ルツェルンLuzernの街歩き中で、ローゼンガルト・コレクションSammlung Rosengartに立ち寄っています。現在、クレーの作品をピックアップして、ご紹介しているところです。ここまで、1913年から1926年までの作品を見てきました。
これから、1927年の作品から、順にsaraiが気に入った作品を見ていきます。なお、制作年の後ろの括弧の中の数字はその年の作品番号です。
《前後不覚中の小さなお馬鹿さん》。1927年(170)、クレー48歳頃の作品です。クレーは晩年の天使シリーズを始めとする線画が印象深いですが、以前より、デッサン画はもちろん、線画を描き続けていました。この滑稽な作品は天使シリーズの一面につながるものです。深刻さもこういう軽み(かろみ)も併せ持つのがクレーの魅力です。

《セレモニーの入り口》。1928年(156)、クレー49歳頃の作品です。晴れやかなセレモニーイベントの雰囲気をあえて稚拙な筆で描いた一作です。テクニックや芸術的な深みを捨てて、幼児のような心でストレートな表現をできるか・・・クレーの真摯な模索です。

《フェンスで囲まれている》。1928年(74)、クレー49歳頃の作品です。上の作品はあえて稚拙な筆で描きましたが、クレーが本気で描くとこんなに凄いものが生まれます。構成と言い、色彩のバランスといい、パーフェクトな作品です。この魅力に満ちた画面は天才のみによって発想できるものでしょう。抽象画で美の極致を描き出した一枚です。

《無題》。1928年(74)、クレー49歳頃の作品です。もともと、上の作品《フェンスで囲まれている》のオリジナルな作品で、作品番号も同じです。が、どう見ても上の作品の完成度が高いですね。

《肥沃な国の国境線(あるいはボーダー柄)の記念碑》。1929年(40)、クレー50歳頃の作品です。うーん、抽象性の高い作品で、読み解きが難しいですね。単純にこういうボーダー柄模様のモニュメントと思えばいいのでしょうか。意味の解釈を諦めて、抽象画としての魅力を探ると・・・分かりません。地柄の画面全体のボーダーの上に数枚の矩形や台形のボーダー柄のパッチが張り合わされています。じっと見るとパッチが3Ⅾ的に浮き上がって見えます。そういう絵としての遊びがこの絵の表現の狙いなんでしょうか。謎のような作品です。前年からのエジプト旅行が契機になっているような気もします。すると、肥沃な国とはエジプトか・・・。

《結晶の風景》。1929年(75)、クレー50歳頃の作品です。クレーの作品はますます抽象度を高めていきます。風景画がこんな風ですからね。絵の構成要素を単純化して、色彩効果を主体にして、美の本質に切り込んでいくというアプローチなんでしょうか。すべてが挑戦であり、オリジナリティのあくなき開拓です。過程的な作品も完成度を高めた作品も混在します。

《静物》。1929年(345)、クレー50歳頃の作品です。普通の静物画は具象的なモティーフをもとに画面を構成しますが、この静物画は抽象的なモティーフを画面に配置して構成しています。この作品も新たな挑戦の分野での過程的な作品なんでしょう。クレーが抽象画で多用してきた直線とか矩形が捨て去られ、すべて、閉曲線による自由図形がモティーフになっていることが注目されます。黒い矢印は注目すべき場所を指示しているのがクレーの作法でしたが、ここではさもない図形を指し示しています。中央の赤の図形を含む目立つモティーフが中心的なモティーフではないと読み取れますが・・・。例えば、全体を人物と見立てれば、この下の2本のモティーフは足にあたります。そういう地味だけれど、これは重要なパーツなんだよって、読み解けば、あまりに下らないかなあ。見るものに考えさせるところにこの作品の力点があるのかもしれません。

《窓の背後の恐怖》。1929年(328)、クレー50歳頃の作品です。安定した創作活動を続けてきたバウハウス時代も時代の潮流に吞み込まれていこうとします。ナチスはまだ、産声を上げたばかりですが、世界恐慌の波はドイツを転落させていきます。窓の奥で何かに怯えている人物はクレー自身のような気がします。芸術家も否応なく、時代背景のもとに創作活動を続け、生身の人間として、限界状況を受け入れるしかありません。

創作活動の根幹を成してきたバウハウス時代もあと2年ほど残すだけになり、クレーも苦悩します。しかし、最高傑作《パルナッソス山へ》はその苦悩の先に生まれることになります。芸術家は時代と戦い、己の中に道を見つけていきます。
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