベルティヌムの入り口です。さあ、はいってみましょう。


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ここまでの散策ルートを地図で確認しておきましょう。


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中に入ると、だだっ広い空間に椅子が並んでいます。壁の上部にノイエ・マイスター絵画館Galerie Neue Meisterというネオンサインが光っています。このアルベルティヌムの2階・3階にノイエ・マイスター絵画館があります。


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早速、ノイエ・マイスター絵画館に入場します。


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ノイエ・マイスター絵画館はドレスデンカードで無料で入れます。
まずはお目当てのフリードリヒを見ましょう。ベルリンと並んで、ここにはフリードリヒのコレクションが充実しているそうです。
しかし、確かにフリードリヒはあるにはありましたが、いかにも作品数が少なく、肩透かし。それでも素晴らしい作品がありますので、一応、納得。

フリードリヒの《大狩猟場》です。1832年頃、フリードリヒ58歳頃の作品です。広々とした自然を描いたフリードリヒらしい作品ですが、すっきりとモダンな感じもします。


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フリードリヒの《山上の十字架》です。1808年頃、フリードリヒ34歳頃の作品です。この作品は初期の1枚ですが、フリードリヒが世に知られることになった1枚でもありました。これはボヘミア貴族に依頼された祭壇画ですが、十字架以外は明示的に宗教的な要素が描かれていません。当時としては異例の祭壇画で、物議をかもすことになります。肯定派と否定派が3か月もの間、議論を続けたそうです。しかし、これを機にフリードリヒが知られることになり、以後、プロイセン王家からも依頼がくるようになったそうです。この1枚はドイツ画壇でそれまで支配的だった新古典主義からドイツ・ロマン主義に移っていく記念碑的な作品となりました。
この作品は夕日の輝きが神を表し、その光が十字架のキリストを介して、人々を表す樅ノ木を照らすという含意があるそうです。それはそれとして、フリードリヒらしいロマンに満ちた自然の表現が素晴らしいですね。


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フリードリヒの《月を眺める2人の男》です。1819年から1820年頃、フリードリヒ45~46歳頃の作品です。この作品こそ、典型的ともいえるフリードリヒの傑作です。美しく神秘的な自然とそれに対峙する人間、彼らは何を想っているのか、実にロマンティックですね。2人の男は自分自身と愛弟子のアウグスト・ハインリヒだと言われています。


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フリードリヒの《雪の中の巨人塚》です。1807年頃、フリードリヒ33歳頃の作品です。雪の自然もフリードリヒの十八番の題材です。厳しさを秘める自然ですが、静かな抒情も感じられます。


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フリードリヒの《エルベ渓谷の眺め》です。1807年頃、フリードリヒ33歳頃の作品です。奥にうっすらとエルベ川の流れが見えています。この作品は夏の風景。上の《雪の中の巨人塚》と対をなす作品で、冬と夏の自然を対比させたものだそうです。まるでドイツ版の山水画のようですね。


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フリードリヒの《夕暮れの港の船》です。1828年頃、フリードリヒ54歳頃の作品です。海の風景もフリードリヒの十八番の題材です。夕暮れ時、月も出ています。港の帆船のシルエットの美しさ。フリードリヒの心象風景でしょう。現実にこんな美しい光景はあり得ません。


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フリードリヒは作品数は多くはありませんが、珠玉の作品が揃っていますね。ベルリンのコレクションとは比較になりませんが、確かにこのドレスデンのコレクションを見たことでフリードリヒはほぼ見終えたという感はあります。ドイツ絵画史でフリードリヒは本当に特異な存在です。評価は難しいところですが、どこか、強く、心を惹かれるところもあります。日本画の心象風景と相通じるところを感じてしまいます。心のフィルターを通して、美しさの限りを尽くした自然というところでしょうか。あるがままの自然ではなく、人間の眼を通して美化した自然です。(マーラーが音楽の分野で成し遂げたことを想起してしまいます。自然を描いた交響曲第2~4番です。マーラーも自己のフィルターを通して、自然の諸相を描き出しました。)

さて、フリードリヒ以外の作品もざっと見てみましょう。


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ドレスデンで音楽・美術三昧:ノイエ・マイスター絵画館2回目

2013年6月14日金曜日@ドレスデン/3回目

アルベルティヌムAlbertinumの中にあるノイエ・マイスター絵画館Galerie Neue Meisterで念願のフリードリヒを鑑賞しました。満足と言えば、満足でしたが、ちょっぴり不満も残りました。期待感が大き過ぎましたからね。
気持ちを取り直し、フリードリヒ以外の作品も主だったものだけ、見ていきましょう。

クリムトの《白樺林》です。1901年から1902年頃、クリムト39~40歳頃の作品です。ドレスデンでクリムトに出会うとは意外です。クリムトと言っても風景画。クリムトの風景画の名品はウィーンのベルヴェデーレ宮殿のオーストリア・ギャラリーで見ることができます。風景画の多くはザルツカンマーグートのアッター湖の自然を描いたものです。この作品は白樺の林を描いたもので、クリムトの風景画の特徴である正方形の画面になっています。この白樺林がアッター湖付近のものかどうかは不明です。自然の詩情が感じられる美しい作品ですね。


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キルヒナーの《鉄道高架下のレプタウアー通り、ドレスデン》です。1910年から1926年頃、キルヒナー30~46歳頃の作品です。キルヒナーと言えば、2ヶ月ほど前にベルン市立美術館でキルヒナーの作品で埋め尽くされた展示室に立ち寄って、感銘を受けたことを思い出します。キルヒナーはナチスによって退廃芸術の烙印を押され、悲惨な最期を迎えた画家で、この作品の描かれた頃の他の作品はナチスによって処分されたものも少なくありません。そのキルヒナーの作品がドイツ国内で見られることは稀なことであり、複雑な心境になります。この作品もどうやって生き残って、ここに展示されているのか、きっと、語り尽せない物語があるのでしょう。作品の舞台もドレスデン。青っぽい色調、モダンな構図、キルヒナーの傑作の1枚です。


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キルヒナーの《暖炉の前に立つ裸婦》です。1908年から1909年頃、キルヒナー28~29歳頃の作品です。キルヒナーの初期作品です。この作品はフォーヴィズムの影響が感じられますね。この頃、キルヒナーはドレスデンで画家グループ《ブリュッケ(橋)》を結成し、従来のアカデミズム芸術に反抗する若手画家の中核を担っていました。


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ゴーギャンの《タヒチの二人の女》です。1892年頃、ゴーギャン44歳頃の作品です。この作品はゴーギャンの最初の3年間のタヒチ滞在の2年目に描かれたものです。この頃、ゴーギャンはタヒチの女性テフラと同棲しますが、ゴーギャンの関心はタヒチの多くの女性に向けられました。この作品もタヒチの女性の素朴な魅力を引き出した名作です。なお、この作品は前年に描かれた《タヒチの女》(オルセー美術館所蔵)をもとにして描かれたそうです。


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ドガの《二人の踊り子》です。1898年頃、ドガ64歳頃の作品です。この作品は説明の必要がないほど、ドガのお得意のモチーフの踊り子を描いたものです。踊り子の一瞬の動きをパステルでささっと描きとめたドガのデッサン力の巧みさが見事な作品です。


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モネの《ラヴァクールのセーヌ川》です。1879年頃、モネ39歳頃の作品です。この作品を描いた頃のモネはパリ郊外のセーヌ河畔の村を転々としています。このときは小さな村ヴェトゥイユに住んでいたようです。セーヌを題材とした作品も多く描かれました。この作品もその1枚ですが、モネにしては精彩を欠いた作品に思えます。この年に愛妻カミーユが病死したことも影を落としているのでしょうか。


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ノイエ・マイスター絵画館に展示されていた作品はすべて見尽したのですが、作品のご紹介は以上に留めておきます。ココシュカの作品もご紹介しておきたかったのですが、画像がないのでご紹介を断念しました。

アルベルティヌム内にはノイエ・マイスター絵画館のほかにも、1階に彫刻コレクションがあります。彫刻展示室Skulpturensammlungと呼ばれる美術館です。このように様々な彫刻作品がずらっと展示されています。


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その中に、青銅製ではなく、石膏でできた大きめのロダンの《考える人》があったのは謎です。


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また、未整理の彫刻がぎっしりと詰め込まれている倉庫のようなスペースがありましたが、あれは何だったんでしょう。

アルベルティヌムの内部を見尽して、建物の外に出ます。外観をしっかりと見直しますが、とても美しい建物です。


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アルベルティヌムAlbertinumはエルベ川Elbe沿いのブリュールのテラスBrühlsche Terrasseに面して建っていますが、これは16世紀建造の武器庫だったネオ・ルネサンス様式の建物です。建物前もとてもいい雰囲気です。


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アルベルティヌムを眺めていると、とても奇妙なものがやってきます。これって、2階建ての観光馬車? こんなものは生まれて初めて見ました。まあ、ドレスデンのバロック建築の旧市街観光には似合うかもしれませんね。


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ドレスデンカードを有効利用するために、ドレスデンの美術館・博物館の鑑賞はまだ続きます。


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ドレスデンで音楽・美術三昧:ドレスデン城の博物館、懐かしいワイン屋さん、オペレッタ《ガスパローネ》

2013年6月14日金曜日@ドレスデン/4回目

アルベルティヌムAlbertinumのノイエ・マイスター絵画館Galerie Neue Meister、彫刻展示室Skulpturensammlungを見終えて、次はドレスデン城Residenzschlossの中の博物館を見ます。けちな根性で、ドレスデンカードで無料で入れるところを見れるだけ見て元をとろうともくろんでいるんです。一昨日も訪れたドレスデン城の中庭に入ります。ここにチケット売り場がありますが、美しい空間でもあります。


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網目のようなデザイン天井を通して、綺麗な青空が見えます。


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ドレスデンカードを提示して、無料チケットをゲット。


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オスマン・トルコ展示室Türckische Cammerやザクセンの武具展示室Rüstkammerを見ます。オスマンもザクセンもあまりに華麗過ぎる鎧、刀剣、銃、馬具などの武具に驚き、呆れるばかりです。


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こんなもので戦争になるのかと思っていたら、権勢を誇示するためのパレード用のものが多いようです。


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呆れ果てたところで博物館見学は終了。

ドレスデン城には別の中庭もあります。北東側の中庭です。ここはヨーロッパ最古の武芸競技場だったシュタールホーフStallhofです。これまた美しい空間です。


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近くで見ると、とても新しいことが分かります。ここも戦災にあって再建したものです。中世オリジナルのままだそうですが、いかにも新し過ぎる感じです。実はこの裏の壁が《君主の行列》です。《君主の行列》は高温で焼かれたマイセン磁器のタイルで造られていたので、戦災の火事の高熱を奇跡的に切り抜けたそうです。


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この中庭を抜けてドレスデン城から出て、フラウエン教会Frauenkircheの方に戻ります。


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先ほどのワイン屋さんを再訪しないといけません。今度はお兄さん(オーナー)がいます。恥ずかしそうに写真におさまってくれました。誠実な人柄が分かりますね。オーナーの沼尻さんです。


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再会を喜び合って、記念にワインを購入。もちろん、saraiの好きなフランケンワインです。ワインを中心に色々な話題で盛り上がります。
ちょっとしたお土産物も買って、またの再会を期してお別れです。このワイン屋さんはデーヴェーゲー・ハンデルDWG Handelです。

ここでいったんSteppkeさんとも別れ、ホテルに重たいワインを置きに戻ります。その途中、クロイツカムKreuzkammで、お土産にバウムクーヘンを買っていきましょう。これで、日本に帰る最低のお土産はそろったかな。ところで、このクロイツカムの入っている建物はアルトマルクトギャラリーAltmarkt-Galerie Dresden という巨大なビルで、その名前の通り、滞在中のホテルと同じくアルトマルクト広場Altmarkt Platzに面しています。この建物の地下には、いくつものスーパーやショップが軒を連ねている便利な商店街があります。ここでちょっとした買い物も済ませます。こんなに近いところにスーパーがあるなんて今日まで気が付きませんでした。灯台もと暗しで迂闊です。というところで、ホテルにとって返してしばしの休憩。

ここまでの散策ルートを地図で確認しておきましょう。


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休養後、またSteppkeさんと落ち合って、今夜のオペレッタに向かいます。シュターツ・オペレッテ・ドレスデンStaatsoperette Dresdenです。トラムの2番に乗って延々と20分ほど郊外に行ったところにあります。戦前は街中にあったそうですが、ドレスデン大空襲で破壊され現在の場所に移転したようです。
これが建物の全景です。


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入口には、今日の演目《ガスパローネ》の大きな横断幕。こちらも気合がはいります。


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中に入ると、ロビーの奥に立派なカフェがあります。幕間に利用するのもいいですね。


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チケットはネットで購入して、既にプリンターで印刷済。


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チケットを提示して、ホールに入ります。開演前のホール内の様子ですが、快傑ゾロのような映像が映し出されて、まるで映画館。大衆的でとても結構です。


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ホール内の様子です。大きな映画館というサイズの小さなホールです。


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小さなホールではありますが、舞台と客席が近く、歌手の声もよく通り、大変楽しめました。演目はカール・ミレッカの《ガスパローネ》です。オペレッタの内容の詳細はここにアップ済です。

これでドレスデンでの予定はすべて終了です。

明日はドレスデンを発って、プラハPrahaに向かいます。


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旅の後始末・・・デジカメ修理

事の発端は2014年6月7日、ザルツブルグから日帰りでベルヒテスガーデンを訪れたときまで遡ります。この日はぎっしりと欲張りなスケジュールにしてしまったため、文字通り分刻みでバスを乗り継いでいきました。ケールシュタインのヒトラー山荘から黄金のエレベーターで下りてきて、エレベーターから出るやダッシュでトンネルを走り抜け、バス乗り場に行きました。そして、なんとか予約したシャトルバスの出発時間に間に合いました。これを逃すと、後のスケジュールが厳しくなるんです。もう少しゆったりした企画にすればよかったのですが、バスの本数も少ないのでこうするしかありませんでした。予定通りObersalzbergのバスターミナルでシャトルバスを降り、ベルヒテスガーデン中央駅行きのバス乗り場に行きます。間に合いました。あと数分で838番のベルヒテスガーデン中央駅行きのバスが来る筈です。が、予定時間が過ぎてもやって来ません。saraiが念のため時刻表を確認すると、予定していたバスは時刻表に記載されていません。夏用の時刻表にでも変わったのでしょうか。次のバスは、なんと1時間近くもないんです。saraiはがっかりして、すっかり気落ちしてしました。とはいっても、どうしようもありません。このバスターミナルは大駐車場にもなっていてレストランもあるので、お茶でもしながらちょっと落ち着こうとぶらつきます。これがバスターミナルです。


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と、saraiが縁石を踏み外し転んでしまいました。バスに乗れなかったショックが大きく、気もそぞろで足元がおろそかになったようです。でも、手のひらをすりむいただけで大した怪我もせず、投げ出したカメラも壊れもせずに傷がちょっとついただけ。


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濡れティッシュで拭き、リバテープを貼って、手当て完了です。

ところが、激しく石畳の歩道に叩きつけられたデジカメは内部が損傷していたようで、感心なデジカメは帰国するまではちゃんと動作してその役割をしっかり果たしてくれましたが、帰国直後にデジカメもほっとしたのか動作しなくなってしまいました。既に保証期間も過ぎており、修理するよりも買い替えかなとまた落胆します。念の為、メーカーの修理部門に確認すると修理費用は12000円以上もするようです。2万円くらいで購入したデジカメなので、修理か、はたまた買い替えか、微妙なところです。
ここでふと思い付いたのが、海外旅行の医療保険付きクレジットカード。海外での盗難や物の損壊などにも対応できたような気がします。早速、窓口に電話して確認すると、海外でのデジカメ故障にも対応できるとのこと。その電話でそのまま修理依頼すると、1週間ほどで手続き書類が送られてきました。宅配便でデジカメを修理窓口に送って、しばらく待つと、宅配便が届きました。代引きで免責費用3000円を支払って、デジカメを受け取ります。
丁寧に梱包されている段ボール箱を開けてみましょう。


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デジカメを取り出してみると、ちゃんと修理されていました。レンズユニットの交換です。驚いたことに依頼していないデジカメの傷まで直してくれてました。外装ケースを交換してくれたんです。これで、まるで新品のようになりました。感謝!


