前回、第2夜でベートーヴェンの創作した音楽の最高峰、弦楽四重奏曲 第14番を聴いてしまいました。もう、それ以上の感動はないと思っていたら、今日の第15番はそれ以上の演奏で強い感動を覚えました。結局、ベートーヴェンの後期の3作、第13番~第15番はすべて最高傑作ですから、比べられるようなものではないことを痛感しました。高邁な精神の第14番に対して、魂の浄化を感じさせる第15番。ベートーヴェンは何と言う音楽を創作したんでしょう。最終日に聴く第13番&大フーガもきっと感動を与えてくれるでしょう。 今日の第15番は第1楽章から第5楽章まで、最高の演奏でした。曲は第3楽章を頂点として、第1楽章と第5楽章、第2楽章と第4楽章が関連付けられて、対称形のアーチ構造になっています。バルトークが弦楽四重奏曲第4番と第5番でも同様のアーチ構造の5楽章構成を用いたのは、この曲を念頭に置いたからでしょう。100年の時間を挟んで大きな峰をなすベートーヴェンとバルトークの弦楽四重奏曲の傑作はこの曲なしにはあり得ませんでした。 冒頭、抑え気味に入った第1楽章の序奏から只ならぬ雰囲気を感じます。主部に入ると、何とも胸に沁み入る音楽が展開されます。ベートーヴェンの哲学めいた瞑想が表現されるのは後期弦楽四重奏曲の特徴ですが、音楽がこれほど主観に満ちた魂の声の吐露であることに強い感銘を受けます。音楽を通して、そこにベートーヴェンの魂を感じてしまいます。肉体という牢獄に縛られた人間が芸術の力で肉体の呪縛を解いて、魂を解放したのだと悟ります。芸術によって、不死の生命を得たベートーヴェンの魂がそこに存在していることを確信します。音楽というよりもベートーヴェンの魂と共にあるという実感で強い感銘を受けます。そんな音楽でsaraiの魂も浄化されながら、長大な第1楽章が終わります。第2楽章に入ると、スケルツォ的な音楽で一息つきますが、トリオ部分でまたしても瞑想的な音楽に感銘を受けます。そして、この曲の音楽的頂点をなす第3楽章が始まります。「リディア旋法による、病より癒えたる者の神への聖なる感謝の歌」"Heiliger Dankgesang eines Genesenen an die Gottheit, in der lydischen Tonart"という表題の通り、腸の病で作曲を中断していたベートーヴェンが病が癒えたことを敬虔に感謝する長大な音楽です。まさにベートーヴェンの魂の歌です。深い思いでその音楽に耳を傾けます。saraiの魂も一緒に溶け合って、刻一刻、魂が浄化されていくのが分かります。そして、感謝から新しい力に代わって、音楽が高揚していきます。魂の浄化を経て、前に向かって進む魂の高揚です。いつ果てるともない音楽が続き、深い感動を受けます。この第3楽章が終わったとき、この後、それに続く音楽があるとは思えません。この音楽はここで最高の形に高まりました。しかし、ベートーヴェンはさらなる素晴らしい音楽を提示します。第4楽章は短い間奏曲ですが、これも前進性のある深い音楽です。そして、休みなしに第5楽章に入ります。この音楽の素晴らしさは表現できません。またしても魂を浄化するような音楽が続き、最後は圧倒的なコーダで曲を閉じます。深い感動で息ができないほどになります。確かにこの小さなホールにベートーヴェンの魂は存在していました。そして、我々の心を優しく包み込んでくれました。
昨日の第15番では魂の浄化を感じさせる素晴らしい音楽を体験しました。ベートーヴェンの弦楽四重奏曲に改めて心酔しています。 今日の前半は第5番で始まります。冒頭から素晴らしいアンサンブルが冴え渡ります。今回のチクルスでの作品18では最高の演奏です。昨日から、彼らの演奏レベルは最高レベルに達したようです。それにしても第5番は魅力に満ちた作品です。 前半を締めくくるのは、ベートーヴェンの最後の弦楽四重奏曲、第16番 Op.135です。第14番で7楽章構成まで多楽章に拡大された音楽構成も、この最後の第16番では古典的な4楽章構成に落ち着きます。しかし、死の5か月前に完成したこの作品は一筋縄の作品ではありません。深い内容を孕みながら、第2楽章まで演奏は進みます。そこまではもうひとつsaraiの集中力も高まりませんでしたが、第3楽章に至って、その深い味わいに共感を抱きながら、聴き入ります。情感のこもった変奏曲が切々と奏でられていきます。これもベートーヴェンが最後に達した幽玄の境地なのでしょう。ゆったりと演奏されるベートーヴェン最後の緩徐楽章に深い感銘を覚えます。そして、終楽章に入ります。Muss es sein?(そうでなければならないのか?)と書き込まれた導入部の充実した響きに続いて、ポジティブで確信に満ちた主部が演奏されました。まさにEs muss sein!(そうでなければならない!)という感じです。この第3楽章から第4楽章への構成は交響曲第9番と同じですね。圧巻のフィナーレで一瞬、このチクルスもこれで完了という充実感に至ります。もっともこの第4楽章の音楽は一介の素人のsaraiには単純な理解を超えた部分があります。その音楽内容の深さは尋常なものではありません。saraiが生きているうちに一定の理解に至ることができるでしょうか。そういう謎を秘めて、曲が閉じました。もちろん、チクルスがこれで終わったわけでも、さらには今日のコンサートが終わったわけでもありません。この後、中期の傑作が演奏されるのは何か妙な感じです。