高野山で格別な精進料理をいただき、いよいよ、弘法大師の聖地を巡ります。(一昨日、4月11日の記事の続きです。)
まずは壇上伽藍(だんじょうがらん)。高野山の二大聖地のひとつです。弘法大師がこの高野山で真言密教の根本道場を開くために最初に整備した場所です。
中門(ちゅうもん)の前に立ちます。聖地への入り口です。現在の中門の建物は2015年(平成27年)に再建されたばかりのものです。昔の中門の建物は江戸時代の天保14年(1843年)の大火事で燃え尽きて以降、つい最近まで「中門跡地」として残っていました。高野山開創1200年記念の記念事業として、2015年に173年ぶりに再建されました。

中門をくぐると、壇上伽藍に建つ伽藍群が目に入ります。目の前には金堂(こんどう)が佇んでいます。

ところで中門をくぐるときに中門内に安置されている四天王が目に入ります。と、その一体を見ていた配偶者が『四天王の体に妙なものが張り付いているよ!』って驚いています。妙なものとは何と蝉です。これは2015年の中門再建時に大仏師「松本明慶」によって新たに造立された広目天像です。蝉は大空から隅々まで見渡すという意味が込められてるようです。


別の一体にも蜻蛉が胸に張り付いています。これはやはり、広目天像と同じく、2015年の中門再建時に大仏師「松本明慶」によって新たに造立された増長天像です。蜻蛉は前に向かってしか飛ばないということの意味を込めたようです。


ほかはどうかと思って、前に戻って、持国天、多聞天の2体の胸元を見ましたが、そこには昆虫は張り付いていませんでした。この2体は1819年(文政2年/江戸時代)に慶派によって造立されたオリジナルだからのようです。
さて、壇上伽藍の中に足を踏み入れて、金堂の前に立ちます。金堂は高野山の総本堂で年中行事のほとんどがここで執り行われます。現在の建物は1932年に再建されたものです。中も拝観できるようですが、我々はパスします。拝観している人の大半は外人さんのようです。

金堂の右奥には紅白の晴れやかな伽藍があります。根本大塔(こんぽんだいとう)です。壇上伽藍の中心の塔として、816年、高野山創建時の頃より建造に着手し、887年頃に完成しました。高さ50m、四面30mの特異な形の多宝塔です。現在の建物は1937年に再建されたものです。

根本大塔のほうに進むと、金堂の側面の横に出ます。金堂は美しい伽藍ですね。

根本大塔の正面にたちます。高野山特有の美を感じます。

根本大塔の前には大きな八角灯籠が立てられています。これは根本大塔の再建時に寄進されたものです。

さあ、この根本大塔の中だけは拝観料を払って、拝観してみましょう。

内部は8角形の空間の中心に胎蔵界大日如来像が配され、その後方に金剛界四仏が祀られています。いずれも黄金に輝く5体の仏像です。建物を支える16本の柱には、昭和を代表する堂本印象画伯が描いた十六大菩薩が描かれています。黄金の仏と色彩鮮やかな柱に描かれた菩薩像は蓮の花の上に座していて、空中に浮遊しているイメージです。これらは立体曼荼羅を構成して、弘法大師が構想した真言密教の根本思想を具現化しています。高野山では必見で、真言密教の奥義の一端がうかがえます。

弘法大師、すなわち、空海が遣唐使として唐に渡り、阿闍梨の恵果(けいか)から、真言密教の奥義と密教法具を授けられ、正当な真言密教の後継者となり、日本に戻り、この高野山を開き、その密教思想を根本大塔で具現化すべく、創建を始めましたが、業の半ばで大師は入定されます。さぞや無念のことだったでしょう。しかし、その思想は受け継がれ、今、このように我々も目にすることができます。根本大塔は現在の再建の前にも5回も焼失したそうですが、不死鳥のように蘇ってきました。現在の建物は木造ではなく、鉄筋コンクリート造りですから、今後は安泰でしょう。
蓮の花に満たされた空間は、胎蔵界と金剛界をひとつに融合した世界観を表現したものになっています。
因みに大日如来が創造した密教世界は2つの世界からなります。
・「理」の世界を現す胎蔵界(たいぞうかい)
・「智」の世界を現す金剛界(こんごうかい)
この根本大塔はその両界を弘法大師の独自の思想で具現化したものです。
弘法大師の底深い思想の中心に触れ、めまいを起こしながら、根本大塔を出ます。大塔に外には、樹木豊かな壇上伽藍の世界が広がります。

青空を背景に弘法大師の密教思想の凝縮した根本大塔がすっくと立っています。内部を拝観する前とはずい分、印象が変わります。

いくつか、壇上伽藍の主要な伽藍を巡りましょう。
これは六角経蔵(ろっかくきょうぞう)。創建は1159年(平治元年/平安時代)。再建されたのは1934年(昭和9年)。
この六角経蔵は経蔵の基壇付近に把手があって、人力で回転させることができます。仏教ではお約束事ですね。回転させれば、「一切経」を読経したことになります。仏教のこういう優しさが好きなところです。もちろん、配偶者と力を合わせて、1回転させました。本当は何回転でもさせたほうが功徳があるのでしょうが、次の方に権利を譲ってバトンタッチします。何やら、心が晴れ晴れとします。