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修理はメーカー(カシオ)の修理部門が担当したようです。安心ですね。


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高額な海外旅行医療保険の代わりとして、有償の海外旅行の医療保険付きクレジットカードに加入しておいて意外な効用がありました。このカードはセゾンブルー・アメリカン・エキスプレス・カードです。実際の保険は損保ジャパンと提携しているようです。次は医療保険・障害保険のお世話になるなんてことにはならないように、心して慎重に旅をしましょう。


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プラハで音楽・美術三昧:ドレスデンからプラハへ電車でGO

2013年6月15日土曜日@ドレスデン~プラハ/1回目

旅の16日目です。今日はドレスデン滞在5日目です。

ドレスデンDresdenは今日もドイツ晴れ。ずっと好天が続きます。その気持ちのよいドレスデンを発って、今日はプラハPrahaまで鉄道の旅です。
ゆったりした11時8分発の列車なので、相変わらず朝はのんびりです。昨日日本人オーナーのワイン屋さんで買い求めたフランケンワインもしっかりカバンに詰め、かなり重くなった荷物をガラガラ引いて駅に向かいます。駅まではトラムを利用します。ドレスデンカードの有効期限は昨日までだったので、停留所の自動販売機で1回券を購入します。


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1回券は2ユーロ、日本円で300円ほどですから、駅までの2駅ほどの短距離としてはかなり高価ですが、チケットなしで乗ると高額の罰金を取られるので律儀に購入します。ドレスデンの市内交通でも前回の旅では実際にチケットのチェックがありました。今回の旅ではたまたまチェックはありませんでしたが、違法行為は厳禁でしょう。


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ドレスデンのトラムは黄色い車体が印象的です。


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駅前でトラムを降りて、広場の先にあるドレスデン中央駅Dresden HBFに向かいます。


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天井が高く、明るいドレスデン中央駅の構内に入ります。


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ずっと朝御飯らしいものを食べていないので、何だかたっぷりのコーヒーか紅茶が飲みたくなります。まだ発車までに30分ほどあるので、ドレスデン中央駅のベーグル屋さんで朝食を食べていきましょう。


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saraiが注文の列に並んでいると、日本人の母娘が後ろに並びます。ドレスデンでヴァイオリンを勉強しているお嬢さんのもとにお母さんが遊びに来たとのことで、これからプラハへ一泊旅行に出掛けるようです。とっても上品なお母さんで、ライプツィッヒLeipzigでバッハの音楽も楽しむそうです。ところで、saraiが並んでいる列といっても、前に1人いるだけです。これがなかなか進まない。ようやく大きなカップに入ったたっぷりのコーヒーと温かいベーグルを手にしたときには、発車15分前。美味しいコーヒーを急いで飲みます。


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ベーグルはなかなか、これで分量があります。


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大急ぎで食べられるだけ食べて、残りのベーグルを持ってホームに駆け込みます。
ホームは駅の中央にあるターミナル形式のホームではなく、駅の一番端にある通過型の3番線です。これは前回の旅で経験済ですから、迷うことなく直行。
ホームに行くと、既にプラハ経由ウィーン行のECは入線しています。チケットはネットで購入済です。


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あえて指定席は予約しませんでした。前回の旅で、ドレスデンからプラハへの電車はがらがらに空いていたので、指定は不必要だと思ったんです。そういう経験もあったので、ちょっとのんびりしすぎたかもしれません。土曜日ということもあるのか、車内は混雑していてほぼ満席状態。今日は2等車なので指定をとるべきでした。車内の席の空き具合の様子を眺めながらどんどんホームを移動します。混んでいる車両を通り過ぎて、とうとう先頭車両まで来てしまいます。この先頭車両で何とか座席を確保。ホッと安心して席に落ち着くと、何だか最前列の席の方が騒がしいです。男の子が10人ほど乗り込んでいて、ゲームの音楽は流れるは、奇声は発するは、大声で話すは、やりたい放題です。この集団とずっとプラハまで一緒することになってしまいますが、座れたので良しとするしかないですね。満席状態で、移動する席もありません。
やがて電車が出発します。これが車内の様子。まだ相席なら座れそうですね。


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ところで、席にはDBの電車説明パンフレットが置いてあります。自分の乗っている電車の各種情報が記載されています。この電車はEC173のハンブルクHamburg発のヴィラッハVillach行ですが、その詳しい運行情報が分かります。DBはICE、EC、ICなどの特急電車には必ず装備されていて、とても便利なサービスです。


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ドレスデンからプラハまでの停車駅と時刻も掲載されていて、とても参考になります。プラハまで2時間半の旅です。


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出発して10分もすると、電車は緑の平原の中を走ります。


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やがてエルベ川Elbe沿いを走りだします。


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美しいエルベ川沿いなのですが、ノロノロ運転です。


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そのノロノロ運転も仕方ありません。エルベ川は相変わらず、高い水位です。


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線路に水が迫っているわけではありませんが、水が引いたばかりで地盤がよくないようです。やっと水位が下がったエルベ川ですが、まだまだこんな状況です。
家の中まで水が入ったのか、快晴の週末を利用しての片付けに励む姿も見受けられます。

そのノロノロ運転のままで、エルベ川の景勝地ザクセンスイスSaechsische Schweizを通過します。川岸に切り立った岩が絶景を形作っています。


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このザクセンスイスを車窓からゆっくり見物するには、電車の速度が極端に遅いのはいいことではあります。綺麗な眺めを堪能します。


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電車はゆっくりとプラハに向かっていきます。運行できなくなるような感じではないのが救いです。


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プラハで音楽・美術三昧:プラハへ遅れるものの無事に到着

2013年6月15日土曜日@ドレスデン~プラハ/2回目

ドイツ国鉄DBの特急電車ECでドレスデンDresdenからプラハPrahaへ向かっています。大雨の影響で地盤の緩んだエルベ河畔を徐行しながら、最初の停車駅バート・シャンダウBad Schandauに到着。既にここまでで15分ほどの遅れです。この駅はドイツ国内最後の停車駅です。ドイツでの6日間の旅は鉄道が大水の影響を受けたものの何とか予定通りに完了できました。


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エルベ川Elbeの上流はチェコ国内に入ると、ヴルタヴァ川Vltava(ドイツ語ではモルダウ川Moldau)に名前が変わります。もう、このあたりはチェコ国内です。電車はヴルタヴァ川に沿って走ります。ヴルタヴァ川の流れも濁流ですが、水位はそれほど高くはありません。


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チェコ国内のウースチー・ナド・ラベム本駅Usti nad Labem hl.n.に到着。さらに遅れが広がり、25分ほどの遅れです。


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遅れをひきづりながら、電車はウースチー・ナド・ラベム本駅を出発。


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電車は少しずつ遅れながらも、やがて、ボヘミアの野を走りだします。


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ようやく、電車はプラハに近づきます。ここで蛇行するヴルタヴァ川を渡ります。空は青空、好天気です。


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ヴルタヴァ川の鉄橋の中ほどです。


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ヴルタヴァ川を渡り終えます。


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プラハ市内に入り、いったん、プラハ・ホレショヴィッツェ駅Praha Holesoviceに停車。駅を発車し、再度、ヴルタヴァ川を渡ると、プラハの市街地の中心です。


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結局、プラハには40分ほどの遅れで到着。大水の影響があった割には、まあまあの遅れにとどまりました。電車を降りて、プラハ本駅Praha hlavní nádražíの構内に出ます。駅の構内は意外に新しいですね。プラハ本駅は、何だか人でごった返しています。sarai達の列車は40分遅れでしたが、1時間遅れや2時間遅れの列車もあるようです。まだまだ、鉄道の混乱は続くようですね。


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ドレスデンからプラハまでの鉄道ルートを地図で確認しておきましょう。


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新しい街に着いてまずしなくてはいけないことは、足の確保です。そして、通貨の違う国に来てまず困ることは、コインがないということです。自動販売機は使えません。足を確保するために市内交通の3日間乗り放題券を買いたいので、ツーリストインフォメーションに行くのが最適でしょう。探して探して駅の中をウロウロ。ここは鉄道のチケット売り場ですから、市内交通のチケットは購入できないようです。


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やはり、ツーリストインフォメーションを探しましょう。駅構内を歩き回ります。


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ツーリストインフォメーションは見つかりませんでしたが、ツーリストポイントというショップをようやく見つけます。


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早速、列に並んで、チケットを購入しましょう。


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市内交通乗り放題の3日間券は購入できますが、驚いたことに支払いはユーロのみでチェコの通貨コルナは使えません。どうなっているんでしょうか。まあ、ユーロはたっぷり持っているので、チケットを購入。3日間券は一人分310コルナで、実際はユーロで購入。13ユーロほどです。日本円で1500円くらいです。


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とりあえず、足を確保できたので、ホテルに向かいましょう。ところがsaraiは思い違いをしていて、ホテルはプラハ本駅の前ではなく、一つ地下鉄で移動したムゼウム駅Muzeumからヴァーツラフ通りVáclavské náměstíを歩いて少し入ったところです。思い違いをしていた理由は今日から泊まるK+K Hotelはプラハに2軒あり、1軒はプラハ本駅の前で、もう1軒のほうが予約したホテルだったんです。駅を出る前に間違いに気が付いて、よかった・・・。
早速、購入したての3日間券を活用して、地下鉄の改札を抜けます。もっとも、最初から地下鉄に乗るつもりなら、地下鉄の窓口で3日間券を購入するのが早道でしたね。


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プラハ本駅には地下鉄も乗り入れており、地下鉄C線プラハ本駅hlavní nádražíがあります。


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地下鉄C線のホームに下ります。ここから、1駅隣のムゼウム駅まで移動します。


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この後、まずはホテルに荷物を置いて、プラハ散策に出発します。


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プラハで音楽・美術三昧:プラハ散策へ出発

2013年6月15日土曜日@プラハ/3回目

プラハPrahaのホテルに到着です。ホテルはK+K Hotel Fenix。ホテルまでの経路は地図を参照してください。
 ① プラハ本駅Praha hlavní nádražíから地下鉄C線でムゼウム駅Muzeumまで1駅移動
 ② ムゼウム駅からヴァーツラフ通りVáclavské náměstíを歩いて、ちょっと脇道を左に折れて数分


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観光客の行き交うヴァーツラフ通りから少し脇に入ったところにある観光に便利な場所にあります。
レセプションでチェックイン。


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小奇麗なロビーです。


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これが入ってきた入り口。


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キーホルダーになっているホテルカードをもらって、5階の部屋に向かいます。


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部屋もなかなかこざっぱりとした綺麗です。ベッドも広々としていてお洒落です。


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明るい窓辺の籐椅子もリラックスできそうです。


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これが水回り。Eメールで依頼していたバスタブもあります。


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窓の外はちょっとしたバルコニーになっています。


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さて、部屋に荷物を置いたところで、行動開始。電車の遅れもあったので、もう午後3時です。ホテルを出て、ヴァーツラフ通りに出ます。ムゼウム駅の方を眺めると、重厚な国立博物館Národní muzeumの姿が見えます。


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これからプラハ国立美術館Národní galerie v Prazeに向かうので、ヴァーツラフ通りをムゼウム駅とは反対の旧市街の中心、ムーステク駅Můstekの方に歩きます。通りの真ん中は花盛りです。


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ヴァーツラフ通り沿いには由緒ある建物が立ち並び、古くからの高級ホテルもあります。


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トラムの走るインドジシュカー通りJindřišská uliceまで来ました。国立博物館も少し離れましたね。


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ここは観光客で混雑するところですが、警察車両を停めてしっかりと警備を固めています。外国人には安心ですね。


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ヴァーツラフ通りの先の突き当りはムーステク駅の辺りでしょう。ムーステク駅は地下鉄A線と地下鉄B線が交差する地下鉄駅です。ちなみにプラハの地下鉄はA線,B線,C線の3路線のみで、トラムが網の目のように走っています。プラハの街はトラムを乗りこなす必要があります。


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インドジシュカー通りを眺めると聖ヘンリーの塔Jindřišská věž(Henry's Bell Tower)が見えます。実はこれを見て、saraiは火薬塔Prašná bránaと誤認したんです。プラハは百塔の街と呼ばれるほど多くの塔がありますから、似たような塔もあります。この誤認のせいで、後で道に迷うことになってしまうんです。


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ここにあるトラム乗り場ヴァーツラフ広場Václavské náměstíからトラムに乗り、トラム24番で、ヴィレトゥルジェニー宮殿Veletržní palácにあるプラハ国立美術館Národní galerie v Prazeの分館に向かいます。

これまで歩いたところを地図で示しておきます。赤の矢印のようにホテルからヴァーツラフ通りを歩き、インドジシュカー通りまで来て、国立博物館やムーステク駅の方を眺め、インドジシュカー通りにある聖ヘンリーの塔(地図の右上)を眺め、トラム乗り場からトラムに乗ります。


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プラハで音楽・美術三昧:プラハ国立美術館のチェコ美術・・・ミュシャ発見!

2013年6月15日土曜日@プラハ/4回目

トラム乗り場ヴァーツラフ広場Václavské náměstíからトラムに乗り、ヴィレトゥルジェニー宮殿Veletržní palácにあるプラハ国立美術館Národní galerie v Prazeの分館に向かいます。

やってきた14番のトラムに乗り、路線地図と見比べて景色を楽しんでいたsaraiが、あれ~と大きな声を配偶者に出します。路線地図とは異なる走り方です。変だ変だと思いながら進むうちに、思っていたのとは反対側にヴィレトゥルジェニー宮殿を見つけて、慌ててトラムを降ります。目的の国立美術館にはたどり着きましたが、どうもトラムの経路については納得いきません。
後でよく調べてみると、本当は24番のトラムに乗らないといけなかったようで、乗った14番のトラムは途中から別経路をたどり、24番のトラムとは逆方向からヴィレトゥルジェニー宮殿の停留所に向かうようです。
次の路線図をご覧ください。ヴァーツラフ広場から、14番のトラムは緑色、24番のトラムは水色で北の方に進み、ヴルタヴァ川Vltavaの手前で東西に分かれます。そこから並行してヴルタヴァ川を隣り合った橋で渡り、ぐるりと回ってヴルタヴァ川に戻ってきますが、お互い逆方向を進むようになります。要するに循環線になっていて、右回りと左回りというのが14番と24番のトラムだったんです。実は白状すると、今になってみると自分がどっちのトラムに乗ったのか定かではなく、そもそもプラハのトラムの14番と24番の路線がごっちゃになって運行されていたのではないかと疑念を持っています。


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さて、プラハ国立美術館の分館に入館します。プラハ国立美術館はプラハ城Pražský hrad近くにもありますが、こちらの分館には、19~21世紀のチェコの美術作品、チェコ以外のインターナショナルな美術作品が収められています。5年前の訪問ではあまり時間がなく慌ただしい鑑賞になったので、今回はじっくりと見ようということでの再訪です。その気にさせるような充実したコレクションだったんです。入館チケットは1人240コルナ、日本円で千円ちょっとです。


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英語版のパンフレットも入手。


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1階から4階までが展示室です。上の4階までエレベーターで上って、そこから順番に見ていきましょう。4階は19世紀から20世紀初頭にかけてのチェコ美術作品が展示されています。ここの目玉は何と言ってもミュシャの油絵作品です。

前回の訪問ではどうしても見つけられなかったミュシャの《スラーヴィア》があっさりと見つかり、これだけでもう上機嫌です。どうです。いい作品でしょう。
ミュシャの創作活動の頂点はパリ時代のポスター制作にあると思いますが、油彩作品の中では、この作品はsaraiが一番好きな作品です。
《スラーヴィア》は1908年、ミュシャ48歳の作品です。パリで活躍していたミュシャはチェコへの祖国愛にめざめ、大作《スラヴ叙事詩》の着想を得て、パトロンを求めて、パリを離れて、1906年に2度目の渡米を果たします。そこには2年前に出会った親スラヴのアメリカ人大富豪のチャールズ・クレインがいました。結局、ミュシャの6年がかりの熱意にクレインが応えてくれるのは1910年のことでした。そのさなか、クレインの2人の娘フランシスとジョゼフィンをよく描きました。この作品は妹ジョゼフィンの結婚のお祝いに彼女をモデルとして、スラヴの女神スラーヴィヤにジョゼフィンを見立てて描き上げた傑作です。作品中には様々な寓意が含まれていますが、寓意を込めて、女神像を描くのは、ボッティチェリを連想します。女性美を賛美する作風も似ていますね。この作品は油彩だけでなく、テンペラの技法も混在させています。油彩とテンペラを混在させる描き方は大作《スラヴ叙事詩》にも引き継がれていきます。テンペラという点でもボッティチェリとの共通点を感じます。絵画の周辺部分には、文様として、植物が丁寧に描き込まれています。ボッティチェリが背景に詳細な植物を描き込んだことを連想します。


