レオポルド美術館:シーレ最晩年の傑作
今日は旅の最終日。ウィーンの最終日でもあります。もう、今晩は飛行機で帰国の途につきます。しかし、その前に精一杯、ウィーンの1日を楽しみます。
最後のウィーンの街歩き中で、ウィーン美術史美術館Kunsthistorisches Museum Wienを鑑賞した後、レオポルド美術館Leopold Museumの名品を鑑賞しているところです。今はこの美術館の華、エゴン・シーレのコレクションを鑑賞しています。
エゴン・シーレEgon Schiele(1890年6月12日 - 1918年10月31日)の1915年、25歳頃の作品、《二人の子供と母親Ⅱ Mutter mit zwei Kindern II》です。
母親とその子供を描いた作品ですが、中央に描かれた母親は灰色の顔で死にゆく者、そして、二人の子供は生の象徴。ここでもシーレは死と生を主題においています。左側の子供は目を閉じて眠っていて受動的な存在、右側の子供は目をぱっちり開けて能動的な存在として描かれています。3者3様の描かれ方でこの絵は構成されています。シーレは難しい家族問題を抱えていて、母親に対しては屈折した感情を持ち、これまでも絵の中で母親は死せる存在として描かれていましたが、ここでは家族関係も改善したこともあって、生きた存在になっています。子供はシーレの甥、すなわち、妹ゲルティが前年に産んだ子供を念頭に置いたものです。

エゴン・シーレEgon Schieleの1918年、28歳頃の作品、《3人の裸の女(未完) Drei stehende frauen (Fragment)》です。
1918年、シーレ28歳の最晩年の作品です。1915年以降、ほとんど、絵画が描かれなくなります。それはシーレがエーディトとの結婚の3日後、勃発していた第一次世界大戦のためにオーストリア=ハンガリー帝国軍に召集されたことで、絵画制作活動が休止に追い込まれたことによります。しかし、従軍後、芸術家としてのシーレの経歴が考慮されて、シーレは前線に出ることはなく、この従軍期間はさらなる芸術的飛躍のための準備期間となります。1917年にウィーンに転属となると、シーレは事実上、制作活動を再開します。そして、1918年、シーレの最晩年になります。
この作品では、モデル(中央)は妻のエーディトですね。最晩年はこういう茶系統の色彩でまとめられた暖かみのある作品が多く描かれます。妻エーディトがほとんどモデルを務めています。家族の愛情に満ちた作品に心が和みます。

エゴン・シーレEgon Schieleの1915年、25歳頃の作品、《空中浮揚(盲目Ⅱ) Entschwebung (Die Blinden II) 》です。
この時期(1913年~1915年)、シーレにとって、《盲目》は主要な絵の主題でした。彼が社会との断絶を象徴する概念が《盲目》でした。彼は常に社会に受け入れられない存在、そして、社会に溶け込めないことに苦しんできました。多くの自画像を盲目の男として描きます。この作品では空中浮揚の奇跡が描かれていますが、オカルトや神秘主義のひとつとみなされるものです。これも《盲目》のなせる業として、描いたのでしょうか。不可思議な絵ではありますが、シーレの描くタッチや色彩は素晴らしいものです。

エゴン・シーレEgon Schieleの1917年、27歳頃の作品、《少女 Mädchen》です。
ヌードの少女ですが、もはや、もっと若い頃の衝撃的なエロスは描かれずに、実に素直で“まっとうな”で綺麗な作品です。モデルへの愛情さえも感じます。女性ではなく、人間を描いたと感じます。モデルは妻のエーディットによく似ていますね。

エゴン・シーレEgon Schieleの1918年、28歳頃の作品、《うずくまる2人の女(未完) Hockendes Frauenpaar (Unvollendet)》です。
モデルはダブルで愛妻のエーディトですね。最晩年の作品はどれをとっても傑作揃いです。このうずくまるポーズはシーレが好んで描いたものです。最高傑作《家族》もシーレ自身と妻エーディットをこのポーズで描いています。

シーレの作品も最晩年に達し、残り少なくなってきました。このあたりの作品はどれをとっても傑作揃いです。シーレの作品はもう少しだけ続きます。
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