これは御社(みやしろ)。創建は819年(弘仁10年/平安時代)。再建されたのは2004年(平成16年)。
弘法大師が高野山を開くにあたって、その前にこの地を支配していた山の神を祀った社です。

これは西塔(さいとう)。創建は886年(仁和2年/平安時代)。再建されたのは1834年(天保5年/江戸時代)。
高さは27.27mで四辺は約10m。根本大塔の半分以下の大きさの塔です。西塔内部には金剛界大日如来像が中心に配され、その周りを胎蔵界四仏が安置されています。つまり、根本大塔とは逆の配置で、胎蔵界と金剛界をひとつに融合した世界を表現して、根本大塔と双璧をなす世界観を表出させています。創建は遅れましたが、当初より、弘法大師が構想していた重要な伽藍です。残念ながら、内部は拝観できません。

この西塔の前からは双璧をなす根本大塔が見渡せます。

根本大塔へ戻る途中に御影堂(みえどう)があります。創建は818年(弘仁9年/平安時代)~835年(承和2年/平安時代)。再建されたのは1847年(弘化4年/江戸時代)。
この御影堂は弘法大師の持仏堂(じぶつどう)として創建されましたが、大師の入定後、大師の弟子の真如親王(しんにょしんのう)が描いた大師の御影(画像)を安置するようになり、以後、御影堂と呼ばれています。この大師の御影は一般公開されていません。

この御影堂の前に三鈷の松(さんこのまつ)があります。三鈷と言えば、弘法大師の代名詞のようなもの。大師が肌身離さずに持っていた飛行三鈷杵(ひぎょうのさんこしょ)と呼ばれる密教法具の「三鈷」のことです。
逸話では、弘法大師の生涯の師である阿闍梨の恵果(けいか)から授かった密教法具の三鈷を、唐から日本に戻る際に伽藍建立の地を占うために投げたところ、三鈷は遥か彼方に飛び去ったそうです。そのことから、三鈷は飛行三鈷杵と呼ばれています。日本に戻った弘法大師が高野山を伽藍建立の地と定め、高野山に入ると、あれ不思議、唐から投げた三鈷が松の木の枝に引っ掛かっていました。以後、この三鈷が掛かっていた松は三鈷の松と呼ばれるようになりました。この松の木には珍しい3枚葉の松葉もできるそうです。落ちた松葉を探すと見つかるそうですが、もちろん、探していません。
以上はもちろん、あくまでも逸話です。現在の三鈷の松は樹齢100年以下だそうです。高野山創建の頃の松ではありません。でも、ロマンを感じる話です。それほど、弘法大師が民衆から慕われてきたということを示す一例です。

根本大塔の向かいには、真っ白な大塔の鐘(だいとうのかね)があります。創建は819年(弘仁10年/平安時代)~891年(寛平3年/平安時代)。再建されたのは891年(寛平3年)。
この大塔の鐘は弘法大師が壇上伽藍を創建時に発願された鐘楼でしたが、大師の入定後に完成。この鐘は当時の日本全国の寺院の中でも4つ目に大きい鐘であることに由来して高野四郎とも呼ばれています。1日5回、計108回の鐘の音を響かせます。現在の銅鐘は1547年(天文16年)に鋳造(改鋳)されたものです。名鍾の誉れが高い鐘です。

大塔の鐘のお隣には、不動堂(ふどうどう)があります。創建は1198年(建久9年)。再建されたのは14世紀初頭。現在の地である壇上伽藍に移設されたのは1908年(明治41年)。
もともとは壇上伽藍から離れた地にあったために類焼を免れて、鎌倉時代の和様建築の姿を残しています。そのために国宝指定を受けています。

不動堂は蓮池(はすいけ)のほとりに建っています。長年、火災に幾度も見舞われた高野山にとって、水を湛えた池は火災除けの象徴でもあり、また、干ばつ対策でもあります。

これは東塔(とうとう)。創建は1127年(大治2年)。再建されたのは1984年(昭和59年)。
東塔は壇上伽藍の出入り口のひとつ「蛇腹路」のすぐ手前に位置しています。東塔は1843年(天保14年)の高野山の大火災で焼失。その後は、土台の礎石のみでしたが、1984年(昭和59年)に「弘法大師御入定1150年御遠忌記念」で140年ぶりに再建されました。

これは蛇腹路(じゃばらみち)。壇上伽藍から金剛峯寺に抜ける出入り口の道です。

この木々の間の気持ちのよい道を歩いて、壇上伽藍を後にします。金剛峯寺に向かうのですが、意外な経過でいきなり高野山の二大聖地の奥の院までワープすることになります。
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テーマ : ぶらり旅
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