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次もミュシャの《カリタス》です。1886年、ミュシャ26歳の作品です。ミュシャは19歳でウィーンに出て、工房で舞台装飾職人として働いていましたが、人員削減のため21歳で失職します。その後、ミクロフの大地主クーエン伯爵が援助してくれるという幸運で、25歳で初めて本格的な美術教育をミュンヘン美術アカデミーで受けることになります。この作品については詳細は分かりませんが、データが正確ならば、本格的に絵を学びだした翌年に描いたことになります。後年の作品を思わせる素晴らしい出来です。saraiの感覚では、もっと後の時代の作品に思えるのですが・・・。


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次もミュシャの《女性のヌードとカエル》です。1890年、ミュシャ30歳の作品です。パリに移って、自由画塾に通っていたミュシャはこの作品を描いた前年にクーエン伯爵の援助を打ち切られ、経済的に困窮します。本の挿絵の仕事をしながら生活をしていたころに描かれました。作品の質は正直言って、うーん・・・ですが、ミュシャらしさは感じられます。


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ヴィテスラフ・カルル・マチェックの《春の祭(寓意的なシーン)》です。1889年、マチェック24歳の作品です。マチェックは1887年にミュシャと共にパリに移り、共に絵を学んだ同朋です。ミュシャよりも5歳年下ですが、ミュシャと影響し合っていたのか、画風が似ていますね。彼はパリに移った翌年の1888年にパリを離れ、祖国チェコに戻り、創作活動を続けます。この作品はプラハに戻った直後に描かれたものです。なお、マチェックの代表作は1993年、マチェック28歳のときに描かれた《 預言者リブザ 》で、オルセー美術館で見ることができます。


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ヴィテスラフ・カルル・マチェックの《魅惑の風景》です。1890年、マチェック25歳の作品です。象徴主義的な作風ですね。見事な作品に感じました。


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アントニン・フデチェックの《月光のなかの海》です。1902年、フデチェック30歳の作品です。フデチェックもミュシャと同時代を生きたチェコの画家です。彼は一時、ミュンヘンでも美術の勉強をしましたが、プラハで活動しました。この作品が描かれた年はイタリアとシチリアに旅していますから、この作品はその旅の経験を描いたものでしょうか。明るいイタリアの海とは思えない作品ですが、これがチェコの画家の感性でしょうか。妙に気になる作品でした。


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このミュシャと同時代のチェコの画家たちの作品が膨大に展示されていますが、とてもきちんと見ている時間はないので、ささっと見るだけにします。

次に1階下の3階に下りて、20世紀前半のチェコの画家の作品を見ます。ここでもなかなか水準の高い作品が並んでいますが、これも見きれないので、ささっと通過。
一番目立った、この1枚だけをご紹介します。

エミール・フィラの《水浴の後の2人の婦人》です。1936年、フィラ54歳の作品です。フィラはブラックやピカソとも個人的な親交を結び、キュビズムを作品に取り込み、長くキュビズムに打ち込んだ画家です。この作品も明らかにその延長線上にあります。何故か、優しさを感じられる作品でつい、立ち止まって見入ってしまいました。


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この3階には、工業デザインの展示もあります。これは20世紀前半のクラシックカー。既にチェコでもこういう車が作られていたんですね。


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2階に下ります。ここにも工業デザインの展示があります。第2次世界戦後のものです。
サイドカーの丸っこいデザインがかわいいですね。


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これは1961年に製造されたロードスター。共産政権下で、こういうスポーツタイプの乗用車が生産されていたんですね。


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2階では、20世紀後半以降、現代までのチェコの画家の作品の展示も続いています。ここでも一番目立った、この1枚だけをご紹介します。

ドロータ・サドフスカの《Aminata T.の肖像》です。2003年、サドフスカ30歳の作品です。彼女はチェコではなく、スロヴァキアの画家です。かってはチェコ・スロヴァキアとして、同じ国でしたが、1993年にビロード離婚と呼ばれる2国分離に至りました。チェコの画家のコーナーに作品が展示されているということは、まあ、今でも隣国として、仲良くやっているということでしょう。この作品はちょっと見ただけでは写真かと思えるような超リアルな油彩で描かれた精密画です。日本でも流行している現代の潮流のひとつです。それにしても見事な作品に驚嘆しました。


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チェコの画家の作品はここまでで、この後は20世紀以降のチェコ以外の画家の作品を見ていきます。この展示が素晴らしいんです。


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プラハで音楽・美術三昧:プラハ国立美術館の20世紀美術・・・クリムト、シーレ、ココシュカ

2013年6月15日土曜日@プラハ/5回目

プラハ国立美術館Národní galerie v Prazeでチェコ美術を見てきましたが、水準の高い作品が膨大に展示されていて、ボヘミア(チェコ)の芸術家の作品を見直す訪問にもなりました。
この後は1階に下りて、20世紀以降のチェコ以外の画家の作品を見ていきます。特に、ウィーン世紀末芸術のクリムト、シーレ、ココシュカの名画には恐れ入りました。なかでも、クリムトの大作《乙女たち》はウィーン以外の美術館の展示作品では、saraiの知る限り、最高の作品に思えます。

まず、そのグスターフ・クリムトの《乙女たち》です。1913年、クリムト50歳の作品です。この作品はクリムトの後期の代表作です。これを描いた5年後、クリムトはウィーンの自宅で脳卒中で倒れ、55年の華やかな生涯を終えます。この作品は描かれた年にブダペストの展覧会に出品され、翌年にプラハ国立美術館が買い上げました。この作品でまず、目に映るのは7人の乙女たちの艶めかしい顔の表情です。顔以外の体は絡まり合って、楕円形の塊になっています。その楕円形の中は顔以外は衣装の色鮮やかな文様で飾られています。背景は真っ黒な虚無です。空虚さと歓喜が入り混じって、クリムト独特の世界が表現されています。世紀末的な美しさが輝く傑作です。


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クリムトの《水辺の城館》です。1908年から1909年、クリムト45~46歳頃の作品です。上の作品よりも5年ほど前に描かれたものです。クリムトは恋人のエミリエ・フレーゲと毎年の夏、ザルツカンマーグートのアッター湖で過ごしました。クリムトの風景画のほとんどはこのアッター湖で描かれました。この作品のように正方形の画面というのがクリムトの風景画です。この作品は望遠鏡で眺めて、描いたそうです。湖に舟を浮かべて、そこから描いた絵も多いのですが、これは対岸から描いたのでしょうか。湖面のさざ波が立っていないので、風も吹いていないようです。アッター湖の静かな自然が感じられ、安らぎを覚える作品です。


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エゴン・シーレの《花のある静物》です。1911年、シーレ21歳頃の作品です。シーレ初期の作品ですが、ゴッホの表現主義的な画法に大いに影響された頃で、この作品も表現主義が感じられます。表面的な美とは一線を画するシーレの世界が開かれつつあるように感じます。


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シーレの《みごもる女と死霊》です。1911年、シーレ21歳頃の作品です。シーレが多く描いた生と死をテーマにした作品です。この年、21歳のシーレはモデルを務めていた17歳の少女ヴァリ・ノイツェルと同棲を始めましたが、決して、心は満たされていなかったようですね。


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オスカー・ココシュカの《アルバート・エーレンシュタイン(Albert Ehrenstein)》です。1914年、ココシュカ28歳頃の作品です。アルバート・エーレンシュタインはココシュカと同世代のドイツの詩人、小説家です。この肖像画はまるでココシュカの自画像を見ているような錯覚を覚えます。顔はまったく違いますが、雰囲気がそっくりに感じます。深い物思いにふけっていますが、一体、どんな想念にかられているんでしょう。ココシュカはこの頃、アルマ・マーラー(未亡人)との満たされない恋愛に苦しんでいました。最高傑作でsaraiの最も愛する美術作品の《風の花嫁》もその体験を昇華したもので、この年に描かれました。


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ココシュカの《プラハ、クラマール館からの眺め》です。1934年から1935年、ココシュカ38~39歳頃の作品です。ココシュカはアルマに失恋したことと第1次世界大戦への従軍で頭部に傷を負ったことの痛手から、なかなか立ち直れませんでしたが、1920年代初頭にようやく気持ちに整理をつけ、ドレスデンで芸術活動を行っていました。その後、ナチスの政権下の1933年にプラハに逃れます。プラハはココシュカの父の出身地です。この作品はその時代に描かれたものです。プラハの街並みやプラハ城がココシュカらしいタッチで描かれた素晴らしい作品です。


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ココシュカの《プラハのカレル橋とフラチャニ城》です。1934年、ココシュカ38歳頃の作品です。この作品も上の作品と同様にプラハの風景を描いたものですが、実にお洒落にプラハで最高の景色を描き出しています。この風景を実際に見てみたいものです。一体、どこから見た景色なんでしょう。


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ココシュカの《プラハのカレル橋》です。1934年、ココシュカ38歳頃の作品です。ココシュカはたいそう、カレル橋の風景が気に入ったようで、色んな視点から美しい風景を描いています。これはヴルタヴァ川の河畔から見たカレル橋ですね。フランス印象派の画家がパリの風景を描いたことを想起させられます。


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ココシュカの《赤い卵》です。1940年から1941年、ココシュカ44~45歳頃の作品です。第2次世界大戦中に描かれた作品で、色んな要素が詰め込まれたアヴァンギャルドな絵画に思えます。ココシュカなりにシニックに戦争を描いたものなのでしょうか。


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エドヴァルド・ムンクの《水辺の踊り》です。1900年頃、ムンク37歳頃の作品です。ムンクは5歳のときの母ラウラの病死、14歳のときの姉ソフィアの死によって、生の行きつく先の死に深い思いを持つようになり、それがムンクの芸術の出発点であると言われています。性への憧れや畏怖もその芸術の根幹をなしています。この作品では、2人の女性のダンスが中心にありますが、ムンクが喪失した2人の女性と無関係ではないでしょう。2人の女性は柱のような月の光に浮かび上がっています。ムンクにとって、黄色い月の光は過去に導くものです。この作品は代表作の一連の「生命のフリーズ」の作品と同時期に描かれ、その中の1作『生命の踊り』とも関連性を持っています。トゥラ・ラーセンと交際していた時期の作品でもありますが、この作品が描かれた2年後に破滅的な破局を迎えます。


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ムンクの《リューベック近くの海辺の風景》です。1907年頃、ムンク44歳頃の作品です。リューベックはドイツのバルト海に面した港町。リューベックには、ムンクがこの頃、盛んに交友した眼科医で美術愛好家のマックス・リンデがいました。その交友の間に描かれた作品でしょう。表現主義的ではありますが、落ち着いた風景画にとどまっています。


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ホアン・ミロの《コンポジション》です。1933年頃、ミロ40歳頃の作品です。バルセロナ出身のシュールレアリスムの旗手であるミロは、この作品では、不思議な形態のモティーフを画面に散りばめて、幻想的な世界を作り上げています。摩訶不思議な世界を描かせたら超1級のミロの代表的とも思える作品です。


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ベルナール・ビュッフェの《ヌード》です。1953年頃、ビュッフェ25歳頃の作品です。ビュッフェの若い頃の作品ですね。モノトーンで描かれた禁欲的とも言える裸体画です。これも美の1形態なのでしょうか。静岡県長泉町のベルナール・ビュフェ美術館(世界最大のビュッフェ作品のコレクション)をよく訪れて、彼の作品には親近感を抱いているため、こうして、海外で彼の作品を見ると、何か懐かしいものに出会ったような感懐を持ちます。


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ここまで見たところで1階の展示室は終了。あれっという感じです。ほかにも充実した作品のコレクションがある筈です。慌てて、館内案内のパンフレットを調べると、19世紀から20世紀のフランス美術が3階にあったようです。見逃していました。また、急いで、3階に戻りましょう。次はそのフランス美術の作品群を見ていきましょう。


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プラハで音楽・美術三昧:プラハ国立美術館のフランス美術・・・アンリ・ルソーからドラン

2013年6月15日土曜日@プラハ/6回目

見落としていたフランス美術を見るために3階に戻ります。
フランス系の作品では、ピカソの作品のコレクションが素晴らしく、まるで、ピカソ展を見ているような感じです。実際、これまで日本で見たピカソ展も、この美術館の収蔵品のレベルに達していないものも多いと思うほどです。特に《立つ女》の迫力には圧倒され、大変な感銘を受けます。
セザンヌ、ゴッホも素晴らしく、セザンヌ好きでないsaraiも静物の小さな絵には、とても惹かれてしまいます。
また、配偶者が評価してやまないアンリ・ルソーの《私自身、肖像=風景》はアンリ・ルソーの代表作といってもいい素晴らしい作品です。

まずはそのアンリ・ルソーの《私自身、肖像=風景》です。1890年頃、アンリ・ルソー46歳頃の作品です。アンリ・ルソーが画壇にデビューしたのは1885年、この作品が描かれた5年前に遡ります。彼はパリ市の税関職員のかたわら、あくまでも日曜画家として活動していましたが、プロの画家になりたいという強い思いが募ってきたのはこの頃です。この作品は自ら芸術家宣言をした記念碑的なもので、実際、3年後には税関職員を辞して、画業に専念することになります。この作品の背景に描かれているのは、フランス革命100周年を記念して開かれた1889年のパリ万国博覧会で、パリ市民には評判の悪かったエッフェル塔も描き込まれています。アンリ・ルソー自身は万国博覧会に通い詰めているくらい、万国博覧会がお気に入りで、エッフェル塔も無邪気に好んでいたそうです。そのエッフェル塔をバックに大きく自分の姿を画家として描くことで、己の意気込みを示しています。アンリ・ルソーは素朴派の画家の一人として、一見稚拙に思える絵画表現が逆に独特の個性を感じさせる味わい深さで今日、人気を呼んでいます。この作品も実にアンバランスな構図ですが、強調すべき対象、この場合は画家自身を大きく描き、天真爛漫な画風は不思議な魅力に満ちています。彼を高く評価したのはピカソでしたが、あまりに絵の上手すぎるピカソには、真似したくてもできないアンリ・ルソーの絵に強く惹きつけられたのでしょう。少し、絵の細部に立ち入ると、空には気球が浮かびます。アンリ・ルソーはよく気球や飛行船を好んで取り上げましたが、新しい技術・文明には、子供のようにとびつきました。手に持つパレットには、二人の女性の名前が描かれています。一人はこの作品を描く2年前に亡くした妻クレマンス、もう一人はこの頃片思いしていた女性マリー。後にマリーに失恋し、再婚した妻ジョゼフィーヌの名を代わりに描きいれます。胸にバッジを付けていますが、作品完成の14年後に地区の芸術協会の正教師になった印に贈られたもので、それを誇らしげに描き加えました。ある意味、自意識の塊のようにも見える絵ですが、画家のあまりに天真爛漫さに微笑ましく思えてしまいます。それどころか、実際に間近に見た、この作品は、色彩の見事さ、デフォルメと強調のバランスの微妙さ、等々、その素晴らしい魅力にとらわれてしまう傑作中の傑作でした。


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ピエール・ボナールの《プロヴァンスの会話(庭にて)》です。1913年から1914年頃、ボナール46~47歳頃の作品です。ボナールはナビ派の画家に分類されますが、むしろ、彼独特の作風の作品が多いように思えます。ボナールは妻マルトが病弱だったこともあり、1909年からは夏を南仏の高級リゾート地サントロペで過ごすようになりました。この作品は南仏の明るい陽光を暖色系の色彩で描いたもので、画家自身と妻マルトの語らいが描かれているようです。saraiはボナールのぼけぼけの色彩感覚は結構、苦手なのですが、画家の個性としては認めざるを得ないところもありますね。


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ボナールの《白い帽子の若い女性》です。1919年頃、ボナール52歳頃の作品です。この作品のモデルは妻マルトでしょうか。マルトは入浴姿で描かれることがほとんどで、こういうきっちりした肖像は珍しいので、別人かもしれません。それにマルトにしては若すぎるかな。ボナールにしてはクリアーな描き方の作品で好感を持てます。


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ラウル・デュフィの《港にて》です。1930年頃、デュフィ53歳頃の作品です。デュフィは「色彩の魔術師」と評されるほど、鮮やかな色彩に満ちた作品が魅力的ですが、この作品は落ち着いたシックな色調で描かれています。それでもデュフィお得意の青をベースにした色彩配置は見事です。


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デュフィの《背景に海がある静物》です。1925年頃、デュフィ48歳頃の作品です。この作品は上の作品よりもさらに渋い色調で描かれています。茶色で全体をまとめ、お洒落と言えば、お洒落に見えないこともありませんが、ちょっと、デュフィらしさに欠けるかなという印象です。


