シュテファン・ツヴァイク・センターStefan Zweig Centreを訪れたところです。チケットを購入後、意外に狭い展示室を見て回ります。残念ながら、すべて、ドイツ語のみの展示になっています。受付の女性が英語の説明書を渡してくれます。以下のページに始まる10ページに渡る展示の概要のインデックスです。

展示は時代別に整理されています。最初はウィーン時代。 1881年11月28日にウィーンの裕福なユダヤ人の両親のもとで生まれて、ウィーン大学で哲学と文学史を学び、第1次世界大戦のさなか、スイスのチューリッヒに移るまでがウィーンで過ごした時間です。チューリッヒでは『ウィーン新自由新聞』の特派員として活動します。

文壇にデビューした詩集『銀の弦 Silberne Saiten』です。1901年、ツヴァイク19歳の作です。

これは当時の自筆稿です。達筆ですね。

これは第2詩集のDie Frühen Kränze(初期の花輪?)。1906年、ツヴァイク24歳の作です。

チェス盤と壁には彼の似顔絵があります。チェス盤は彼の有名な作品、《チェスの話》に因んだものでしょうか。

携帯用タイプライターです。ツヴァイクの愛用品でしょうか。

ザルツブルク時代。第一次大戦後はチューリッヒからオーストリアに戻り、1919年から1934年までザルツブルクに居を構えます。住居はカプツィーナーの丘Kapuzinerbergのパッシンガー城Paschinger Schlösslでした。展示はザルツブルク時代の前期、1919年から1928年までです。

1921年著作の《ロマン・ローラン》とツヴァイクと家族のザルツブルク時代の写真です。

ザルツブルク時代の後期、1929年から、1934年です。

ツヴァイクの立像があります。なにか、気のいいおじさんという体ですね。

それではと、わが友シュテファンとsaraiの2ショットです。彼と人生について語り合いたかったのがsaraiの見果てぬ夢です。

指揮者のブルーノ・ワルターとアルトゥーロ・トスカニーニがカプツィーナーの丘の自宅を訪れたときの貴重な写真です。1930年代初頭のザルツブルク時代のひとこまでした。(左から、トスカニーニ、ワルター、ツヴァイク)

そして、1934年にナチスの圧力で警察から家宅捜索を受けた翌日、ツヴァイクは長年住んだザルツブルクを永遠に去ります。亡命先のイギリスから、アメリカ合衆国、そして、終の住処となるブラジルに渡ることになります。

1934年から1940年まではロンドン、バース、ニューヨークと不自由な亡命生活を強いられて、だんだん、精神的な重圧を受けることになります。

この頃書いた重要な著作、『エラスムスの勝利と悲劇』Triumph und Tragik des Erasmus von Rotterdamです。己の境遇とエラスムスの境遇を重ね合わせています。1934年、ツヴァイク53歳の作です。

『メアリー・スチュアート』Maria Stuartです。評価の高い歴史小説です。1935年、ツヴァイク54歳の作です。

リヒャルト・シュトラウスの歌劇『無口な女』Die schweigsame Frauにおいて台本作家として秀逸な才能をツヴァイクは示しますが、時、既にナチス政権下。たった3回の公演で上演は打ち切られます。このコンビで次々に名作を残してくれなかったことは大変残念です。これもナチスの戦争犯罪の一例です。
これはドイツの新聞が告げるオペラの1回目の公演のレビュー記事です。

そのリヒャルト・シュトラウスの歌劇『無口な女』のリブレットの初版です。上はツヴァイクの短編小説をもとにした映画『燃える秘密』のプログラムです。折も折り、ナチスの国会焼き討ち事件が起こり、この映画をネタに庶民はナチスを揶揄ることになり、ただちに映画は上演禁止。小説も書店から消える羽目になります。

次はいよいよ、ブラジル時代の展示に移ります。ツヴァイクの余命もいくばくかになります。ツヴァイクの最後の悲劇の日々です。
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