20年ぶりのベルリン:旧ナショナル・ギャラリーにあるフランス印象派の絵画-その2
旧ナショナル・ギャラリーAlte Nationalgalerieにあるフランス印象派の作品をルノワール、ドガ、セザンヌ、マネとご紹介してきましたが、今回は残りのピサロとモネです。
これはカミーユ・ピサロの《背景にモン・ヴァレリアンのあるルーヴシエンヌ》です。ピサロは印象派のまとめ役的存在ですが、イル=ド=フランスのポントワーズの街を主な活動拠点としていた時期がありました。この時期、同じくイル=ド=フランスのルーヴシエンヌも活動拠点の一つでした。ルーヴシエンヌは、パリのセーヌ河流域の街で、西郊約25キロのところにある当時は静かな村だったそうです。
ピサロは1868年秋にポントワーズからここルーヴシエンヌに移り、普仏戦争が始まる1870年までと、その後の1871~72年の間、ここで生活したと言われています。
この作品はその最初の時期、1870年に描かれました。モン・ヴァレリアンは近くのシュレーヌの街の高台にあった修道院跡にモン=ヴァレリアン要塞が築かれたところです。この絵が描かれた後、第1次世界大戦でドイツ軍に占領され、この要塞で1000人以上の捕虜が処刑されたことで知られています。
ルーヴシエンヌでは、ピサロは何枚も絵を描いていますが、シスレーも有名な絵を残しています。印象派の初期の中心的な地でした。

これはクロード・モネの《草原の夏》です。この作品で座っているのはモネの最初の妻カミーユ・ドンシユで、真ん中の子供が長男のジャンのようです。この時代、モネはカミーユとジャンの屋外風景の傑作を何点も描いています。この作品でも、楽しげな妻子の姿が明るい風景に溶け込んで、モネ独特の人物入り風景画の名作に仕上がっています。
この作品は1874年に描かれましたが、その5年後、1879年、妻カミーユは次男のミッシェルを生んで間もなく、32歳の若さで死の床につきます。

これはクロード・モネの《アルジャントゥイユの家々》です。1872年から、モネはアルジャントゥイユに6年間住みました。この作品は移り住んで2年目の1873年に描かれました。よい季節になると、ルノアールがアルジャントゥイユにやってきて、一緒にカンバスを立てて、絵を描いていました。この作品を描いた翌年の1874年が第1回印象派展ですから、初期のモネを代表する作品の一つです。

これはクロード・モネの《ヴェトイユ・シュル・セーヌの眺め》です。モネはアルジャントゥイユからヴェトイユに引っ越し、さらにジヴェルニーに移りますが、この作品はヴェトイユ時代の1880年に描かれました。セーヌ川と緑が光あふれるタッチで描かれた見事な作品です。

これはクロード・モネの《サンジェルマン・ロクセロワ教会》です。この作品はルーヴル美術館の3階の東側の窓から描いた作品です。1867年という印象派という言葉もない印象派黎明期の作品です。そもそも、何故、ルーヴル美術館で描いたかと言えば、印象派の仲間たちと勉強のためにルーヴル美術館の名画の模写に通っていましたが、モネは名画よりも窓からの風景に惹かれてしまったようです。モネの面目躍如という感じです。ただ、この絵を見ると、実に素直に教会を写し取っており、後のルーアン大聖堂のような光そのものの表現とは程遠い作品です。イギリスに渡り、ターナーの作品の洗礼を受けるのはまだ、この後になります。この後、急速に光の表現を身に着けて、傑作群を産み出していきますが、この作品はスタート点の前に位置づけられるものです。画家の成長過程が分かる貴重な一枚です。

旧ナショナル・ギャラリーには、まだまだ、膨大なコレクションが展示されていますが、これぐらい見れば十分でしょう。今日もたっぷりと美術鑑賞でき、満足です。このあたりで美術館を出ます。
まだ、旧ナショナル・ギャラリーの建物をご紹介していなかったので、美術館の外観をご覧ください。堂々たるギリシャ様式の建物です。

これでsaraiは満足し、次は配偶者の要望のシャルロッテンブルク宮殿Schloss Charlottenburgに向かいます。
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