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キース・ヴァン・ドンゲンの《裸婦》です。1904年から1905年頃、ヴァン・ドンゲン27~28歳頃の作品です。ヴァン・ドンゲンはオランダ生まれで、エコール・ド・パリを代表する画家の一人。この作品を描いた頃はフォーヴィスム(野獣派)に属していましたが、ボリューム感のある女性の体がこちらに迫ってくるような迫力に満ちた作品です。女性の体が画面からはみださんばかりの力強さでエネルギーに満ちた、魅力的な作品です。


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フェルナン・レジェの《風景の中の恋人たち》です。1952年頃、レジェ71歳頃の作品です。これは笑ってしまうくらいレジェそのものといった作品ですね。レジェの作品は特徴が明快過ぎて、贋作も多いようです。贋作が多いということは魅力があることの裏返しとも言えます。モノトーンで描いた人の体の線、そして、そのモティーフと無関係に塗られた赤と緑と青の配合と調和が見事な傑作です。何と言っても、絵に安定感があるのがいいですね。


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マリー・ローランサンの《風景の中の少女たち》です。1930年代、ローランサン45~54歳頃の作品です。ローランサンはいくつになっても、こういう乙女チックな絵でとてもいいです。芸術性なんかはほうりだして、彼女の世界に浸りましょう。


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マルク・シャガールの《サーカス》です。1927年頃、シャガール40歳頃の作品です。ベラルーシ出身のシャガールは子供のときから、サーカスに親しんでいました。ただ、彼はサーカスに楽しさだけでなく、哀感も感じていたそうです。この作品が描かれた1927年にシャガールは画商ヴォラールから、一連のサーカスを題材とした版画集の制作を依頼されます。そのため、サーカス公演の指定席が与えられ、連日、サーカス見物に通いました。その過程で、この作品は連作の1枚として描かれました。この作品では、鮮やかな衣装の女性と頭飾りをつけた動物が浮遊感を持って、重なっています。そして、どこかペーソスが感じられる作品になっています。この後、サーカスはシャガールの主要な題材のひとつになります。


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モーリス・ヴラマンクの《赤い卵のある静物》です。1920年から1930年頃、ヴラマンク44~54歳頃の作品です。ヴラマンクは友人の画家ドランによって、マティスに紹介され、フォーヴィスム(野獣派)とも目されますが、本来、根っからの自由主義者で、自分の才能だけを信じ、独自の作風を貫きました。例外として、ゴッホにだけは影響を受け、チューブから絞り出した原色の絵の具を塗りたくる表現主義的な作風の時期もありました。その後、第1次世界大戦後は、フォーヴィスム(野獣派)を離れて、セザンヌに近い作風に転換します。この作品からもその一端が見えてきます。ただ、この作品もセザンヌ風のところもあるとは言え、あくまでもヴラマンク独自の個性を貫いています。孤高の画家の一人ですね。展示会でヴラマンクの作品を見ると、いつも独自の存在感を感じます


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シュザンヌ・ヴァラドンの《窓の前の花》です。1930年頃、ヴァラドン65歳頃の作品です。画家モーリス・ユトリロの母として知られるヴァラドンはもともと画家のモデル出身だったこともあり、軽く見られがちですが、その作品にはいつも感心させられます。息子ユトリロとはまったく個性が異なりますが、saraiはユトリロよりもヴァラドンの才能のほうを高く評価しています。ヴァラドンの描いた作品の多くは人物を描いたもので、この作品のような花の絵は珍しいようです。それでも彼女の特徴である簡潔な線と高いデッサン力はこの作品にも表れています。背景の額など、ジョポニズムの影響が感じらます。繊細な芸術性があふれる傑作です。


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アンドレ・ドランの《木々のある風景》です。1925年頃、ドラン45歳頃の作品です。ドランはフォーヴィスム(野獣派)の画家で、マティスと共にフォーヴィスム(野獣派)の指導的な存在でした。ただ、多彩な作風を駆使した作品を残しています。ここ時期はイタリア旅行の後、古典回帰し、落ち着いた画風の作品となっています。


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ドランの《座る女》です。1920年頃、ドラン40歳頃の作品です。この作品は翌年のイタリア旅行で古典回帰する前のものですが、比較的、落ち着いた作品になっています。


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ドランの《水差しのある静物》です。1913年頃、ドラン33歳頃の作品です。この作品はどう見ても、セザンヌの影響なしでは成立しない作品に思えます。多視点で描かれています。


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ドランの《籠のある静物》です。1914年頃、ドラン34歳頃の作品です。上の作品同様、セザンヌの影響を受け、それを自分の中に取り入れたものです。


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ドランの《水浴する人たち》です。1908年頃、ドラン28歳頃の作品です。この作品はフォーヴィスム(野獣派)そのものいう感じですね。傑作です。


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ドランの《モントルイユ・シュル・メール(Montreuil-sur-Mer)》です。1910年頃、ドラン30歳頃の作品です。モントルイユ・シュル・メールはフランスの大西洋に面した港町。この作品もセザンヌの面で構成する風景画の影響が感じられます。見事な完成度の傑作です。色彩の調和が何とも魅力的です。


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ドランの《カダケスの風景(Cadaques)》です。1910年頃、ドラン30歳頃の作品です。カダケスはフランスに近いスペインの港町。上の作品と同一のシリーズですね。このパターンはすっかり完成形となったようで、いずれも見事な傑作です。抑制した色使いの見事なことには脱帽です。


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フランス美術の膨大なコレクションはまだまだ続きます。


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ミュンヘンで最後のお楽しみ

今、ミュンヘンの空港で搭乗待ち。トランジットのミュンヘンで最後の悪あがき。ミュンヘンの美味しい朝ごはん(白ソーセージ、白ビール)を食べ、青騎士の館、レンバッハ美術館で素晴らしい絵画を鑑賞しました。搭乗が始まりました。さあ、帰るぞ!!



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プラハで音楽・美術三昧:プラハ国立美術館のフランス美術・・・ルノアール、ピサロ、モネ、ドガ

2013年6月15日土曜日@プラハ/7回目

プラハ国立美術館Národní galerie v Prazeの膨大で質の高いフランス美術作品を鑑賞しています。
今回はフランス印象派の作品を見ていきます。

オーギュスト・ルノアールの《恋人たち》です。1875年頃、ルノアール34歳頃の作品です。構図はルノアールらしくない感じですが、女性の明るい表情はルノアールそのものです。あえて、男性の顔は描かないのがルノアールですね。佳作といったところでしょうか。


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カミーユ・ピサロの《ポントワーズ》です。1867年頃、ピサロ37歳頃の作品です。ポントワーズはパリから1時間ほどの街ですが、かって、印象派の画家たちが滞在したことで知られています。特にピサロはたびたび滞在し、彼の名前を冠した美術館があるほど、ピサロとポントワーズの街は強いつながりを持っています。当時のポントワーズは緑豊かな街で、この作品では、その長閑な光景が描かれています。画風はまだ印象派の特徴を表しておらず、コローのような自然主義を感じさせます。


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ピサロの《Val Hermeilの庭》です。1880年頃、ピサロ50歳頃の作品です。上の作品から10年以上を経て、この作品では、ほかの印象派の画家たちの影響を受けて、絵の具を混ぜない技法に変わり、画面も光鮮やかになりました。これこそ、我々が知るピサロの光り輝く絵です。印象派としてのピサロを代表する作品のひとつです。


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ピサロの《キッチンガーデンにて》です。1881年頃、ピサロ51歳頃の作品です。この作品では、珍しく、風景の中に人物が大きく描かれています。今一つ、風景と人物の調和がうまくいっていない印象で残念です。風景主体に描いてほしかったところです。


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クロード・モネの《花咲く果樹園》です。1879年頃、モネ39歳頃の作品です。とても美しい作品です。モネ本来の光の表現はもうひとつでしょうか。


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クロード・モネの《花の中の2人の女性》です。1875年頃、モネ35歳頃の作品です。これは華やかな印象派の作品ですね。こういう絵はモネとルノアールにしか描けませんね。光鮮やかな花々と女性の明るい顔、幸福感が画面から満ち溢れてきます。見ているこちらの気持ちも明るくなるような絵です。


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エドガー・ドガの《パガン(葉巻を持つ男)》です。1882年頃、ドガ48歳頃の作品です。この作品のモデルは当時人気のあったスペイン人の歌手ロレンソ・パガンのようです。10年以上前にも肖像ではなく、ギターを持って演奏する場面を描いています。余程、懇意だったんでしょう。この作品は印象派の作品とは言えませんね。美術アカデミーの師ドミニク・アングルゆずりの類まれなるデッサン力で描き上げたルネサンス以来の伝統的なスタイルの肖像画です。これほど見事な肖像画が描ければ、十分に肖像画家としてもやっていけたでしょうが、それでは今日ほどの評価は得られなかったかもしれません。後世に名を残すためには、やはり、画家独自のスタイルが必要ですね。特に近代絵画においてはそれは必須要件です。


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フランス美術はまだまだ続きます。


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プラハで音楽・美術三昧:プラハ国立美術館のフランス美術・・・ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌ

2013年6月15日土曜日@プラハ/8回目

プラハ国立美術館Národní galerie v Prazeの膨大で質の高いフランス美術作品を鑑賞しています。
今回はいわゆるポスト印象派(昔は後期印象派とも呼ばれていましたが、原語のPost-Impressionismの訳語が変わっただけです)の巨匠ゴーギャン、ゴッホ、セザンヌの作品を見ていきます。

フィンセント・ファン・ゴッホの《緑の麦畑》です。1889年、ゴッホ36歳の作品です。ゴッホとゴーギャンはアルルで共同生活をしますが、2人は決定的な対立をした挙句、ゴッホが自らの耳を切り落とすというショッキングな事件を起こし、幕を閉じます。その翌年の1889年5月にゴッホは自分の意思でアルル郊外のサンレミの精神病院に入院します。入院生活はほぼ1年間におよび、その後、パリから北西へ30キロ余り離れたオーヴェル=シュル=オワーズに移り、3カ月後に非業の死を遂げます。サンレミでの1年間は、病院の1室をアトリエとして使うことを許され、《アイリス》、《星月夜》、《二本の糸杉》などの傑作を次々と創作します。この作品は病室の窓から見える麦畑を描いたものです。緑の麦畑とともに天にうねるように立ち上がる糸杉の燃えるような生命力に感銘を受けます。ゴッホの渾身の傑作のひとつですね。ゴッホ好きのsaraiにはたまらない1枚です。


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ポール・ゴーギャンの《こんにちは、ゴーギャンさん》です。1889年、ゴーギャン41歳の作品です。ゴーギャンはゴッホとの共同生活に終止符を打った後、再び、1886年から創作活動の拠点としていた、ブルターニュ地方のポン=タヴァンに戻ります。ポン=タヴァンでは、ベルナール、ドニ、ラヴァルらの画家とグループを作っていましたが、このグループはポン=タヴァン派と呼ばれ、ゴーギャンがその中心人物でした。この作品は画家グループで借りていた共同アトリエの入り口の前に立つゴーギャン自身を描いた全身自画像です。この作品制作のもとになったのは、クールベの《出会い(こんにちは、クールベさん)》です。ゴッホと共同生活中の1988年12月に連れ立って、南仏モンペリエのファーブル美術館に出かけて、そこでクールベの作品を見たそうです。ゴーギャンのポン=タヴァン時代を代表する名作です。


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ポール・ゴーギャンの《パリスの審判》です。1902年頃、ゴーギャン54歳頃の作品です。この作品が描かれた前年にゴーギャンは文明化されたタヒチにも絶望し、そこから1500km離れたフランス領ポリネシアのマルキーズ諸島のヒバ・オア島に移り、2年後に帰らぬ人となります。この作品はギリシア神話の《パリスの審判》をテーマに、それをタヒチ、あるいはポリネシアを舞台に描いた晩年の作品です。この作品には最初にタヒチを訪れたときのような強烈な野生味はもう感じられません。むしろ、画家の平静とも思える心情が漂っているかのようです。


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ポール・ゴーギャンの《飛行(タヒチの偶像)》です。1902年頃、ゴーギャン54歳頃の作品です。上の作品と同時期に描かれたものです。これもタヒチを描いたものか、マルキーズを描いたものか、判然としませんが、題名からはタヒチを思い出して、描いたのかもしれません。野性味のあるタヒチの女性の残照が感じられる1枚です。


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ポール・ゴーギャンの《孔雀とともの女》です。1903年頃、ゴーギャン55歳頃の作品です。最晩年の珍しい木彫(菩提樹)のレリーフです。極度に単純化されたモティーフの捉え方が印象的です。


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ポール・セザンヌの《果物》です。1875年頃、セザンヌ36歳頃の作品です。セザンヌは1860年代という早い時期から静物画を描いていました。初期の静物画は横1列に食器や果物を並べたシャルダンからの流れをくむもので、後の多視点で捉える立体的な静物画に向けて、少しずつ前進していきます。この作品はその途上のものですが、果物の質感の素晴らしさは既にこの頃には完成していたようです。皿の上の果物は盛り上がるような立体感で描かれています。


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ポール・セザンヌの《エクサン・プロヴァンスの家》です。1885年から1887年頃、セザンヌ46~48歳頃の作品です。この時期、セザンヌは17年間同棲していたオルタンス・フィケと正式に結婚し、その数カ月後には裕福な銀行家だった父親が亡くなり、莫大な遺産を継ぎ、経済的な不安なしで創作活動に励むことができるようになります。郷里のエクサン・プロヴァンスでの制作活動も増え、この作品もその過程で描かれたものです。この作品は印象派の移ろう光の表現を脱し、モティーフを面の集合体として捉えるセザンヌらしい技法が見えます。後に色のブロックでモザイク画のように風景を描くセザンヌの世界がこの頃から始まりました。こういう風景の捉え方は後に続く、青騎士にも多大な影響がみられます。時代の先駆者としてのセザンヌの名作の1枚です。


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ポール・セザンヌの《ジョアシャン・ギャスケの肖像》です。1896年から1897年頃、セザンヌ57~58歳頃の作品です。絵のモデルのジョアシャン・ギャスケはセザンヌの旧友でパン屋のギャスケの息子。1896年の春に知り合います。ジョアシャンは長じて、詩人となり、《セザンヌ伝》を著します。この頃、23歳のジョアシャンは熱狂的にセザンヌを崇拝し、心からの賞賛をセザンヌに贈りました。その言葉に制作意欲をかきたてられたセザンヌはこの肖像画を描き、ジョアシャンの気持ちに応えます。セザンヌの円熟した技量で見事に描かれた作品です。セザンヌの肖像画は妻のオルスタンスを始め、知人を描くことがほとんどでしたが、いずれも対象の個性を捉えた名作ばかりです。


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フランス美術はまだまだ続きます。


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プラハで音楽・美術三昧:プラハ国立美術館のフランス美術・・・マティス、スーラ、シニャック、ロートレック

2013年6月15日土曜日@プラハ/9回目

プラハ国立美術館Národní galerie v Prazeの膨大で質の高いフランス美術作品を鑑賞しています。
今回は印象派、ポスト印象派、キュビズム以外の巨匠マティス、ルオー、スーラ、シニャック、ロートレック、シャヴァンヌ、マネの作品を見ていきます。

アンリ・マティスの《ホアキナ(Joaquina)》です。1910年頃、マティス41歳頃の作品です。人物を描かせてもマティスはやはり卓越した色彩感覚で作品を創り上げます。背景と衣装を鮮やかな暖色系の色彩でまとめ、独特の雰囲気を醸し出しています。


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ジョルジュ・ルオーの《3人のヌードの女性》です。1914年頃、ルオー43歳頃の作品です。黒く隈取りされた人体の力強さ、その背景に赤と緑の色彩を配置、いかにもルオーらしい作品に仕上がっています。


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ジョルジュ・ルオーの《居酒屋にて》です。1914年頃、ルオー43歳頃の作品です。居酒屋のテーブルを囲む男達のごつごつした雰囲気が作品にインパクトを与えています。


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ジョルジュ・スーラの《オンフルール港の船》です。1886年頃、スーラ27歳頃の作品です。スーラは厳密な色彩理論に基づく点描法を編み出した新印象派の画家です。オンフルールは画家ブータンの生まれた港町で、印象派の画家たちもしばしば立ち寄って創作に励みましたが、スーラはこのオンフルールを違った視点で描き出しました。実に緻密に描かれた風景は明快な画像を実現しています。


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ポール・シニャックの《セーヌ川の蒸気船イロンデル》です。1901年頃、シニャック38歳頃の作品です。スーラとともに新印象派を代表する画家シニャック。彼が描き出したセーヌ川の風景は幻想的な雰囲気をたたえています。シニャック渾身の一枚です。


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アンリ・ド・トゥールーズ・ロートレックの《ムーラン・ルージュ》です。1892年頃、ロートレック28歳頃の作品です。パリの華やかな夜の雰囲気を描き出した傑作です。


