青騎士の館、レンバッハハウス美術館を鑑賞しています。
青騎士のメンバーの一人であったアレクセイ・ヤウレンスキーは1865年、ロシアで生まれました。彼は貧乏なロシア帝国士官でしたが、幸運とも言える運命の出会いで裕福な男爵令嬢マリアンネ・フォン・ヴェレフキン(1860年ロシア生まれ)に絵画の指導を受け、経済的な援助も受けることになります。そして、彼女とカップルで1896年にミュンヘンに画業修業のためにやってきました。後期印象派の画風にどっぷりと浸かっていたヤウレンスキーとヴェレフキンは1908年にカンディンスキーとミュンターに出会います。ここから、相互に影響しあって、ヤウレンスキーは独自の画風を切り開いていくことになります。
《ムルナウの夏の夕暮れ》です。1908~1909年、ヤウレンスキー43~44歳頃の作品です。後期印象派を脱して、平面的な描き方になっています。ヤウレンスキーらしい黒の輪郭線も現れています。構図といい、色彩感覚といい、素晴らしい作品です。

《舞踏家アレクサンダー・ザッハロッフの肖像》です。1909年、ヤウレンスキー44歳頃の作品です。とても有名な作品。1度見たら、忘れられませんね。これが画家の個性というものでしょう。

《果物のある静物》です。1910年、ヤウレンスキー45歳頃の作品です。セザンヌの静物との違いに驚かされます。なんと平坦な表現でしょう。

《座っている裸婦》です。1910年、ヤウレンスキー45歳頃の作品です。このころはフォーヴィズムの影響を強く受けています。それでもヤウレンスキーらしい隈取のある安定感は独特のものです。

《成熟》です。1912年、ヤウレンスキー47歳頃の作品です。これもフォーヴィズムの作品。頭部のみをズームアップした絵画の先駆けとなるものです。1917年以降は頭部を描いた絵画に没頭することになります。

《スペインの女》です。1913年、ヤウレンスキー48歳頃の作品です。フォーヴィズムから少し脱しつつありますが、なんと、あくの強い作品でしょう。嫌いじゃありませんけどね。

《瞑想》です。1918年、ヤウレンスキー53歳頃の作品です。1917年から描き始めた《不思議な頭部》シリーズです。モデルは女性画家エミリー・シェイヤー(ガルカ・シャイヤー)だとされています。彼女は1916年に知り合った若い女性で当時25歳。彼女はヤウレンスキーの絵を紹介する役割を果たし、それまでのヴェレフキンの役割を引き継ぎます。不思議にヤウレンスキーはまわりに助けてくれる女性に事欠きませんね。もっとも、シェイヤーは絵画の紹介販売の手数料として、45%も取ったそうですから、一筋縄ではいかない女性だったようです。

《瞑想、祈り》です。1922年、ヤウレンスキー57歳頃の作品です。次第に頭部の絵画は宗教的な祈りに変化していきます。ヤウレンスキーにとって、絵を描くことは神に祈りを捧げる行為と同一だったようです。この《瞑想》シリーズの絵も最後は救世主の顔に変容していきます。

《愛》です。1925年、ヤウレンスキー60歳頃の作品です。いったん、救世主の顔に変容した《瞑想》もさらにデフォルメされ、《愛》に変容します。彼は3年前に自分の子供を以前産ませたメードのヘレーネと結婚しています。その際、ヴェレフキンとも別れました。私生活的にも、そして、芸術的信条にも思うところは色々あったのでしょう。

ヤウレンスキーのパートナーだったヴェレフキンの作品も見ておきましょう。
《自画像》です。1910年、ヴェレフキン50歳頃の作品です。いかにも、表現主義的な絵画です。

《プレロヴェル川》です。1911年、ヴェレフキン51歳頃の作品です。プレロヴェル川はバルト海の入り口に流れる狭い流れです。青騎士的な風景画ですね。

ヤウレンスキーはクレーとも関わり合いの多い画家でした。以前、ベルンのクレーセンターで、《クレーとヤウレンスキー》という特別展を見ましたが、そのときから、とても気になる画家になりました。今回、このレンバッハハウス美術館で再度、まとめて作品を鑑賞し、saraiのお気に入りの画家の一人に定着したかもしれません。
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