演奏が終わり、青ざめていました。一体、これは何だったんでしょう。いつも音楽表現が深いとか、譜面の読みが鋭いとか、分かったようなことを書いている自分を恥じてしまいます。音楽はそれ自体で成り立つもので、素人が何だかんだと言葉で表現するものではないという厳然たる事実を突き付けられた思いです。軽々しく拍手することさえも躊躇われます。恐れ入りましたと黙って席を立つのが正しい姿ではないかとすら思えます。本当のオーケストラ音楽とはこれほどのものなのでしょうか。完璧という言葉を使っていいのかも分かりません。演奏された曲は誰でも知っている超有名曲のチャイコフスキーの《悲愴》ですが、ここまでの演奏のレベルに達すると、何の曲でもよかったのではないかという暴言を吐きたくもなります。ともかく、恐ろしいレベルのアンサンブルです。対向配置で舞台の反対方向にいる第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンがユニゾンで弾いてるところでは、完全に舞台の端から端までシンクロしています。一々、例を挙げていると切りがありませんが、弦楽セクション5部が全部演奏しているときの澄み切った響きに驚愕します。唖然としているsaraiを嘲笑うように、ミンコフスキはパウゼを多用して、サウンドのシンクロとアンサンブルの完璧な響きを強調するかのようです。《悲愴》は通常、その劇的な表現の内容をうんぬんしますが、今日の演奏に限ってはそんなことは関係ありません。音の響きの素晴らしさがすべてで、音楽内容に関する余人の解釈を許しません。というか、不要です。音楽というものは、音の響きを楽しむものだよとミンコフスキに諭されている思いです。これ以上、書くと野暮になるので、やめます。恐るべき演奏でした。(本来はシューマンの交響曲第4番の1841年版について、たくさん書きたかったのですが、すべて、吹っ飛びました。)
今日のプログラムは以下です。
指揮:マルク・ミンコフスキ
管弦楽:東京都交響楽団 コンサートマスター:矢部達哉
シューマン:交響曲第4番 ニ短調 op.120(1841年初稿版)
《休憩》
チャイコフスキー:交響曲第6番 ロ短調 op.74《悲愴》
シューマンだけ、予習しました。1841年版ジョン・エリオット・ガーディナー指揮オルケストル・レヴォリューショネル・エ・ロマンティーク(1997年録音)、1851年版はフルトヴェングラー指揮ルツェルン祝祭管弦楽団(1953年8月26日録音)です。それぞれ、鉄板の演奏です。
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テーマ : クラシック
ジャンル : 音楽