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ピエール・ピュヴィ・ド・シャヴァンヌの《秋、習作》です。1864年以前、シャヴァンヌ40歳以前の作品です。シャヴァンヌはモローやルドンと並ぶ象徴主義の芸術家ですが、彼の真骨頂は壁画作成にありました。先日のシャヴァンヌ展@BUNKAMURAでも、壁画の下絵、習作が多く展示されていました。古代の1場面を切り取ったような壁画がシャヴァンヌの世界です。この作品もその系列上の1枚です。典雅な雰囲気がとても美しいです。


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エドゥアール・マネの《男の肖像(アントニン・プルースト?)》です。1855年から1856年頃、マネ23~24歳頃の作品です。黒の背景の上にくっきりと凛とした男の表情が見事に描き出されています。マネの絵画は好みではありませんが、黒をベースにした作品の見事さだけには舌を巻きます。


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フランス美術はあと少し続きます。ブラックとピカソです。


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プラハで音楽・美術三昧:プラハ国立美術館のフランス美術・・・ピカソ、ブラック1回目

2013年6月15日土曜日@プラハ/10回目

プラハ国立美術館Národní galerie v Prazeの膨大で質の高いフランス美術作品を鑑賞しています。

今回からはフランス美術の最後を飾り、キュビズムの始祖ピカソ、ブラックの作品を見ていきます。キュビズムはこの2人の共同作業で生み出されたものでもあるので、2人の作品を一緒にして、年代順に見ていきましょう。このプラハ国立美術館のピカソにかける情熱はなかなかのもので、ピカソの作品だけは茶色い壁に展示し、まるで、ピカソ展示室のようにしています。ピカソの傑作が20枚もあるので、それももっともです。壁が色分けされた展示室の様子をご覧ください。


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それでは、膨大なピカソとブラックの作品群を見ていきます。

パブロ・ピカソの《座るヌード》です。1906年頃、ピカソ25歳頃の作品です。ピカソは青の時代を過ぎ、薔薇色の時代にはいっていました。1906年の夏、ピカソは恋人のフェルナンド・オリビエとともにスペインに旅立ちます。ピカソはピレネー山脈の南のゴソル村で新しいスタイルの絵画を描き始めます。スペインに旅立つ前、ピカソは当時発見されたイベリア彫刻の展覧会を見て、非常に強い感銘を受けました。自分のこれまでの絵画にはまったくなかった要素、粗野で荒削りな造形にこれからの自分の創造活動への強いインスピレーションを受けたんです。ピカソの天才たるところは、実は他者の創った美への類まれなる審美眼ではないかとsaraiは思っています。このときはピカソの人生で最大とも言える転機になりました。この作品もそれまでのピカソには考えられなかった力強さがあります。どっしりとした女性の安定感・重量感、仮面のような表情、これらはすべて、イベリア彫刻をピカソが消化して、新たな芸術として変換したものです。そして、これが革命的なキュビズムへの第1歩となります。


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パブロ・ピカソの《女》です。1907年頃、ピカソ26歳頃の作品です。1907年はピカソにとっても、20世紀美術にとっても、エポックメーキングな年になりました。美術の新たな地平を開くことになる《アヴィニョンの娘たち》が描かれます。この作品も《アヴィニョンの娘たち》で描かれている娘たちの仮面のような顔が描かれています。前年のイベリア彫刻からの発展がここに見られます。キュビズムはもうすぐそこまで来ています。


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パブロ・ピカソの《女性のバスト》です。1908年頃、ピカソ27歳頃の作品です。《アヴィニョンの娘たち》の翌年の作品です。無表情な女性の顔、そして、木彫のような顔は既にキュビズム的になり、立体的な描き方です。ピカソが少しずつ前進しています。


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パブロ・ピカソの《ハルレキン》です。1908年から1909年頃、ピカソ27~28歳頃の作品です。ハルレキンはイタリアのコメディー劇によく登場する人物です。そのハルレキンをモデルにして、人物を立体的な要素に分解して描くキュビズム技法が進展しています。


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パブロ・ピカソの《女性の頭部(フェルナンド)》です。1909年頃、ピカソ28歳頃の作品です。少し首を傾けたメランコリックな表情の女性の頭部の彫像ですが、これはとても珍しいキュビズム彫刻です。少なくともsaraiはピカソのキュビズム彫刻は初めて見ました。この女性は当時の恋人、フェルナンド・オリビエです。ピカソはこうして、キュビズムの創生に立ち向かっていたのですね。


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パブロ・ピカソの《橋のある風景》です。1909年頃、ピカソ28歳頃の作品です。ピカソは人物に続いて、風景までもブロックを積み上げたようなキュビズム技法で描くようになります。既にブラックも独立して、同様な描き方で《レスタックの家》を描き上げていました。ブラックは詩人アポリネールに連れられて、ピカソのアトリエを訪れて、ピカソの《アヴィニョンの娘たち》を見て、その作品に触発されたこととセザンヌの影響を受けて、1908年に《レスタックの家》などのキュビズムの風景作品を描きました。キュビズムという名称は、このブラックの作品を見たジャーナリストの「ブラックは大まじめで風景や人物、家を立方体(キューブ)にしている」という皮肉った評論によるものです。ピカソもブラックの絵を見て、自分が描いた風景画と似ていると驚いたそうです。ピカソのこの作品もあるいはブラックの《レスタックの家》の影響を受けているものかも知れません。というのも、これ以降、2人は共同のアトリエでキュビズム作品の作成に熱中していくことになるからです。この年からは2人の作品は急速に似通っていきます。よくよく見ても、どちらがどちらの作品か、見分けがつかないほどです。キュビズムはこの2人の共同作業で完成されていくことになります。


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ジョルジュ・ブラックの《静物(ヴァイオリンとグラス)》です。1910年頃、ブラック28歳頃の作品です。ブラックとピカソはアトリエの静物を、あまり色を使わずに、形態を切り詰めていって、どこまで表現できるか、実験していきます。この作品でも、ヴァイオリンとグラスをバラバラに分解し、その断片の集積を構成することで、リズミカルな表現を実現しています。具象に基づく抽象の美がここにあります。


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パブロ・ピカソの《アームチェアーの女性》です。1910年頃、ピカソ29歳頃の作品です。上のブラックの作品が描かれた同じ年のピカソの作品です。まったくもって、素晴らしい作品です。こういう絵を見ると、もう、具象とか抽象とかは関係なく、芸術の基本、《美》を感ずるのみです。これがアームチェアーに座る女性に見えようとも見えなくとも、ただただ、その美しい絵画表現にため息をつくだけです。


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パブロ・ピカソの《カダケスの港》です。1910年頃、ピカソ29歳頃の作品です。カダケスはフランスに近いスペインの港町。この美術館には、ドランが描いたカダケスの港の風景もありましたね。もちろん、そちらは具象画でした。これがピカソの描くキュビズムの風景画です。同じキュビズムといっても、色々な表現を模索していたことが分かります。


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ブラックとピカソが始めたキュビズムの作品をもっと鑑賞していきましょう。次も、ブラックとピカソが続きます。


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プラハで音楽・美術三昧:プラハ国立美術館のフランス美術・・・ピカソ、ブラック2回目

2013年6月15日土曜日@プラハ/11回目

プラハ国立美術館Národní galerie v Prazeの素晴らしいピカソとブラックのコレクションを前回に引き続いて見ていきます。キュビズムの精華がここにあります。

パブロ・ピカソの《ボクサー》です。1911年頃、ピカソ30歳頃の作品です。ピカソとブラックが共同して熱中した作業はキュビズムを極限まで進めていくことになります。ブラックは「ピカソと僕は、ロープでつながれた登山家のようだった」と語ったそうです。キュビズムという未踏峰を2人で一緒に登っていったのでした。モティーフは極限まで分解されて、もはや、元の形を留めないところに達していきます。分析的キュビズム(Analytical Cubism)の完成です。この作品ももはや、モティーフであるボクサーの姿は認められません。モティーフの断片によって構成された画面の抽象的な模様と色彩に新たな美を見い出すのみです。


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パブロ・ピカソの《マンドリンとペルノーのグラス》です。1911年頃、ピカソ30歳頃の作品です。ペルノーはピカソが愛飲していたアブサンです。ピカソはきっとアブサンを飲みながら、より抽象性の高い絵画を目指していたのかもしれません。それにしても、こういう先鋭的な絵画は当時の人々に簡単に受け入れられた筈はありません。若き画商カーワイラーは彼ら2人が共同アトリエで次々と産み出していくキュビズム絵画を一般大衆には秘密にして、公開しなかったようです。後になって、公開したのは、ある程度、キュビズム絵画が理解されて、人気を呼び始めてからです。画商カーワイラーの戦略は結果的にキュビズムの進展に大いに寄与することになりました。この作品は極限までモティーフを分解した分析的キュビズムの1枚です。


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パブロ・ピカソの《クラリネット》です。1911年頃、ピカソ30歳頃の作品です。何故か、キュビズム絵画のモティーフは楽器が多いですね。複雑な形状で、丸みを帯びた楽器の形態がキュビズムによくあったということなのでしょうか。この作品はクラリネットを題材にしていますが、一部の断片が認められるだけです。この作品は断片を切り取ったシャープな線が際立っていて、saraiのとても好きな作品です。分析的キュビズムの傑作と言えます。それにしても、ピカソの美的センスには驚嘆します。


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パブロ・ピカソの《ギターを弾く女(ギターを弾く闘牛士)》です。1911年頃、ピカソ30歳頃の作品です。この作品も分析的キュビズムの傑作です。モティーフが楽器であろうが、人物であろうが、関係ありません。題名にあるように、その人物が女性であろうが、闘牛士であろうが関係ありません。ここにあるのは美そのものですからね。何と美しい作品なのでしょう。


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ジョルジュ・ブラックの《ヴァイオリンとクラリネット》です。1912年頃、ブラック30歳頃の作品です。このブラックの作品はそれまでの分析的キュビズムをさらに進展させたものです。極限までモティーフを分解した断片の集積の上に、具象的とも言える文字や印刷物や布きれを貼り付ける新たな手法です。パピエ・コレ(貼り紙)と呼ばれる手法は、あるがままのものをコラージュすることで、抽象性と具象性の合体とも言える効果を生み出します。これにより、真に20世紀美術の幕開けとなります。芸術家がどこにでもあるものを自分の感性で組み合わせるだけで、それが芸術になる・・・この行き着く先にマルセル・デュシャンのいわゆる「レディ・メイド」があります。しかし、それは本題ではないので、ここでは深入りはやめておきましょう。このブラックの作品は総合的キュビズム(Synthetic Cubism)の誕生を告げるものです。BACHの文字が見えますが、作曲家のバッハを示すものでしょう。分解されて、形を成さない楽器と具体的な音楽家の名前の組み合わせ。何て自由な発想なんでしょう。


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パブロ・ピカソの《アブサンとトランプカード》です。1912年頃、ピカソ31歳頃の作品です。一方のピカソも負けずに、総合的キュビズムの作品を描き上げます。アブサンとトランプカードというモティーフは分解されて、形をなくしていますが、その上に、トランプのJACKの文字やハートのマークを貼り付けます。抽象化したものに具体的な名票を与えるというアイディアです。パピエ・コレとしてはまだ、中途半端かもしれませんが、何せ発展途上ですからね。


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パブロ・ピカソの《ポークカツレツ》です。1912年頃、ピカソ31歳頃の作品です。これも同時期の作品です。CAFEの文字が付け加えられただけですが、形をなくしたポークカツレツに具体的な意味を添えています。


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パブロ・ピカソの《ヴァイオリン、グラス、パイプと錨(ル・アーブルのお土産)》です。1912年頃、ピカソ31歳頃の作品です。この作品では、ピカソも一挙に総合的キュビズムの世界を完成させています。素晴らしいパピエ・コレです。そして、ここでは、具象的な文字さえも、断片化されつつあります。Le Havre(ル・アーブル)の文字列も部分的に切り取られています。手法そのものはさておき、この作品の美しさは実に見事です。新しい手法をベースにして、美的センスを思い切り発揮するのが、ピカソの真骨頂と言えますね。ピカソは生涯で何度もスタイルを変えて、カメレオンとも呼ばれますが、どんなスタイルでも一貫して、真の美を追求した画家です。


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ピカソとブラックがキュビズムに熱中した成果の数々を見てきました。このあたりがある意味、2人のキュビズム芸術の頂点でしょう。共同制作に区切りをつけ、2人は新たな道を求めていきます。次はそれらを見て、ピカソとブラックの芸術をしめくくります。


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プラハで音楽・美術三昧:プラハ国立美術館のフランス美術・・・ピカソ、ブラック3回目(完)

2013年6月15日土曜日@プラハ/12回目

プラハ国立美術館Národní galerie v Prazeの素晴らしいピカソとブラックのコレクションを引き続いて見ていきます。キュビズムの先に何があるのでしょう。

パブロ・ピカソの《ギターとガスバーナー》です。1913年頃、ピカソ32歳頃の作品です。この作品では、これまでのキュビズム作品の厳しく色彩の抑制と徹底したモティーフの分解が少し緩やかになり、変化の兆しが見られます。


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ジョルジュ・ブラックの《ギターのある静物Ⅰ》です。1920年から1921年頃、ブラック38~39歳頃の作品です。ブラックは1914年に勃発した第1次世界大戦に出兵し、負傷を負います。アトリエに戻ったブラックはふたたび、絵を描き始めます。キュビズム絵画の名残りは残していますが、色彩の戻った静物画や裸婦を描きます。ピカソとともにキュビズムに熱中した時代は既に過去のこととなりました。この作品ではモティーフのギターは分解されていません。パピエ・コレ(貼り紙)が使われてはいますが、落ち着いた絵画です。


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パブロ・ピカソの《立つ女》です。1921年頃、ピカソ40歳頃の作品です。ピカソはこの時期、キュビズムから古典的な絵画に転じていきます。この時期に先立つ1917年、ピカソはセルゲイ・ディアギレフ率いるロシア・バレエ団の舞台装飾の役割を担って、バレエ団に同行して、数か月にわたって、イタリアを旅します。そこでピカソはポンペイの遺跡などの古代の美術に触れます。これが古典的な絵画への引き金になりました。ちなみにピカソはそのときからバレエの舞台装飾をてがけ、『パラード』、『三角帽子』などの装置、衣装をデザインします。また、このバレエ装飾の仕事を通じて、バレリーナで貴族出身のオルガ・コクローヴァと知り合い、1918年に結婚しました。ピカソはイタリア旅行を契機にこのオルガやほかのモデルを題材にして、古代女神像を思わせる作品を描くようになります。この作品もそういう流れで産み出されました。それにしても、ピカソの描く女性の安定した重量感はさすがです。


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ジョルジュ・ブラックの《ギターのある静物Ⅱ》です。1921年から1922年頃、ブラック39~40歳頃の作品です。ブラックはアトリエでの静物画を次々に描きます。この作品もコラージュの技法だけはキュビズム時代の遺産として使いますが、実に落ち着いた作品です。画家自身も、自分のことをもう革命的でも熱狂的でもないと語っていたそうです。ブラックは青春時代は戻ってこない年齢にさしかかっていました。


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ジョルジュ・ブラックの《ぶどうのある静物》です。1922年頃、ブラック40歳頃の作品です。この作品はもはや、普通の静物画ですね。この後、ブラックはアトリエで静かに創作活動を続けていきますが、明るい色彩の落ち着きのある絵画を描くだけでした。


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パブロ・ピカソの《ガーターのある静物》です。1922年頃、ピカソ41歳頃の作品です。こちらは同時期のピカソの描いた静物画です。ブラックに呼応するかのように、モティーフのデフォルメはあっても要素分解はありません。脱キュビズムですね。しかし、技法はどうであれ、ピカソの描く絵画は常に美的センスに満ちています。俗な表現で言えば、《お洒落》な作品です。構図と言い、色彩と言い、パーフェクトではありませんか。


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パブロ・ピカソの《灰色の頭(ドラ・マール)》です。1941年頃、ピカソ60歳頃の作品です。上の作品から20年後に描かれた作品です。ピカソはオルガとの結婚後も恋多き人生を送ります。1936年から1945年までは、カメラマンで画家のドラ・マールと愛人関係を持ちました。それをバネに創作を続けるピカソも立派と言えば立派です。この作品はそのドラ・マールをモデルにピカソ流に仕上げたものです。ちなみにこの時期に描いた作品のひとつが人類の遺産とも言える《ゲルニカ》です。


