束の間のミュンヘン:レンバッハハウス美術館のガブリエーレ・ミュンター
青騎士の館、レンバッハハウス美術館を鑑賞しています。
今回はガブリエーレ・ミュンターの作品を取り上げます。彼女は青騎士のメンバーの一人で、カンディンスキーの弟子。それ以上に1904年から1914年までカンディンスキーのパートナーとして生活を共にし、芸術活動のパートナーでもありました。第1次世界大戦の勃発でミュンヘンを去ったカンディンスキーとは別れることになりましたが、彼女がムルナウの家でカンディンスキーを始めとした青騎士の膨大なコレクションを守り抜き、第2次世界大戦後の1957年にそのコレクションをミュンヘン市に寄贈することを決めました。現在、我々がレンバッハハウス美術館で青騎士のコレクションに接することができるのは彼女のお蔭です。なお、ミュンターは1877年にベルリンで生まれ、1962年にムルナウで亡くなりました。
《風景画を描くカンディンスキー》です。1903年、ミュンター26歳頃の作品です。女性ゆえに公の芸術院への入学が拒絶されていました。入学できる絵画学校が限られていたミュンターは1901年の冬にミュンヘンのファランクスという芸術学校に入ります。そこで彼女は教鞭をとっていたカンディンスキーに出会います。1903年ころに2人は恋愛関係になります。周辺には秘密の恋愛でした。カンディンスキーには法律上の妻アーニャの存在がありました。1903年の夏、ミュンターはカンディンスキーの夏季講習会に参加して、風景画を学びますが、この作品はその頃のものでしょう。印象派の描き方を学んだ成果が表れています。

《カルミュンツ》です。1903年、ミュンター26歳頃の作品です。1903年、ファランクスの芸術学校はミュンヘンからオーバープファルツ地方のカルミュンツに移りました。この作品はその頃のものです。後期印象派風の作風です。

《サン・クルー公園の並木道》です。1906年、ミュンター29歳頃の作品です。同棲関係にあったミュンターとカンディンスキーは1906年6月から約1年間、パリ近郊のセーヴルに滞在していました。この作品はそこで描かれたものです。パリで印象派の作風を確立しました。明るい光が描かれています。

《ムルナウ湿原の眺め》です。1908年、ミュンター31歳頃の作品です。セザンヌ風の平面的な画面構成が印象的です。このあたりから、ミュンター独自の優しく、暖かな画風が明確に表れてきたようです。

《じっと聞き入る(ヤウレンスキーの肖像)》です。1909年、ミュンター32歳頃の作品です。この頃にヤウレンスキーとヴェレフキンのロシア人カップルと知り合うようになり、ヤウレンスキーが新たに修得していた黒い輪郭線で縁取りした画面構成を学ぶことになります。ミュンター独自の感性もあいまって、見事な作品に仕上がっています。平面的でシンプルな画面構成は彼女なりの抽象化であったようです。

《マリアンネ・フォン・ヴェレフキン》です。1909年、ミュンター32歳頃の作品です。ヤウレンスキーの裕福なパトロンであった男爵令嬢ヴェレフキンです。ヴェレフキン自身もヤウレンスキーに絵画の手ほどきをした優れた女流画家でした。そういう背景を見事に表現した作品と言えます。

《ヤウレンスキーとヴェレフキン》です。1909年、ミュンター32歳頃の作品です。ヤウレンスキーとヴェレフキンという奇妙なカップルを風景の中に見事に描き込んでいます。

《コッヘルの墓地の十字架》です。1909年、ミュンター32歳頃の作品です。この頃、ミュンターとカンディンスキーは似たような画風の作品を描くようになっていきます。相互に影響しあったようです。後にカンディンスキーはむきになって、ミュンターからの影響を否定するようになります。弟子でかつ私生活上のパートナーから影響を受けたことはカンディンスキーのプライドが許さなかったのでしょうか。この作品もカンディンスキーに影響を与えた1枚かもしれません。

《秋の風景》です。1910年、ミュンター33歳頃の作品です。これはシンプルな構成の見事な風景画ですね。カンディンスキーが描いたと言えば、信じてしまいそうです。しかし、カンディンスキー以上の出来栄えかもしれません。カンディンスキーが影響を受けるのも仕方がないほどの素晴らしい作品です。

《冬の村の道》です。1911年、ミュンター34歳頃の作品です。この作品も素晴らしいですね。カンディンスキーとどこが異なるのか、考えてみましたが、彼女の作品はある意味、表現主義の1歩手前で踏みとどまっているような気がします。それが彼女の美質であり、限界でもあったのかもしてません。見るものの心をどこか、和ませてくれるような絵画です。

《テーブルに向かう男(カンディンスキー)》です。1911年、ミュンター34歳頃の作品です。1909年、ミュンターはムルナウで家を購入します。そこはカンディンスキーと一緒に過ごした家であり、マルクやヤウレンスキーが集った家でもあります。その家のテーブルで寛ぐカンディンスキーの姿を描いたものでしょう。5年後の破局は微塵も予感させません。

《カンディンスキーとエルマ・ボッシ》です。1912年、ミュンター35歳頃の作品です。エルマ・ボッシはミュンヘン新芸術家協会に属していた上流画家。この作品もムルナウの家の中が描かれています。

《室内で》です。1913年、ミュンター36歳頃の作品です。ムルナウの家の室内だと思われます。ミュンターの自画像でしょうか。

《聖ゲオルクとドラゴン》です。1913年、ミュンター36歳頃の作品です。ミュンターとカンディンスキーは好んで、この聖ゲオルクの題材を取り上げています。保守勢力をドラゴンに見立てて、それに革命を起こす象徴として聖ゲオルクを描いたのでしょうか。

《メディテーション》です。1917年、ミュンター40歳頃の作品です。第1次世界大戦の勃発でロシアへの退去を余儀なくされたカンディンスキーとはスイスのボーデン湖畔で1914年にいったんは別れることになります。しかし、ミュンターは第3国でカンディンスキーと再会するために、中立国スウェーデンに1915年に移り住みます。年末にはカンディンスキーもストックホルムにやってきます。翌年の1916年3月にストックホルムを発ってロシアに戻ったカンディンスキーは2度と帰ってくることはありませんでした。それでも、ミュンターはここでカンディンスキーが戻ってくるのを待ち続けました。1917年にはカンディンスキーは別のロシア人女性と結婚します。後にミュンターはそのことを知ります。この作品はきっと、ミュンターがカンディンスキーが戻ることを夢見ていた頃に描かれたのでしょう。なぜか、この作品はミュンターには珍しく表現主義的な表現に思えます。皮肉なものですね。

《ロシア人の家》です。1931年、ミュンター54歳頃の作品です。この頃、ミュンターは生涯の伴侶となるアイヒナーと関係を強めて、創作意欲も高まっていました。ロシア人の家というのは、ミュンターがムルナウに購入し、青騎士の中心になった家のことです。ムルナウの町の人たちはロシア人芸術家が多く出入りする、この家をロシア人の家と呼んだそうです。この家は今では、ミュンターハウスという博物館になっています。庭からはムルナウの町の美しい眺めが楽しめます。青騎士ファンの聖地のひとつです。

1957年はミュンターが80歳の誕生日を迎えました。その年にミュンヘン市に青騎士のコレクションを寄贈しました。5年後、彼女はムルナウの家で生涯を閉じました。後半生の伴侶、アイヒナーはその4年前に他界していました。ミュンターを語らずして、青騎士の館、レンバッハハウス美術館は語れません。
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