すべてを超越した精神的境地のベートーヴェンを詩情豊かに表現 田部京子シューベルト・プラス特別編《ベートーヴェン生誕250年記念》@浜離宮朝日ホール 2020.12.16
ベートーヴェン生誕250年記念と銘打ったシューベルト・プラス特別編はベートーヴェンの音楽の最高峰のひとつである最後期の3つのピアノ・ソナタを聴かせてくれました。聴きたかった田部京子のベートーヴェンはなんとも穏やかで熟成した大人の香りの音楽でした。静かな、静かな感銘で心がいっぱいになりました。
最初に弾いたシューベルトのアダージョ D.612は田部京子らしい夢のような詩情に満ちた音楽。中間部での盛り上がりもありましたが、ロマンにあふれる音楽に心が和みます。短い音楽が終わっても誰も拍手をせずにホール内は静けさに満ちています。田部京子がピアノに向かって、呼吸を整えている雰囲気に聴衆は静まり返ります。そして、そのまま、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第30番が静かに始まります。とても美しい演奏です。それも心の内部から滲み出るような美しさです。ベートーヴェンが描いた世界はもっと諦念に満ちていたような気がしますが、今日の演奏は充足感に満ちた穏やかさを湛えています。この曲は素晴らしい音楽ですが、それでも第31番/第32番に比べるとどうしても聴き劣りしてしまうのが正直なところですが、今日は第31番/第32番に肉薄するレベルの音楽に聴こえます。素晴らしい第1楽章から間を置かずに第2楽章が迫力ある演奏で続きます。そして、第3楽章の変奏曲の美しさはどうでしょう。下降音型から上昇音型に続くフレーズの美しさの極みには心が震えます。第3楽章の後半には高域の美しいタッチでそのフレーズが弾かれて、まさに情感の極みです。これが田部京子のベートーヴェン後期の表現ですね。いわゆる枯れた演奏ではなく、諦念に満ちたわけでもなく、ベートーヴェンが高い精神性の境地に達した桃源郷のような美しい世界です。演奏が終わっても、とても強い拍手を送るような気分ではなく、ただただ、田部京子への熱い共感で、うんうんとうなづきたい思いだけが残ります。
ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第31番も第30番のソナタと同様な展開です。静かに始まり、満ち足りた時間が美しいピアノの響きとともに過ぎていきます。長大な第3楽章は序奏に続き、いわゆる《嘆きの歌》が始まりますが、哀感あふれる嘆きではなく、色んな感情を超越した境地の穏やかな精神性の熟成した美しさが表現されます。そして、続くフーガも実に静謐に響きます。フーガは高潮した音楽になっていきますが、その底には透徹し、充足した精神性が貫かれています。田部京子の安定し、成熟した大人の女性として磨き上げられた心の美しさが音楽に反映されていると感じます。田部京子だけしか弾けないベートーヴェンです。音楽はやはりテクニックではなく、心や魂で表現するものであることを強く実感します。壮大なフィナーレですが、余韻を味わいたいと念じるような演奏でした。数人の聴衆が余韻を打ち消すような拍手を送ったのは残念でした。そういう類の演奏ではなかったでしょう。大多数の聴衆はじっくりと余韻を噛みしめているようでした。saraiはそっと拍手を送りました。それがこの素晴らしい演奏にふさわしいものだと思えたからです。
休憩後の後半はベートーヴェンの最後のソナタ、第32番です。冒頭はデモーニッシュに強い響きが続きます。フーガはもはや、普通のフーガではなく、ベートーヴェン流で強い響きが続きます。圧巻の第1楽章ですが、心に響いたのは第2楽章の変奏曲です。田部京子は後期の3つのソナタに共通して表現した高い精神性の境地を、ここで決定的に歌い上げます。後半にはいってのこれでもか、これでもかと続く美しい歌謡性はシューベルトの遺作ソナタに引き継がれ、さらなる高みに達するものです。田部京子がシューベルト・プラス特別編と題して、ベートーヴェンの後期の3つのソナタを取り上げた意義はここに秘められていたのではないでしょうか。ここでも下降音型から上昇音型に続くフレーズの美しさの極みが強く耳に残ります。今、このブログ記事を深夜書いていますが、saraiの頭の中ではそのフレーズが鳴り響き続けています。いつまでも永遠に続けてほしい美しい音楽も、ある意味、唐突に終わりを告げます。ベートーヴェンがもうこれくらいでいいでしょうって語りかけてくるようなフィナーレです。田部京子、納得のベートーヴェンでした。ベートーヴェン・イヤーを締めくくるにふさわしい最高の後期ソナタでした。もっとも、まだ、久しぶりに来日するジョナサン・ノットが東響を指揮する第9番交響曲が残っていますけどね。
アンコールは田部京子の定番ともいえるシューベルトのアヴェマリア。美しいピアノの響きに魅了されました。最後の2音、アーメンが心に響きます。
コロナ禍で大変な音楽界でしたが、12月の半ばになり、庄司紗矢香、田部京子の最高の演奏を聴き、さらにはノットの第9も控え、終わりよければ、すべてよしの心境に浸っています。音楽は人生のすべてです。
今日のプログラムは以下です。
田部京子シューベルト・プラス特別編
《ベートーヴェン生誕250年記念》
ピアノ:田部京子
シューベルト:アダージョ ホ長調 D.612
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第30番 ホ長調 Op.109
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第31番 変イ長調 Op.110
《休憩》
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第32番 ハ短調 Op.111
《アンコール》
シューベルト:「アヴェ・マリア」(編曲:田部京子、吉松隆)
最後に予習について、まとめておきます。
シューベルトのアダージョ D.612を予習したCDは以下です。
ミシェル・ダルベルト 1993年1月、1994年1月・6月 スイス、コルゾー、サル・ド・シャトネール セッション録音
ミシェル・ダルベルトはシューベルトの未完のピアノ・ソナタ第10番 D.613の2楽章を両端楽章に置いて、アダージョ D.612を中間楽章として挟んだ形で演奏しています。彼の明るい響きが若いシューベルトのこの作品の美しさを引き出しています。ミシェル・ダルベルトのシューベルトは実演でも聴いていますが、明るい響きの個性的な演奏に感銘を覚えています。彼のシューベルトは今後、注目です。
ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第30番/第31番/第32番 Op.109-111を予習したCDは以下です。
田部京子 2015年8月12-14日 東京都、稲城ⅰプラザ セッション録音
田部京子はその優しい詩情だけでなく、確信に満ちた強い表現も兼ね合わせた素晴らしい演奏を聴かせてくれます。ベートーヴェンの後期ソナタの代表的名盤のひとつと言えます。
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