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パブロ・ピカソの《サビニの娘たちの掠奪》です。1962年頃、ピカソ81歳頃の作品です。ピカソは1973年に亡くなりますが、この時期、80歳を超えても創作力は旺盛でした。この作品についてはその制作の背景を説明する必要があります。ピカソは人類の平和、反戦を訴えて、1937年にドイツ空軍遠征隊「コンドル軍団」のゲルニカ爆撃を非難した大作《ゲルニカ》を描きましたが、彼の心の中に平和を希求する灯は燃え続けていました。そして、この1962年、当時の世界を2分していた超大国のアメリカ合衆国とソ連の冷戦が一触即発の事態にエスカレートしたキューバ危機が起こります。ケネディの危険な賭けにフルシチョフが妥協した形で一応、危機は回避されましたが、このことにピカソは大きなショックを受けます。そして、また、25年前の《ゲルニカ》に続き、平和を願う作品を描き上げます。それがこの《サビニの娘たちの掠奪》です。この年と翌年にかけて、同じテーマで5枚の作品が描かれますが、この作品もその1枚です。最も有名な作品はボストン美術館に所蔵されていて、多分、今年、日本でも公開されるようです。ピカソのファンは《ゲルニカ》と《サビニの娘たちの掠奪》は必見です。《サビニの娘たちの掠奪》は題材を古代ローマの建国のときの歴史からとっています。古代ローマを建国した王ロームルスは自国に適齢の女性が少ないことから、隣国のサビニ族の娘たちに目をつけ、次世代の子供たちを産ませるために、サビニ族の娘たちを掠奪して、無理やりに結婚させて、子供を産ませます。もちろん、サビニ族も黙って見逃すわけではありません。そして、両国の存亡をかけた戦争に突入します。その戦いが最終局面に達したとき、掠奪婚させられて、子供まで産まされたサビニ族の女性たちが戦場に割って入り、両者を和解させようとしました。女性たちにとっては、それまでのいきさつはともかく、現実には、自分の親・兄弟たちと自分の夫・義父たちが命を奪いあっているという悲劇に直面していたわけです。結局、その仲介が実り、両国は和解の上、サビニ人とローマ人は共同統治の一つの国家を形成することに合意します。この結果、古代ローマの基盤が固まることになったわけです。ピカソはこの平和が実現した物語を題材に筆をとりました。ピカソは過去にこの主題を描いたニコラ・プッサンの2枚の絵画(メトロポリタン美術館とルーブル美術館に所蔵)とジャック=ルイ・ダヴィッドが戦争中の両軍に女たちが割って入った場面を描いた絵画(ルーブル美術館に所蔵)を下敷きにして、再構成しました。このプラハ国立美術館所蔵の作品に描かれている、手前の戦場で女性が子供を前に置いて両軍の間に割って入っているところはダヴィッドの作品とまったく同じ構図になっています。多分、この作品をもとにして、ボストン美術館にある傑作が描かれたと思われます。巨匠ピカソが晩年に描いた作品を見ながら、saraiもその平和にかける志を受け継ぎたいと心から思うものです。


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プラハ国立美術館には、ピカソの膨大なコレクションがありますが、青の時代の作品は1枚もなく、キュビズム作品に集中していたのが潔いと感じます。ピカソとブラックの青年時代はキュビズムへの熱狂に捧げられて、20世紀美術を大きく前進させることになりました。それが体感できる素晴らしいコレクションをフランス美術の展示の最後に見ることができました。

これでプラハ国立美術館の全展示を見終わったと思っていましたが、実は思ってもいなかった特別展示が待っていてくれたんです。


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プラハで音楽・美術三昧:プラハ国立美術館の特別展、ミュシャの畢生の大作《スラヴ叙事詩》その1

2013年6月15日土曜日@プラハ/13回目

プラハ国立美術館Národní galerie v Prazeの素晴らしい展示を見終えて、満足してベース階に下りてきます。帰ろうとすると、何やら、ここでも展示を行っています。今日は特別展を開催中のようです。何と、ミュシャの渾身の名作、大作にして連作の《スラヴ叙事詩》全20枚が1フロアすべてを使って、一挙公開中です。展示室に入ると、あまりに大きな絵なので、一瞬、絵画ではなく、スクリーンに映写しているのかと勘違いするほどです。ちゃんと実物が公開されていて、びっくりです。

まず、この《スラヴ叙事詩》の成り立ちについて、振り返ってみましょう。ミュシャはチェコの片田舎、モラヴィア地方南部の寒村で裁判所の官吏の息子として生れました。当時、チェコはハプスブルグ帝国に属し、ミュシャが7歳のとき、オーストリア・ハンガリー二重帝国が誕生。チェコは自由と独立を求める長い闘争の中にありました。その後、ミュシャはパリで美しいポスター画を描き、新世代のアール・ヌーヴォーの旗手として、一世を風靡することになります。人気画家に仲間入りしたミュシャでしたが、このまま、一介のポスター画家で終わっていいのかという迷いが生まれてきていたようです。そして、その後の人生を大きく変えることになるのが1900年のパリ万国博覧会への参加でした。ミュシャは祖国と同じスラヴ民族で構成されるボスニア・ヘルツェゴビナのパヴィリオンの装飾の仕事を引き受けます。スラヴ民族の歴史の壁画を作成していく過程で自らのスラヴ民族の血に目覚めていきます。4年後、新たな創造活動の地として選んだアメリカに渡りますが、大西洋を渡る船上でチェコの作家アロイス・イセーラクの歴史小説「すべてに抗って」を読み、アメリカでチェコの作曲家スメタナの交響詩「わが祖国」を聴き、ミュシャはその後の画家人生をスラヴ民族のために捧げることを決意します。作家イセーラク、作曲家スメタナと同様に、ミュシャは美術の分野でスラヴ民族の魂を描き、民族の団結とヨーロッパ平和を訴えていきたいというのがミュシャの思いでした。そのミュシャを親スラヴのアメリカ人大富豪のチャールズ・クレインが援助してくれることになり、ミュシャは1910年に祖国チェコに戻り、創作にとりかかることになります。それが《スラヴ叙事詩》です。
《スラヴ叙事詩》はスラヴ民族の創生に始まる壮大な歴史を描いたものです。内容はチェコの歴史10枚、そのほかのスラヴ民族の歴史10枚ですが、あえて、流血の場面は避け、虐げられたスラヴの民が平和に尽くす場面を幻想的に描き出しました。縦横4mを超す連作を描くためにミュシャは西ボヘミアの古城ズビロフ城にこもり、16年もの歳月をかけて、1926年に遂に全20枚の《スラヴ叙事詩》を完成します。その間、第1次世界大戦が勃発し、その結果、オーストリア・ハンガリー二重帝国が崩壊し、チェコスロバキア共和国が誕生します。ミュシャが完成した《スラヴ叙事詩》をプラハ市に寄贈しますが、そのときには既に画家が絵画に込めたチェコの愛国心は不必要なものになっていました。その結果、この作品は不遇な運命をたどることになります。1928年に記念博覧会で展示されますが、その後は公開されることはありませんでした。ミュシャが1939年に亡くなった後もその状況は続きます。

チェコスロバキア共和国は第2次世界大戦後、東側の勢力下にとりこまれます。そして、あの歴史的な事件、1989年の「ビロード革命」が起き、新たなチェコが誕生します。それを契機に永らく未公開だった《スラヴ叙事詩》がミュシャの生地、南モラヴィア地方のモラスキー・クルムロフ城で毎年、春から秋のシーズンに公開されるようになり、ようやく、日の目を見られるようになりました。《スラヴ叙事詩》は第2次世界大戦中にいくつかの場所に隠され、転々とした後、1963年からモラスキー・クルムロフ城に仮に管理されていました。
ところがこれからドタバタ劇が起きます。《スラヴ叙事詩》はそもそもプラハ市に寄贈されたもので、ミュシャの遺言でプラハの専用の場所で公開されることを求められていたんです。プラハが世界の人気の観光地となった今、観光客にも人気のミュシャの大作を観光に不便な地方の城に置いていては、いかにももったいないと思ったのかどうかは定かではありませんが、《スラヴ叙事詩》はプラハに移されることになります。しかし、唯一の観光資源として《スラヴ叙事詩》を手放したくないモラスキー・クルムロフ城は裁判に訴えて、《スラヴ叙事詩》を手元に置こうとします。結局、現時点では最終的な解決には至っていませんが、2012年5月から暫定的にヴィレトゥルジェニー宮殿Veletržní palácで公開されるようになりました。ヴィレトゥルジェニー宮殿での公開時期は2013年9月末までということでしたが、徐々に延長されて、今は2015年12月末までの限定展示ということになっています。

ということは、saraiが訪れた2013年6月はちょうど、ここで公開され始めて1年が経過したときでした。ちなみにヴィレトゥルジェニー宮殿はチェコスロバキア共和国がオーストリア・ハンガリー二重帝国から1918年に独立を果たしてから丁度10周年を迎えた1928年に博覧会場として新築され、そこで記念に《スラヴ叙事詩》が初めて披露されました。今回の《スラヴ叙事詩》の展示は初披露のときと同じ配置を踏襲しているそうです。ここでの展示は暫定展示ということですが、saraiの感覚では、パーフェクトな展示に思えます。ずっと、このままの展示が続けられてもよいのではと感じます。

ところで、一度にこれだけの連作絵画を鑑賞するのは、限界を超えています。あくまでも表面をなぞっただけの鑑賞になってしまいます。すべての作品が幻想的に描かれ、一枚一枚、趣きを変え、また、一枚の作品の中にもいろいろな要素が詰まっています。前置きが長くなりましたが、順に作品を見ていきましょう。

1.原故郷のスラヴ民族 1912年、610×810cm
   Slovaně v pravlasti

スラヴ民族はその歴史の開始点では、黒海とバルト海の間、すなわち、現在紛争中のウクライナ付近で狩猟と農耕を平和に営んでいました。しかし、民族大移動によって脅威にさらされてしまいます。この作品の背後に野蛮人が凶暴に略奪するシーンが描かれています。右上に描かれている白い衣装の人物はスヴァントヴィト像です。スラヴの神です。手前でおびえている2人の男女はスラヴの起源を示す、いわゆる、スラヴのアダムとイブです。チェコの起源であるスラヴの民が平和の民であることをこの作品では主題としています。


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スラヴのアダムとイブをピックアップしてみました。彼らは実に印象的に描かれています。手に持つのは武器ではなく、農耕用の鎌です。あくまでも平和を愛する無垢の人間として描かれています。


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2.ルヤナ島のスヴァントヴィト祭 1912年、610×810cm
   Slavnost Svantovitova na Rujaně

バルト海にあるルヤナ島(現在はドイツ領のリューゲン島)のアルコナで西スラヴの神スヴァントヴィトを祝う祭りが行われている様子が描かれています。スラヴ民族が暮らしていたバルト海沿岸は後にヴァルデマー1世のデンマーク軍に征服されます。画面の左上には、その事実を予感させるために、ノルマン人の神オーディーンと狼が描かれています。この作品も平和の民スラヴが他の民族に抑圧されることを主題としています。


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3. 大モラヴィア国のスラヴ語礼拝式導入 1912年、610×810cm
   Zavedení slovanské liturgie na Velkou Moravu

大モラヴィア国は9世紀前半、中欧の広大な領地に建設されたスラヴ人最初の国家でした。当時はキリスト教の典礼はラテン語で行われていたため、大モラヴィアのロスチスラフ公がスラヴ語で神の言葉を教える僧の派遣をビザンティン帝国に要請します。聖ツィリルと聖メトジェイが派遣されて、スラヴ語で説教をして、キリスト教を広めます。また、聖書のスラヴ語化のためにグラゴール文字を考案します。この作品はスラヴでのキリスト教の導入を主題としていますが、画面左上にドイツ人カトリック僧が描かれ、その後のドイツからの抑圧も暗示しています。


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4.ブルガリアのシメオン皇帝 1923年、405×480cm
   Car bulharský Symenon

10世紀、シメオン皇帝が支配したブルガリア帝国はもっとも栄光に満ちた時代を迎えました。ドイツ人司祭が権力を握った大モラヴィア国から聖メトジェイの教えを伝える人たちを迎え入れ、スラヴ語の文化が花咲くことになりました。そのスラヴ文化はギリシア正教会の聖地アトス山に伝えられることになります。この作品はスラヴ文化の繁栄を主題としています。


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5.プジェミスル朝のオタカル2世 1924年、405×480cm
   Král Přemysl OtakarⅡ.

大モラヴィア国が滅びた後、チェコ(ボヘミア)に強大な王国が生まれます。プジェミスル家の統治する国家です。オタカル2世のもと、その力は頂点に達します。この作品はオタカル2世の姪の豪華な結婚式に集うスラヴの王たちを描いています。しかし、ミュシャの描いた結婚式の様子は史実に反しており、ハンガリー王しか出席しなかったそうです。オタカル2世のあまりの強大さに諸国が警戒し、彼は孤立し、神聖ローマ帝国の皇帝に選出されずに、代わりに当時は地方貴族でしかなかったハプスブルグ家のルドルフが皇帝に選出されます。最終的にハプスブルグ家のルドルフの戦略に次々としてやられたオタカル2世はマルヒフェルトの戦いで敗れ、戦死します。プジェミスル家の領地の大半はハプスブルグ家のものとなります。この作品はオタカル2世の黄金時代を夢見るミュシャの想像の産物といえそうです。


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6.セルビア皇帝ステファン・ドゥシャンの戴冠式 1923年、405×480cm
   Korunivace cara srbského Štěpána Dušana na cara východořímského

ステファン・ドゥシャンはセルビア王国を強大にして、ギリシャを統合して、東ローマ帝国皇帝に即位します。その時代、神聖ローマ帝国皇帝もカレル4世で、文字通り、スラヴ人が東西ローマに君臨する時代になります。ステファン・ドゥシャンの戴冠式は春、イースターに執り行われます。この作品はその《スラヴの春》を描いたもので、スラヴ民族にとって、栄光の時代として永遠に記憶に残るもので、ミュシャに連作《スラヴ叙事詩》を描く強い気持ちを与えるものでもあったと思われます。


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《スラヴ叙事詩》はまだまだ続きます。


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プラハで音楽・美術三昧:プラハ国立美術館の特別展、ミュシャの畢生の大作《スラヴ叙事詩》その2

2013年6月15日土曜日@プラハ/14回目

《スラヴ叙事詩》特別展示の続きです。

7. クロムニェジーシュのヤン・ミリチ 1916年、620×405cm
Milíč z Kroměříže

モラヴィアのクロムニェジージュ出身のヤン・ミリチはカレル4世のもとで要職を務めていましたが、教会の腐敗に反発して、教会改革の活動に献身するようになりました。後のヤン・フスの宗教改革に先立つ活動でした。特に娼婦の改宗に力を入れて、売春宿を修道院につくりかえたそうです。娼婦の避難所《新エルサレム》を建設し、娼婦たちの新しい生活の場を作りました。この作品は足場の上で粗末な衣装を着たヤン・ミリチが説教をしている場面を描いています。下では娼婦たちが説教を聴いています。


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なお、この作品は《言葉の力》という三連祭壇画の1枚でもあります。実際、今回の展示では、三連祭壇画の一番左に展示されていました。


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8. グルンヴァルトの戦いが終わって 1924年、405×610cm
Po bitvě u Grunwaldu

グルンヴァルトの戦いはドイツではタンネンベルクの戦いと呼ばれています。1410年7月15日、スラヴ勢力のポーランド王国・リトアニア大公国連合軍がポーランドの平原で無敵のドイツ騎士団と戦った戦闘です。ボヘミア人(チェコ人)も援軍に加えたスラヴ連合はドイツ騎士団を打ち破ります。この作品では、スラヴが戦いに勝利する場面ではなく、戦いに勝利したポーランド王兼リトアニア大公であるヴワディスワフ2世が画面の中央に悄然と立ち、戦死者が倒れている平原で哀悼を捧げている場面が描かれています。ミュシャが描いた作品の主題は平和を希求するスラヴ人ということなのでしょう。なお、1914年の第1次世界大戦でも同名のタンネンベルクの戦いがドイツ帝国とロシア帝国の間で戦われました。今度はドイツの勝利に終わりました。


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9. プラハ・ベツレヘム礼拝堂でのヤン・フスの説教 1916年、610×810cm
Kázání Husovo v kapli Betlémské

当時のカトリック教会の腐敗を糾弾し、宗教改革を説いたチェコの偉人ヤン・フスはチェコの精神的な柱であり続けました。この作品は1412年にヤン・フスがプラハ・ベツレヘム礼拝堂で説教する場面を描いています。その3年後の1415年にヤン・フスはカトリック教会から異端の罪で火刑に処せられます。しかし、ヤン・フスの思想はマルティン・ルターの宗教改革につながり、ヨーロッパの精神的支柱として生き続けることになります。2000年にカトリック教会はヤン・フスへの異端審問が誤りであったことを認めることになります。


