コンサートに先だって、十分に予習をしました。R・シュトラウスのメタモルフォーゼンはここ。ブルックナーの交響曲第9番はここ。
今日は事前にお昼寝をして、十分英気を養い、シュターツカペレ・ドレスデンの黄色いネクタイを締めて、気を引き締めて出かけます。国内でネクタイをするのは多分、退職後初めて。それほど今日の演奏会には気合いを入れています。ティーレマンの振るブルックナーの9番ですからね。
最初のR・シュトラウスのメタモルフォーゼンは深い音楽でしたが、謎めいた演奏でした。それについて書くと話が長くなり、本論からずれるので、後述することにします。
休憩後、いよいよ、ブルックナーの交響曲第9番です。第1楽章から細部まで丹念に表情付けされた素晴らしい演奏に酔いしれます。ただ、不思議に感動には至りません。今日は不発に終わるのかなと思っていたら、第3楽章後半に不意にしびれるような甘美な感動が襲ってきました。感動の頂点はフィナーレの5分前の大強奏。そのあとはカタルシスを覚えながらも頭は甘美な感動の余韻。フィナーレの後の静寂がなんとも贅沢な時間でした。
比較するのもなんですが、2年前に聴いたハイティンクとロンドン交響楽団の演奏が究極のマイベスト。今日の演奏は第3楽章後半は同質の感動がありました。
今日のティーレマンの音楽表現は事前の予想と異なるもの。腰の低い推進力で押してくる迫力のあるものを予期していましたが、なんと丁寧なニュアンスを表現しつつ、音楽の純化を極めるものでした。誤解されるかもしれませんが、テンポを別にすれば、これはチェリビダッケ路線を思わせます。もちろん、ティーレマンらしい迫力はありましたが、それ以上にピュアーな響きが目立って聴こえてきたんです。シュターツカペレ・ドレスデンの内在する響きを活かしたのかもしれませんが、ティーレマンの音楽性の幅広さを見た思いです。
やはり、ティーレマンは噂されているベルリン・フィルではなく、このドレスデン、あるいはウィーン・フィルこそ、いるべき場所だと思えてなりません。一音楽ファンの思いに過ぎませんけどね。
ところで、今日のプログラムは以下です。
指揮:クリスティアン・ティーレマン
管弦楽:シュターツカペレ・ドレスデン
R・シュトラウス:メタモルフォーゼン
《休憩》
ブルックナー:交響曲第9番ニ短調
もちろん、アンコールはなし。ブルックナーの交響曲第9番にアンコールはあり得ません。
さて、冒頭のメタモルフォーゼンですが、この曲は1945年、第2次世界大戦終盤、ミュンヘンが破壊され、ベルリン国立歌劇場、ドレスデン国立歌劇場(ゼンパーオパー)、ウィーン国立歌劇場が爆撃で破壊されたことで、芸術・文化に身を捧げてきたR・シュトラウスは深い喪失感に襲われて、作曲に至ったと言われています。ヨーロッパ文化の終焉への絶望感と過去のヨーロッパへの懐かしい思いがないまぜになったような悲しみに満ちた曲です。戦禍をくぐり抜けてきた巨匠たちは自らの思いも重ねて、フルトヴェングラー、クレンペラー、ケンペの演奏は凄絶です。しかるにティーレマンは如何なる思いで演奏するんでしょう。彼の演奏を聴いていて、一体、何を表現しようとしているか全然、イメージできませんでした。演奏が終わった後もずっと考え込んでしまいました。文化の喪失感とか戦争への悲しみとか、そういうものは感じられません。しかし、音楽は美しく、深い表現に満ちていました。結論としては、ティーレマンはそういう曲の背景やイメージをすべて排して、作品の純粋な音楽表現だけに徹したのではないかということです。作品名にあるように、変奏ではなく、変容という新しいスタイルの音楽を思いっ切り、美しく演奏してみたんでしょうか。ある意味、センセーショナルな演奏だったのかもしれません。一応、謎めいた演奏はそういうことだったということにしておきましょう。しかし、大作のブルックナーの演奏の前にこういう難しい曲は困りますね。気持ちの切り替えが必要になります。ハイティンクのようにモーツァルトのピアノ協奏曲あたりが適当ですが、ティーレマンはモーツァルトはレパートリーにないしね・・・。
昨日の《英雄の生涯》に続き、今日も素晴らしいブルックナーに大満足したティーレマンとシュターツカペレ・ドレスデンの来日コンサートでした。
明日はアンデルシェフスキの期待のピアノ・リサイタルです。
↓ saraiのブログを応援してくれるかたはポチっとクリックしてsaraiを元気づけてね
いいね!