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なお、この作品は《言葉の力》の三連祭壇画の中央の1枚です。ミュシャもヤン・フスを最重要視したからです。


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10. クジージュキの会合 1916年、620×405cm
Schůzka na Křížkách

1415年にヤン・フスが火刑に処せられた後、ヤン・フスを信奉する急進派は清貧を旨として、教会の外の野外で説教するようになります。そのリーダーがヴァーツラフ・コランダでした。この作品は1419年9月30日にベネショフ近郊のクジージュキで開かれた集会が描かれています。高いところから説教しているのがコランダです。この集会を契機として、ボヘミアからヨーロッパに宗教戦争の火が次第に燃え上がっていくことになります。フス派戦争は明暗の2面を持ちます。暗のほうは、それ以降、チェコが外国支配を受け続けることになることですが、明のほうは、未来に向けての重要な思想がチェコ人によって培われることになることです。


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なお、この作品は《言葉の力》の三連祭壇画の右側の1枚です。三連祭壇画をしめくくる重要な1枚となりました。


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11.ヴィトコフの戦いの後 1923年、405×480cm
Po bitvě na Vítkově

1420年、フス戦争の初めにプラハを占拠したジギスムントに対して、ヤン・ジシュカが率いる農民中心のフス教徒防衛軍がヴィトコフの丘の上で防備を固めて戦います。戦局の決定的な瞬間にプラハの人々が支援にきて、ヤン・ジシュカが勝利を収めます。この作品では、その戦いの後、画面の中央に聖体顕示台を持ったターボル派の僧が立ち、右にはヤン・ジシカが立っています。この作品でも、戦闘そのものは描かれず、平和を希求するスラヴの人々の姿が描かれています。それがミュシャの強い思いだったのでしょう。


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12. ペトル・ヘルチツキー 1918年、405×610cm
Petr Chelčický

ペトル・ヘルチツキーはヤン・フスの後継者の一人でした。フス戦争のさなか、キリスト教に従って平和主義を貫きました。暴力に対して、暴力で反抗しないという一貫した思想で、後世に多大な影響を与えることになります。ビロード革命もその思想の流れの先にありました。この作品は戦争から逃げてきた被害者を慰めているペトル・ヘルチツキーが描かれています。そして、ペトル・ヘルチツキーは慰めるだけではなく、「悪を悪で報うな」という平和思想を説いているのです。近代の非暴力主義の先駆けです。現代の我々にも、鋭く突きつけられる考え方ですね。どうやって平和を守っていくか、深く考えていく必要が一人一人に課されています。


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13.ポジェブラッドのイジー王 1923年、405×610cm
Husitský král Jiří z Poděbrad

ポジェブラッドのイジー王は15世紀に生きた最後のチェコ人の王です。彼はカトリック教徒とフス教徒の宥和を実現します。しかし、ローマ法皇ピウス2世はそのフス派信仰を認めるプラハ条約の撤廃を迫ります。しかし、ボヘミア国内の平和を願うイジー王はその要請を拒否し、ローマ・カトリックから破門されます。この作品は画面中央に立つローマ法皇の特使ファンタン・ド・ヴェールがプラハ条約の破棄を迫るのに対し、画面右側のイジー王が決然として、椅子を倒して立ち上がり、ボヘミア王の王位と自身の命をかけて、フス派信徒の信仰を護ることを宣言している場面が劇的に描かれています。なお、画面手前の少年は表紙にROMAと書かれた本を閉じていますが、これはローマとの決別を象徴しています。


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《スラヴ叙事詩》はまだ続きます。残りは7枚です。


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プラハで音楽・美術三昧:プラハ国立美術館の特別展、ミュシャの畢生の大作《スラヴ叙事詩》その3

2013年6月15日土曜日@プラハ/15回目

《スラヴ叙事詩》特別展示の続きです。残りの7枚を見ていきましょう。

14.ズリンスキー総督によるトルコに対するシゲット防衛 1914年、610×810cm
Hájení Sigetu Mikulášem Zrinským

1566年にオスマン・トルコのスレイマン大帝はドナウ川沿いにスラブ各国を侵略し、ウィーンに攻め上ろうとします。その途中に位置する町シゲット(現在はハンガリー領のセゲト)は勇将ズリンスキー総督が守っていました。トルコの大軍がこの小さな町に襲い掛かります。シゲットの防衛隊がいかに勇敢に戦っても、所詮、多勢に無勢です。10万人のトルコ軍に対してズリンスキー総督の防衛隊はわずか2500人。40倍の軍勢に対して、ズリンスキー総督は戦いの始まった8月20日から9月7日まで、19日間も町を守り抜きますが、最終的に玉砕してしまいます。しかし、この勇敢なズリンスキー総督の防衛隊の奮戦は無駄になりませんでした。町が陥落する前日に体調を悪化させたスレイマン大帝が没します。そのため、スレイマン大帝のウィーン征服の野望は露と消え去りました。この作品は町の陥落を前にして、防衛隊を鼓舞するズリンスキー総督とシゲットの町の悲壮な最期を描いています。防衛隊は最後の玉砕攻撃の準備をし、ズリンスキー総督の妻エヴァをはじめとする女性たちが敵を巻き込んで火薬庫で自爆しようとしています。この作品の主題はクロアチア人の勇敢なズリンスキー総督が身を投げ打って、ヨーロッパ世界を守り抜いたということでしょう。


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15.イヴァンチィツェにおけるモラヴィア兄弟団学校 1914年、610×810cm
Bratrská škola v Ivančicích: kolébka Bible kralické

ペトル・ヘルチツキーの教えを実践するチェコ兄弟団は1467年に誕生し、質実な信仰生活を送りながら、その輪を広げていきました。チェコ兄弟団は高い教育水準を誇っていましたが、なかでも、モラヴィア南部のイヴァンチッツェにあったモラヴィア兄弟団学校は最高の教育水準を持っていました。ちなみにこのイヴァンチッツェはミュシャの生地であり、ミュシャもこのモラヴィア兄弟団学校には思い入れも一入だったでしょう。このモラヴィア兄弟団学校のヤン・ブラホスラフは聖書のチェコ語訳を果たします。イヴァンチッツェ近くのクラリッツェでこの聖書が印刷されたため、クラリッツェ聖書と呼ばれました。このクラリッツェ聖書はチェコ語の文章の基本となり、チェコ文学の出発点となるものです。
この作品は領主ジェロティーンのカレルがイヴァンチッツェのモラヴィア兄弟団学校での聖書出版の過程を見に来ているところを描いています。作品の主題はチェコ文化の発展ですが、一面には、ミュシャが自分の郷里を誇りにしていることも分かり、微笑ましいですね。


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16. 民族の教師 ヤン・アモス・コメンスキー 1918年、405×620cm
Jan Amos Komenský

ヤン・アモス・コメンスキーは学校教育の考え方と仕組み、すなわち、子供たちが同年齢で学校に入って、教育を受け、知識を共有するようになるということを世界で初めて体系化した人物です。また、出産前の母親教育から高齢者の死を迎えるための準備までの文字通り、生涯教育の体系を論じました。世界で最初の子供のための絵入り百科事典「世界図絵」や「大教授法」なども著した知の巨人でした。彼の基本思想は教育による知識の共有こそがヨーロッパをひとつにするという、究極の平和を希求するものでした。しかし、彼自身は非カトリック教徒追放令によって、亡命生活を余儀なくされて、流浪の果ての最期を迎えます。この作品はコメンスキーが亡命先のナールデン、オランダの海岸で終わりの時を迎えようとする場面が描かれています。画面左側では友人や信奉者がコメンスキーの最期を嘆き悲しんでいます。主題はもちろん、チェコ人の世界文化と平和への貢献ですね。


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17. 聖アトス山 1926年、405×480cm
Mont Athos (Svatá hora, Vatikán pravoslavných)

アトス山はギリシャのハルキディキ半島にある2033mの険しい山です。このアトス山はギリシャ正教の聖地であり、ギリシャ正教のヴァチカンとも呼ばれています。この作品では、アトス山の聖母マリア教会の内部が幻想的に描かれています。後方には聖母マリアのモザイクが描かれています。その聖母マリアの下に浮かんでいるのは天使たちです。画面下には巡礼者たちと彼らを意を祝福する神父や修道僧たちが描かれています。この作品の主題はチェコ人の宗教的な源、精神のよりどころです。


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18. スラブ菩提樹の下で宣誓する青年たち 1926年、390×590cm
Přísaha omaladiny u slovanské lípy

菩提樹はスラヴの木と言われています。その菩提樹のもと、スラヴの女神スラヴィアに宣誓する青年たちは、現代(と言っても当時の19世紀後半から20世紀初頭ですが)に生きた現実の人物たちが描かれています。オーストリア・ハンガリー二重帝国の抑圧に対して、急進的なチェコ青年党が組織されますが、1894年に多くのチェコ青年党員が逮捕されます。チェコの青年たちは抑圧に立ち向かうために、古代伝説にならって、スラブ菩提樹の下で宣誓したのです。この作品は現実の情景を描いたものですが、それだけに美しい仕上がりになっています。前景には小さい塀に座っているハープを弾く少女とそれに耳を傾ける上半身裸の少年が描かれています。ハープを弾く少女は古代の吟遊詩人ルミールを模していますが、少女のモデルはミュシャの娘ヤロスラヴァです。少年のモデルは息子のイジーです。ハープを弾く少女、すなわち、吟遊詩人ルミールの部分はミュシャの描いたスラヴ叙事詩展ポスターの主題ともなりました。また、このスラブ菩提樹の下で宣誓する青年たちという主題はプラハ市民会館の壁画にもなっています。
この作品は《スラヴ叙事詩》中、もっとも重要で、なおかつ、saraiが一番好きな作品でもあります。とても美しく、ミュシャらしさがあらわれた1枚です。


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19. ロシアの農奴制廃止 1914年、610×810cm
Zrušení nevolnictví na Rusi

ロシアは1856年のクリミア戦争における敗北によって、ヨーロッパからの立ち遅れを思い知らされることになります。1861年、ロシア近代化の必要性を痛感した皇帝アレクサンドル二世は産業発展に向けて、農奴制を廃止しました。この作品は農奴解放の詔勅直後のヴァシリー教会前、クレムリンの赤の広場での群集の様子が描かれています。本来、この作品の主題は農奴制廃止に伴う産業発展への希望でしたが、現実にロシアを訪れたミュシャの目に映ったのは民衆のみすぼらしい姿でした。そのため、作品の色調を雰囲気を暗く、重苦しいものに変更したそうです。


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20. スラブ賛歌 1926年、480×405cm
Apoteoza Slovanstvo pro lidstvo!

いよいよ、最後の20枚目の作品です。「4つの色で示されるスラヴ民族の4つの時代 」という副題が付けられています。《スラヴ叙事詩》全シリーズを要約した作品です。右下の青色で描かれたスラブ人の神話初期の時代に始まり、左上の赤色で描かれたフス戦争の時代を経て、画面中央のスラブ人の1918年の解放が描かれています。中央に大きく描かれたスラヴ人は伸ばした手に自由と調和の花輪を持っています。そのスラヴ人の背後からはキリストが祝福を与えています。


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いやはや、プラハ国立美術館Národní galerie v Prazeで思いがけない大作を見ることになってしまいました。限られた時間での鑑賞となりましたが、写真ではお伝えすることが困難な超大作です。この連作は民族を超えて平和を希求する作品であればよかったのでしょうが、その時代背景から、少し偏った方向になってしまったのは残念です。それでも、18番目の《スラブ菩提樹の下で宣誓する青年たち》は作品そのものの美しさがとても素晴らしく、これ1枚だけでも、《スラヴ叙事詩》を鑑賞した感動に浸ることができました。パリ時代のポスター画以外にも、見る価値のある作品のひとつでしょう。それがこうして、プラハの街で展示されるようになったのは嬉しいことです。

結局、係りの人に閉館ですよと言われるまで《スラヴ叙事詩》に見いってしまいました。
これでプラハ国立美術館での美術鑑賞は本当に完了です。実りの多い体験になりました。


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この記事へのコメント

1, saraiさん 2014/08/27 09:29
大事なことを書き忘れていました。どうやら、この《スラヴ叙事詩》は2017年に全20点が日本にやってくるようです。詳細は分かりませんが、期待しましょう。

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プラハで音楽・美術三昧:美術鑑賞の後はディナー、王宮庭園のレストランへ

2013年6月15日土曜日@プラハ/16回目

プラハ国立美術館Národní galerie v Prazeでの美術鑑賞を終えて、ヴィレトゥルジェニー宮殿Veletržní palácのベース階のエレベーターホールに出てきます。何やら見慣れた彫像があります。オーギュスト・ロダンの名作バルザック記念像(1897年制作)ですね。国内でも箱根の彫刻の森美術館で見られるものです。このバルザックにさよならをしながら、ヴィレトゥルジェニー宮殿を出ます。


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宮殿前に出ると、もう6時過ぎです。


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名画をじっくりと見ているうちにお腹が空いてきます。とりあえず、レストランに予約を入れましょう。明日からはオペラ・バレエ公演が続くので、ゆっくりと夕食を食べることができるのは今日だけなんです。ちょっと贅沢をして、王宮庭園を眺めながら食事のできるチェコ伝統料理の高級レストランに携帯で予約を入れます。ここからはトラムと地下鉄を何度も乗り換えながら、レストランに向かうことになります。地図をご覧ください。(ヴィレトゥルジェニー宮殿Veletržní palác→共和国広場Náměstí Republiky→ムーステク駅Můstek→マロストランスカー駅Malostranská→プラハ城Pražský hrad)


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ヴィレトゥルジェニー宮殿Veletržní palácから24番のトラムで共和国広場Náměstí Republikyまで行き、そこで地下鉄B線に乗り換えてムーステク駅Můstekへ一駅移動。ここで地下鉄A線に乗り換えます。


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このムーステク駅は、何故か黄金色に輝いています。こんな豪華な地下鉄駅って、世界中でここだけではないでしょうか。


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ムーステク駅から2駅移動し、ヴルタヴァ川Vltavaを越えて、マロストランスカー駅Malostranskáに到着。ここで地上に出て、またトラムに乗り換えます。


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さて、ここで困りました。地下から地上に出てきたので、まったく方向感覚が働きません。トラムで王宮の裏の方に行くのですが、方向が分かりません。


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ここからは22番のトラムに乗るのですが、果たしてどっち方向に乗るのか、あたりをキョロキョロしますがどうにも手がかりがつかめません。


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停留所の案内板を見ますがよく分かりません。(実はここにちゃんと方向が書いてあったんです! このまま乗ったら逆方向です!)


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そんなときは一駅乗ってみれば方向が分かる、というのがsarai流。で、来たトラムに乗ってみましょう。(あー、乗っちゃった!)


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心配しながら、周りの景色を眺めます。


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果たして乗ったトラムは逆でした。一駅先であわてて降ります。


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ここで逆方向のトラムを待ちます。


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周りは立派な建物が立ち並んでいます。建物を鑑賞しながら、トラムを待ちます。


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やがて逆方向のトラムがやってきて、正しい方向に向かい始めます。王宮裏のとても広い通りマリアーンスケー・フラドビMariánské hradbyをしばらく走り、目的の停留所のプラハ城(プラジュスキー・フラト)Pražský hradに到着。目指すレストランは、トラムを降りた目の前です。レストランの名前ルヴィー・ドゥヴールLví Dvůrが、建物の壁に大きく描かれています。


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お店の前の通りは王宮の方に続いています。


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ここがレストランの入り口のようですね。入ってみましょう。


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入り口を入ると、若いチェコ美人がぶらぶらしています。お客さんでしょうか。saraiがお店の様子をうかがっていると、その美女が話しかけてきます。どうやらお店のスタッフだったようですね。二階のテラス席を予約してあることを話すと、案内してくれます。この美女は、客の案内だけを仕事としているようです。マスコットガールのようなものでしょうか。こんな凄い美女が出迎えてくれるのは結構なことです。2階に上がると、明るい窓から光の入ってくるテーブル席が並んでいます。


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この部屋をどんどん通り抜けていきます。


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部屋を出たところが2階のテラス席です。お客さんが結構テーブルについています。これは予約しておいたのが正解でした。


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王宮の庭園の眺めはどうでしょうか。


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プラハで音楽・美術三昧:絶品のディナー・・・プラハは美女の宝庫?

2013年6月15日土曜日@プラハ/17回目

チェコ伝統料理の高級レストランのルヴィー・ドゥヴールLví Dvůrの2階テラスのテーブルに案内されました。ここで案内してくれた美女とはお別れ。2階テラスには、まだ暑い日差しを避けられるように日覆いのキャンバスが張ってあります。これは助かります。


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テーブル席からは王宮の北側にあるクラーロヴスカー庭園Královská zahrada(カレル庭園)が見下ろせます。ただ、木々の緑にさえぎられ、広い筈の庭園全体は見通せず残念です。


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王宮の方を眺めると、聖ヴィート大聖堂Katedrála svatého Vítaが見えています。前回の訪問でこの大聖堂の美しい内部空間は拝見したので、今回はここからの眺めを楽しむだけにします。


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では、テラスからの王宮の庭の眺めを愛でながら、食事を楽しみましょう。このレストランは街中の雑踏から逃れ、静かな落ち着いた雰囲気です。久しぶりにディナーが楽しめるということで、saraiがはりこんで、3コースメニューを配偶者にご馳走しましょう。上品なチェコ料理とボヘミアのスパークリングワインを楽しむことにします。スパークリングワインはすぐに運ばれてきます。配偶者と上機嫌で乾杯です。


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テーブルセッティングも完了。木製のテーブルの上にランチョンマットが置かれます。このランチョンマットにはアフリカの4匹の猛獣が描かれています。このレストランの名前ルヴィー・ドゥヴールがライオンの庭という意味だからでしょう。


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パンとペーストが運ばれてきます。料理が来る前にパンを肴にスパークリングワインを楽しみます。


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これが2種類のペーストです。なかなか美味しい。


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料理がスタートです。まずは、お店からのプレゼント。ホタテとセロリの甘酢あえです。


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次の前菜が、なんとフォアグラです。これが絶品! ブダペストで食したのに続いて、本場でのフォアグラ体験で完全にフォアグラの虜になってしまいます。燻されているフォアグラの香ばしさに感動します。ブダペストBudapestの最高級レストランのグンデルGundelで食べたフォアグラよりも美味しいくらいです。


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メインは、鱈のグリル。鱈をバカにしてはいけません。ヨーロッパの鱈は本当に美味しいです。


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デザートは、チョコレートの2種盛り合わせ。またまた贅沢してしまいました。


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最後は紅茶をお願いします。ゆっくりと美味しかったディナーの余韻を楽しみましょう。


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ミルクをお願いして、ミルクティーでいただきます。


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隣にいたお客さんが帰ってしまっていたので、席を立って、テラスの端からの眺めを楽しみます。真正面に聖ヴィート大聖堂。


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これは隣のお店のテラスですが、その向こうに見えるのは旧乗馬学校の建物でしょうか。


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2階の室内のテーブルにはもう誰もいません。


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これは1階の室内のテーブル席です。壁にかかっている絵はライオン・・・じゃなくて、豚が人間の格好をして食事をしているユーモラスなものです。


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お店の入り口に行くと、例の美女が待っていてくれます。思わず、そっと肩を抱き寄せて、ツーショットの写真を配偶者に撮ってもらいます。でれっとした顔のsaraiをお見せできないのが残念です。ところで、この後もプラハ滞在中に多くの美女を見かけます。プラハにはチェコ国内の若い美女が集結しているのではないでしょうか。それともチェコは美女が多いのかな。


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これから、カレル橋Karlův mostと王宮の夜景を見に行きます。


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プラハで音楽・美術三昧:迷った挙句、ようやく、カレル橋と王宮の美しい夜景

2013年6月15日土曜日@プラハ/18回目

チェコ料理のディナーを終えて、レストランのすぐ前にあるトラム乗り場のプラハ城(プラジュスキー・フラト)Pražský hradにやってきます。ここからは目の前の左手にレストランのルヴィー・ドゥヴールLví Dvůr、ずっと先の方に聖ヴィート大聖堂Katedrála svatého Vítaの尖塔が見えています。ここは王宮の北になります。


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今日の仕上げは、カレル橋Karlův mostと王宮の夜景を見ること。このトラム停留所は、王宮北のとても広い通りマリアーンスケー・フラドビMariánské hradbyにあります。カレル橋の方向に向かう22番のトラムを待っていると、走っているはずのない番号の思いがけないトラムがやって来ます。方向的にはこれでも良いはずと乗り込みますが、これが大変なことになります。saraiの思いとは全く違う方向に進んでいきます。どんどん郊外に出ていきます。いい加減なところで見切りをつけて降り、駅の表示とにらめっこしますが分かりません。仕方がないので、逆向きのトラムに乗って戻りましょう。


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逆向きのトラムに乗っていると、大規模な工事をやっているところがあります。さては、これが混乱の原因かもしれません。


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とりあえず、工事現場の次の停留所フラチャンスカーHradčanskáでいったん下りてみます。ここで調べると、やはり工事のためにトラムの経路が変更になっているようです。


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これでは、手持ちの路線図で考えていてもダメですね。幸いなことに、この停留所の近くには地下鉄A線のフラチャンスカー駅Hradčanskáがあります。トラムはあきらめて、地下鉄での移動に変更です。ところで、プラハの地下鉄はとんでもなく深いところを通っているらしく、エスカレーターが異常に長い・・・。


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上を見上げても長い・・・こんな長いエスカレーターに乗ったのは初めてです。


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ヴルタヴァ川を渡ったところのスタロメスツカー駅Staroměstskáで地下鉄を下りて、また18番のトラムに乗り換えます。
大変苦労しましたが、ようやくカレル橋近くの停留所カルロヴィ・ラズネKarlovy lázněに到着です。ここからの素晴らしい光景に息を呑みます。ヴルタヴァ川、街灯の灯ったカレル橋、照明で明るく輝く王宮・・・何も不足はありませんね!


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カレル橋と王宮をアップで撮影します。


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カレル橋を見るだけでなく、橋に上がってみましょう。少し歩いてカレル橋の前に来ます。カレル橋の入り口に立つ旧市街塔が堂々と輝いています。


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もう9時半過ぎだというのに、カレル橋は人でいっぱいです。


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カレル橋を行き交う大勢の観光客と共にカレル橋からの夜景を楽しみます。


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ヴルタヴァ川の暗い川面が美しいです。


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カレル橋の上から見た王宮も美しいですね。


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人混みをかき分けながら、カレル橋から戻ります。


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旧市街塔Staroměstská mostecká věžを抜けて、橋の前のクジジョフニツケー広場Křižovnické náměstíに出ます。左端に見えるのはカレル4世像、正面には聖フランティスク教会Kostel sv. František(アッシジの聖フランシスコ教会Kostel svatého Františka z Assisi)です。そして、ここも人でいっぱい。


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トラム乗り場カルロヴィ・ラズネKarlovy lázněに向かいながら、もう一度、カレル橋と王宮を鑑賞。綺麗ですね。


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またまたトラムを乗り継いで、ホテルに帰りつくと、もう夜更けになっていました。


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明日はプラハ国立歌劇場でお昼からバレエを鑑賞します。早く寝ないといけません。おやすみなさい・・・


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プラハで音楽・美術三昧:美しいアール・ヌーヴォーのカフェ・オベツニー・ドゥームで高過ぎるランチ

2013年6月16日日曜日@プラハ/1回目

旅の17日目です。今日はプラハ滞在2日目です。

プラハPrahaの朝は好天。暑いくらいですが、食事がてら出かけてそのまま2時からバレエを見るので、上着を着ます。よって、ひどく暑い!

朝食が美味しいと観光案内書に書いてある市民会館Obecní důmに出掛けることにします。ホテルからトラム乗り場まで、ヴァーツラフ広場Václavské náměstíをちょっと歩きます。広場に面して、有名なグランド・ホテル・エヴロパGrand Hotel Evropaの優美な建物が見えます。アール・ヌーヴォー様式ですね。


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トラムの走るインドジシュカー通りJindřišskáまで来ました。ここで昨日と同様、トラム停留所ヴァーツラフ広場Václavské náměstíからトラムに乗ります。この停留所から見えている塔が火薬塔だと昨日から思い込んでいるsaraiですが、これが大きな間違い。これは実際は聖ヘンリーの塔Jindřišská věž(Henry's Bell Tower)です。トラムから下りた後、これを火薬塔と思い込んでいるsaraiは、市民会館を探してこの塔のまわりをぐるぐると周るばかりです。


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もちろん、市民会館は見つかりません。同じところを歩きまわった挙句、火薬塔と似てはいますが、これが聖ヘンリーの塔であることにようやく気付き、何とか市民会館が見えるところまでやってきました。


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本物?の火薬塔Prašná bránaも見えました(笑い)。


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市民会館に歩いていきます。


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市民会館Obecní dům(Municipal House)は装飾の美しい建物です。ここには歴代の王の宮廷がありましたが、17世紀後半に火事で焼け、1911年に現在の市民会館ができました。内部には、スメタナ・ホールという美しいコンサートホールもありますが、今日の目的はカフェ・レストランです。


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市民会館は館内もとても美しいんです。というわけで、食事はテラス席ではなく館内のテーブルで頂きましょう。館内は空いていて、すぐにテーブルにつくことができます。


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このカフェレストランはカフェ・オベツニー・ドゥームKavárna Obecní dům。創業は市民会館のできた翌年の1912年で、内部はアール・ヌーヴォーの装飾です。とても美しいですね。


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朝食メニューがあるのですが、探し回っているうちに時間が過ぎてしまい、もう朝食メニューはダメとのこと。仕方がないので、メニューの中からそれらしいものを選びます。ところで、このレストランはメニュー自体も美しく、これもアール・ヌーヴォー風です。


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オムレツが美味しそうです。フレッシュジュースも美味しいそうなので、かなり高価ですがお願いします。
まずはスープ。上品なコンソメスープです。


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ケーキを選んでいる人たちもいます。ううっ・・・ケーキも美味しそう。ここは我慢しましょう。


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これが、美味しいけど高過ぎる搾りたて生ジュース、オレンジとグレープフルーツです。


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美味しい生ジュースを飲みながら、美しく明るい店内を眺めます。美術品のような建物内部ですね。


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これがオムレツ。プラハはオムレツが美味しいんです。


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久しぶりに朝食という感じで、とっても美味しく頂きました。が、請求書を見て、目が点に。あまりにも高過ぎです。よく請求書を見ると計算が合いません。聞いてみると、2割のサービス料金が加算されているとのこと。そんな勝手に・・・払いましたが、チップはなし!ですっ。観光客料金なのでしょうか。

美味しかったのには満足しつつも高過ぎにプンプンの妙な感情の高まりの中、市民会館の外に出ます。建物の壁にミュシャのポスターが張ってありますね。このときはそれどころではない気持ちでしたが、このポスターは実は重要な情報だったんです。


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まだバレエには時間が早いので、久しぶりに近くにある旧市街広場Staroměstské námに行ってみることにします。ツェレトゥナー通りCeletnáをまっすぐ進むと、旧市街広場です。この辺りはプラハの観光の中心地ですから、人混みの中を歩く感じです。


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やがて、通りの建物の上にティーン教会Chrám Matky Boží před Týnemの尖塔が見えてきます。特徴のある形です。


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旧市街広場も見えてきます。


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ここまでの街歩きを地図で確認しておきましょう。

①ホテルからヴァーツラフ広場を歩いてトラム停留所へ

②トラムでインドジシュカー通りを一駅移動

③聖ヘンリーの塔で迷って、なんとか市民会館/火薬塔へ

④市民会館からツェレトゥナー通りを歩いて、旧市街広場へ


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次は久しぶりの旧市街広場です。


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プラハで音楽・美術三昧:旧市街広場と美しい聖ミクラーシュ教会

2013年6月16日日曜日@プラハ/2回目

5年ぶりの旧市街広場Staroměstské námです。相変わらず観光客でいっぱいです。じっくりと広場を見渡しましょう。


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手前を振り返ると、左がゴルツ・キンスキー宮殿Palác Golz-Kinských、右が石の鐘の家Dům U kamenného zvonuです。ゴルツ・キンスキー宮殿Palác Golz-Kinskýchは優美なロココ様式の建物で、ゴルツ伯爵の依頼で18世紀中ごろに建てられました。現在は国立美術館の一部になっています。石の鐘の家Dům U kamenného zvonuはゴシック様式の古い建物で、14世紀に建てられました。この建物の名称は建物の角に石の鐘が吊り下げられていることから付けられました。


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その石の鐘の家の右隣にティーン教会Chrám Matky Boží před Týnemがあります。ティーン教会はプラハのランドマークのような存在で、どこから見えてもすぐにその姿を認知できます。それは2本の尖塔が特有の形をしているからです。尖塔の上には金の飾りがつき、塔の高さは80m。現在のゴシック様式の建物は1356年に改築されたものです。ティーン教会という名称は略称で、正式には《ティーン(税関)の前の聖母マリア教会》です。昔は裏側に税関があったらしいです。教会の前にある広場に面した建物はティーン学校Týnská školaで、ゴシック様式のアーケードを持ちます。


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これがそれらの3つの建物が並んだところ。左から、ゴルツ・キンスキー宮殿、石の鐘の家、ティーン教会です。


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これがゴルツ・キンスキー宮殿の単独の姿。


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次は広場の中央。チェコと言えば、この人、ヤン・フスJan Hus。このヤン・フス像はフスの没後500年の1915年に彫刻家ラジスラフ・シャウロンが制作しました。ヤン・フスの周りに配されているのはフス派の戦士たちや母の像です。


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ティーン教会に向かい合って建つ旧市庁舎です。旧市庁舎Staroměstská radniceはいくつかの建物が複合していますが、塔などの主な建物はゴシック様式です。現在の建物は第2次世界大戦で破壊された後、再建されたものです。


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広場のこのあたりから、ゴルツ・キンスキー宮殿、石の鐘の家、ティーン教会を眺めます。これらの建物の並びは美しいですね。。


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ティーン教会とは広場の対角にあるのが聖ミクラーシュ教会です。白壁が美しい教会です。典型的なバロック様式の建物です。聖ミクラーシュ教会Kostel sv. Mikulášeは最終的に18世紀の初頭に完成しました。現在はフス派の教会です。


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広場の南側には、バロック様式の色とりどりの建物が並びます。多くはレストランです。


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広場の端から再び振り返って、広場の中央のヤン・フス像越しにゴルツ・キンスキー宮殿、石の鐘の家、ティーン教会を眺めます。ここからだと、ティーン教会の上部がかなり見えます。


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前回訪問時はコンサート中で入れなかった聖ミクラーシュ教会の内部も見学します。ボヘミアングラスでできたシャンデリアは王冠の形をしています。


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聖ミクラーシュ教会は小さいですが、とても美しいバロック様式の装飾で、うっとりします。


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あまりの美しさにずっと上を見たままでいます。素晴らしいとしか言いようがありません。


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主祭壇は意外に質素な感じに思えます。それほど上部の装飾が華麗なんです。


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白壁にポツンとシンプルな十字架があります。かえって新鮮に感じます。


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これがほぼ教会内部の全景です。本当に小さな教会です。


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豪華なシャンデリアの先に小さなオルガンも見えます。しかし、どうしてもこの美しいボヘミアングラスのシャンデリアからは目が離れません。


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ステンドグラスも綺麗です。


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こちらのステンドグラスも綺麗ですね。


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最後にもう一度上を眺めます。ドームの天井画も美しいです。聖ミクラーシュの生涯を描いているそうです。


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これで聖ミクラーシュ教会を出ます。そろそろバレエを見に行く時間になりました。


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10/07 08:57 堀内えり

 ≪…長調のいきいきとした溌剌さ、短調の抒情性、バッハの音楽の奥深さ…≫を、長調と短調の振り子時計の割り振り」による十進法と音楽の1オクターブの12等分の割り付けに

08/04 21:31 G線上のアリア

じじいさん、コメントありがとうございます。saraiです。
思えば、もう10年前のコンサートです。
これがsaraiの聴いたハイティンク最高のコンサートでした。
その後、ザル

07/08 18:59 sarai

CDでしか聴いてはいません。
公演では小沢、ショルティだけ

ベーム、ケルテス、ショルティ、クーベリック、
クルト。ザンデルリング、ヴァント、ハイティンク
、チェリブ

07/08 15:53 じじい@

saraiです。
久々のコメント、ありがとうございます。
哀愁のヨーロッパ、懐かしく思い出してもらえたようで、記事の書き甲斐がありました。マイセンはやはりカップは高く

06/18 12:46 sarai

私も18年前にドレスデンでバームクーヘン食べました。マイセンではB級品でもコーヒー茶碗1客日本円で5万円程して庶民には高くて買えなかったですよ。奥様はもしかして◯良女

06/18 08:33 五十棲郁子

 ≪…明恵上人…≫の、仏眼仏母(ぶつげんぶつも)から、百人一首の本歌取りで数の言葉ヒフミヨ(1234)に、華厳の精神を・・・

もろともにあはれとおもへ山ざくら 花よりほか

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